プロレスラーの壮絶な生き様を語るコラムが大好評! 元『週刊ゴング』編集長小佐野景浩の「プロレス歴史発見」――。今回のテーマはジャイアント馬場が亡くなり、三沢光晴らが離脱したあとの全日本プロレスになります。イラストレーター・アカツキ@buchosenさんによる昭和プロレスあるある4コマ漫画「味のプロレス」出張版付きでお届けします!
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――今回の取材場所は水道橋の喫茶店なんですが、本日は中邑真輔の新日本プロレスラストマッチ。先ほど後楽園ホールの当日券目当ての行列を見てきたんですけど、ざっと200人近く並んでましたね。
小佐野 やっぱり凄いなあ、真輔は。こないだのルチャの大会(『NJPW PRESENTS CMLL FANTASTICA MANIA 2016』)も、後楽園ホール3日間満員札止めになったのは、真輔効果もあったんでしょうね。
――後楽園ホールに徹夜組が出たケースって記憶にありますか?
小佐野 そうだねぇ……。新生UWFの旗揚げ戦のときかなあ。
――前田日明が徹夜組に缶コーヒーの差し入れをしたという(笑)。
小佐野 そうそう(笑)。後楽園ホールの徹夜組ってあまり聞かないよね。聞いたら今回の後楽園はもともとチケットが売れていて手に入りにくいところに真輔のラストマッチだったから。
――ただでさえプレミアなのに。
小佐野 いまの後楽園大会は新日本のスタッフでもチケットが取りづらいみたいだからね。あの坂口(征二)さんが「切符が取れないだよぉ」と言ってた(笑)。最近の新日本プロレスの好調ぶりは、棚橋(弘至)、真輔、オカダ・カズチカの存在が大きかった。これで真輔が抜けたことで誰が代わりに上がってくるのか……そこは楽しみですね。
――主力選手が抜けた団体はどうなっていくのか。ケースはかなり異なりますが、今日は「三沢光晴離脱後の全日本プロレス」をテーマにうかがいます。小佐野さんは三沢さんたちが全日本を離脱したときにどう思われました?
小佐野 変な話ね、あの年の初めから「三沢たちが全日本から独立するんだろうなあ」とは感じてて。それはどこのマスコミも感じていたと思うんだけど。記事にしたのは『週刊ファイト』だけだった。ほかはどこも書かなかった。
――それほど事態は風雲急を告げていたんですか。
小佐野 オーナーの馬場元子さんと三沢の仲がどうにもならないというよりも、あのときは三沢が社長としてやろうとすること、やったことに対して、元子さんはすべて否定する立場にあったから。「このままでは一緒にはやっていけないだろう」とみんな感じていたんです。
――元子さんは三沢さんの方針に否定的だったんですね。
小佐野 その伏線は馬場さんが生きていたときから張られてたんです。馬場さんが亡くなったのは99年1月だけど、98年5月2日に全日本が初めて東京ドームをやったんです。あの大会直後、長年の激闘により身体がボロボロだった三沢は長期欠場してるんだけど。8月に復帰するときに現場の全権を馬場さんから譲ってもらってるんですよ。というか、「ください」という話を馬場さんにしたんです。
――それは勇気のいる申し入れですね。
小佐野 馬場さんもやむを得ず三沢に譲った経緯があったんだけど。馬場さんが亡くなったのはそれから何ヵ月もなかった。そうなると元子さんには「あのときに三沢くんが全権を奪ったから、お父さんが気落ちして亡くなった」という感情が出てきてもおかしくないと思うんだよねぇ。
――変な話ですけど、もう少しだけ時が経つのを待てば……。
小佐野 馬場さんが亡くなってから三沢光晴が全権を握っていれば、元子さんとの仲はあそこまでこじれなかったかもしれない。だって三沢が全日本の社長に就いたとき、元子さんは社長室から馬場さんの持ち物をすべて出したはず。三沢には何一つ使わせていない。
――うわあ……元子さんはそういった感情ありきで三沢政権を見ちゃうんですねぇ。
小佐野 あくまで推測だけどね。三沢のやることなすこと気に食わなくなくて「それは馬場さんのやり方とは違う」となる。馬場さんがまだ生きていたときでも、三沢がトップになってからは選手の自己主張がオッケーになって、それまでとは違った流れが全日本に生まれたから。その時点で元子さんからすれば「三沢くんのやり方はおかしい」と思ったんじゃないかな。
――いま話を聞いて思ったのはSMAPの独立騒動なんですね。事務所のトップであるジャニー喜多川さんやメリー喜多川さんはかなりの高齢だから、もうちょっと待ってから独立に動けばこんな騒ぎには……という。
小佐野 その頃の私は『週刊ゴング』には籍を置いてなかったし、取材記者の立場ではなかったけど。元子さん、三沢、どちらとも仲が良かったので非常に複雑でしたねぇ。独立する三沢のことは応援したいし、かといって全日本が潰れてしまうのは困る。
――小佐野さんはどんなかたちで分裂すると想像してましたか?
小佐野 これは想像つかなかった。川田(利明)、渕(正信)さんの2人だけが残るなんて絵もね。分裂を回避するには、現場でやることに関しては三沢の思うようにすれば丸く収まったんだろうけど。
――元子さんからすると、そうはいかなかったということですね。
小佐野 ただ、全日本の内部にはそれ以外の問題も積み重なっていて「もう全日本にはいたくない」というスタッフや選手がいたんです。レフェリーの和田京平さんなんかに言わせると、東京ドームのあと休んでいた三沢のところにいろんな人が全日本のことで相談にくる。そこで三沢は義侠心にかられてしまって「馬場さんに言えるのは俺しかいない」となってしまったんじゃないか、と。
――三沢さんに野望があったわけじゃないと。
小佐野 三沢は決して自分がトップに立ちたくて動いたんじゃなくて、みんなの意見を聞き入れて馬場さんに物を言ってしまった。
――その京平さんを含めて川田さん、渕さんの3人は全日本に残留しましたね。
小佐野 京平さんはやっぱり「馬場さん!」の人だもん。渕さん、川田の場合は残留した本当の理由はわからない。
――彼らが三沢さんたちが出て行くことを知らなかったわけではないですよね。
小佐野 さすがに知ってるでしょ。業界でも三沢独立の噂はあったわけだからね。これは私の推測だけど、川田、渕さんの2人には新日本から声がかかっていたんだと思う。
――あー、なるほど。残留要請があったと。
小佐野 その後、全日本と新日本が対抗戦をやることになるでしょ。三沢独立の噂を聞きつけた新日本があらかじめ渕さんや川田にアプローチしてたんじゃないかな。2人になろうが全日本プロレスは全日本プロレスに変わりはない。新日本からすれば全日本の看板がほしかったんだと思う。誰か残っていれば、あとはどうにでもテコ入れはできるわけだから。
――三沢独立の情報が出回っているのであれば、そんな画策をしても不思議じゃないですね。
小佐野 分裂騒動が起きてすぐ川田と渕さんが記者会見をやったときに、新日本との対抗戦を口にしていたから。何日かではまとまる話ではないでしょ。実際どうかはわからないけど、普通に考えればそうだよね。
作/アカツキ
――三沢さんとの決別やむなしとはいえ、全日本に選手が残らなかったら元子さんはどうするつもりだったんでしょうね。
小佐野 選手が残らなかったら団体を畳んでもいいと思ってたかもしれないね。あるいは意地で続けたかな。あのときは日本テレビも全日本中継を打ち切っちゃったし。
――あの打ち切りは日本テレビは三沢派に鞍替えしたということなんですか?
小佐野 あのときの日テレのプロデューサーは三沢派だったから。あとは百田兄弟が三沢についた。やっぱり力道山家の存在は日テレの中では大きいんですよ。
――開局当時の日本テレビを支えたのが力道山でしたね。
小佐野 全日本中継が終わってNOAH中継に切り替えるまでに空白期間はあったけど。NOAHが放映に値する番組かどうかのジャッジはされたんでしょう。一方、全日本の大きなサプライズは天龍さんの復帰。元子さんが竹内(宏介、当時『週刊ゴング』編集顧問)さんに相談したんです。「残った全日本の社員にどうしたらいいかと希望を聞いたら、天龍さんを復帰させてほしいという声があがった」と。それで竹内さんから私に電話があって、桜新町の喫茶店に天龍さんと、まき代夫人に来てもらったんです。そして「じつは全日本からこういう話があるんです」と。
――天龍さんの全日本復帰は『週刊ゴング』のラインがあったんですね。
小佐野 結果的に元子さんの加勢をしちゃうわけだけど、三沢が離脱する前、私には増刊号でやりたい企画に三沢と天龍さんの対談があったんです。その話を三沢にしたら「天龍さんがいいんであればいいよ。ただ、やるのはもうちょっと待ってね」とニヤリと笑ってね。
――意味深(笑)。
小佐野 つまり「全日本をやめたあとならいいよ」ってことなんだけど。そのあとで三沢は全日本をやめたんだけど、天龍さんが入れ替わりで全日本に戻っちゃたから、対談ができなくなっちゃった(笑)。
――企画した小佐野さんが企画を潰すことをしてしまった!(笑)。
小佐野 そうなんだよね(笑)。私は三沢にも全日本にも頑張ってほしくて、どちらかに肩入れするつもりはないんだけど。そこは天龍さんも同じでね。三沢の敵に回るつもりはないけど、全日本が必要としてくれるなら……と。ただ、まき代さんは全日本復帰をイヤがったけどね。また揉めたらイヤだ、いまは全日本に関わらないで生きているんだから、戻らなくてもいいじゃない、と。
――かつてのトラブルがトラウマになっていたんでしょうね。
小佐野 やっぱりSWS騒動のことが脳裏をよぎっただろうし。だから天龍さんだけじゃなくて、まき代さんにも話し合いに来てもらったんですよ。天龍さんが勝手に決めたら恨まれると思ったしね(笑)。ましてや天龍さんは50歳でしょ。嶋田家の問題だと思ったから。
――最終的にまき代さんも納得されたんですか?
小佐野 まき代さんはあのとき桜新町でお寿司屋さんをやっていたので、元子さんに「いまは全日本にいなくてもちゃんとやってます」ということをわかってもらうためにお寿司屋さんに来てもらいましょう、と。
――そんな会談が実現したんですか!
小佐野 私はその現場には立ち会っていないけど、京平さんがビックリしてましたね。「京平、ここに行ってちょうだい」と渡された地図が「鮨處 しま田」だったから(笑)。
――天龍さん、まき代さん、元子さんの三者会談は凄いなあ。
小佐野 京平さんは車の中に残っていたのかな。店内の様子は聞いたことはない。全日本は新日本との対抗戦も話題になったけど、天龍さんが戻ってきたことも大きかった。天龍さんに「馬場・全日本プロレス」を見るファンも多かっただろうし。7月2日の後楽園ホール、元子さんに呼び込まれるかたちで「サンダーストーム」が鳴って、天龍さんが姿を現したときの会場のあの盛り上がり。信じられないことだもん、SWS騒動のことを考えたら。
――その後、全日本プロレスの社長に武藤(敬司)さんが就くというサプライズも起きましたね。
小佐野 もともとは武藤は新日本から参戦していたんだけど。武藤が初めて全日本に上がったのは2001年1月28日の東京ドーム。00年の暮れにWCWから帰ってきた武藤は、全日本の事情は何もわかってない。
――WCW末期にグレート・ムタとして参戦して日本を離れてましたね。
小佐野 全日本のドームで太陽ケアとやってくれ、と。気乗りはしなかったようなんだけど、試合をしてみたら、ことのほか全日本のリングでのプロレスが面白かったみたいで。
――当時の新日本が猪木さんの介入によって格闘技路線に染まっていたらから、全日本のほうが心地よかったんでしょうね。
小佐野 格闘技路線の新日本だと「自分のキャリアが消されてしまう」という強い危機感を武藤は持っていて。全日本のビッグマッチに呼ばれて出ると、外様の立場なのにファンが喜んでくれる。元子さんも、武藤のアメリカンスタイルは、タイプは違うんだけど、馬場さんの面影を見たんじゃないかな。それで「武藤さん、武藤さん」と頼りにするようになっていった。
――新日本の窓口は永島(勝司)さんでしたよね? 永島さんが全日本の社長になるなんていう噂もありましたが……。
小佐野 元子さんが冗談で「永島さん、社長になる?」なんて言ってたけど、元子さんは永島さんのことは眼中になくて、武藤と話をしてたんだと思う。
――なるほど(笑)。
小佐野 永島さんにその気はあったかもしれないけど。でも、社長は元子さんのままで、武藤が来ればいいだけでしょ。元子さんが武藤に頼りだしたのは、天龍さんと川田の仲がうまくいってなかったということもある。天龍さんが言うには「あのとき川田、渕とお互いに腹を割って話をして仲良くやっていれば……」と。
――何かあったんですか?
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武藤と白石が上手くいかなかった理由は、白石が大物風を吹かして、武藤より自分の方が大物だアピールしたからかな、一歩引いて武藤を立てていたなら上手くいっていたかもしれない