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 というわけで、『絶対絶望少女』です。
 本作は『ダンガンロンパ』の外伝で、発売自体は二年ほど前の作品。ですが、目下絶惨放送中の『ダンガンロンパ3』に本作のキャラクターたちが登場したのを見て、ちょっとまとめておこうと思い立ちました。
 後、ヒット数を稼ぐため、○○師匠を彷彿とさせるセンスのない週刊誌のリード文風タイトルをつけてみましたが、いかがでしょうか?

*     *     *

 以前にも、ぼくは本シリーズの腐川冬子罪木蜜柑という、二人の女子キャラを採り挙げ、作り手(シナリオの小高さん)について「女災について並々ならぬ洞察を持つ人物」と評してきました。
 腐川はこじらせた喪女で、エロを嫌っているテイを取りつつ、「私にいやらしいことをするつもりでしょう、××するとか!」と被害妄想を募らせることで専ら自分だけが相手にエロ話を振っているという、「超高校級のセクハラ冤罪」でした。
 罪木は気の弱いいじめられっ子で、被害者としての性格の強いキャラでしたが、学級裁判で追いつめられると「私のことが嫌いだから疑うんですね」と理論を超えたことを言い出して周囲の同情を買い、状況を有利に持って行く「超高校級の女子力」でした。
 端的に言えば、「被害者」として振る舞うことに成功している罪木は「一般女子」、失敗している腐川は「フェミニスト」であるとまとめてしまうことができそうです。

 こうした女性性への鋭い洞察は、本作においても十全に発揮されております。
 もっとも、本作の見かけ上の構造は、基本的には「大人vs子供」なのですが。
 本作の悪役は「希望の戦士」と名乗る五人の子供たち。彼らは他の子供にモノクマ型ヘルメットを被らせて洗脳、「モノクマキッズ」として手駒に使い、また量産型モノクマを街に投じ、大人たちを大量殺戮します。彼らはそれぞれが親からの虐待を受けており、大人を「魔物」と称して激しく憎んでいます。「魔物」を殲滅し、「子供の楽園」を作ることが、彼らの目的なのです。
 ――ぶっちゃけておくと、本作は全体的な評価としては否定的な意見も散見されました。そもそもがTPSとしていささか微妙である点。モノクマが単なる「量産機」として安っぽく使われた点(いろいろなコスプレモノクマが出てくるのは可愛くて楽しいのですが、さすがにゾンビ型はNGでしょう)。
 またこのゾンビモノクマが象徴していますが、本シリーズのキャッチフレーズであるはずの「サイコポップ」からポップさが抜け落ちてしまっている点。「コミカルさの中にインモラルさを隠す」のがサイコポップだと思うのですが、本作ではあまりにも陰惨な大量殺戮が延々と描かれ、ただの残酷趣味に堕しています*1
 また、そこまで挑発的意欲的なテーマを扱っておきながら、正義側によりにもよってジェノサイダー翔が配され、しかも当人の殺人鬼としての過去についてはあまり深くつっこまれない点など、ぼくも気になりました。
 が、それはまあ、置きましょう。

*1 これはギャグ要素の希薄な『ダンガンロンパ3』では更に顕著になっており、ここ数話で完全に一線を越えてしまいました。

 本作に登場するキャラクターの白眉と言えるのは、やはり「希望の戦士」のトップであるモナカでしょうか。
 車椅子に乗った小学生女子、しかも異母兄弟にいじめられて育ったという、「超小学生級の弱者属性の乗っけ盛り」。序盤から「可哀想な子供って、最強なんだよ」と豪語し、自覚的に自らの弱者属性を武器に使います。最終的には主人公に対し「子供たちの殺戮行為を止めるにはこれしかない」とモノクマキッズを殺させるよう誘導し、「大人と子供の戦争」を引き起こさせようとするのですが、そこでも「子供の被害者って、そこまで強烈なんだよ」と、それによって世論が冷静さを失うことをも作戦に織り込んでいるのです。ここには当然、既に子供によって大量に作られた大人の死体の山に、それが勝るという計算が働いているのですね。それは丁度、「ミソジニー」という言葉の方が、「ミサンドリー」という言葉に比べて相手を遙かに感情的にさせるのと、全く同様に(伏線)。
 この終盤、彼女は実は異母兄弟からの虐待はさほどでもなかった(自己申告で盛っていた)ことをあどけなく吐露、また主人公たちの前で車椅子から降りて、自分の脚で立ってしまいます*2。つまり自らが完全に作られた、偽の弱者であったことを、呆気なく明かしてしまうわけです。
 さて、ところでモナカは「希望の戦士」の実質的なリーダーなのですが、決してリーダーであるとは名乗りません。モナカ以外のメンバーは大門大、煙蛇太郎、空木言子、新月渚と、言子を除いて男子で構成されています。メンバーたちはモナカを「ぼくたちのお姫さま」と称し、この組織は「オタサーの姫」を頂いた「オタサー」としての性質を持っているのです。
 実のところリーダーを名乗っているのは大門大であり、彼は『コロコロコミック』の主人公でも務めそうな男性ジェンダーに忠実なキャラで、リーダーシップを発揮しようとするのですが、一方、モナカは序盤から駄々をこね出すと聞かず、結局は彼女の思い通りにことが運ぶ様が描写されます。本当に舵を取っているのは肩書き上のリーダーではないぞとの描写が、ここではなされているのですね。
 もっともこの大は第一章で倒され、退場してしまいます。それ以降は新月渚が二代目リーダーを受け持つのですが、彼はナイーブな天才少年キャラ(それこそ『コロコロ』ならライバル役です)で、終盤に入り、モナカとはややミゾが生まれます。
 大人からの虐待から自分たちを守るため、「子供の楽園」の建設を最優先事項と考える渚に対し、モナカは実のところ、江ノ島盾子(『ダンガンロンパ』シリーズを通してのラスボス)に魅入られた愉快犯的人物。「子供の楽園」の構想そのものが、実のところ彼女にとってはどうでもいいものでした
 渚は「親の期待に押しつぶされた子供」である、少なくとも本人はそのように認識しているのですが、モナカは彼を平然と裏切っておいて、「本当は誰もあなたに期待していなかったんじゃないの?」と問いかけます。と同時に彼へと口づけ、「モナカが好きなんでしょ?」と女子力を武器に使うのです。男性原理的な彼の理念、構想、その根本にある彼のアイデンティティを全て叩き潰し、骨抜きにして、女子力の一点突破で彼を傀儡と化してしまうわけです。
 江ノ島盾子は「絶望教の教祖」といった趣で、やや観念的に過ぎる存在でしたが、それに比べモナカは非常にリアルで、それだけに凶悪なキャラクターであると言えます。

*2 ただしこれは、単に「障害者を悪役にすることのタブー視」があったためとも、それを逆手に取った手法とも言えます。余談ですがモナカはラスト、瓦礫の下敷きになっており、明示はされませんがその後は、本当に下半身不随になったと思われます。
 更に更に余談ですが、ピー・プロダクションはこの「下半身不随の悪役」というモチーフにやたらこだわる会社で、『スペクトルマン』の初期設定では猿人ゴリが「万能椅子によって高い知能を得るが、反面給付として下半身不随に」とされていたのが、放送上不適切ということでなかったことにされ、『風雲ライオン丸』では幹部アグダーが両脚を切断されているがため、万能兵器の六能陣車で移動するという設定ですが、この脚については明確な描写はほとんどされず、また『電人ザボーガー』では「健常者のクセに何か、趣味で車椅子に乗っている」悪之宮博士がラスボス、といった具合です。

 さて、彼ら「希望の戦士」は希望ヶ峰学園初等科の問題児であった、と設定されています。言うまでもなく希望ヶ峰学園は『ダンガンロンパ』シリーズの舞台。苗木誠など、シリーズ本編のキャラクターたちは超高校級の才能を持った者として同校にスカウトされてきたと設定され、この「才能」というファクターは本シリーズのテーマとなっています。
 しかし本作の主人公は何ら才能のない普通の少女、苗木こまる。彼女が「超高校級」である腐川冬子とペアを組むことで、才能のある者とない者との対比がテーマとして描かれるのです。こまるは「普通」であり、そのため、「超高校級」の才能を持つ腐川に再三、依存する様が描かれます(ただし、ジェノはともかく腐川の才能はあくまで「文学少女」という本件と関わらないものであり、その彼女へとむしろ元気で身体能力の高そうなこまるがやたらと依存するというのは、正直テーマとキャラ設定とが噛みあっているとは言い難いように思いました)。
 また一方、本作では子供たちに襲撃された大人たちが、難を逃れ地下に潜んでいます。「レジスタンス」と名乗っていますがそれは名ばかり、反撃に出ようともしない彼らを腐川は物語当初から難じ、こまるもまた中盤で一喝します。
「普通の、何者でもない、弱い人間であることを言い訳に、いつまでも被害者ヅラをするな」。
 こまるの檄は当然、腐川に依存し続けていた自らへの叱咤でもありました。
 これまた、正直、ドラマとしてはどうかと思う部分はないでもありません。少なくともこの段階で、大人たちは子供に対抗する手段を持っておらず、また子供たちの襲撃から物語の時間は、どう多く見積もっても数日しか経っていないのだから、「今は雌伏の時だ」との大人たちの言い分にも充分、理があるように思えますから。
 しかし、こまるの依存に対し、腐川がいかに「超高校級」と言えど自分だって怖いのだ、いっぱいいっぱいだと吐露する場面などもあり、強者も弱者も同じ人間には変わりがない、強者にばかり依存し、強者のせいにばかりし続けるのはどうなんだというテーマは(上には噛みあってないと書きましたが)本作を貫くものになっていたように思います。
 本作は「子供vs大人」の物語です。
 が、ここまで見てくると、同時に「弱い強者vs強い弱者」の物語であることも、わかってきたのではないでしょうか。

 ――いきなり話題が飛びますが、目下、『広がるミサンドリー』を読んでいるところです。そう、久米泰介師匠、待望の翻訳書ですね。
 実のところ大著であることに加え、大変に読みにくい文章でレビューできるのがいつの日か、ちょっと見当がつかないのですが、ぼくとしてはこの「ミサンドリー」という言葉を濫用することには、慎重でありたいと思っています。それは要するに「男性差別」という言葉に対する忌避感と同じく、「分が悪いから」という理由に尽きます。
 本作ではモナカが再三、「可哀想な子供は最強」「子供の被害者はそこまで強烈」と繰り返すのと対照的に、大人たちは「私の妻も子供たちに殺された、恐ろしい!」「助けてくれ!」とただひたすら「子供に」怯え続ける様が描かれます。しかし、いかに子供たちがモノクマという超兵器を持っているからとは言え、(上には理があると書きましたが)「ただ怯えて救いを求める大人」を助ける人は、誰もいないのです。仮に街の外部からの介入がなされたら、外部の者は「被害者は子供」だと判断するだろう、とのモナカの推測は示唆的です。
 フェミニストやその信奉者が「ミソジニー」という言葉を使う時の自らの無謬性への盲信は、モナカの言葉と「完全に一致」しています。それは「我こそは弱者という最強の存在なり」という揺らがぬ自信です。
 一方、ぼくたちが「ミサンドリー」という言葉を発する時のドヤ顔に潜んでいるのは、「理論上、我々は正しいことを言っているのだ」との姑息な計算です。
 しかしそんな姑息なリクツが彼ら彼女らの情念に勝てるとは、ぼくには思えません。
『広がるミサンドリー』は序盤を読む限り、フェミニズムの「ミソジニー」についての研究を称揚し、「ならば次はミサンドリーの番だ」と説く書です。恐らく著者は、ジェンダーフリーをこそ、起死回生の策として考えているのではないでしょうか。
 しかし、それにあまり意味はありません。
「男性差別」から俺たちを救ってくれと漠然と上を向いて救いを乞うても、恐らく救いの手は差し伸べられない。外部――この場合は例えば政府などを想定すればいいでしょうか――は相手をこそ被害者であると判断するだろうとのモナカの推測は、正しい。仮に男子と女子とが対立していて、男子の方こそが被害者であったとしても、外部が男子の肩を持つということは、非常にレアケースと考えざるを得ないのです。
「ミサンドリー」という概念は、非常にラディカルです。
 しかしそのラディカルさをわきまえず、ただ「ミソジニー」への対抗概念として持ち出すのは、愚の骨頂です。
「ミソジニー」という言葉の本質は繰り返す通り、「人間の精神の自由など認めぬ」との彼ら彼女らのおぞましい本音の表れであり、また「私は愛されて当然、そうでなければ差別として糾弾してやるのだ」との彼女らの幼稚で無自覚な「被愛妄想」の表れでした。
 翻って「ミサンドリー」とは「男性は女性よりも愛されない」というジェンダーの本質的な傾向です(その意味で、「ミサンドリー」は実在しますが、「ミソジニー」は非実在です。まるで非実在概念の二次概念であるかのように扱うというやり方は、本当に、致命的にまずいのです)。
 ぼくたちに必要なのは「ミソジニー成金」であるフェミニストに「乗っかる」ために、「ミサンドリー」という言葉を振り回すことではない。
 必要なのは「ミソジニー」という言葉を振り回して相手を黙らせるフェミニストたちの凶悪さ、卑劣さを認識すると共に、「ミサンドリー」という善悪で断罪しても仕方のない感情の実質を分析することです。
 そこを分析し、計算した上で逆襲に出るのであればともかく、「ダンジョビョードーだから」と一本調子で糾弾しているだけで、解決される問題は何一つ、ない。
 本作では「弱者としての武器を自覚的に使う者」の凶悪さが余すことなく表現されていると同時に、「弱者に転がり落ちた強者が決して救済されないこと」もまた、十全に描破されました。
 そしてこまるちゃんは、そんな大人たちを叱責しました。怯えるのを止め、自分で戦うしかないのだと。
 ぼくたちはこまるちゃんの言葉に唱和して、「横暴な弱者」に毅然と立ち向かわなければならないのではないでしょうか。