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【おまえ平田だろ!】平田淳嗣の「スーパーストロングなプロレス人生」
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【おまえ平田だろ!】平田淳嗣の「スーパーストロングなプロレス人生」

2015-05-15 21:10
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スーパー・ストロングマシンの正体と噂される平田淳嗣は、昭和・平成の新日本プロレスの最前線を闘いぬき、現在はリングからは離れてはいるものの、豊富な経験を活かして裏方として新日本を支えているプロレス界の重鎮。名勝負も数多いが、「おまえ平田だろ」「しょっぱい試合ですいません」などマイク運(?)にも恵まれている平田さんに、前田日明らとしのぎを削ったヤングライオン時代、海外遠征、そして新日本プロレスが再び上昇した理由をうかがいました。



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更級四郎×ターザン山本 
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世間で「しょっぱい」という言葉がすっかり定着してるんですけど、業界用語ではあったといえ、ここまで浸透したきっかけはSGタッグリーグ決勝戦の平田さんのマイクですよね(笑)。

平田 そうですか?(笑)。もともとは相撲用語なんですけどね。

――みんな当たり前のように使ってますけど、当時はこういった隠語を公の場で使うのは珍しかったですよね。

平田 まあピー音で消す卑猥な言葉でもないし(笑)。ただ「お客さんはこの意味がわかるかな……」とは思いましたけど。

――ああ、しかにわからないファンがいてもおかしくはないですね。

平田 アレはね、心の奥底から出た言葉なんで。あのときはマイクを持つつもりはなくて、敵の武藤(敬司)が「平田さん、何か喋ったほうがいいですよ」とボソッと言ったんですよね。それでマイクを持って出た言葉がアレでね。それがこんな大反響になるとはね、思いもよらなかったですよね(苦笑)。

――いまでも語り継がれてますからね(笑)。

平田 でも、あの日のしょっぱいは「つまらない」という意味じゃないですよ。これは声を大にして言いたい(笑)。

――試合自体はスリリングでした!(武藤敬司&馳浩vs蝶野正洋&マシン組の詳細は各自調査してください)

平田 自分の動きが悪いとか、そういうしょっぱいじゃないんですよね。「こんな試合になっちゃってすいません」という気持ちがあの言葉になっちゃったから。それが「しょっぱい試合ですいません」と。

――そこは勘違いされてる方がいるかもしれないですね。

平田 あのときも、控室に戻ったら「何を言ってるんだ?」とか言われましたよ。「もっと前向きなことを言えよ」と。でも、そういう人は試合内容がしょっぱいと勘違いしてるわけですよ。この件に関しては何回も取材を受けていて、その都度説明してるんですけどね(苦笑)。

――何回も何回も申し訳ありません(笑)。いまはよりストレートな「塩」という表現になってるんですよね。「塩試合」「塩漬け」とか。

平田 あー、なるほど。まあ、もともと塩から来てますからね、原点に戻ってるんですね(笑)。

――ハハハハハハ! というわけで、今日は平田さんのしょっぱくないプロレスラー人生を振り返っていただきたいんですが、平田さんは新聞販売所で働きながらプロレスラーを目指した苦労人なんですよね。

平田 そうですね。新聞配達以外にもいろいろと仕事をしましたけど、手っ取り早いのは住み込みでできる仕事。それで新聞屋さんに入りまして、新聞を配るだけじゃなくて集金なんかもやりましたよね。場所は渋谷なんでね、大変なんですよ。独り者のアパートが多いから、集金しようにも留守の家が多くて。

――拡張業務もやってたんですか?

平田 洗剤とか持って勧誘してました。働いていたのが読売新聞の販売所だったので巨人戦のチケットもありましたけど。

――巨人戦のチケットは勧誘には強力ですよね?(笑)。

平田 いや、あんまりいいカードのチケットじゃないから。巨人×ヤクルトスワローズとかばっかで、人気のある巨人×阪神タイガースはなかったですからね。

――黄金カードは回ってこないんですね(笑)。

平田 あと集金もやってましたよ。400軒くらい担当してたから大変でしたよね。

――朝刊・夕刊の配達があって、拡張や集金業務もあるとなると、身体を鍛える時間はなかったんじゃないですか?

平田 当時はバイクじゃなくて自転車で配ってましたし、渋谷は坂が多いじゃないですか。配達自体が運動になるんですよ。あとマンションなんかは当時はエレベーターがないから、階段を駆け上がらないといけないですし。

――配達がいいトレーニングになるんですね。

平田 練習がてらじゃないけど、走り回ってましたから足腰は強かったですね。あと夕刊を配り終わってメシを食べてから、恵比寿にあったジムに通ってたんですよ。そこに自転車で毎晩通って身体を大きくして。あと目黒にあった柔道場にも通ってましたね。いまはなくなってますけど、“桜庭道場”というんですよ(笑)。

――不思議な縁を感じますね(笑)。平田さんはいつ頃からプロレスラーを目指してたんですか?

平田 中学のときからプロレスラーになることは決めていて。中学の親子面談のときも、担任の先生が俺がプロレスラーになりたいことを知っていて、おふくろの前で「夢を持つのはいいことだけど、ちゃんとした道を……」とか言い出すんですよ。馬鹿にされてるみたいで頭にきちゃってね(笑)。おふくろも「そうですね」とか頷いていたけど、俺は逆に火がついて。プロレスラーになりたい気持ちがだんだんと強くなりましたね。

――反対されるとやってやろうという気持ちは強くなりますよね。

平田 そうなんですよ。先生はそうは言ってないですけど、「プロレスラーは悪い職業だ」と聞こえちゃったんですよね。

――でも、当時は団体も限られていましたし、プロレスラーになるのは難しい時代でしたよね。

平田 とにかく実家にいたらプロレスラーになれないと。実家は平塚なんですけど、そこにいたら先に進まないなと思って東京に出てきて。職場は何度か変わりましたけど、身体を作りながらチャンスを狙ってました。なかなかチャンスはなかったけど、それはそれで都合がよかったんです。自分の身体はまだ作れてなかったから。

――しっかり身体を作ってから挑戦しようとしたんですね。

平田 やることをやって納得できてから、そこで初めて道場に飛び込みでもなんでもしようかなと思って。とにかく練習をしていましたね。そうしたら、務めていた新聞店の店長が異動で変わったんですけど。新しい店長がもの凄いプロレスファンだったんですよ。店先のテレビで一緒に猪木vsモハメド・アリ戦を見ましたから(笑)。

――プロレスに理解のある方だったんですね。

平田 それで店長から、日本武道館であった猪木vsチャック・ウェップナー戦を誘ってくれたんですよ。お金も店長が出してくれて。そのときにせっかく来たんだからとパンフレットも買ったんですよね。パンフレットは読まないで本棚に置いといて、たまに写真を見るくらいだったんですけど。何ヶ月か経ったあとに読んでいたら、「新人レスラー募集」の欄を見つけたんです。「これはチャンスだ!」と思ったら、とうの昔に期限は締め切れられていて(笑)。

――早く読んでいればよかった(笑)。

平田 当時はネットがない時代ですから、そういうかたちでレスラー募集の告知を知るしかなかったんですよ。次にいつ告知が載るかもわからないですし、いろいろ考えたところ「山本小鉄さんに手紙を出そう」と。あの頃の新日本は山本小鉄さんを中心に選手が鍛えあげられている雰囲気があったんですよ。そのことは知っていたし、猪木さんに手紙を出してもきっと読んでくれないじゃないですか(笑)。

――ハハハハハハ! 小鉄さんだったら読んでくれるんじゃないか、と。

平田 汚い字で「プロレスラーを目指すために新聞配達で頑張ってます……」と一生懸命書いて。それで手紙を出したんです。そうしたら数日後、販売所に電話がかかってきたんですよ。店長が出たんですけど、「おい、平田!山本小鉄さんから電話がかかってきたぞっ!!」って慌てて呼びに来て(笑)。

――小鉄さんから直電ですか!

平田 ビックリしましたよ。電話に出たら「平田くんか?」「はい!」「おまえの手紙を読んだよ」「ありがとうございます!」「俺も同じような時代があったから気持ちがわかるぞ!」と。

――小鉄さんは新聞配達で家計を助けてたんですよね。

平田 それで「テストしたいから大田区体育館に来い。わかったな」と。もう「はい!」しか言ってないんですけど(笑)。電話を切ったあともしばし呆然ですよ。

――いやあ、ドラマチックですね!(笑)。

平田 そこから追い込み特訓を凄くやりましたね。ヒンズースクワットも1000回できるようにしていきましたし。仕事がキツイこともあって体重は全然増えなかったんですけど、82キロくらいまで増やして。

――準備万端で大田区体育館に行ったんですね。

平田 それが凄く早い時間に着きすぎちゃってね、会場前でウロウロしてたんです(笑)。

――気ばかり焦ってしまった、と(笑)。

平田 初めて後楽園ホールにプロレスを見に行ったときも早く着いちゃったんですよ。夕方から試合なのに昼ごろには着いてしまって。チケットと電車代しか持っていないからメシも食えないし(笑)。

――プロレスのことになると、いてもたってもいられないんですねぇ。

平田 そのとき後楽園ホールで『笑点』の公開収録をやっていて。当時の『笑点』って客席を埋めるためにタダで入れてくれたんですよ。それでプロレスまで時間を潰してましたね。

――『笑点』、プロレスの後楽園ホールの二部構成を堪能したわけですね。

平田 テストのときは大田区体育館の前を行ったり来たりしていたんですけど、チケット売り場の人に「山本小鉄さんに呼ばれてきたんですけど」って声をかけたら小鉄さんのところに連れて行ってもらえて。そこで小鉄さんに初めてお会いしてお話を聞いたんです。「俺も新聞配達をしながらジムに通って……」と俺の境遇と同じなんですよね。

――小鉄さんはシンパシーを感じたんでしょうね。

平田 「じゃあテストをやるぞ」ってことでスクワットをやらされたんですよね。でも、50回くらいしかやらなかったんですよ。

――あ、1000回じゃなくて。

平田 腕立て伏せも30回くらい、反復横跳びは1分くらい。それだけしかやらなくて入門できたのは、俺だけだと思うんですよ。あのとき隅で荒川(真)さんがテストを見ていたんですけど、小鉄さんが「おい、いいのが入ってきたぞ」で合格ですよ(笑)。

――拍子抜けしますね(笑)。

平田 というか、ほかのテスト内容は知らないから「こんなものなのか」って思っちゃったんですけど。小鉄さんは見ればわかるんですよ。俺も足の運動を何回か見たら「あ、コイツはできるな」ってわかりますよ。

――1000回やらせなくても技量がわかるんですね。

平田 そうなんですよ。でも、まいったのは、テストを見ていた荒川さんが控室に戻って、ほかの若手たちにとんでもないことを言ったんですよ。この話、知ってます?

――「三浦友和似のとんでもないバケモノが入ってきた」ってやつですよね?(笑)。

平田 そうそう(笑)。まだデビューしていない前田日明やヒロ斎藤に「凄いのが入ってきたぞ!」と。「ジャンピングスクワットを1000回くらい簡単にやって、腕立て500回を10分くらいでやって、しかも顔は三浦友和で腹筋はバリバリに割れているぞぉ!」と(笑)。

――ハハハハハハ! さすが荒川さん、盛りますね(笑)。

平田 荒川さんが大げさに言ってるなんてことは知らなかったんですけど。とりあえず、その場で入門する日も決まって。1978年5月13日。

――そろそろ記念日なんですね(この取材をしたのは5月11日)。

平田 その日に「沼津の体育館に来い」というんですよね。沼津で興行があったんですけど、「全部荷物を持ってこいよ。道場に行くから」と。だったら最初から道場でいいと思うんですけど(笑)。実家は平塚だからそこに寄って沼津の体育館に行ったんです。その日は練習には参加しなかったんですけど、試合開始近くになったら小鉄さんから「セコンドにつけ」と言われて。

――いきなりセコンドですか!

平田 たまたまほかの若手がいなかったんですね。新日本のジャージを持ってなかったんですけど、「自分のジャージでいいよ」って言われて(笑)。

――しかし、いきなりできるもんなんですか?

平田 あのね、プロレス中継を毎週見てるからできるんですよ。新日本だけじゃなくて全日本も国際も見てるから、セコンドが何をやればいいかわかるわけですよ。選手がリングインするときにロープ上げも普通にやってましたからね(笑)。誰かが入場するときにリングにハシゴをつけたりもして。

――でも、選手は「こいつは誰なんだろう?」って感じですよね(笑)。

平田 ジャージも新日本とは違うしね(笑)。俺くらいじゃないですか、入門当日にロープを上げていたのは。それで興行が終わって、沼津から新幹線で東京駅に帰ったんですけど。山本さんと一緒についていったんでグリーン車なんですよ。

――異例の新弟子ですね。

平田 東京駅から、ほかの若手と一緒にタクシーで道場まで帰ってきて。当時の寮長は小林邦昭さんで「おまえはこの部屋だ」って3人部屋に入ったんですけど。俺を見る目が変なんですよ(笑)。

――「入門初日にセコンドについて、グリーン車で帰ってくる三浦友和似のバケモノ」ですからね(笑)。

平田 「よろしくお願いします!」って挨拶したんだけど、なんだか距離があるんですよ。普通だったら後輩が入ってきたらああしろこうしろってかわいがるじゃないですか。結局、俺が一番年上だったんですよね。21歳。前田日明は19歳くらいだったし、ヒロちゃんなんか16、17歳だったし。

――後輩だけど年上って厄介な存在ですね。

平田 やっと打ち解けたのは2ヶ月くらい経ってからですよ。前田日明は最初は「平田、平田」と呼び捨てだったんだけど、年上ということもあって「おっさん」になったんですけど(笑)。

――前田さんなりに気を遣ったんですね(笑)。

平田 「おっさん、入門テストのときジャンピングスクワットをそんなにやったの?」「え?そんなにやってないよ」「……荒川さんに騙された!」って(笑)。

――まあ、前田さんは「第一次情報に絶対に騙されるマン」ですから(笑)。

平田 そのときにようやくネタバレして和気あいあいとなってね(笑)。

――同期は前田さん、ヒロさん、ジョージ高野さんになるんですよね。

平田 ジョージは1回辞めて芸能界に行ってるんですよね。原薗善由紀という選手もいたんですけど。

――前田さんとヒロさんの仲がかなり悪かったという話ですよね。

平田 悪かったですねぇ(苦笑)。

――何が理由だったんですか?

平田 前田日明が飛び抜けてイッちゃっていて……いや、ほかにいい言葉がないかな(笑)。

――ハハハハハハ! 前田さんは突き抜けていたんですね(笑)。

平田 トンパチ。ヒロちゃんはかなり頑固なんですけど、そんなヒロちゃんを前田日明がいちいちかまうんですよ。「おまえ、なんやねん?(笑)」とか。

――大阪人特有のいじくり(笑)。

平田 ヒロちゃんは真っ直ぐだから「なんだ、コラ!」って怒るんですよね、先輩相手に。ケンカが始まりそうになったときに俺があいだに入るんです。寮長の小林さんは放ったらかしだから、俺が止めるしかないんでんですよ(笑)。合同練習なんか自分で言うのもなんだけど、俺が一番できたから、俺が止めるんならケンカは収まるんですよね。

――そこは入門前のトレーニングが活きているんですね。

平田 入門して1ヵ月で5キロくらい太りましたからね。前田さんはしばらくはヒョロヒョロだったし、ヒロちゃんも太るのに苦労したし。いっぱい食べるんだけど、2人ともなかなか太れない。

――新弟子のノルマはどんぶり飯5杯だったんですよね?

平田 地方巡業は2食付きの旅館に泊まるんですけど、朝5杯、夜10杯。
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  • 2024/03/19
    なぜ島野浩太朗は引退式で“あのマイク”をしてしまったのか?
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これで一区切りはもったいない。是非とも全日本時代と新日本復帰の時期もお願いします!

No.1 107ヶ月前
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