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  • 痴漢冤罪とはなにか

    2024-05-10 19:54
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     先週うpした動画は、観ていただけたでしょうか。



     パオロ・マッツァリーノ師匠のデマについては既に第55回でも批判したのですが、その後、ご当人が言い訳記事をうpしたので、それにも対応せざるを得なくなり、また長ったらしい動画になってしまいました。
     その時にパオロ師匠の掲げた『痴漢とはなにか』がこれまたどうしようもない本であったため、基本、動画のテーマはそちらにツッコミを入れるのがメインではあったのですが、それすら要所について触れるに留まってしまいました。もうちょっと詳しく見ていきたいということで、こちらへ長文をしたためることになってしまったわけです。

     さて、本書は三部立てで、第一部では少々お堅い法令などの解説や細かいデータが並べ立てられているのですが、その中でちょっと気になる指摘がありました。「薄着の季節は痴漢が少ない!」(29p)というのです。データとしては警察の、ホンの四ヶ月の間の553人の被疑者に対する聞き取りで、どこまで当てになるのかはわかりませんが、ともあれ痴漢が被害者の選択理由(その女を狙おうと思った理由)として「挑発的な服装」を挙げたのは5.2%にすぎないとし、「被害者の服装が性犯罪を呼び込む」というのは「神話だ」と言います。
     また、他の調査でも「夏は痴漢が少ない」との結果が出ており、これは「露出の高い夏は痴漢が増える」との通念とは相反するもの(もっとも、これは夏休みだからだと思うし、文中でもそれは指摘されているのですが)。
     ともあれ、作者の牧野雅子師匠はこれらデータを挙げ、警察が「夏は女性が狙われる!」的なキャンペーンを張ることに対し、「痴漢をなくそうとは思っていないのだろう」とわけのわからないインネンをつけるのです!!
     この辺りに、もう本書のスタンスは十全に現れています。
     まず上に「挑発的な服装」とありますが、「露出が(ことに夏だからという明確な理由で)高い」のと挑発的な服装では全然違うでしょう。セーラー服を挑発的な服装と言ってしまえば言えるけれども、一般的にはそうではなく、いわゆるケバい格好が想定されるはず。ケバい格好とセーラー服とでは後者が狙われやすく、セーラー服でも冬服と夏服とでは後者が狙われやすいと思われますが、双方では話が全然違います。
     ここで問題なのは牧野師匠の中に、「挑発的な服装」が痴漢の原因であるという「通説」を否定したいとの衝動がまず、あることです。その根底にあるのは要するに、「痴漢が一方的に悪いのだから、女性がどのような格好をしていようと(極端な言い方をすれば全裸で歩こうと)いいのだ、女性に痴漢への防衛策を講じさせてはならない」というフェミお馴染みの考えです。
    「痴漢が悪いのはわかるが、それと防衛策を講じることとは矛盾しないではないか、フェミは本当に女性の被害者を減らしたいのか」といった批判は誰もがするところなので繰り返しませんが、動画でも述べたように、そのさらなる根底には、フェミニストの「全ての責を男性にとって欲しい」という煮えたぎるような感情があることは、自明でしょう。「警察は痴漢をなくそうとは思っていない」という謎の決めつけもその一環であることは、もはや多言を要しません。
     ポスターなどによる警察からの乗客への呼びかけで、「痴漢を捕らえよ」といった文言がないことにもお冠。近年統計上、痴漢が減っているのですが、師匠はそれすらもこうした傾向(つまり警察が市民に「痴漢を捕まえよ」と奨励しない)が理由なのではないかと勘繰ります(39p)。
     そんなこと言ったって痴漢に逆ギレされて市民に被害が出たら困るでしょう(もちろん師匠の中で、痴漢を捕まえるべきなのは常に男性なのでしょうね)。『ウルトラマンレオ』の初期では毎回、お話の冒頭で防衛隊と悪い宇宙人が街頭で追っかけっこをしており(宇宙人のくせにまさに痴漢とかこそ泥みたいです)、隊員に「そいつを捕まえてくれ!」と請われた一般市民が宇宙人に立ち向かい、殺されてしまうという展開を繰り返していましたが、それを思わせる話です。
     以降、既に動画でご説明した、「痴漢は性欲ではない」「痴漢被害者が性的羞恥を感じたと考えることは許せぬ」といった戯れ言が続きます。

     さて、一部を読み終えると、動画でも書いたように、昭和から平成に至るまでの週刊誌の痴漢関連記事を引用しては延々憤るという体裁の第二部が始まります。
     確かに、昭和の週刊誌では見ていて不快になるような痴漢擁護、否、賞賛論が溢れており、それに憤る牧野師匠の筆致もお説ごもっともではあります。ただ、それが昭和の価値観に下支えされたものであったことも、忘れてはなりません。
     痴漢推奨論は男女相互の楽しみ(「女だって楽しんでるんだろ?」)といったニュアンスで語られるものが多く、確かに許しがたいのですが、怒る前にそもそもの普通の男女関係というものを、ここでイメージしてみてください。
     基本は男が女にアプローチし、しかし女は意志を明確にすることなく、ムードでことが進み、男は「行ける」と思ったらさらに次のステップに進むというものではないでしょうか。痴漢行為は電車の中で無言でなされるということが異常ではあるけれども、そこを除くと、実は普通の男女交際と基本構造は変わらない。
     言い換えれば「女は自分から動こうとはしないが、セクハラとかが嫌なら女ももう少し自分の意志を表明すべきだろう」ということです。或いは(ここは想像ですが)昭和の女は今よりも消極的であったがため、男は今より以上に積極的な働きかけが求められた(がため、相対的に痴漢行為についての忌避感も今よりも少なかった)のかも知れない。
     そう考えると、やはり犯罪であり、けしからぬことであるとは言え、果たして先の痴漢賞賛論が今の感覚でジャッジされるべきものかとなると、それは違うのではないかと思えるわけです。

     一方、師匠の男性に対する冷酷ぶりは、見ていて背筋が凍るほど。IBMの部長が痴漢騒ぎを起こしたという記事を採り挙げ(116p)、そこで「たかが痴漢、罰金一万円の微罪で一生を棒に振らないよう」と注意を呼びかける記事に、師匠は「たかが」「痴漢騒ぎ」という語句がけしからぬと泣き叫びます。
     この頃から痴漢は(無論性犯罪全体の特徴として立証が難しく、逮捕しにくいという面はあるが、それでも)犯罪として取り締まりの対象となっていたのだし、仮に微罪でも会社を解雇されたり、重要人物なら上のような週刊誌報道があるなどで「一生を棒に振る」、即ち社会的制裁のあるものだったのです。
     男性たちにそこを自省しようとの呼びかけに、ひたすら文句をつける師匠。本当に痴漢を減らしたいんですかね
     もう一つ、性犯罪で捕まるって、およそ男にとっては最大の恥辱でしょうね。恥辱の度合いを測る装置がない以上、証明しようがありませんが、「痴漢に遭った女性の精神的苦痛」を上回るものなんじゃないでしょうか。
     もちろん、実際に犯行があった場合は自業自得ですが、冤罪だった場合のことを考えると……。
     ところが、痴漢冤罪と女性専用車両について述べた本書の第三部に至ると、師匠はさらに男性の痴漢冤罪問題に対しても、痴漢行為そのもの以上に憤りを炸裂させます。
     2017年の大阪府警のデータでは、痴漢事案の221件中、現行犯逮捕は87件、「指導・警告」が104件ということなのですが(166p)。それをもって、師匠は以下のように言います。

     こうした事実があるにもかかわらず、警察に引き渡された段階で現行犯逮捕されているという話が流布される。
    (167p)


     意味がおわかりでしょうか。
     確かに「警察に引き渡された段階で“100%”現行犯逮捕されている」わけではない、現行犯逮捕されるのは半分に満たないということは、上のデータを見れば明らかです。しかし例えばですが致死率50%弱の病気に罹った人に対し、「死ぬとは限らんじゃん」などとお気楽に言えるでしょうか。
     しかしそこを、牧野師匠は(男になら)言えてしまえる人なのです
     何しろこれ以前でも「メディアは痴漢だという女性のひと声で男性の一生が終わってしまうかのような情報を世に提供してきた。(155p、大意)」などとそれが過ちのように書くのですから。
     これ以降、師匠は痴漢冤罪が話題になったため、「男も被害者」だという言説が増えたとして、以下のように続けます。

    ここでは、痴漢に間違われることが被害であり、その不安に怯える人たちも「被害者」であるかのように扱うのだ。それによって、痴漢という性暴力の被害者と冤罪に怯える男性が対置させられる。
     痴漢被害者を、被害者という立場から引きずりおろすことで、痴漢被害者と痴漢冤罪被害者を対比させる論法も見受けられる。
    (169p)


     男性を被害者扱いすることは、決してあってはならないのです。
     この後、弁護士の談話を引用し、そこに痴漢に遭ったと称する女性が「自称被害者」と書かれていることに、また師匠は激昂します。

    「自称被害者」という呼称が使用されることによって、被害当事者は被害そのものを疑われ、被害者として主張する立場を奪われる。それによって、被害申告は、傾聴すべき語りから、その内容の真偽を厳しく審査すべきものへと変わる。確かに、痴漢に間違われた男性にとっては、厄介なトラブルであることは間違いない。しかし、一方で、その人物が犯人ではなかったにせよ、被害に遭った女性にとっては、紛れもない犯罪被害であり、単なる「トラブル」ではあり得ない。それを、間違われた男性にとっては「トラブル」だからと、女性の性被害を「トラブル」という位置に引きずりおろすことは、刑事手続き上も問題があるのではないか。
    (170p)


     そう、痴漢に間違われることは「トラブル」にすぎません。
     それによって現行犯逮捕されても。
     罪は免れても会社を解雇される、本名を報道されるなど普通にあることなのですが、それくらい、男なのだから「トラブル」のひと言で片づけないといけないのですね。
     本書を絶賛するパオロ師匠は当然、冤罪で立場を失っても、笑顔でフェミに心酔し続けるのでしょう
     また痴漢冤罪について語られる時には、女性にも他人ごとではないと周知させようと、「濡れ衣を着せられた男性の家族、つまり女性も苦しむのだ」といった話題が出ることもありますが、これにも師匠は発狂します。

    ここで被害者女性は、冤罪被害男性のみならず、その家族、とりわけ妻という女性を苦境に陥れる存在として描かれている。家族の女性を取り込んだ女性の分断を煽る手法といえる。
    (171p)


     意味が、おわかりでしょうか。
     ずっと当noteをご覧いただいてきた方なら、「は、は~ん」とお思いかもと思うのですが、要するに「強制異性愛」の概念ですよね。「本来、女は男に興味などなかったが、陰謀で男と結婚させられた。そして男の妻と痴漢被害者という形で、女は敵対的な立場に分断させられているのだ」という妄想です。もちろん、その前提には「男が好きで好きで仕方がないが、モテないので男に興味のないフリをせざるを得ない」というさらなるホンネが隠されているのですが。
    「手法といえる」が千両で、まさに「男どもは痴漢冤罪を“利用”して(計算尽くで)女を分断しているのだ」との牧野師匠の取り返しのつかなくなった妄想が、十全に表現されています。
     痴漢に間違われた男が「誰がお前なんかに触るか」と一喝したという武勇伝めいた週刊誌記事もありますが、当然、師匠は憤死寸前で書き連ねます。

    痴漢に間違われたことは、男性には屈辱的な体験だったのだろうが、女性が、人違いとはいえ痴漢被害には遭っていたとしたら、この男性の「誰が触るんだ」という罵倒は、被害を告白した当事者の語りを否定する、被害者に対する二次被害に他ならない。
    (中略)
    この男性とおそらくは書き手もが「スッとした」のは、ここぞとばかりに女性を侮辱し、罵倒することができたからだ。日常生活では言えないことが、痴漢冤罪にかこつけて言えたのだ。
    (191p)


     あぁそうですか、よかったですね。
     痴漢冤罪に伴い、ゼロ年代には女性専用車両が普及しましたが、師匠はそれに対しても怒髪で天を突きます。
    「女性記者同伴で女性専用車両を視察し、侮蔑する記事が増えた、差別だ」というのです(大意、213p)。
     もう、女性専用車両をわざわざ作ったら作ったでここまで癇癪を起こすその心性に仰天します。

     女性専用車両は、男が排除されており男性にとって差別的であると言われることが多いが、こうした、男の目がなければ野放図になってしまう女を描こうとすることで、男性の女性支配欲求をあらわにし、女性差別が今も続いていることを示してしまっている。
    (215p)


     あぁ、そうですか。
     女性専用車両は男性にとっては面白いものではなく、多少のことを言われるのは仕方ないと思うのですが(そして師匠が目を皿のようにして見つけ出しているだけで、実際にはそこまでこうした記事が多かったわけではないのでしょうが)、見ていくと同様の企画は女性誌でもなされており、これは主婦のOLに対する対抗意識が源泉なのかもしれません。
     もう一つ、『犯罪白書』のデータによれば、痴漢示談金名目の詐欺事件は2005年、1512件あったといいます。すごい数です。しかしこれについての師匠の言い分は、以下のようなもの。

    被害者の多くのは女性で、高齢者に多く、加害者のほとんどは男性である。
    (173p)


     一瞬、意味がわからずぽかんとなってしまいますが、何のことはないオレオレ詐欺ですよね、これ。実際に、参考文献を見るとそうした文字が並んでいます。

     痴漢でっち上げ詐欺と聞いて、女性による男性の被害を思い描く男性誌には、息子や夫の痴漢事件をでっち上げて女性から高額な金を振り込ませる男性たちという現実は描かれない。女性の置かれた状況は、ここでも、関心の外なのだ。
    (174p)


     何を言ってるのかわかりませんが、痴漢冤罪については男の妻に対し「あなたも他人ごとじゃないぞ」と言うと発狂するのに、都合が悪くなると「母」や「妻」の被害者を持ち出してくるのだからたまりません。加害者が男だから嬉しくなって、そこで思考が停止しちゃったんでしょう。
     またこういうの、主犯は男が多いとしても、女の共犯者も相当いるんじゃないでしょうか。例えば電話口で痴漢被害者を演じ、「あなたの息子がやったのよ!」とヒステリックに叫ぶなど。オレオレ詐欺って劇団みたいになって警官役、弁護士役とかがいたりするそうですし。

     ――以上、本書は全てがこの調子でページをめくる度に頭がおかしくなりそうですが、それを一気に読み、一気に絶賛し、一気に書かれてもいないことを読み取るパオロ師匠はさすがとしか言いようがありません。
     元はと言えばパオロ師匠がデタラメを書き、ソースを求められてあたふたと東奔西走したことです。初期段階であれば、「無知なため、舞田敏彦師匠の嘘に騙された」でギリ逃げられたものを、言い訳を繰り返したがため、師匠当人が故意にデマを流している、重篤なフェミ信者であることが、明らかになってしまったわけです。
     動画や本稿でご説明してきた通り、フェミニストにとっては痴漢被害を減らすことは眼中になく、もっぱら被害者女性に寄り添うフリをして、「被害者意識」を共有することによるマスターベーションの敢行こそが主目的であることは、もはや明らかです。
     パオロ師匠もまた、そうしたフェミに寄り添うフリをして、これからもマスターベーションに邁進なさるのでしょう。

  • 風流間唯人の女災対策的読書・第57回「性欲で痴漢しない男、性欲で冤罪を着せる女――Liar/ふのせいよくを、君に」

    2024-05-03 18:51
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     第五十七回目です。
     兵頭新児に完膚なきまでにデマを暴露されたパオロ・マッツァリーノが、またしても苦しい言い訳をしていました。
     それを笑うと共に、彼が「新たな証拠」として持ち出してきた書、『痴漢とはなにか』のデタラメぶりを、君に。

     最後に述べた、『WiLL Online』様の記事は以下を。

    フェミニズム関連の裁判から浮上する奇妙な共通点

     本動画の前編に当たる動画は以下を。

    風流間唯人の女災対策的読書・第55回「パオロ・マッツァリーノの不埒な研究報告 フェミ騎士最終解答」

    劇中で言及された過去動画は以下を。

    風流間唯人の女災対策的読書・第20回「ミソジニーとミサンドリー」

    風流間唯人の女災対策的読書・第18回「強制異性愛社会――フェミニストがポルノを憎む本当の理由(わけ)」

  • 十年目の『ぼくたちの女災社会』(その2)――『女災』は「これフェミ」を予言していた!(その2)

    2024-04-26 20:02
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     さて、ここしばらくフェミニズムが生み出す「冤罪」についての記事を再録してきました。一応、今回で最後の予定ですが、今回の記事は2019年11月22日、五年前に発表された記事です。嫌になりますね、『女災』刊行から今年で十五年目にもなってしまったわけです。
     さて、『女災』について、未読の方はkindleで買えますので、ご一読をお勧めしたいところなのですが、もし本当に買ってやろうとお思いの方は一ヶ月ほど様子見をされることをお勧めします。でも、一ヶ月もそのモチベが持たなそうな人は、今すぐ買ってください
     ちなみに、今回のテーマとなる「これフェミ」とは青識亜論師匠が石川優実師匠を招いて催した討論会(正式名称が何だったかは忘れました)。
     近年も青識師匠が石川師匠にリーガルハラスメントを受けているところを見ると、同上を禁じ得ませんが、ともあれ石川師匠という問題のある方の古傷、お楽しみいただければ幸いです。



         *     *     *

     今までも天才予言者であるワタクシ、兵頭新児が数々の予言を成就させてきたことは誰もが知るところですが、実のところ、「これフェミ」についても『女災』において「予言」がなされていたわけなのです。

    ●2019年11の月、青き眼鏡が降り立つであろう、フェミニズムを復活させるために

    「これフェミ」というのは、青識亜論(以降、青識)と石川優実師匠とのトークイベントです。青識は近年、表現の自由クラスタとしてアンチフェミ的発言を続けるネット論客。石川師匠はどうも近年、フェミニズムに目覚めたグラビアアイドルのような方らしいです。
     何にせよ青識側主導のイベントであるがため、聴衆などは彼の側の人間が多かったことが想像できる。しかし青識側は(彼の主張を信じるならば)かなり周到に、「吊し上げ」にならないよう、配慮をしていたようです。
     しかし、そうした配慮にもかかわらず、石川師匠はブログで当イベントを否定する「表現の自由クラスタによる吊し上げ」であったかのような発言を始めたのです。
     もっとも、ぼくも参加したわけではなく、ネット上で参加者(とされる人々)の書き込みなどから、事態を傍観している立場にすぎません。しかし青識は一応、当日の録音テープか何かを持っているらしいので、最終的にはそれを無編集で提出する、という手段が取れる(目下、何故かそれをしないことで青識への不信感も、高まりつつあるようですが……)。その上で言っていることなのだからそこそこ信頼できる、と考え、以降、論考を進めましょう。

     さて、上に信頼と書いたものの、そうは言ってもまず、当ブログの愛読者の方はおわかりのように、青識はとてもとても信頼できる人物ではありません。彼は「アンチフェミ」であるかのように振る舞っていますが、牟田和江師匠の悪辣かつ幼稚極まるフェミ本『実践するフェミニズム』を白饅頭と共に絶賛しており、フェミ批判はポーズであると考える他ない*1。何しろ、当イベントにおいても

    ・フェミニズムに悪いイメージが持たれているが「フェミのことは嫌いでもフェミニズムのことは嫌いにならないでください」


     などと宣っていたのですから*2、お察しです(恐らくですが、上の「フェミ」は「フェミニスト」を指すのだと思われます)。
     同様に、青識陣営に立ち彼を擁護しているのが多摩湖師匠やらろくでなし師匠やらといった、どうしようもない面々。ことに多摩湖師匠に「事実を事実として認識する能力」があるとはとても思えず*3、事態そのものが『ドラゴンボール』風に言うならば「とびっきりの最狂対最凶」の様相を呈しているわけです。
     しかし、ここでぼくが一番興味を持ったのは、まさに本件が石川師匠による「女災」そのものである点です。そう、「女災」とは「女性ジェンダーというものの加害性のため、男性が被る災害」です。そしてそれは端的には「被害者ぶること」。「女性はいついかなる場合も被害者である」との「ジェンダー規範」を「兵器利用」することです。そして、フェミニズムとは「女災」の肯定、女性は(今回の石川師匠のように)「歴史改変」→「冤罪」のコンボを決めることによって男性を殺す権利があるのだとの主張そのものなのです。
     石川師匠はイベントにおいて、

    ・この場があるのはありがたいこと。青識さんがしっかりハラスメント対策をしてくれた。


     などと宣っておりました(これは会場のヤジを、青識がたしなめた件です)*2
     また、ヒトシンカさんたちによると、師匠は以下のような発言もしていたようです*4


    「今までは怖いというのが一番にあって、でも話を聞かないといけないなと。もっと話を、また何か炎上したらこういう会ができたらいい」

    「怖かったし、怖いから来れないという人もいた。しかし来た事で、相手の考えがわかってよかった。次はその原因も聞けたらいいと思う。」

    「またなんか炎上したらやっても良いと思うが、配慮は必要。今回のようなルールを全員がやれば社会は変わるので、意識改革すべき」


     ところがこの石川師匠、後日、自身のブログでぐちぐちと文句を言い出したのです*5


    3つ目。途中から青識さんが私の考えを評価し始めた。
    「それは素晴らしい」「それは正解」などなど。その辺りから私の頭は
    「あれ?ところでこの人誰だっけ?」となっていた。なんで青識さんが判断できるんだろう。
    7つ目。青識さんは会場にむかって大きな声で感情をぶちまけ、会場の方たちから共感を得ていた。そしてとても気持ちよさそうに見えた。

    隣から見ていたが、青識さんが一番輝いていた場面だったと思う。でもすごく痛々しく見えた。私との討論会だったと思うのだが、青識さんは誰と何を話していたのだろう。


     ……正直何を言っているかわからないと思います。当記事を「ふわっとした、文章らしきもの」といった批評をしていた人がいたかと思いますが、ぼくも同じ感想を持ちます。
     まあ、青識に対し「エラそうだったから気に入らない」「私より評価されたから気に入らない」とおっしゃっているのだと思います。師匠は何やかやですっかり態度を硬化させてしまい、kutoo運動を先鋭化させる宣言までしちゃっています。
     いえ、実は当記事も、前半ではそれなりに首肯できることを言っている部分もなくはないのですが、後半に進むにつれ、「ポエム」度を増していきます。

    そんなに簡単に共感してもらえる部分ではあなたが羨ましいが、私は絶対あなたのようになりたくない。
    この会の最後にも私は言ったが、先に加害をした側が被害者ぶるな。 同じだと思うな。


     まあ、何か、女性の中でどう感情が醸成され、「女災」が形作られていくかの、これは格好の実況中継、テキストとなっています。
     以降も事態はくすぶり続け石川師匠(側の人物?)は青識(側の人物?)を痴漢呼ばわりし、また明らかな嘘を吐いたりもしているようなのですが、まあ、平常運転としか言いようがありません。
     ただ、平安和気辺りが本件を石川師匠側の完全勝利、何となれば彼女の方が圧倒的に知名度があるのだから、と言っていましたが、それは正直、あまり同意できません(石川師匠はBBCの「100人の女性」に選ばれた著名人だそうですが、そう有名とは思えませんよね)。
     青識だってそれなりに影響力のある人物なのだから、石川師匠という強者が青識という弱者を利用したというのは、それほど当たっていない。仮に、例えばですがフォロワー数などで石川師匠が青識を圧倒していようと、支持者の熱意という点では青識が上ではないか。だから、「これフェミ」にフェミの出席者はほとんどいなかったのだし、(石川師匠が自身のイベントで本件をダシにしようとしているようですが、同時に)青識もまさに本日、テレビ出演をすることになったのです。

    *1「実践するフェミニズム――【悲報】テラケイがラディカルフェミニストとお友だちだった件」及びそれに続く二つの記事をご覧ください。
    *2「【議事録+感想】これからのフェミニズムについて考える白熱討論会に行ってきた
    *3「献血ポスターの騒動で、フェミニストが遂に「宇崎ちゃん取りやめないなら献血拒否しよう!」と献血拒否を呼び掛け始める
    彼女は「フェミニストを名乗るのは止めた、止めた」と繰り返しておきながら近年、また「フェミニスト」を自称するようになってきたのですが、そこを指摘すると、「デマを流すな」と言われてしまいました! 本当に、息を吸って吐くようにウソを吐くのがフェミニストであり、青識はその仲間、なのです。
    *4 https://twitter.com/hitoshinka/status/1197301469109604352
    *5「11月16日、#これフェミ 私から見えた風景


    ●その前後の期間、フェミは平等の名の下に女災をもたらすであろう

     女性は受動性を宿命づけられた性であり、男性は能動性を宿命づけられた性です。そうした性質が先天的なものなのか後天的かは置くとして(後天的であるとしたジョン・マネーの実験が捏造であるとバレた、といったお話は今回は置くとして)、まず現実としてそのようになっています。
     即ち、両性共にある種、自分の意志を越えたところで被害者/加害者にさせられる宿命性があるわけです。仮にそのため(例えば、身体能力が男性に劣るせいで)女性が被害者の立場に置かれたら、その女性が不利益を被ることになります。
     フェミニズムとは、この状況を絶対視し、女性ジェンダーのメリットから全力で目を伏せることで成り立っているガクモンなのですが、もしその被害者性に理がなかったら(要は冤罪であったなら)ことは男性の側の、圧倒的な不利益です。
     さらに言えば、女性は(ことに性的な場で)男性を加害者に仕立て上げる強力な動機を持っています。
     ぼくは『女災』において、

     女性のセクシュアリティの本質は、男性を悪者にすることそのものなのです。
    (161p)


     と表現しました(強調原文ママ)。

     彼女らは自己愛を満たすために、男を悪者に仕立て上げます。恋愛や結婚における責の全てを男に求め、或いはまた自分が男から求められているのだ、という幻想を満たすために男を悪者に仕立て上げ、その結果、相手を殺します。
    (157p)
     少なくとも立場的に弱い男性を「ストーカー」、「セクハラ加害者」扱いしてのいじめ、いやがらせとなると、日常的に広範に行われていると考えざるを得ません。そしてそういった行為に女性故の優越感を感じることの快楽がいささかも伴っていないというのは、どうにも考えにくいことです。
     何となれば、先に書いたように「男性から求められること」そのものが女性のセクシュアリティであり、アイデンティティの根幹をなしているからです。故に、彼女らは自らの欲望をつまびらかにせず、覆い隠すことで「男性から求められ」ようとします。
    (160p)


     そして、性的な場でなくとも、何かと言えば自分を被害者の位置に置きたがる女性というのは、確かにいます。それはそうした「女災」がいかに自分に旨味を与えてくれるかを知ったが故の行動なのでしょう(そのプロになった女性を、我々はフェミニストと呼ぶのです)。
    「これフェミ」は性的な場ではなかったはずなのですが、石川師匠は青識が「エラそうだったこと」「ちやほやされていたこと」を「ひがんでいる」ようにしか見えない辺りは示唆的です。「私は注目を浴びようとモデルに、フェミニストになったのに」との不満が、石川師匠の本音ではなかったでしょうか。そしてその「注目を浴びる」こと自体が、女性にとっては非常に性的な意味あいを持っているのです。いえ、ぼくの目からは青識もまた、鼻の下を伸ばしてフェミをデートに誘ったようにしか、見えないのですが……。

    ●フェミの支配の2000年が過ぎた。2019年、同じものがその体制を保つだろう


     ただし、先に引用した*2においても青識がエラそうであった、パフォーマティブであったことをかなり否定的に書いている箇所があります。青識が相当に図に乗っていたことが窺い知れるわけですが、これも仮に男女の性的関係に準えて表現するならば、例えば「おkを取ったと思い、女とやったら後日レイプだと訴えられてしまった」、即ち「能動性を期待されているがための被害者性の発露」であったと言うことができましょう。
     性的な場において「男の誘い方がキモくなかったら、ヤれる」。しかし女の方も気が弱く、「何か、断りづらくその場ではおkしてしまったが、本音を言えばキモかった」といった状況があり得る。
     そうなると、「レイプだったこと」に、後づけでなってしまう可能性が大いにある
     本件でも、石川師匠の後出しじゃんけんに対して「何故、イベント当日のその場で言わなかったのだ」という反論がありました。しかしまあ、「お気持ち」としては「何か、言いづらかった」のはわかる。ただ、となれば石川師匠も、後出しで本音を言うことは悪くないが、同時にその時に言い出せなかった自分を省みることも必要であったでしょう。
     ところが、「女災の体系」である「フェミニズム」はそうした「反省の心」を彼女から奪ってしまったのです。
     さて、しかしです。
     果たして青識はそんな、石川師匠に怒る権利を持っておいでなのでしょうか。
     ここで先にも書いた(*1で詳しくレビューした)、青識ご推薦の書、『実践するフェミニズム』を開いてみましょう。同書の16pには「両者の合意があればセクハラにならない」としながらも、「しかし相手がエラければ断れないじゃないか(大意)」と主張する箇所があります。また、マッキノン師匠の「女性は沈黙をもって拒絶の意を示す傾向にある」との説を引用し、「見かけは喜んでいるように見せて巧みに男性の面子を立ててや」るのだとも言います(18p。強調ママ)。
     こんなものを手放しで大絶賛していた青識に、果たして後出しじゃんけんを責める資格があるのでしょうか。
     牟田師匠はまた、「女はNOと口にしないことを規範とされてきた(大意)」と称します(121p)。何しろ、そもそも「女言葉には最初からNOを意味する言葉が用意されていない(大意)」のだそうです。また師匠は女言葉というのは近代社会において生まれてきたものだと言っており、これは恐らく近代における男性支配社会が女の抑圧を始めたのだ、との史観によるものなのでしょう(もちろん、中世にはレイプはなかったのでしょうね)。
     また『部長、その恋愛はセクハラです!』においては(何という象徴的なタイトルでしょう!)

    女性の気持ちとしては、本当に「セクハラかどうかわからない」のです。
    (p60)


     などとすら言っているのです(むろん、しかし、後づけでセクハラだと感じたら、男は逮捕されるべきなのです!)*5
     逆にいえば、このようなロジックを導入することでしか、ドゥオーキンの「全てのセックスはレイプである」との論法を維持することは、難しい。しかしながら、そんな狂った本を、青識は称揚しているのです。
     全ては、自業自得でした
     彼はフェミニズムへと妄愛を捧げ続け、しかしそのフェミニズムの本質については、けし粒ほども理解が及んでいなかったのです。
     そしていまだ淫夢から覚めない青識は、石川師匠を擁護し、「だから、今一度、みなさん、人格攻撃をやめて、寛容の精神に立ち返りましょう。」、「どうか。このような対話の場を何段にも重ねていきましょう。」などと言っています*6
     フェミニストの延命だけを使命としてこの地上に派遣されてきた青識にしてみればそれでいいのでしょうが、オタクを、男性をこれ以上巻き添えにするのは止めていただきたいところです。

    *5「部長、その恋愛はセクハラです!(接触編)
    *6「討論会後記:それでもなお、寛容と対話を(青識亜論)
    何しろ「フェミニズムに帰依せよ」と言っているだけの内容で、「ふわっとしたポエム」というのなら、こちらも相当なものです。

    *補遺
    上にぼくは当初、牟田師匠の主張を「女はNOと口にすることを規範とされてきた」というものである、と書いていました。が、当たり前ですがこれは誤記で、師匠の主張は「口にしないことを規範とされてきた」というものなので、訂正しておきました。

    ●フェミがリーク情報を受け取るであろう時に、私の予言は成就し、終わる。

    ※さて、ここから最後の節なのですが、これ以降はnoteで課金の上、お楽しみください。まあ、概ねの主張はここで終わっていますが……。