togetterとの連動企画です。
 以下はあくまで伊藤文学の著作からの引用です。

 伊藤文学とは、ホモ雑誌『薔薇族』の編集長をやっていた人物です。
 彼は「ゲイを解放した偉人」ともてはやされ、そしてそうした業績があるのも事実なのですが、ことあるごとにホモと子供とのセックスを賞賛し、唆してきた危険な人物でもあるのです。
 ツイッター上でフェミニストが伊藤を持ち上げているのを見て、つい苛ついてそのことを言ったのですが、名のある作家やライターであるはずの相手のフェミニストたちはヒステリックにそれを否定し、兵頭への誹謗中傷を拡散させ始めました。
 経緯については以下を、

  伊藤文学の「子供とのセックス肯定」について(改訂版)(http://togetter.com/li/550318
 伊藤文学の「子供とのセックス肯定」についてⅡ (http://togetter.com/li/564318

 ぼく自身の所見を交えた「ツッコミ」はこの次の記事、

 ホモ雑誌の編集長が子供とのセックスを肯定しすぎな件、そしてフェミニストがそれをスルーしすぎな件
http://ch.nicovideo.jp/hyodoshinji/blomaga/ar344260

 をご覧ください。


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『薔薇よ永遠に―薔薇族編集長35年の闘い』九天社、2006。

第Ⅱ章 ぼくにしか書けないものを!

少年の写真を撮り続けて来たペドファイルの話。
彼の男の愛人は妹と、その二人の子供を引きとって暮らしていた。

p117「その子は小学校の高学年になってくると、ひとりで彼の住む部屋にも訪ねてくるようになる。そうなれば当然のこと、子供と性交渉を持つようになっていくのは、自然のなりゆきだった。/十歳年上の男(註・つまり、この男の愛人であり、少年の伯父)もゲイだから、二人の関係についてはとやかくは言わない。お母さんも理解してくれている。」
「その子が中学の上級生になった頃、こんな関係はやめてほしいと言って、それからしばらくして、女友だちができてしまった。」
p118「小学一年の頃から、中学二年ぐらいまでとり続けた少年の写真。それを捨ててしまうのはあまりにもつらい。そこでぼくに宅配で送るというのだ。」


家族ぐるみで、小学生の少年を性的に虐待し続け、写真を撮影した、あまりにもおぞましい一家を、伊藤は以下のように絶賛している。

p117「よほど大人を信頼していなければ、到底取れないような写真ばかりだ。彼が要求すればどんなポーズにも、少年は応えてくれたのだろう。」


彼らの実在少年への「性的虐待記録物」は、今でも伊藤が所有しているのであろうか。

第Ⅳ章 『薔薇族』の読者が通らなければならない、結婚という関所!」

ここでは結婚問題について語られている。
伊藤はいくつかの投書を紹介していくのだが、その中に「真っ赤な薔薇(真性同性愛者)は結婚するな! との投書が紹介される。
女性に多少なりとも興味のある者ならともかく、女とのセックスに嫌悪しか抱けない真性同性愛者は結婚すべきではないと。なかなか冷静で的確な筆致に感心しかけると、彼は自分が小学校教師を職にする少年愛者であるとカムアウトし出す。

p222「……学校の宿直が待ちどおしかった。一人で寝られる。好きな男の子を呼ぶことができる好きな男の子と抱き合って寝られる。」
p223「けれど初めて知った性の歓びはどうすることもできなかった。十三歳の少年であった。私は三十歳。」
p229ではまた別な人物が二十歳の時、「中学を卒業してきた十六歳の少年と関係しました。私の方から彼が寝ている間にむりやり関係したのです。」

第Ⅴ章 少年愛は悲しい愛なのか

結婚しながら子供にしか欲情できない人間の投書を紹介。

p246「そうした中で私はけっこう少年を抱いて、自分だけの満足を得ていたのです。」「私は少年を愛し、少年のものをフェラチオしていました。」
p249「それでも少年が遊びに来ることを極度に妻はきらいます。」
p250「この人は小学校の教師で」「山の分校に単身赴任で勤めていたときが一番楽しかったようだ」


「少年愛者の心得」を説く投書。

p252「一、心の結びつきを最も大切にせよ。/好きな少年ができたら決してあせらないことである。すぐに手を出したらおしまいだ。(中略)そうしてほんとに人間関係ができあがったら遊びに来ないかとさそってみてもいいのだ。」
p253「三、相手の少年にも親があり家庭があることを忘れるな。」「四、少年愛者は欲望に耐えられるものである。/相手の心はつかめた。信頼は得た。かと言っていっきょにセックスできるものではない。やはり子どもなのだ。欲望をおさえる「忍耐」が絶対に必要。(中略)p254だからおどろかさないようやさしく、軽く接触する程度に愛してやってほしい。」「五、こちらの愛を受け入れてくれるかどうか早く見究めること/私の経験から小学高学年から中学生のころになるとやはりこの男の愛を受け入れるだけのものを僅かでも持っている子と、ぜんぜんもっていない子があることがわかる。」
p253「六、大人であることの自覚、責任を忘れるな」

p256「「君のようなこと言っていたら人生面白くない。なんにも楽しめないじゃないか?」と言われる方もあるだろう。そんなこと言わずどんどんやればいいんだと言う方も居られるだろう。/どうかご批判を仰ぎたい。」と自らのスタンスを極めてストイックなものと考えている。


そして、上の当初に対する伊藤のコメントは――。

p256「少年愛の人にとって、バイブルといっていい文章だ。」


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『『薔薇族』の人々 その素顔と舞台裏』河出書房新社、2006。

少年愛者の孤塁を守り通した――稲垣征次 

P243「その中でもうすぐ七〇歳に手が届くという人の話は感動的だった。」
「なんと現在、小学六年生の男の子と付き合っていて、この子とは五年生のときにゲームセンターで知りあった。」

p244「ずばり少年とのセックスのことを聞いてみたが、最初はあったそうだが、今では精神的なもので、本当の息子のようにかわいがっている。」

 
――以上。
このような反社会的な人物をフェミニストたちはいつまで神の如くに崇め奉り続けるのだろうか……?