80年代からコラムやインタビューなどを通して、アメリカのプロレスの風景を伝えてきてくれたフミ・サイトーことコラムニスト斎藤文彦氏の連載「斎藤文彦INTERVIEWS」。マット界が誇るスーパースターや名勝負、事件の背景を探ることで、プロレスの見方を深めていきます! 今回のテーマはWCWの象徴だったスティング――!! WWEに唯一屈しなかったオペラの座の怪人が、10数年の時を経てリングに足を踏み入れ、そして最後の場所としたのはなぜだったのか?13000字で読み解きます!
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プロレス史上最大の裏切り「モントリオール事件」http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar1010682
――今回は今年のWWE Hall of Fameの場で引退宣言をしたスティングについてお聞きいたします。「WWEには上がらない」と言い続けてきたスティングがレッスルマニアに出場し、そしてWWEで引退することになるとは想像もしませんでした。
――「2001年3月」というのはスティングが当時所属していたWCWをWWEが買収したときですね。WCWの象徴のひとりだったスティングは、同団体消滅後もWWEに移籍はしませんでしたが、その後はTNAなどのリングで試合はしてましたよね。
フミ WCW消滅後のスティングのキャリアは、プロレスの歴史の中からすると、それほど重要ではないんですよね。なぜかというと、ほとんどのプロレスファンは、WCW消滅以降のスティングの試合を見ていないですから。いまでもTNAでやってるカート・アングルだって、空港でファンに声をかけられると「いまはプロレスをやってないんですか?」なんて言われちゃうくらいだから。数字でいうと、WWEとTNAの力関係は100000対5くらいの差があるんですよ。
――そんなに開きがあるんですか!(笑)。
フミ WWEのレッスルマニアのPPV有料世帯が100万、TNAは最大で5000世帯くらいですから。
――ああ、たしかに100000vs5ですね……。
フミ だからプロレスの歴史からすれば、スティングはプロレス界から姿を消していたという認識なんです。そのスティングをトリプルHを頭を下げて14年越しで表舞台に登場させた。
――WWEからすれば、WCWが崩壊した時点でスティングは獲得したかったレスラーですよね。
フミ そうでしょうね。WWEがWCWを買い取ったときは、WCW所属全選手の契約を引き取ったわけではないんです。WWEがWCWから買い取ったのは、団体のロゴ、版権、知的所有権、WCWが所有してた映像アーカイブなんですよ。それはTBSで放映していたWCWやNWAクロケットプロの映像ですね。
――いまWWEネットワークで視聴できる映像ですね。
フミ 選手として引き取ったのは若手レスラー20人ばかり。リック・フレアーやナッシュ、スティングらトップレスラーは、ひとりひとり契約内容が違ってくる。難しい契約のレスラーは置いといて、簡単に買い取れるものだけ買ったわけですね。
――フレアークラスのレスラーと交渉しちゃうと時間はかかりそうですよね。
フミ 当初のプランでは、WWEとWCWの2団体を同時に走らせる計画もなきにしもあらずだったんですけど。WWEとWCWは長きに渡り、選手の引き抜きやテレビ視聴率戦争でデッドヒートを繰り広げてきたライバル団体。これまでどおりWCWが継続することをビンス・マクマホンがよしとしなかったんですよ。WWEにはもともと2部制の計画はあったので、ロウとスマックダウンに分かれていくんですけどね。
――WWEに骨を埋める覚悟があったブレット・ハートでさえWCWに移籍しましたね。
フミ スティングだけはWCWでしか見られなかった。南部のプロレスファンからすると、スティングだけは信用できる選手なんです。でも、スティングはWCWで長期政権を築いたわけではなかった。山あり谷ありがあって、運命に翻弄されたからこそいまでも語れる存在だと思うんですよね。
――まずプロレスデビュー前のスティングから振り返りたいんですが、のちにWWEヘビー級王者になるアルティメット・ウォリアーと共にプロレスラーを目指したんですよね。
フミ アルティメット・ウォリアーことジム・ヘルウィッグはプロのボディビルダーを目指していた人で、スティングことスティーブ・ボーデンはベニスビーチのゴールドジムでインストラクターをやっていて。そのジムで2人は出会ったわけですよ。
――その2人がWWEとWCWの2大メジャーのトップに立つんですから、奇跡的な出会いですよね。プロレス界の藤子不二雄じゃないですけど(笑)。
――ロード・ウォリアーズ登場がプロレス界を変えたところがある、と。
フミ ロード・ウォリアーズ以降はボディビルダーからプロレスラーを目指した人はいっぱいいたんですよ。ウォリアーズの友達だったニキタ・コロフ、クラッシャー・クルスチェフ、ノード・ザ・バーバリアン、ウォーロード……。まあ、その流れはウォリアーズから始まったわけでもないんだけど。70年代にはスーパースター・ビリー・グラハムというレスラーがいたり、そのビリー・グラハムをマネしたのがジェシー・ベンチュラだった。
――ロード・ウォリアーズが火に油を注いだ感はあったんですね。
フミ スティングがプロレスラーになろうとしたのは26歳、ウォリアーがすでに28歳。
――20代後半でプロレス入りって遅いですよね。
フミ ウォリアーに至っては30歳手前。ボディビルダーの現実として、プロとして生計を立てれる人は両手に余るくらいしかいないんです。あの身体で何ができるかといえば、プロレス入りを勧める人が多かったんだと思うんですね。スティングは子供の頃にプロレスをちょっと見た程度で、熱心なファンではなかったと言ってますけど、「このままジムのインストラクターで終わってしまうのかな」っていう自らの将来を考え、プロレスに自分の人生を懸けてみようと決めたんでしょうね。
――元バスケ選手だったケビン・ナッシュと同じくプロレスの入り口はビジネスだったんですね。
フミ スティングとウォリアーの2人はレッド・バスチェン道場でトレーニングを受けたあとに就職活動をしたんです。自分たちのポーズ写真とビデオと履歴書の就活パッケージを作って、アメリカ中のプロモーターに送ったんですよ。そこで唯一声をかけてきたのがテネシーのジェリー・ジャレット。ジェフ・ジャレットのお父さんは、ちょうどロード・ウォリアーズみたいなチームを作ろうとしてたんですね。2人はいい身体してるし、新人で使いやすいから。
――ロード・ウォリアーズに変身させよう、と。
フミ テネシーというのはパチモンが作られるテリトリーなんですよね。ロード・ウォリアーズが大スターになっていく過程で、じゃあロード・ウォリアーズみたいなものを作ろうという動きが活発だったこともあるんですけど。天下のWWEだってロード・ウォリアーズがなかなか専属契約を結んでくれないから、ウォリアーズのイミテーションであるデモリッションを作ったんですから。
――ウォリアーズとデモリッションはのちにWWEで抗争を始めましたよね(笑)。
フミ テネシーから声がかかった2人はお金がなかったので、車を相乗りしてカリフォルニアから2日かけて向かったんです。
――そんな貧乏生活から2人とも成り上がっていくんですね。いい話ですねぇ。
フミ よくできた話ですよね(笑)。こうしてロード・ウォリアーズの金髪版フリーダム・ファイターズとしてデビューしたんだけど、2人ともデビューということもあってプロレスがヘタだったから、いったんベビーフェイスからヒールになったんです。時代は『ブレートランナー』だったので、ブレートランナーズに改名して(笑)。
――時代のいいとこ取りをしまくってたんですね。
フミ 2人はテネシーで半年間くらい経験を積んでから、ルイジアナに転戦したんだけど、そこでタッグを解散。それはウォリアーがフリッツ・フォン・エリックのダラス地区から誘われたから。それが1987年のことだから、2人は1年半は行動をともにしてたんじゃないかな。WWEネットワークでルイジアナやダラスの過去動画を根気よく探すと、スティングやウォリアーになりきる前の2人の試合があると思いますね(笑)。
――ウォリアーはダラスで「ディンゴ・ウォリアー」に変身するんですね。
フミ スティングがのちに語るには、ウォリアーは30歳間近だったし、結婚もしていたから、とにかく稼がないといけないし、いいオファーに食いつこうという貪欲な姿勢だったんじゃいかって。だからダラスに向かった。
――スティングは慌てずにじっくりと構えられたんですね。
フミ そのへんのビミョーな感覚の違いがコンビでデビューしたスティングとウォリアーのプロレス観、ファイトスタイルに大きな影響を与えることになるんだけど……。ウォリアーがダラスに移った時期は、エリックと新日本プロレスは提携していたこともあって、ウォリアー来日のプランもあったんです。ビッグバン・ベイダーの中身の候補の一人として。
――アルティメット・ウォリアーじゃなくて、新日本プロレスでビッグバン・ベイダーになっていたかもしれない(笑)。
――その3人の中からレオン・ホワイトがベイダーに選ばれたわけですね。
――たしかにウォリアーだとベイダーの怪物感がないですね。
フミ それにプロレスの才能はレオン・ホワイトのほうがあったから。1987年11月に「たけしプロレス軍団」の刺客として登場したときのベイダーは、そこまでうまくはなかったんだけど。新日本のシリーズに翌年から全戦参加することでどんどん上達していった。2年半後には東京ドームでスタン・ハンセンと伝説に残る凄い試合をやりましたよね。
――そこはマサさんの眼力がたしかだったんですね。
フミ それにレオン・ホワイトはブラッド・レイガンス道場出身でしょ。話はズレちゃうんだけど、レイガンス道場は単なる新人レスラーの指導はしないんです。デビューが決まってる人、デビュー後の計画が決まってる人をブラッシュアップする場がレイガンス道場なんです。レイガンスが日本に送り込んだ有名どころを挙げれば、ベイダー、スコット・ノートン、トニー・ホーム、ドン・フライ……。彼らは最初から新日本のメインで使う予定でブラッシュアップしたんです。WWEでデビューする前のブロック・レスナーもレイガンス道場でトレーニングしたけど、猪木さんが旗揚げするUFOの目玉外国人として来日するプランもあったんですよね。
フミ ベイダー計画が幻に終わったウォリアーを、1987年の夏にWWEがスカウトにしたんです。そのときにダラス地区のブッカーだったゲーリー・ハートが「キミにとっては大きなチャンスだからぜひニューヨークに行きなさい。うまくいかなかったらダラスに戻ってくればいいから」と、WWEと敵対しているのに背中を押してたんですよ。
――そこからトントン拍子で出世していったんですね。
フミ ウォリアーはWWEと契約したんですが、半年間はハウスショーだけの出場でテレビには映さなかった。ウォリアーは写真で見れば身体は凄かったけど、動かしてみたら「これはちょっと難しいなあ……」と首脳陣が顔をしかめた。
――あー、プロレスのレベルはまだ低かったんですね。まだデビューして2年足らずですし。
フミ そういうことですね(笑)。ウォリアーの身体とルックスを見た途端にビンスは「こいつを取ろう!」ってGOサインを出したんだろうけど、しばらくはテレビに出さずに経験を積ませることになった。でも、WWEからすれば、新人レスラーほど色がついてないから、いただきなんですよ。別の団体でそこそこトップに立ってると、団体の言うことを聞かなかったりしますから。
――キャリアがあるとコントロールしにくかったりするんですね。
フミ ビンスはロード・ウォリアーズが大好きだったから、究極のウォリアー、アルティメット・ウォリアーとして変身させるわけです。ペイント、コスチュームは蛍光色。派手なキャラクターとわかりやすい試合ぶりで、あっという間にトップレスラーに変身する。
――一方のスティングも同時期にスターの切符を掴むんですよね。
フミ スティングは残留したルイジアナのUWFがパンクしてしまって、団体がNWAクロケットプロに吸収されたときにそのまま移籍。これは前回話しましたけど、NWAクロケットプロは翌年にテッド・ターナーのTBSに買収されてWCWになる。その1988年以降のスティングはWCW一筋で生きていくんですね。
――ウォリアーは試合内容が水準レベルに達せず勉強の機会が与えられましたが、スティングの場合はどうだったんですか?
フミ スティングもウォリアーと同じく後天的にプロレスを勉強した人なんですけど。ルイジアナでリック・スタイナーとコンビを組んだり、プロデューサー肌のエディ・ギルバートからレクチャーを受け、ウォリアーズとレンタカーをシェアしてサーキットすることでプロレスというビジネスの理解を含め、プロレスに目覚めていったんです。あと、WCWではムタ(武藤敬司)とテレビでは放送されなかったハウスショーを含めて、半年間くらい毎日シングルをやってた時期もあったんですよ。