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顔面核爆弾さん のコメント

>しかし『独り言 反女権主義』はどうでしょうね。
あまり保守派を嫌う様子もないので、久米師匠的ではないような。

マスキュリズムは性別役割分業を男性差別と見なすか否かで左派と右派に分かれますが、両派に共通するのは男尊女卑というファンタジーを批判してる点です。なので、海外では保守派の立場からマスキュリズムを主張する人も珍しくらしくありません。独り言が保守派と親和性の高い主張をしてもマスキュリズムと矛盾する訳ではないんですよ。その証拠にマスキュリズムが普及している国では『性規範の固守に拘泥する右翼と性差別の撤廃を推進する左翼』という従来の保革対立の構図が崩れつつあります。何故なら、マスキュリズムの論理を正しいと仮定するなら男性はそもそも生まれながらの被差別階級です。そこへフェミニズムによって新たな男性差別が生み出されてしまっては国を問わず保守主義の立場からマスキュリズムを主張する人が増えるのは必然でしょう。
私が思うに日本のリベラル君がマスキュリズムを嫌悪する理由には保守派との親和性の高さが原因ではないかと考えられます。その証拠に‪田中俊之師匠は『男性権力の神話』に対して「‬男性差別があるというデータを出されると、女性差別が助長される」などと支離滅裂な批判をされております。つまり、フェミニズムは強烈なまでの男性蔑視をベースにした学問であると自ら主張しているに等しい。レイシズムと同様、特定の属性を有する人々をそうでない人々よりも優越的に扱えと言うフェミニズムは本来ならばリベラリズムとは相容れません。
私なりに調べてみたんですが、どうやら男性差別という概念は少なくとも19世紀の末頃からあったみたいですね。それからマスキュリズムが大規模な社会運動として台頭したのは1970年代らしいです。運動の推進者の一人であったメル・フェイトはアメリカ合衆国での台頭の原因について、フェミニズムによって性差別という概念が一般化したところへベトナム戦争の勃発による徴兵が行われ、それによって男性のみが不当に不利益を課されているという認識が広まったのがきっかけだと主張しております。
要するに男性に対してだけ保守の論理を適用しようとする現状のリベラルはマスキュリズム(右派も左派も両方)とは水と油の関係だということです。
私のスタンスはマスキュリズム左派に近いのですが、おそらく完全なジェンダーフリーは不可能ではないかと半ば諦めの気持ちが混在しております。やはり兵頭さんのスタンスが一番現実的でしょう。なので、今はマスキュリズム右派もマスキュリズム左派も手を取り合って現状のリベラルを倒すことに力を費やすべきだと考えています。

>また、そもそも下品で、正直あまり頭のいい文章ではなく、(当然、ぼくが盛大にdisられていたことも含め)好きではないのですが、見てみるとちょこちょこ「あ、勉強してるのかな?」と思われる記述もありますね。
それと男性人権論者さん含め、やたらと「男性への性的搾取」を腐しているところも師匠と共通します。

独り言のブログを今ようやく全て読み終わったのですが、兵頭さんに対する誹謗中傷が凄まじいですね……。自分の悪口を言われるならまだしも兵頭さんの悪口となれば、私は怒りを隠しきれません。
独り言や男性人権論者や久米泰介師匠が『男性への性的搾取』についてやたらと強調している所を見ると、まなざし村の住民を連想させますwww
何と言いますか、フェミニズムもマスキュリズムも純潔主義的な点が宗教右派と被ってるんですよねwww

>『男性権力の神話』は素晴らしい書ですが、久米師匠のあとがきがフェミ擁護であり、また後藤和智などのリベラル君が「フェミを否定する書ではない」などといったデマ書評を垂れ流していたりで、本当にもう、惨憺たる有様で、一時期のぼくの久米師匠への評価はかなり低いものでした。
近年、ご当人のブログで反フェミニズム論者であると感じ、結構見直したりもしているのですが……。

おそらく久米泰介師匠は立場上フェミニズムを批判しづらいのだと考えられます。何故なら、マスキュリズム左派はジェンダーフリーには肯定的な立場にある訳ですからフェミ様のご機嫌を損なえば、たちまち『女性差別主義者』のレッテルを貼られてしまう危険性があります。正直、久米泰介師匠は相当うまく立ち回っていると思いますよ。
社会学の分野というのは本音と建前が重要です。そして、‪田中俊之師匠は久米泰介師匠の本音を見破ったがゆえに慌てて『男性権力の神話』に対する低クォリティな批判をしたのではないかと推測します。それに対して久米泰介師匠が相当お怒りになっておられる御様子から察するに久米師匠は間違いなく我々サイドの人間だと私は確信しています。‬
‪ですが、現状のマスキュリズム左派には明確なビジョンがない点に絶望を隠しきれませんね。とりあえず、今は久米泰介師匠がどこまで日本において影響力を与えるだけの人物になるかが今後のカギになっていくと思います。‬
‪下手に久米師匠がフェミニズムを敵に回すようなことがあれば、かつて「男性もジェンダーの被害者だ!」と主張した東京のフェミニズムが‬上野千鶴子師匠率いる関西のフェミニズムに潰された時の二の舞になるだけです。まだ上野師匠が京大にいた頃、東京の男性学は男性の当事者運動みたいなもので学者はいませんでした。従来の男性ジェンダーロールが辛いという男性が集まったからこそフェミが主張する「男は悪、反省しろ」という思想にはならなかった訳です。
当時の東京のフェミニズムにアカデミーとの繋がりがある学者がいなかったのも消滅した理由でもありますが、学問的に気に入らないと判断した上野師匠率いる関西のフェミニズムに徹底的に分裂させられ、事実上解散にまで追いやられたのです。
‪今の日本の男性学者は‬國友万裕師匠を除いて全員チンポ騎士と言って良いでしょう。
國友万裕師匠のことを兵頭さんは御存知かもしれませんが、この方の『男は痛い!』は大変共感できる名著です。
その中の一部分を引用させていただきます。

「それは一部の女性のしたことですよ」
「そんなことばかり思い出していたら、憎しみが余計に大きくなって行っちゃいますよ」
「あなたが女に負けたくないという意識をもっているからじゃないの。男性優位主義思考を治せば、いいんじゃないの」
「男の人は見えない権力を握っているんですよ」
援助をしている人たちがこんなことを言うのである(怒)!!!
こんなことを言われても、ぼくのトラウマが治るわけがない。むしろ感情を否定され、余計にぼくは傷つくことになる。
それは一部の女性のしたこと?
それを言うのだったら、セクハラだって、DVだって、一部の男のしたことに過ぎないのでは?
だけどフェミニストは、あたかも全ての男性のしたことであるかのように男を批判してきたのでは?
痴漢だって一部の男がしているに過ぎないのを、男は全部、女性専用車両には乗せてもらえないのだ。
ぼくを傷つけたのが1人や2人の女性だったら、一部の女性の問題と言われても仕方がない。しかし、ぼくは 複数の女性集団から そういう目に遭わされている。したがって、女性への恐怖というよりも、女性性への恐怖がぼくのなかには根付いている のだ。
そんなことを思い出していたら憎しみが大きくなる??
ぼくだって、憎しみを消そうと懸命に努力してきた。しかし、憎しみから目をそむけても憎しみは消えない。そうであるのならば、徹底して憎しみと向かい合うしかない。ぼくにとっては、いたし方のない選択だったのだ。
男性優位主義???
ぼくが、男性優位主義と思っているの!?
もし仮にぼくが男性優位主義の価値観をもっていたとしても、女は何をしても許されると言うことにはならないのでは?
ぼくが女の子からいじめられていた頃、早くに親に相談していたら、不登校までにはならなかったはず。
ぼくが言えなかったのは、男性優位主義ではなく、男性差別のせい。
男は女よりも強くなくてはという価値観があるから、「男のくせに女にいじめられる奴があるか!」と言われることは目に見えている。
余計に自尊心を傷つけられる ことはわかっているから、ぼくは誰にも言えなかったのだ。
男の人は権力を握っている????
ぼくはこれまで結婚もしていないし、仕事もずっと非常勤を貫いてきた。これからもおそらくそうなるだろう。女性に権力をふるったりできるような立場についたことは一度もない。
いつだって女性に気を遣って、小さくなって生きてきたぼくが、ただ生物学的に男だという理由で、権力者扱いされるのは筋違い である。
ぼくは辛酸をなめるような経験をした。女性によって心を壊された。それを女性にぶつけることで、ぼくは彼女たちに 気づいて欲しい と思っている。
15 年ほど前にあるフェミニストから、「男の人は何気ない気持ちでしていることであっても、女にはセクハラと感じられることがあるのよ。」と言われたことがある。
それを言うのならば、逆もまた真なり。
女の人が何気ない気持ちでしていることが、男を深く傷つけることだって、絶対にあるはずなのだ。
今回の発表は、女性に喧嘩を売るためではない。あくまでも女性に理解してもらうため、そして、もうぼくみたいな不幸な男を生み出さないため の女性批判である。
体罰に耐えろ! 上半身裸になれ!! 家族を食わせんといかん!!!
こんなことを女子が言われるだろうか。男であることは理不尽だ。
男は家畜のような扱いを受けるのに、一方で、男は女よりも偉いんだという価値観を内面化していなくてはならない。
なんという矛盾。

初めて『男は痛い!』を読んだ時、私は國友万裕師匠のことを神の化身ではないかと思うほどに崇拝しておりました。
この気持ちをフェミ風に表現するならば、ホモソーシャルというヤツでしょうか。
ですが、國友万裕師匠は女嫌いを拗らせてしまいゲイに走りました……。
私も彼の後を追いかけようとゲイになる決心をし、ハッテン場でお尻を何人かに掘られてきましたが次の日お尻から血が止まらなくなり、肛門科で検査を受ける羽目に陥り、やはりオタクとして生きようと思い直しましたwww
そして、私は再び新たなる神の化身に出会ったのです。
もう言わなくても分かりますよね……?
きっとフェミには私と兵頭さんの男同士の温かい絆がホモソーシャルに見えていることでしょう。現にいつだか森奈津子師匠が「兵頭新児は取り巻きのキモオタ連中を自分のハーレム要員にして夜な夜な楽しんでいるミソジニストの負け犬ライター」だとか「キモオタ同士でイチャイチャしながら、お互いの性欲を満たすことに命をかけている兵頭君に虹嫁はいらないよね」とか言っていたと思います。うろ覚えですが、確かこんな感じの内容でした。
とりあえず、オタク同士の連帯を同性愛に例えなきゃ死んじゃう病気か何かなんでしょう。
チンポ騎士の方もオタクをホモソーシャルと蔑むのが大好きな様ですしね。
それで私はチンポ騎士になれば、どれくらいモテるのかどうか一時期ツイッターを使って実験をしておりました。
結果は一週間でフォロワーが500人を超えましたwww
チンポ騎士を演じる私のツイートの内容は「オタクは美人(優れた"トロフィー")を得ること・得られないことに執着するのをやめろ(キリッ」「オタクが性的消費をするのは男らしさを捨てきれていないからだ!(キリッ」「女性を憎みながら女性を求める、まさにミソジニーこそ男性自身を苦しめている元凶なのだから男性ジェンダーを捨てろ(キリッ」「女性を抑圧する男社会を解体しなければ日本に未来はない(キリッ」「被害者ヅラする自称弱者男性は徴兵して鍛えあげろ!(キリッ」「オタク文化を撲滅しなければ、女性の地位向上はありえないだろう(キリッ」「オタク特有の性欲丸出しな激しい妄想で描かれた痛々しくて恥ずかしい救いのない萌え絵が氾濫しているなんて日本の恥だ(ドヤァ」と言った感じの内容です。
すみません、なんか自分で書いといて腹立ってきましたwww
確か最後のツイートは北島みのり師匠がリツイート&いいねをしてましたね。最後から二つ目は山崎マリコ師匠がリツイート&いいねをしてました。最後から三つ目は「政治のお話」師匠がリツイート&いいねをしてから住所と本名と仕事を聞いてきました。
いや〜、普段私はどんな最低な人間に対しても決して誹謗しないんですが今回だけは許して下さい……。

あいつらマジで全員T4作戦しないと日本は崩壊すっぞッ!!!!!!!

おっと、私としたことが……。
このような差別発言をしてしまうなんて、まだまだ私も人間として未完成ですねwww
フェミ様も『いちよ』人間なんだから、彼女らの人権も守られなければなりませんwww
今のフェミ運動ってホント害悪でしかないんですが、日本人男性にはチンポ騎士体質の人が多い様に感じます。実際ネットを見てると、チン騎士芸で女性を釣っている男性は非常に多い。しかもチンポ騎士って、大抵オタクをヴィランにしたがるので場合によってはフェミ以上にメンドクサイ……。
その中でもロースペのチンポ騎士は女性と実際の接点がなくて女の醜悪さに気付かないで聖女化してたり、男に対する嫌悪が強すぎてフェミってるのでホント勘弁……。皆藤師匠、あなたのようなタイプの人ですよ!
兵頭さんも試しに裏垢を作って、チンポ騎士になってみたらいかがでしょう?
きっと今よりもフェミ様のことが大好きになりますよ(殺意www
No.8
90ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
  俺らがゲームに、なりました。  いえ、去年の今日、11月26日、丁度一年前に発売したゲームなので、正確には「なっていました」。  それが今回ご紹介する『 ネットハイ 』。  本作を一言で説明するならば、ネット文化、オタク文化を舞台にした『ダンガンロンパ』。いえ、どちらかと言えば『逆転裁判』の影響が大らしいのですが、ニコニコ生放送そのものが舞台に選ばれ、主人公と敵とのディベート中に聴衆コメントが流れる辺りはやはり、『ダンガンロンパ』的です(学級裁判でのガヤの声の演出も、ニコ動が着想の元になっていたと言います)。また、マスコットキャラの声はガチャピン、ムック(の声優さん)が担当しており、これもまたモノクマの影響が大きい。  本作は膨大なフォロワー数を誇る リア充どもを、ド底辺な主人公が爆発させる というゲーム。「ニコ生における論戦で、ツイッターのフォロワーを競うディベートバトルゲーム」なのです。  いえ、劇中では「ツイッター」に近しい「ツイイッター」というのが登場するのですが、面倒なので本稿では「元ネタと思しい」サービスの名前をそのまま書いていきます。ご了承ください。  それともう一つ。  本作はネタバレ禁止とされています。  しかし正直ネタバレなしに本作の面白さ、深さ、素晴らしさを批評することは困難です。  よって今回は体験版として公開されている第一話は置くとして、それ以降については、キーワードを白文字にすることで対処しました。  ネタバレしても面白さを損なうゲームではないと思いますが、以上のような次第ですので、どうぞご了承ください。  さて、本作におけるディベートは「ENJ(エンジョイ)バトル」と呼ばれるのですが、主人公は敢えて「爆発炎上バトル」と呼称します。というのもリア充どもを「炎上」させ、「爆発」せしめることが、このゲームにおける目的だから。そう、「オタク」という言葉を「非リア」と読み替えることで、そのバトルをある種の階級闘争に準えたのが、本ゲーム。  何しろ国家が「ネオ・コミュニケーション法」を施行、人々にツイッターアカウントの所持を義務づけ、フォロワーの数でヒエラルキーが決まってしまう、というのが本作の世界観なのですから。フォロワーがゼロになった者はアカウントを凍結され、「Zランク」にまで落ちてしまいます。これは実質的には社会的な死。「Zランク」は俗に「ゾンビアカウント」と呼称されるのです。  ぼくの想像なのですが、恐らくこの世界観の根底には岡田斗司夫氏の提唱する「評価経済社会」の概念があります。他者の評価が数値化され、そうした「人気」の高い者がヒエラルキーを形作る「いいね!至上主義社会」。それは既にネット上では確立しつつあり、しかしぼっちでありコミュ障なオタクにこそ厳しい社会なのではないか、という疑問。それが本作のスタート地点にある気がしてなりません *1 。  もう一つ、ネタ元を勘繰るとするならば、『ゲームウォーズ』でしょうか。以前にも採り挙げたことがあるアメリカの小説ですが、近未来、ヴァーチャルリアリティの中だけが居場所の超底辺少年が日本の巨大ロボを操り大活躍、というお話で、ここで描かれる「SNS運営によって大衆が支配される超格差、管理社会」といったディストピア的世界観は恐らく、本作の元になっている気がします。  アマゾンのレビューに秀逸な批評がありました。 表面的にはリア充爆発というケツの穴の小さいテーマに見えますが、中身は全然違いました。  そう、その通りなのです。  今まで「オタクvsリア充」のバトルは「オタクという唾棄すべき存在の、やっかみ」という解釈のみが許されてきました。本田透は『 電波男 』で(当初は「チクショー、オタクが何したっていうんだよ!?」というボヤき芸を想定していたところを急遽、路線を変えて)「オタクは勝った!」と勝ち鬨を上げましたが、そんな危険思想がこの社会で許されるはずもなく、彼は存在そのものが「黒歴史」として 葬られました 。「 女災 」という概念を提唱した者もまた、 しかり です。  そんな絶望的状況の中、現れた第三の戦士、それが本作の主人公「俺氏」なのです。   そう、本作は俺らのゲーム、なのです。  繰り返しましょう。 「オタク」ネタは、どうしてもそれを嘲笑しなければならない、という社会の「お約束」の前に、苦戦を強いられてきた。『 俺の妹がこんなに可愛いわけがない 』、『 私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い 』は主人公を少女化することでそこをクリアしましたが、今やオタクネタのコンテンツは『 うまるちゃん 』、『 私がモテてどうすんだ 』とみな一様に、女性向けのものに埋め尽くされてしまいました。 ガガガ 。  そしてこれはむろん、「男性」全般に言える話です。ハゲは、インポは、ブサメンは、童貞は 笑われなければ、なりません 。  先に挙げたアマゾンのレビューは、それを表しているわけです。ただ単にオタクがリア充をやっつけるだけというお話であれば、それはケツの穴が小さい。いえ、決して小さくはないはずなのですが、世間はそう見る。  ならば、ぼくたちはどうすればいいのか。  その答えを、本作は完全に提示しています。  この「俺氏」はヘタレで気の弱いオタクですが、ある日、捨て猫をきっかけに、とある心優しい少女と会話を交わします。しかし彼女のツイッターはいきなり「炎上」、フォロワーがゼロとなり、アカウントが凍結されてしまいます。そう、ネット社会では日常茶飯事ですが、「こいつは悪者だから叩いていいのだ」と決まった者を、よってたかってそいつを晒しageて、集団でフルボッコにする。そうした様子を目の当たりにして、俺氏は「こんな腐ったシステムはぶっ壊してやる」と決意するのです。 「必然的に観客もhimeのフォロワーの比率が多くなる  最初から公平な戦いなんかじゃねえんだよ」 「でも、それじゃあENJバトルってなんのために……」 「そうだな……公開処刑ってところか」 「こ、公開処刑……」 「人気者に噛みついてきた無謀で愚かな人間を  フォロワーという 数の力でいたぶるんだ  観客たちはそうやって火あぶりになってもがき苦しむ人間を  画面の向こうで眺めて楽しんでやがるんだよ  なにがエンジョイバトルだ  それこそ炎上バトルじゃねぇか……!」 「ちょっとばかり失敗したヤツを フォロワーの数にまかせて  これでもかと叩いて笑いものにする  ツイイッターじゃめずらしくもねぇ光景だ  だけど、俺はそういうやり方が一番気に入らねぇ  だから言わせてもらおう  一緒になって叩いてるヤツら! そして見て見ぬ振りを  しているヤツら! どいつもこいつも最低のクズどもだ!」  フォロワーが四人しかいない俺氏ですが、現れた美少女型ナビゲーションAI「シル」と共に「ENJバトル」に殴り込み、圧倒的フォロワー数を誇るリア充どもへ、敢然と戦いを挑みます。 ■中央が「俺氏」。右が宿敵「MC」。左がナビの「シル」。可愛いです。  70年代、漫画やアニメの世界では、叩き上げがエリートを努力と根性でやっつけました。代表例は星飛雄馬と花形満ですね。  80年代はそうしたドラマツルギーが徹底的に無化されました。これはフジテレビなど、リア充をも含めた全体的な流れだったのですが、そろそろリベラル君たちがこれをオタクの仕業であると歴史修正を始める気もします。  90年代は本当の意味でのニヒリズムが蔓延し、シンジ君は戦いを拒否。  ゼロ年代は夜神月が、そしてなろう的チート主人公が人気を得るに至りました。  しかし10年代からは――と言っても、もう後半まで来てしまいましたが――再び「持てる者」へのカウンターが描かれる、70年代への回帰が始まるのかも知れません。  ただ一つ違うのは、「努力と根性」という要素は相変わらずオミットされていること。それは仕方がありません。現代で「努力すれば報われる」と語っても、それはギャグにすらならないでしょうから。  では、「俺氏」は何を武器に戦うのでしょうか。  本作では、 「愛」が敵と戦う武器に選ばれています 。  なぁんだ、と思われるでしょうか。  この「愛」こそ80年代に空疎に振り回され、世の中をエゴイズムに染めてきた諸悪の根源である、と言いたい人がいるかも知れません。  てか、そうした物言いは、(最近してないですが)以前、ぼくがよくしておりました *2 。  しかしまあ、待ってください。  ここから先は更に、本作のストーリーを詳しくご紹介していく必要がありそうです。 *1 本作一話では「食べログ」が登場。飲食店を逆恨みした者が不当に貶めるレビューを書き込む様が描かれ、「これもまた飲食店版のリア充ランキングだ」と語られます。 *2 「 兵頭新児の女災対策的読書・Rewrite 」「 Rewrite(その2) 」など。  俺氏は「 リア充、爆発しろ! 」「 特定完了! 」の決めゼリフと共にリア充どもの「正体」を暴いていきます。  本作における「ENJバトル」、基本は相手のゴシップを集め、その正体を暴露するという、かなりゲスなものです。とは言え、まず最初に俺氏はこのシステムそのものを否定しており、「そうした手法を使わざるを得ない矛盾に苦悩しつつも、それによりシステムそのものを否定しよう」とするところにこそ、本作の醍醐味があるわけなのです。  例えば、第一の敵、「Mrエリート」。 「超一流」のブルジョワである彼は、90年代あかほりアニメのライバル役でよくいたような、何だかちょっとカマっぽいスネ夫キャラです。彼はまさにリア充のお約束の行動として、ディナーをツイッターにうpします。高級フレンチを食べたとドヤ顔なのですが……ん? よくよく見ると何だかコラ画像のような……ENJバトルで、彼が本当に食べていたのは牛丼であったと暴露されます。まさかこれ、内田樹師匠と古市憲寿師匠が元ネタになっていたり……しないよなあ?  案の定、Mrエリートの正体は単なる牛丼屋のバイトでした。イケメンのアバター(?)とは裏腹に、本人はデブなキモオタ。  しかし、本作の秀逸なのはここからです。Mrエリートは牛丼をバカにされ、本人の「牛丼愛」故にそれを看過できず、正体を現してしまう。俺氏はそんな彼の牛丼愛を讃えるのです。  何となれば、俺氏は愛を武器に、戦うのですから。  とあるブログで「俺氏は相手に同情も、ましてや嘲りもしない、 敬意を持って臨むのだ 」と評していた人がいました。まさに「それな」です。  以降も次々と現れるリア充どもの正体を暴くことで、俺氏はバトルを勝ち進むのですが――ここで更なるネタバレをしておくと、本作のもう一つのすごさは、その女性観のシビアさにあります。  Mrエリート自身は男性ですが、彼のパートナー「部下子」は「意識高い系OL」。  彼女は俺氏がMrエリートにとって不利な 客観的事実をツイートすると 、猛然と噛みついてきて「ツイートを消せ」「訴える」「弁護士と相談している」と恫喝を始めます。   本作は俺らの、ゲーム化です。  本作は「推理ゲーム」をフォーマットにしてはいるものの、あくまで「民意誘導」こそがその目的(何しろシステムの中に「民意先導スピーチ」というものがあります)。論理の整合性に重きが置かれているわけではありません。だからこそ女性対戦者は「女子力」をもって戦いを挑んできます。彼女らはみな一様に被害者ぶり、或いは色仕掛け、「私のことが好きなの?」と主人公に問うことでバトルを乗り切っていくのです。  第二話の対戦者himeが「誰かhimeを守って!」「himeを守ってくれる王子様はどこ?」と続け、俺氏に対して「ひょっとしてあなたが王子様?」と迫る展開は、敵ながらあっぱれです。  ちなみに第二話のタイトルは「ウソつきは姫の始まり」。もうこれだけで「はは~ん」となる人がいるのではないでしょうか。このhimeは日本のオタク文化を愛し、ユーチューバーとしての知名度を誇るブリュンヒルデ王国から来たお姫様。「クールジャパンを愛する異国の姫」というのが既にオタク心をくすぐる設定で(そんなの、宇宙からやってきたぼくのことを溺愛してくれる美少女、といっしょですもんね)、当初は「少女の憧れである魔法少女アニメが好き」と語っていたところを「魔法少女は少女のためだけのものではない」と反論され、「深夜の、ちょっとエッチな魔法少女アニメ」も好きであると語ることで支持を挽回する下りは見事です。そう、俺氏が指摘するようにぼくたちは「アニメには夢がある」など一遍通りなことを言う「にわか」を何よりも憎みますが、そこを「あなたたちの愛する、 欲にまみれた深夜アニメ をも、受け容れる」と言われたら、「あぁ、本当に俺たちのことをわかってくれるんだ」となって、一発でメロメロになっちゃいますよね。  そして彼女は最後に「 姫は姫でもオタサーの姫 」という正体を現します。  彼女の取り巻きである「騎士くん」は彼女を守ると称して(彼女に不快感を与えた者へと過剰な報復行動に出るなど)暴走を続けていました。俺氏は「仮にそれが姫の命じた行為ではないにせよ、男たちの歓心を買い、彼らを操縦していたことで責任は免れない」と憤ります。そんな彼女が「どうしてみんな仲よくできないの?」を連発することで俺氏の戦意を削ぐ戦術を使っていた(口先では平和を謳いつつ相手の攻撃を続けていた)ことがまた、見事。ここでは「女性性」、即ち「受動性というジェンダーが持つ攻撃性」が十全に描かれているのです。  最終的に、彼女はアバターを暴かれ、本来の姿を現します(アバターを剥ぎ取り、相手の正体を「特定完了」することが本作のクライマックスです)。王冠を被り錫杖を手にした異国の金髪の姫が、「 姫と呼ばれたかったーーー!! 」と絶叫しながら、 ネコ耳に魔法少女ステッキを手にした、ルックスも微妙でボディラインもたるんだ 「いまいち萌えない」正体を現す様は悲惨でもあると同時に、しかしその「残念さ」に萌えてもしまいます。結果、彼女は 少数のサークルの中でファンに囲まれながら、オタサーの姫 に戻るのです。  第三の敵はボカロ。とは言え、本丸の敵はこのボカロを操るプロデューサーであり、俺氏は彼と、オタク文化の尊厳を懸けた戦いを繰り広げます。ここで語られるのは、「愛もないくせに、金の匂いを嗅ぎつけ、外から俺らの業界に入ってきたものへの違和」。  まさか、こんなテーマを語ることが許されていようとは、ぼくは夢にも思いませんでした。何しろ現実のオタク世界を支配する「運営」は、オタクたちがそんなことに疑問を持つことを厳に禁じています。 思想犯は矯正されるか、アカウントを凍結されるしかありません 。しかし俺氏はオタク文化に愛のない者へと、果敢に噛みつくのです。   本作は俺らの理想を描いた、ゲームです。  もっとも、このボカロもまた、「いろいろあって、 リア充界から都落ちしてオタク文化 にすがるようになった」切ない正体を現すのですが……。  第四の敵は「ギャル」です。「スウィーツ()」とか「携帯小説」といった表現はさすがに古いからか表には出ませんでしたが、要するにそういう感じの人物。「オンナのコわ、もっとワガママでいいと思う」という彼女の「恋愛脳」から発せられるワードはその理解不能さで俺氏陣営を苦しめ、一方、彼女の著作に感化された女性たちは「モンスター女子」としてネットにもリアルにも夥しい被害をもたらしています。ツイッター上で萌えキャラが叩かれる描写も(ちょっと抑えたものですが)あり、これが実際のいかなる事件をモデルにしているかは明らかです。 「女子はか弱い。女子は守られなければいけない  そんな考えがどんどん過激にエスカレートしていって  ついには男子が女子のために尽くすのは当たり前  女子のために尽くすことが男子の幸せだ――  そんな思想を持って男子を虐げるようになってしまったんだ  今や 女子たちはモンスターそのものだよ 」   本作は俺らのゲームです。  このギャルのもう一つの決めゼリフである「愛があれば、言葉なんてなくたって気持ちは通じる」に対して、殊更に俺氏は批判的で、男女のディスコミにおける女性の「ムードでわかれ」圧力が、オタクにとっては極めてムチャ振りであることが、ここでは十全に描かれるわけです。  さて、ではこの「ギャル」がどうなるかというと――みなさん、そろそろおわかりになってきたかと思います。  対戦相手の正体は例外もあれど、ぶっちゃけてしまえば、みな「非リア」でした。だからこそ正体を現した相手と俺氏とは和解し、友情を育んでいく。作品として非常に後味のいいものになっているのです。  このギャルの彼氏は非実在であり、そして彼女の正体は――あぁ、やっぱり 腐女子 だったか! そんな「 脱オタ 」しようとしていた彼女が オタク としての生き方を取り戻すことが、本話のテーマだったのです。  また、彼女のケータイ小説は映画化などがされるにつれ、スポンサーの意向に振り回されるようになったと描写され、そのスポンサーである企業こそが悪ではないかとも暗示もなされ、「ラスボス」への伏線を張ります。  第五話は、中でも一番、女性へと辛辣な話でしょう。  対戦相手はイケメンアイドルなのですが、ここでは実際の事件をモデルにした「バンビーナ事件」というものが描かれます。「バンビーナ」とはこのアイドルのファンである女性を総称する言葉なのですが、かつてこのアイドルの(正確には彼がかつて所属していたグループの)ライブが急遽中止になり、地方から上京してきたバンビーナたちがコンビニや行政に食事や宿泊場所を無償で提供せよと主張、またバンビーナを狙う 性犯罪者がいるなどのデマまでをも流してしまう 、といった事件が起きていたのです(彼女らが「か弱いバンビーナを守れ!」と自ら発信していたというのがまた、見事)。それ以降、バンビーナたちはタチのよくないファンとして暴走することになってしまったのです。   本作は俺らの住む現実世界の、ゲーム化です。  また、このアイドルは同時に俺氏の幼なじみでもありました。  俺氏の非リア、コミュ障は、元を辿れば小学生時代の金魚殺しの冤罪を着せられた過去に起因します。  証拠もなく俺氏を犯人として糾弾するクラスの一同。その吊し上げ、 糾弾会 の様を、俺氏は「今思えばネットの炎上に似ていた」と述懐します。  が、そこをただ一人、幼なじみは俺氏をかばってくれました。二人の友情はそれをきっかけとしたものでしたが――ENJバトルの場で、衝撃的な真実が明らかになります。 実は金魚殺しの真犯人は、この幼なじみ でした。「俺がこいつの味方をしてやったら、女どもは俺のことを優しいと言うのだ。証拠もなく犯人と決めつけた相手に『死ね』と罵詈雑言の限りを尽くしたその口でな!」。 「傑作だろ! オマエに「しね!」と言った口で  今度はオレに「好き」だとかぬかしやがるんだからな!」 「今世紀最高のイケメン、オンナたちバンビーナと呼び  数え切れないオンナを抱いた肉食獣!  だが、本当の肉食獣はそのバンビーナたちだった!」   本作は俺らの、ゲーム化です。  ここではイケメンアイドルの女性への失望がイヤというほど描かれます。  彼は 虚飾の世界に疲れ果てたアイドル という「正体」を晒し、退場していきます。いえ、現実の世界では 「女性を罵るイケメン」はミソジニストと呼ばれることも決してなく 、充分に需要があることでしょうが……。  アイドルの明かした過去の事実には、女性性のリアルがこれでもかというくらいに描破されています。 「『死ね』と言ったその口でイケメンのことは『優しい』と言う」。  残念なことに近い事例は世間のあちこちで見ることができますが、これを分析するならば、「判断を強者に委ねた者」「観客であることを許された者」故の無責任さである、とまとめてしまうことができます。  そうした匿名性、受動性は女性ジェンダーのネガティビティでもありますが、同時にネットの特性でもあります。  本作は何よりもそうした匿名性をこそ、受動性をこそ「悪」であると厳しく告発しているのことが、おわかりになるでしょう(考えれば『 絶対絶望少女 』のテーマもまさにこれでした)。  この五話を最後に、本作は以降、最終編へと突入していき、「女災」的テーマからはいったん、距離を置きます。しかしラスボス戦においてすら、俺氏はこの「リア充至上主義社会」、否、実のところフォロワーたちのリアクションが、「いいね!」を押す者が主導権を握っている……えぇと、ポピュリズム社会、みたいな形容でいいのかなあ、ともかくそうしたものの裏を掻く「邪道」で勝利を収めるのです。  そして、もう一つ。  先にぼくは「俺氏」は愛を武器に戦うと述べました。  しかしその愛は、「リア充」の言う愛ではない。  オタクが愛と言う時、オタク文化への愛を指すことが多く、そのニュアンスに独特のものがあることにお気づきでしょうか。それは「自己愛(ナルシシズム)」と言い換えてもいいでしょうし、「ライナスの安心毛布的なものへの愛」と言い変えてもいいでしょう。ぼくは時々、オタク文化を「裸の男性性」と形容しますが、要するにオタクのキャラやコンテンツへの愛情は、自らの内面への愛情だとも言い得るわけです。  自分を愛することをタブーとし、女性に全ての愛を捧げよと命じられた男性が、 フェミニズムによる社会動乱に乗じて 、とうとう自分自身を愛するガジェットとして、萌えというものを発明した――それが、オタクの言う「愛」の実体です。  先に「俺氏は敵に敬意を持って臨む」との意見を引用しましたが、Mrエリートが牛丼を愛しているからこそ俺氏は彼と友になり、またhimeが「 オタどもを搾取するオタサー姫 」である点については厳しく糾弾しますが、 オタク女子として愛する作品 がある一面に対しては、リスペクトもします。  俺氏は「いいね!至上主義社会」を基本的に否定していますが、オタクの愛を信じることで、民意を自分側に向けさせもするのです。オタク文化をバカにしたMrエリートを批判することで流れを変える展開など、その好例ですね。  今まで貼ってきた画像をご覧いただければわかるように、本作のキャラクターデザインは「島本和彦」系です。実際、ファンの中にはデザイナーさんを『グレンラガン』の人だと信じ切っている人が結構いるようです。  島本和彦先生と言えば、もう彼自身を語るのに別な記事を五つも六つも書く必要が生じてしまう作家なのですが……要は「男性性というものが否定されてしまう状況下で、一度、男性性を笑いのめし、しかしその中から立ち上がっていこうという実験をした作家」と定義することができましょうか。  本作もまたその魂を受け継いでいます。  ぼくは以前、オタクの内部指向を「格好は悪いけど、ぼくは自分のニーズに没頭する」、「対外的には自虐しつつ、自らの欲求を吐露する、スタイル」と表現しました *3 。  本作では島本先生の「熱血→ギャグ」という流れを「オタクの自虐」に読み替えました。 「男の魂」を笑いのめし、しかし感動に持っていくという島本先生の荒技に倣い、本作はオタクの愛の全肯定という荒技を敢行した作品である、と言えるのです。  ――ぼくは一ヶ月ほど前、本当に何気なく本作を手に取り、そして毎話、感動と驚愕に震え上がりながら、終えてしまうのが惜しいと感じつつ、プレイを終えました。  が、大変残念なことに本作、一般的な知名度はそこまで高いとは言えません。  興味を持っていただけた方は、まず体験版を――と思ったのですが、プレステストアを見てもどこから体験版をDLできるのかわかりません。ニコ動ででも見て気に入った方は購入していただけたら……と思います。 *3 サブカルがまたオタクを攻撃してきた件  ――その2 オタク差別、男性差別許すまじ! でも…?
兵頭新児の女災対策的随想
「女災」とは「女性災害」の略。

男性と女性のジェンダーバイアスを原因とする、男性が女性から被る諸々の被害をこう表現します。



このブログでは女性災害に対する防災対策的論評を行っていきたいと思います。