皆さん、こんばんは。早いもので始まったばかりと思っていた2013年も残すところ後、僅か361日のみとなりました。年越しの用意はお済みでしょうか?(以下略)
さて去年のクリスマス前、このニコブロの中でトップクラスの人気を誇る海燕さんが、上のようなコラムをアップなさいました(http://ch.nicovideo.jp/article/ar23559)。
有料だったのでしばらくスルーしていたのですが、どうしても気になって先日読んでみました。そこで展開されていたのは
非モテとか非リアのルサンチマン語りという芸風そのものが何とも古くさいものに思える。
というのも、いまの時代、リア充だけが楽しい人生を送っていて、非モテなり非リアはつまらない人生を送っているのかというと、決してそんなことはいえないと思うんですよ。
たとえば20年前、30年前と比べても、日本の「幸福のかたち」は多様化していて、ひとつの「幸福のかたち」を手に入れられなければそれで不幸になるかというと、決してそんなことはない。そもそも不幸じゃないのに不幸なふりしてどうするんだと思うわけです。
結局のところ、恋人なり伴侶がいるひとだけを「リア充」と呼び、それだけがしあわせな生き方であると考えることはいまの時代に合っていないのではないか。ぼくはそう思います。
といった論旨でした。
彼の「非モテとか非リアのルサンチマン語りという芸風そのものが何とも古くさいものに思える。」という指摘には、一応、頷けるものを感じます。
しかしそれは――皆さんお気づきかと思いますが――要するに不況のおかげでみんな貧乏になったから、ということでしかありません。なるほど、「リア充」を「DQN」と読み換えれば、いかにもビンボーくさい、あんまり幸福でなさそうなイメージが喚起されます。
そうなると彼の主張は「みんなどーせビンボーで不幸なんだからいいじゃん」とも解釈でき、だとするならばそれはいささか無神経です。
そもそもぼくたちは「そもそも不幸じゃないのに不幸なふり」をしているのでしょうか?
彼の目から見てどう考えてもそう想像せざるを得ない何かがあって、そのように裁定しているのでしょうか?
読む限りそれはそうではなく、「価値観が多様で“なければならない”から不幸を感じては“ならない”」という論理(否、イデオロギー)が先行しており、そんなリクツでこっちに「感じ方」を押しつけられてもなー、何とかジニーじゃあるまいし、と思ってしまいます。
仮に上の「みんな貧乏になったから」論を受け容れたとしても、DQNと非モテ、彼女がいるだけ前者がマシということにしかならないのではないでしょうか。「あのDQNどもの連れて歩いている女とつきあうくらいなら一生童貞でいい」と思うのも一面の真理ではあるけれども、一方、「でも彼女が欲しいよな」と思うのも事実であり、そもそもそうでない限り、萌え産業がここまで発展するわけがないのです。
実のところこうした物言いは、オタクを鼓舞するためのものであれば有効であると思います。
「障害者の抱える障害は決して“障害”ではない、“個性”だ」などという言い方、欺瞞以外の何ものでもありませんが、障害者自身が自らを鼓舞する意味では「有効」だと思います。
彼は「好きなもの(趣味)を持っているオタクこそ真のリア充だ」とも言っていて、そもまた、そうした文脈から見ればわからないものではありません。
そう、それはまさしく本田透さんが『電波男』において「オタクは現実に勝った!!」と勝利宣言したように。
――だがちょっと待って欲しい。それなら海燕さんも同じことを言っているんだから、それでいいはずではないのか?
――海燕さん自身もオタなのだから、仲間同士で自らを鼓舞しているのではないか?
まあ、そうとも取れるのですが、不思議なのは上の文章を読んでも、海燕さんが本田透さんがお好きだとは、あまり思えない点です。
そもそも、この文章はよりにもよってこれがクリスマスに向けて書かれたものです。そこにはやはり、少なからぬ意味があると考えざるを得ません。
本田さんは当初、『電波男』を「オタクが何をしたってんだよ~、チクショ~」といった調子の泣き言本として出そうとしていた。それが酒井順子師匠の『負け犬の遠吠え』など、女性ライターのオタクを見下したスタンスにムカつき、論調を転換した、といった経緯があったはず。
やはりそれは一種の「鼓舞」に他ならない。
しかしそもそも「鼓舞」するということは、その裏にはやはり、ルサンチマンが深く深く潜んでいるはずです。
それは本田さん自身が同書の中で「アニメの美少女は部屋の掃除をしてくれない」と嘆いている点からも、KEYといった「家族」をテーマに据えたゲームを発表するメーカーを盛んにリスペクトしている点からも伺えます。
好きな人がモニタから出て来てくれない限り、基本的にぼくたちは充足できない存在なのです(とは言え、ならば美少女アンドロイドが生まれればぼくたちは満たされるんでしょうか? 造形のみならず行動パターンなどあらゆる点において「不気味の谷」が立ちはだかっている気がしてなりません)。
クリスマスに戻りましょう。
ぼくは海燕さんのコラムを読んで、二人の人物について思い出しました。
一人はSF作家の星新一、もう一人はタレントの伊集院光です。
星新一に関してはクールでニヒリスティックな筆致のSF作家、というのが多くの人のイメージかと思います。てか、それで正しいんですが。ですが、その才能は彼が世に出た高度経済成長期の宇宙開発ブームの頃より、それが一段落した後のことさらSF色のない作品でこそ十全に発揮されたのではないか、というのがぼくの個人的な感想です(などと、通ぶったことを言ってみる)。
が、それよりも更に星新一の鋭い視点を味あわせてくれるのが、彼が書いたエッセイです(と、更に通ぶる)。これもまたショートショートに負けず劣らず皮肉の効いた文明批評が展開され、極めて味わい深い……えぇ~い、面倒だ。
ぼくが言いたいのは、そんな彼が珍しくセンチメンタリズムに満ちたエッセイを書いていたことがあった、タイトルなどは忘れたが、感じとしては「さよなら、クリスマス」とでもいったものであった、というようなことです。
クリスマスとは、彼の世代にとっては敗戦後の圧倒的なアメリカ文化の豊かさの象徴でした。しかし、エッセイが書かれたのがいつかは判然とはしませんが、察するに高度経済成長に翳りの見られた70年代後半頃のことでしょうか、この辺りになるとそうした「物質的豊かさ=人類の幸福」といった図式が揺らぎ出してしまったわけです。
星さんはいつものクールさもどこへやら、「クリスマスさん、君もとうとう役目を終え、おわコン化してしまったんだね、今までありがとう、さようなら」みたいな感傷的な文章を書いていたのです。
さて、とは言え、ぼくがそのエッセイを最初に読んだ時の感想は、( ゚д゚)ポカーンというものでした。
無理もありません。
ぼく自身が幼かったこともあるし、読んだのは確かバブルの頃だったはず。
この頃はこの頃で、男の子が女の子とのイブを過ごすために一等地の何かすんげー高いホテルを予約してどうたらこうたら……みたいなことがメディアでさも当然のごとく語られていた時代です。
そう、この当時、というか80年代全般はその躁病的恋愛資本主義社会の象徴としてのクリスマスが、言わば恋愛の神として君臨していた時代でした。
さて、実は去年のクリスマスイブにも実は、極めて象徴的なことが起こっていました。
クリスマスイブの夜は月曜日。
そう、月曜の夜と言えば?
伊集院光がラジオをやる日ですよね。
ところがこの日のトークで伊集院さんは「ここ数年、クリスマスって俺たち非モテがやっかんでいた、リア充がよろしくやる日ではなくなってきているよなあ」といった主旨のことを言っていたのです。
伊集院さんと言えばまさにバブルの絶頂期、周囲の若い連中が躁病的に女の子たちと浮かれている中に青春時代を送った、深い深いルサンチマンの主です。
その彼のクリスマスおわコン宣言は、星新一とはまた違った意味で象徴的です。
海燕さんのコラムが伊集院さんの感想と近しい心理に端を発するものであることは既に書きましたが、一方で星さんのエッセイでもわかるように、戦後のクリスマスはアメリカの圧倒的な豊かさの象徴でした。そしてまた日本に輸入されてきたファミリードラマにも同じことが言え、そこでは豊かさを享受する「幸福な家族」の姿が繰り返し描かれていたのです。
そうした登り調子の時代では当然、子供が未来の担い手として尊ばれます。クリスマスは豊かになりつつあった高度経済成長期の日本で、子供が高価なオモチャを買ってもらえる日でもありました。『勇者ライディーン』では高価なオモチャであるジャンボマシンダーが売られる時、CMで愛川欽也を起用して「アカガマキンニコ」と唱えさせました。「赤ちょうちんを我慢すれば(オモチャを買えるから)息子のキン坊がニコニコだぞ」とのお父さんに向けたCMです。
星さんと伊集院さん、二人のクリスマスおわコン宣言はそれぞれ「家庭」、「恋愛」による大量消費というビジネスモデルの終了のお知らせであり、それは最早、景気がよくなることを期待できなさそうなこれからの日本にとって、不可避なことなのかも知れません。
が、だからと言ってそれを幸福と感じるか不幸と感じるかは、また別な問題です。
「家庭」、「恋愛」。
いずれもオタクが手に入れることが叶わず、それ故に拘泥し続けてきたものであることは、もう本田さんの著作を引いて説明するまでもないでしょう。
それを「必要ないのだ、それ故オタクは不幸ではないのだ」と主張しても、首肯する人はほとんどいないのではないでしょうか。
何となれば「萌え文化」というものはオタクによる、上の星さんに負けないほどに哀切を極めた表情で「家庭」、「結婚」のおわコン化を惜しむ歌なのですから。
コメント
コメントを書く>>兵藤さん
立場まで添えての返答ありがとうございます。私の意見は午前中にはあったんですが、驚いたことに先ほど消えました。
表記に関しての「押しつけ」の背景は、私が『障がい』と表記されてる本を数冊読んでいたことに起因します。身内に特殊学級を担当しているものがおり、手に取る機会が多かったもので。
『『障がい』と表記するだけでいらないトラブルを防ぐことができるし、メリットしかないよね!』と本気で信じて「提案」をしてみたつもりだったのですが、私の周囲の方が世間一般の認識と少し離れたところにあったようです。調べてみたら『差別を助長する』と捉える方も多くいらっしゃるようですね。
なかなかいい機会でした。離脱します。
>私の意見は午前中にはあったんですが、驚いたことに先ほど消えました。
え!? 書き込みが消えたってことですか?
確かに別の記事でもあったはずの記事が消えてるんですよね。何があったのか……。
「障害」→「障碍」の読み替えは理屈としてはわかるんですが、この種の読み替えって基本的に嫌いなんですよね。
例えば「ホモと呼ぶな、ゲイと呼べ!」といった論調がありますが、実際に同性愛者たちも普通に「ホモ」と自称してたりしますし、そもそも世代的に上の人で「ゲイ」より「ホモ」という表現になじんでいる人が多いことは容易に想像できます。
そう考えるとそれって同性愛者の中の一部の人たちが言い出したことでは……と思えてきます。
別に普通に「定着」しちゃえば何の問題もないけど、あんまり強くいうのもなー、と。
と、そんなところで。
また気が向いたら遊びに来てください。
頭の悪い記事。
相手にしない方が良いですな。
本文までは読んだ(キリッ
なのでコメント欄にもう似たような意見は書いてあるかもしれませんが。
んんむ、ほぼ記事に全面的に賛同はするのですが、
オタクの男性が、なぜ絵に描いた女性に恋慕している(というか欲情している)かというと、
「寂しかったから」などというロマンチックな理由があるようには見えなくて、
単に「性的なシンボルがこれでもかというくらい詰め込まれた挙句コンクリートミキサーにかけてぶちまけられている」
から、
だけという気がします。超正常刺激の項が参考になるかも(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%85%E6%AD%A3%E5%B8%B8%E5%88%BA%E6%BF%80)
なので大半の男にとって二次元と三次元は「別腹」だと思います。
Keyの作品もよく知っておられるようなのでこの人知っておられると思いますが、
深夜プラスONEの毒虫氏もエッセイのどこかで「二次元と三次元の女のかわいさは違う」というようなことを
言われておりました(http://members.jcom.home.ne.jp/fallon/essay.htmのどっか)。
それよりも「男はさみしい」という考え方に違和感を感じます。
男って本当に女性が感じるような孤独をクリスマスに感じているのでしょうか。
私には男というのは孤独をものともしないで、むしろクリスマスに無性に悔しくなるのは
「結婚し跡継ぎを残すための準備のお付き合いを果たす、という成人男性の義務も果たさずぶらぶらしている」
という不名誉に対するルサンチマンのせいだと思えるのですが。要するに名誉欲が満たされないせいかと。
恋愛と結婚に対する欲望は男性の方が薄いと思います。
性交に対する欲望は男性の方がはるかに強いけど。
乱文失礼しました。とにかく恋愛ルサンチマンに関する言論というのは小谷野先生とかもそうなんですが
(私も文系でしかも文献を読み込んできたわけではないので偉そうには言えないのですが)、
なんというか進化心理学とかの知見をもっと取り入れるべきではないかと思いましたので失礼させていただきました。
私の意見も「日々平安録」さん(http://d.hatena.ne.jp/jmiyaza/20121223/1356191197あたりが参考になるかも)の受け売りですけどね。
連投してすいません。
何が言いたかったかというと、我々は男のルサンチマンの理由を推測する際無意識に
「男女は同じ欲望を持っているはずなので、男が女に見られる欲求を持っているはずだし、女も男に見られる性的快楽を持っているはずだ」という思い込みを持っているのではないでしょうか。
昔、性行為にとても肯定的な、オープンな(はずの)女性の知り合いが、私が別に性行為などかのプラスチック製のチクワ型の恋人相手でもいいではないかと(まあその時はリア充さんたちに対する僻み半分で)言ったところ、
彼女は「でも温もりがないと、うーん」と言っていたのが印象的でした。
「温もり」とは!いやはや。我等男は「不気味の谷」に鎮座まします蛋白質の人形をこそ愛すのであって、
そこだけはフェミニストたちの非難するように、女性の人間臭い人間など必要としていないのではないでしょうか?
本題からずいぶんずれましたけれども。
はじめまして。
基本的には、ぼくと近しいお考えだと思うので、差違にこだわってみますが、
>オタクの男性が、なぜ絵に描いた女性に恋慕している(というか欲情している)かというと、
> 「寂しかったから」などというロマンチックな理由があるようには見えなくて、
> 単に「性的なシンボルがこれでもかというくらい詰め込まれた挙句コンクリートミキサーにかけてぶちまけられている」
> から、
> だけという気がします。
この基本的な考えが正しいとするなら、「萌え」という言葉の表す疑似恋愛的な感覚が、説明できないように思います。
「萌え」の元祖が何か、となると簡単には言えませんが、三十年ほど前の「ロリコン漫画」が恋愛を描くようになり、それがエロゲ、ラノベなどに反映されて今がある、というのがぼくの感覚です。
もし男性たちが恋愛的な要素を求めていないのであれば、エロ漫画が(例えば、当時で言えば陽気卑などの)ストーリー性を生み出しはしなかったでしょうし、それはkeyのゲームや今のラノベにしても、しかりです。
一般論的に「女性は恋愛や結婚に生命を賭ける」ということも「女は現実的」ということもよく言われ、ぼくたちはどちらが正しいのか、迷ってしまいますが、要は「恋愛や結婚に生命を賭けるからこそ現実的になる」わけで、おっしゃるように「恋愛と結婚に対する欲望は男性の方が薄い」と思いますが、だからこそ精神的なものを求める、ということもあるのではないでしょうか。
(女性の結婚願望とかはもうちょっと生々しい部分が大きいでしょう、あんまりうまく言葉にはできませんが)
>>185
>差違にこだわってみますが
思想信条の類は細やかな違いで無限にセクト化しますよねwwww
>この基本的な考えが正しいとするなら、「萌え」という言葉の表す疑似恋愛的な感覚が、説明できないように思います。
まいったな、もしかすると私は基本的な点を見逃していたかもしれない。
マァ私の信条を述べさせていただくならば(そちらの方が自然に説明できそうだし私は「不利」なんですけど(勝負事をしてるつもりはないですが))、ラノベエロゲに限っては、「支配欲」というのも男性は非常に強くて、それを満たしているんではないかと考えております。素人進化心理学を弄させて貰うならばそれは「配偶者が他の男の子を孕まぬように」進化してきた欲求に見えます。ツンデレなんかは支配欲を満たすためのテンプレの典型に見えるのですがどうでしょうか。
陽気卑ですかwww読みましたねwww中高時代に。ときめきましたよ。
ただその当時の読書傾向とか思い出すと自分すごく俗物ぽくってですね(ヨコハマ買い出し紀行とか)、単に自分は「ふたりエッチ」読んで興奮してる輩とは違うと思いたかっただけの気もします。俗物根性が男性向け性産業にも色濃く影を落としている気がしてならない。
まあ他のアレな漫画の絵柄が油っぽすぎるだけだったからというのもありますが(余談ですが萌え絵師に少なからぬ女性がいるのも男性の書くお色気絵が油っぽすぎるというのと何か関係がある気がします。)
もちろん男だけが汚いなんてナイーブなリベラル根性を見せつけるつもりは毛頭ありませんよ!
>女性の結婚願望とかはもうちょっと生々しい部分が大きいでしょう
という意見にはとても賛同しております。女の心も十全に汚い。
もちろんそうお返事を頂くと男性の心にも女性的ロマンチズムが少なからず存在しているというのは十分うなずける話ではあります。
>ラノベエロゲに限っては、「支配欲」というのも男性は非常に強くて、それを満たしているんではないかと考えております。
これは半分くらいはその通りだと思います。
例としてツンデレを挙げていらっしゃいますね。これは想像するに「高飛車かと思いきや」という変化球故に例を出されたのだと思いますが、例えばメイドさん、妹といった流行を見ていれば、そこは更に明確になってきます。
(事実、メイドブームに対してフェミニストがあまり何も言わないのが不思議でなりません、一つに彼女らが力をなくしていること、そして一つにはオタクを味方にしたいと考えていることが理由だと思いますが)
が、その「支配欲」という言葉の響きがくせ者で、いわゆる普通の恋愛も基本的には男性が女性をリードしてやるのが普通でしょう。そうした恋愛上のロールプレイで「女性のエスコート」を楽しむのも、支配欲と言えば支配欲です。事実、フェミニストは非常に盛んにそのような言い方をします。
つまり、恋愛を含むあらゆる人間関係に、支配欲はそもそも内在しているわけです。
ただ、「支配欲」という言葉の持つイメージに引きずられ、殺伐としたものを連想してしまいがちになる、ということではないでしょうか。
>>187
フェミニストの人たちにいちゃもんを付けられやすい自虐的表現という点では自分も良い表現とは思っておりません。
露悪にすぎるというのも分かっとります。
ただ、自分の経験を言うなら高校時代どんなに二次元の女を愛そうとしても愛せなかったので。
一方通行の求愛に疲れたから、と言われるかもしれませんが。
何かホント「束の間の関係」だった、ので以降ストーリーの消費は止めてしまった。pixivとかの絵だけ。
大人になるに従い自分がカラッポなのに気づいてストーリーの消費を止めてしまう人って
案外(今の時代特に)多いんじゃないでしょうか?
そのカラッポさはもしかしたら一部の人間の問題ではなく男の男らしさそのものではないか、と勝手に思ったので上のように長々コメントを書かせてもらったんです。
何言ってるかわからん。すいません。
う~ん、でもむしろ今は「二次元の女しか愛せない」男子が急増しているのではないでしょうか。
本田透さんはあれだけ萌え一筋に見えて、実は「マスターベーションは三次元女子でないとできない」と言います。
しかしそれもどうも、「真に愛する女性では欲情できない」的な童貞性から来るもののようで、逆に「らしい」とも思います。
ストーリーの消費云々はまた別なような……今のラノベも萌え四コマもストーリー性ってそんなに重視されませんし。