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兵頭新児さん のコメント

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兵頭新児
>>3

どうも。
『マミ』、『エミ』をイメージして書いていました(他二作はどちらにせよ、そうした感じじゃなかったので)。
舞は自主的に返していましたよね。優はどうでしたっけ?
No.6
140ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
  「もう、サリーちゃんもララベルも、そんなことに魔法を使わなかったでしょ!?」  ……でしたっけか?  いえ、もう二十五年ほどの昔、アニメ雑誌『アニメック』の投書コーナーに載っていた一文を、 うろ覚えで引用して みたりしました。  それにしてもさすがに『まど☆マギ』です。  前回はものすごい食いつきぶりに結構驚きました。  何しろ一時期、ブログランキングのベスト10入りも果たしたくらいです。  いや、その人気ぶりの割に、何故か運営側からは無視を決め込まれていましたが。  とは言え味を占めたので、『まど☆マギ』でもうひとネタやらせていただこうかと。  さて、上に引用したのは当時放映を開始したばかりの魔法少女アニメ『魔法の天使クリィミーマミ』についての、かなり酷烈な批判であったと記憶します。  確かに、そうなのです。 「魔法少女」の歴史は、横山光輝の『魔法使いサニー』を原作とする『サリー』を、東映が制作したことに始まりました。『サリー』に端を発する60年代から70年代の魔法少女たちは、ウルトラマンや仮面ライダー、マジンガーZが悪者相手に戦っていたように、基本は人助けのために魔法を使っていました。  しかし一時期その伝統は途絶え、80年代に当時、新興勢力であったアニメ会社、スタジオぴえろが制作したのが『マミ』でした。ところがマミは魔法の力で変身して何をするかと言えば、アイドル歌手になって歌うだけ。恐らく今、じっくり見返してみればそれなりに人助けをする話などもあるんだろうなとも思うのですが、いずれにせよ魔法をあまり深く考えずに私物化していたことは事実で、上の投書の人物はそうしたことに憤っていたわけです。  こうした魔法を私物化するようなエゴイズムを、当時のオタクたちは 「マミる」と表現して批判していました。 ウソです。上の投書の人物が例外的なだけであって、『マミ』は快哉をもって迎えられていました。  しかしそうした風潮は、志が低くてケシカラン。  藤子・F・不二雄の名作、『エスパー魔美』において、高畑さんが魔美に言った「大きな力を持つものは大きな責任をも背負うのだ」との言葉を思い起こします。魔美のように人々のために自らの力を使う清廉さを、当時のオタクたちは 「マミる」と表現して賞賛していました。 ウソです。『魔美』はアニメ版では最初は頑張ってたけど、だんだん何だか普通の学園ものみたくなっていきました。  とは言え、80年代は男の子たちもそうそう迷いなく正義を遂行することは、できにくくなっていた時期です。『ガンダム』を筆頭とするそうした「勧善懲悪」を超えた世界観、ストーリー性をもったロボットアニメは(従来の正義や熱血といった価値観に貫かれていた「スーパー系」の作品と対比して)「リアル系」と呼ばれます。  つまり、ぴえろの魔法少女たちは、東映の魔法少女をスーパー系とするならば、言わばリアル系魔法少女と言えるわけです。  ただ、とは言え、魔法の私物化という志の低さ自体は否定できないような気がしますし、故に彼女らが最終回、「与えられた魔法を返し、自分の力でやってみる」という「答え」を見出してきたことは象徴的だとも言えます。その意味でぴえろ魔法少女は「魔法」が自らと向きあうツールとしてのみ機能している、言わば「セカイ系」を先取りした作品群であった、とも言えるでしょうか。  ちょっと経緯をまとめましょう。  60~70年代は東映魔法少女もマジンガーZや仮面ライダーと同じく、「スーパー系」でした。そこでは魔法の力や正義の力がキャラクターたちの内面と齟齬を生じさせることは、なかったのです(むろん、『ウルトラセブン』における「ノンマルトの使者」のような例外はいくらもありますが)。  80年代、男の子たちはリアル系の世界に突入し、「何故ガンダムに乗るのか」について悩み出しました。自らの力と内面とに齟齬が生じだしたのです。もっとも、女の子にはそこまでの悩みはありませんでした。彼女らがセカイ系という環境に身を置けたのは、やはり少女というのが「社会に組み込まれない」存在であったがためでしょう。  90年代、『エヴァ』が言わば魔法少女に遅れる形でセカイ系というジャンルに参入してきます。それは言ってみれば「ひきこもり」のようなもので、社会に出ても何もいいことがないとわかってしまった男の子たちが、女の子のマネをし出した、ということでもありました。  上の投書の人物が『エヴァ』を見たら、「シンジはエヴァの力を正義のために使おうとしないから許せん」と言うかも知れませんね。  さて、ところが、です。 「戦うことの意義を問う」というテーマに真正面から取り組んだ作品として、『まど☆マギ』はぼくたちの前に姿を現しました。  いえ、上に挙げた魔法少女たちと異なり、まどかたちは明確に「戦闘」する、『セーラームーン』や『プリキュア』の直系と呼べる作品です。本来ならこれら二作品についても言及するのがスジなのでしょうが、『セラムン』はある種「正義のスーパーヒーロー」物のパロディという側面が色濃く、また『プリキュア』はむしろ「東映魔法少女」の正当後継者たる「スーパー系」の存在と言うことで、ひとまずここでは置きます。  ぼくが指摘したいのは、『まど☆マギ』は『エヴァ』的なセカイ系っぽさを持っていながら――いや、『エヴァ』後半の鬱展開が半ばアクシデントのようなものだったのに対し、本作では緻密な計算の上で近いことがなされたわけだから、本作のスタッフたちは 庵野以上に悪質とも、庵野より天才とも言えますが ――あくまで悩み傷つきながらも「魔女を倒す」という正義に葛藤し続ける、言わば少女物初の「リアル系作品」である、と言いたいのです。  では何故、2011年にこのような作品が誕生し得たのか。  80年代の魔法少女の「セカイ系」ぶりを、ぼくは少女というのが「社会に組み込まれない」存在であったがためだ、と書きました。  しかし(まさに80年代であったならともかく)現代の日本において、少女たちもやがては成長し、社会に出て働かなければならない存在となりました。別に専業主婦に収まってもよさそうなものですが、何故だか今の世の中では社会で働くことが絶対の正義であり、それに疑問を持つことは許されなくなったのです。 『まど☆マギ』の世界においてもそれは同様です。  まどかのお母さんは「バリキャリ」であり(劇中で実際にそう呼ばれる)充実した毎日を送っているようですが、旦那が主夫で女ながら一家の大黒柱――という設定は、言ってはナンですが、「魔法少女」という設定以上に非現実的です。勘違いしないでいただきたいのですが、ぼくの言っていることは「日本はホモソーシャルで女性差別なので女性の管理職は少ない」といったことでは ありません 。「主夫を養って稼ぎ頭になる」という意志を持った女性など皆無に等しい、と言っているのです。  まどかの担任の早乙女先生はいつもいつも男性にふられ、そのグチを生徒に零している存在です。彼女もまた、「戦いの意義」に葛藤する「魔法少女」であり、また人を呪わずにおれない「魔女」なのかも知れません。  キュゥべえをブラック企業のスカウトマンに準える批評はネット上では普通に見られますが、だとしたら彼は「少女の魔女化」という目的のために、きっとこの数十年をかけてマジンガーを倒し、ガンダムを倒し、エヴァを引き籠もらせ、その一方ではセーラームーンやプリキュアたちの姿を見せることで戦いの凄惨さを隠蔽し、少女をムリからに戦いの場に呼び寄せる罠を張り続けてきたのです。  男の子たちですら価値を見出せなくなった戦いの場へと、女の子たちを駆り立てようと、し続けたのです。  となると、彼らインキュベーターたちの真の目的は、真の正体は、 一体何だったのでしょうか……?  とは言え、重要なのはまどかが最後まで「正義」について悩み続けた点です。  クリィミーマミのように魔法を私物化することもなく、エヴァのように戦いを放棄して引き籠もってしまうこともなく、悩み続け、そして答えを出した点です。  岡田斗司夫さんは最近のニコ生で本作を「ほむらをまどかだけを守ろうとするキャラとして設定することで視聴者をミスリードし、そこへまどかの出した答えで一挙に視点をパラダイムシフトさせ、そうして感動させる構造になっている」といった主旨の分析をしていました(「 【岡田斗司夫のブロマガ号外】「まどか☆マギカ劇場版」を金払って観たから言いたいこと言うよ!」 記憶だけで書いているので、細部は違うかも知れませんが……)。  言わば袋小路に陥り、「私とまどかだけのセカイ系の世界」から出られなくなってしまったほむらちゃんを、まどかちゃんは最終回、もっと大きな心で救い、そうしてこう言ったのです。 「正義も、世界も、あるんだよ」と――。  ――はい、以上、『まど☆マギ』評でした。  前回の記事読んでムカついた方は、以下は読まない方がいーですよ。  さて、言ってみれば『まど☆マギ』って「正義の復権だよね」というのが上のお話でした。それは「個人のエゴばかり通さずみんなのことも考えよーぜ」とも、言い換えられるかと思います。  しかし、例の劇場版の騒動において、エゴイスティックなリベラリズムを振りかざすリベラリストの影が、見え隠れしました。  前回の記事で書いたことについて、ぼくの意見は全く変わっていません。 『まどか☆マギカ』は一時期、「OP詐欺」などと呼ばれていました。  何しろOPではほのぼのアニメを連想させる可愛らしい絵が続きますし、本編もそれこそ3話で「マミる」直前まで、視聴者を騙し続けます。  これについては詳細な評論がいくらでも既になされていることでしょうが、3話までの本作においてはキャラクターたちが「キャラ立ち」「萌え」「私の嫁」といった「オタク用語」を連発します。恐らく「凡庸な、萌えアニメ」としての体裁を意図的にまとわせたのではないでしょうか。  また、マミの戦闘シーンはまさにプリキュア的な快感に満ちたものであり、BGM、演出などからして明らかに視聴者を「騙しに」来ています(これはちょっと自信がないけれども、戦いの時に呪文というかかけ声があるのってマミさんだけじゃないかなあ?)。  みんな騙されてただけじゃない!!  騙すという行為自体、ぼくたちには理解できない。認識の相違から生じた判断ミスを後悔する時、何故か人間は他者を憎悪するんだよね。  あなたの言ってること、ついていけない……。  いえ、作品として視聴者を「騙す」こと自体は別に悪いことではありません。  これら「詐欺」は「大きなお友だち」には快い裏切りであり、これら要素が本作を名作にしたことは疑い得ません。  が、子供に見せていいか、となるとやはり話は別でしょう。  実のところぼくも放映当時、いきなり 下調べをせずに 7話、8話辺りを見たのですが、やはりちょっと悪趣味だなあと感じ、視聴をストップしてしまったという経緯があります。  いや、しかし今回ぼくが言いたいのは、ぼくたちが今、現実の世界でもキュゥべえに騙されつつあるのではないか、ということです。  最後にちょっと、最近見聞した「本件と極めて近い事例」について書いておきましょう。  詳しくは「 うぐいすリボン 堺市立図書館BL小説廃棄要求事件を振り返る 」をごらんになってください。  経緯について掻い摘んで説明しますと、市立図書館がBL小説を大量に所蔵し、小学生にでも借りられるような状況になっていたため、廃棄しようとしたところをフェミニストが「ゲイへの差別だ」と抗議をしたという事件です(以前、旧ブログ「 兵頭新児の女災対策的読書 今さら堺市立図書館BL本問題 」でも採り上げたことがあります)。  BLなんて子供に読ませるものではないですし、また市立図書館に置くようなものでもありません。それにゲイ差別、表現の自由の侵害、と言い立てて噛みつく神経がまずわからないのですが、上に挙げたブログでは上野千鶴子師匠の発言を挙げ、 「イマジネーションを規制してはならない」 「フェミニズムは敵ではありません」 と、ジェンダーの話題を怖がるオタクたちへのメッセージを、印象的な言葉で、明快に語ってくださいました  などと書かれています。  いや、オタクが怖がっているのはフェミニストたちの欺瞞の方だと思いますけれど。  そもそも「ミソジニー」などといった言葉でイマジネーションの規制を執拗に続けているのはフェミニストの方でしょう。  また、昨今、フェミニストたちは左派の運動と連携を取るためか、「表現の自由」を掲げ、「ポルノ容認派」を自称するようになってきました。  しかしそんな彼女ら、例えば上に名の挙がっている上野師匠も著作を見てみればポルノを平然と 否定している んですね。  結局、フェミニストの発言など一切信頼はおけない、ということです。 (これらについては長くなるので、次回にでも詳述しましょう) 「子供向けとも言えないアニメを劇場公開するのだから、注意書きを張り出した方がいいのでは」との意見に、表現の自由を重んじるリベラリストたちは「 下調べをしてこい 」というよくわからない責務を強いました。  そしてまた、「ゲイへの差別はならん」と主張するフェミニストたちは、それを際限なく拡大させ、「ホモフォビアはまかりならん」と、人の感情への侵犯を平然と行います。  そうした人たちに欠けているのは、「A君とB君の権利は、常にバッティングし得る」という当たり前のことに対する認識です。  誰かの自由を祈った分、他の誰かの自由を阻まずにはいられない。  私たちリベラリストってそういう仕組みだったんだね。  私って……ホント、バカ……。
兵頭新児の女災対策的随想
「女災」とは「女性災害」の略。

男性と女性のジェンダーバイアスを原因とする、男性が女性から被る諸々の被害をこう表現します。



このブログでは女性災害に対する防災対策的論評を行っていきたいと思います。