もう、下手をすると二十年くらい前の話でしょうか。
まだフジテレビが元気だった時代の24時間テレビ。フジ系列の地方局を巻き込んで、賑やかな放送が行われておりました。
どっかのド田舎の局アナが、一生に一度の晴れ舞台とばかりに学ランセーラー服のコスプレ姿ではしゃいでいるのを、総合司会のビートたけしが困った顔で眺めていた様子を思い出します。で、そのセーラー服の女子アナが一くさり自局の紹介だか何だかをやった後、たけしさんがこうボケたのです。
――いやあ、さすがはAV界の百恵ちゃん、すごいお色気ですねぇ!
爆笑でした。
いや、こう文字に起こしても面白さは伝わらないでしょうが、この一言にはその女子アナの「いい歳してセーラー服を着ていることの、妙な猥雑さ」「地方局の田舎臭さ」が的確に表現されていたわけです。
さて、そんなこととは何の関係もなく(またこういう掴みかよ)。
またまた上野千鶴子師匠が話題になっています。
山梨市が介護に関する講演会の講師として上野師匠を招いたことが物議を醸し、一旦は中止を決定したものの、師匠側の猛抗議で予定通り開催となった、といった事件があったのです。
こうしたことは世間では結構重大な事件と捉えられるらしく、『朝日新聞』や『毎日』、『東京新聞』の全国版でも経緯が伝えられました。
さて、講演会の中止については、師匠が『朝日新聞』の人生相談で性に悩む男子中学生に対して「熟女にやらせて、と頼めばいい」などと回答したこと、『セクシィ・ギャルの大研究』、『スカートの下の劇場』などの著書が問題だとして、市民からの抗議が10件ほど寄せられたのがきっかけだとのこと。
結果、師匠は講演を行う代わりに「介護以外の話をしない」という条件を呑み、また「講演料を市に寄付する」旨を表明したそうです。
まあ、正直この件そのものに、ぼくは実のところあまり興味もなければ、ジャッジするだけの見識もありません。
「介護の話しかしない」と約束させた時点で両者がうまい落としどころを見つけた、win-winだという考え方もできますが、恐らく誰も納得しないリクツでしょう。
「講演料が師匠の懐に入らずにすんだ、大勝利」とする向きもありますが、想像するに師匠、講演なんて年に何十回もやって五兆や六兆のカネは稼いでいるはず(羨ましい限りです)。その一回分を寄付するだけで「男を上げる」ことができたのですから、むしろ純粋な「ケンカ」として見れば上野師匠の大勝利でしょう。
何よりぼくとしては、近年、反論から逃げ回っているだけの師匠に久々にでっかいケンカをさせ、「ケンカ師・上野、いまだ衰えず」といったイメージを形成させたことが、何だかムカつきます。
また、そもそもこうしたやり方はどうしたって師匠側に「被害者」との称号を与える結果となります。類似のことは何度か述べていますが、フェミニズムとは実生活では「女性ジェンダー」を演じることが敵わなかった女性がガクモンの力で「女性ジェンダー」を獲得する一種の「援助交際」であり、男性が考えなしにつっこんでいってもドクさべたち同様に「加害者」の役割を期せずして演じさせられてしまう可能性が高いのです。
師匠は2008年にも、つくばみらい市における男女共同参画講演会が直前に中止されてしまった件を「バックラッシュ」だとしてしつこく採り上げていました。並の一般人では師匠の影響力に敵わない以上、こうした反対運動は結局、利敵行為になる可能性が高いと思われます。
――では、どうしろと?
そうですね、地味でも、上野師匠についての洞察を深めていくことこそが、まずはなされるべきなのではないでしょうか。
当エントリでしばし、師匠の言動を追ってみることとしましょう。
まず、今回一番問題になったのは『朝日新聞』での人生相談です。これは近年の事件で、ネットでも話題になったため、クレーマー側も上野師匠に打撃を与えられると踏んだのでしょう。
これに対して、師匠は自らのサイト*で反論しています。
「熟女にお願いしなさい」という回答のどこが問題なのでしょうか。「依頼」であって「強制」ではありませんし、「相手のいやがることはぜったいにしないこと」それに「避妊の準備も忘れずに」と書いてあります。淫行条例に違反するという指摘もありましたが、中学生に性交を禁じる法律はありません。成人が児童(18歳未満だそうです)に「みだらな行為」をすることは禁止されていますが、中学生が大人に「お願い」するのを禁じることはできないでしょう。15歳といえば昔なら元服の年齢。妻を娶ることもできました。
「お願い」まではOKでも、熟女側が承諾して行為に及んだらアウトやん!
フェミニストというのはこういう、普通なら苦し紛れにでも言わないような言い逃れを真顔でおっしゃる方ばかりで、どうにも唖然とします。まあ、ホモが小学生をレイプしていてもスルーし、それを称揚するキ○○イを大絶賛するのがフェミニストですんで、今さらこんなことで驚く方がアホなんですけどね。
ただ、ぶっちゃけると、本件でどちらに分があるかどうかは、ぼくにはわかりません。一番悪いのは市長のどっちつかずの態度でしょう。問題だと思えば講義などなくとも中止すればいいのだし、上野師匠に文句を言われようと動じなければよいのです。
が、上野師匠もやはり具体的な個人、それも中学生に上のような忠告をしてしまったことはいささか軽率だったでしょう。
*山梨市講演会中止について ちづこのブログNo.64 | WAN:Women's Action Network
さて、問題の人生相談を見てみると、以下のような記述があることに気づきます。
経験豊富な熟女に、土下座してでもよいから、やらせてください、とお願いしてみてください。(中略)わたしの友人はこれで10回に1回はOKだったと言っています。
当ブログをずっと読んでくださっている方(何人いらっしゃるかは知りませんが)は何か思い出すのではないでしょうか。もう随分前、旧ブログでぼくは二十年以上前の別冊宝島における師匠の発言を引用したことがあります。
・女の子を誘うことはゲームだと割り切って、とにかく十本だけ電話をかけまくってみてください。十本電話をすれば、必ず一人は応じてくれます。私が保証します(笑)。
あれあれ、言っていることが何だか似てますね。
詳しくはリンク先の記事をお読みいただきたいのですが、二十年前、バブルの頃の師匠はむしろ、こういうキャラだったのです。
当時は恋愛マニュアル誌というものが何誌も出され、世の男たちはいかにかして女性をデートに誘うかで頭がいっぱいでした。いや、本当にそうだったのかどうかはよくわかりませんが、とにかくメディア側はそうした前提を共有し、「女は男を選り取り見取り」「男は女にモテようと土下座せんばかりの勢い」といったイメージを垂れ流しておりました。男たちが女に疲れ果て、女が必死の形相で婚活にかまけている今からは、隔世の感があります。
師匠が世に出たきっかけは本件でも問題とされた『セクシィ・ギャルの大研究』(1982)なのですが、(上のリンク先の繰り返しになりますが)その内容は肌も露わなセクシィ・ギャルの広告写真をいっぱい並べ立てて男の目を惹き、しかる後、「こんなの女性差別だ!」と言い立てるというだけの、他愛のないものであったと記憶します。誰だったか失念しましたが、本書を「女子大生の卒論レベル」と評していた人がいました。要するに「当時のフェミニズムで流行っていた“性の政治学”みたいなロジックを、当時の“ナウい”文化であった広告の世界に当てはめて一丁上がりの、お手軽な論考」といったことですね。
『スカートの下の劇場』(1989)も同様で、女性の下着の図版をやたらと満載し、男は見る主体であり女は見られる存在であり云々とわざわざ言うほどでもないことを並べ立て、しかる後、「こんなの女性差別だ!」と言い立てるというだけの、他愛のないものであったと記憶します(両者とも、大昔に読んだきりなのですが……)。
師匠の発言を読み進めると、ご自身の著作をこう評されています。
『セクシィギャルの大研究』『スカートの下の劇場』をきちんと読んでみてください。いずれも実証研究にもとづいた、そうは見えないけれど学術書です。『セクシィギャルの大研究』はCM写真の記号論的研究、『スカートの下の劇場』は下着の歴史研究です。
そう、まさに「学術書」の皮を被った、下着なり女体なりを扱った書籍を出版することこそが師匠の目的でした。
いえ、ぼくはこれらを「学術書ではない」と糾弾しようとしているのではありません。ぼくがこれら80年代後半の、師匠の絶頂期の著作を見ていて感じるのは、徹底した師匠の被愛妄想なのです。
……いえ、それもちょっと違いますね。「被愛妄想」はさすがに師匠に失礼でしょう。これら内容の薄い本が爆発的に売れていた(あとがきにそうありました)のですからこの時、確実に師匠は「オヤジたちから愛されていた」のです。
この時期は、師匠の「オヤジへの愛」がこうした形で成就していた、師匠にとっての黄金期であった、ということを、ぼくは指摘したいのです。
クレーマーたちは見落としていたようですが、師匠の「ケシカラン著作」の一つに『女遊び』(1988)というものがあります。全体的には、絶頂期の師匠があちこちで書き散らした雑文を取り留めもなくまとめた雑文集、といった感じなのですが、しかしそれでも「編集上のテーマ」は明確です。
上に挙げた表紙をご覧いただければわかる通り、本書には女性器をモチーフにしたフェミニズムアート()が表紙を始め本文中にもふんだんに掲載されています。似たことをなさっている「ろくでなし子」さんというフェミニズムアーティストがいらっしゃいますが、こうしてみるとフェミアートというのが大変に画一的伝統芸能的であり、これではオタク界に大勢いる女性エロゲンガ-、女流エロ漫画家などには敵うべくもないことがよくわかりますね。
書き下ろしであるまえがきは「おまんこがいっぱい」と題され、六歳の甥と「チンチンチンチン」といっしょに叫んでは大はしゃぎしていたこと、そしてこの男の子が十二歳にまで成長した頃には
わたしがチンポのケ! と叫ぶと、コドモはオバに呼応してくれなくなって、それどころか恥ずかしがって顔をそむけた。オバはますますチンポのケ、と言いつのり、チンポのケを一本くれたらお年玉をはずむのになあ、とコドモをからかうが、コドモはもう一緒にはしゃいでくれない。
などとセクハラを働いたことを自慢げに書き綴ります。
死ねばいいのに。
と思いつつ読み進めると、師匠は
こんなふうに書いているとわたしは、他人が驚くからワキ毛を見せる、学会の黒木香みたいな気がしてくる。
などとうわごとを書き並べ出します。
考えると彼女の弟子である千田有紀師匠も『上野千鶴子に挑む』の中、彼女を繰り返しそのように形容していましたし、北原みのり師匠も『アンアンのセックスできれいになれた?』の中で黒木香さんを持ち上げていました。
これはまた、藤本由香里師匠が自著で「娼婦になりたいなりたいなりたいなりたい」と繰り返していたことも、思い起こさせますね。
黒木香さんって、フェミニストにとってそんなに萌えポイントを突く存在なんだろうか……と思ってしまいますが、単純にこの人たちの(この時期の)脳内に浮かび上がる「セクシーな大人の女」像が黒木香さんだったというだけのハナシなのでしょう。
そしてこの醜悪なまえがきは
おまんこ、と叫んでも誰も何の反応も示さなくなるまで、わたしはおまんこと言い続けるだろうし、女のワキ毛に衝撃力がなくなるまで、黒木香さんは腕をたかだかとあげつづけるだろう。
などと言って結ばれています。
よかったですね、誰もそんなことでは驚かない時代になりましたよ!
あ、だから新ネタで弟子たちがホモのコドモへのレイプを推進しているのか(笑)。
何だかフェミニストの黒木さんへの片思いぶりが痛々しくも感じますし、上野師匠がいまだ六十ヅラ下げて○ンコマン○と叫んで(誰からも相手にされなくなって)いるのに比べ、多分黒木さんは今頃手堅く事業でもやってるんじゃないかな……と思ったりもします。
この「学会の黒木香」というフレーズ、何だか「AV界の百恵ちゃん」を想起させないでしょうか。
フェミニストたちの「エロティックな、いい女」という自己像と、客観的に見た時の惨状とのあまりにも大きな乖離。
例えばですが、思春期の少女が初めてのお化粧でメイクのやり方がわからず、化け物のような顔になってしまい……みたいなシークエンス、いかにも微笑ましいですが(こうしたシークエンス、少女漫画では多そうですが、処女性を重視する萌え系の作品ではあまり見られない気がします)、フェミニストいうのはついぞ男友だちも、そして一般的な女性の友だちもいないままここまで来てしまったがため、この歳になるまで自分が化け物メイクをしていることに気づけずにいる存在である、と言うことができそうです。
それを見た時に感じるのは、それこそ「クチャーズ」ではありませんが、昭和のエロ本を今開いて見た時の、「あぁ、当時の人たちはこんなもので頑張っていたんだ」という感慨と、大変に近い。
■参考資料
フェミニストと同じくらい「エロティックないい女」の具体例
いや、師匠たちの姿はぼくの目には当時から惨憺たるものであったけれど、師匠たちの言う「オヤジ世代」には何とか通用していたんだろうな、と考えるのが正しいでしょうか。
先に、「フェミニズムとは援助交際である」と書きました。そう、少なくともこの時期のフェミニズムはエロを前面に出した本を書けば出版社のオヤジに出版してもらえるという、ボロい商売でした。
いえ、師匠たちなりに苦心して原稿を書いていただろうことまでは否定しません。重要なのは、師匠が「学術書だ」と強調しているように、彼女らが「私があくまで学術的な意図で性に関する研究書を著したのに、いやらしいオヤジたちがそれを好奇の目で眺めて……」という「状況設定」を死守したがっていることなのです。レディースコミックを見ると「私はその気はないのに男が私を求めてきて……」といったおハナシばかりですが、要するにそれと同じことですね。
これはまた、ちょうどフェミニズムバブルの一歩手前、80年代に内田春菊的な「セックスを描くことを売りにする女流漫画家」がこの世の春を謳歌していたこととも重なります。彼女らも常に「アタシはありのままのことを描いただけなのに、ウザいオヤジたちがアタシの描くセックスに好奇の目を向けてくるのよねー」的なムカつく態度を取りつつ、客観的に見れば彼女らが男に構ってもらいたいのがモロバレ……といったムザンな様相を呈していたものです。いえ、当時はそうした作家が神の如くに崇められていたのですから、彼女らをそのように感じていたのは、ひょっとしてぼくだけだったのかも知れませんが。
しかしこの後宮台助教授が出現し、メディアは援交女子高生一色になり、フェミニズムは衰退を迎えます。上の著書群はそうなる前の、「師匠という花火の最後の一瞬の輝き」であることがわかります。
最近、エロゲが斜陽だと言われます。
ゼロ年代の前半くらいまではオタク文化の花形であったエロゲですが、何しろこれは制作費がかさむシロモノで、大手以外はおいそれと冒険できなくなってきたのです。最近は廉価版のものが増えてきました。お話的にも本当に短く、ヒロインもちょっと前までは最低でも三人は出てきたはずが、二人、下手をすると一人きりという何とも寂しいものが増えてきました。
彼女らの状況もこれと同様です。
バブル期、女性は絶頂期を迎え、「メディア」という名の「エロゲ」では多くのヒロインが登場、その中には「フェミニスト」という名の「ツンデレ」「ヤンデレ」キャラまでがキャスティングされていた。そこまでニッチなニーズにお応えする余裕が、メディアにあった。
しかしもはやそうした胆力が、メディアにはありません。
いや、まあ、不況になって以降、フェミニストは何のことはない、「行政」という新たなオトコを見つけてみんなの血税をジャブジャブ使って豪遊を続けているんですけどね。
その意味で上野師匠から講演料をふんだくったクレーマーは取り敢えずよし、という気もしますが、それにしたって全体から見ればごく少額でしょう。
女性センターなどのぶん取る予算をホームレス対策に投じれば、何名の尊い人命が救われるのかなあ……とも思ったりなんかもするのだけれども、今日も税金は無駄に使われ続けるのでありました。
めでたしめでたし。
天声人語が上野センセーの腰巾着みたいで面白かった(小並感)
>>1
おぉ、それは知りませんでした!
いつ載った、どういう内容のものでした?
「フェミニズムアート」などというケッタイなものがこの世には存在するんですね…。浅学のため知りませんでした。女性器を大写しにした絵なんて、クールベが『世界の起源』ではるか昔に既にやってるのに。
「ろくでなし子」のwikiの「自らの女性器を型どりデコレーションしたアート作品「デコまん」を作り注目を集めた」という文章を読んで、露出狂が自分の性癖を「これは芸術だから!思想だから!」と叫んでいるさまを想像してしまいました。
男が自分の性器の絵に拘泥したり、上野師匠さながらに「チンポ!チンポ!」と叫んだって、ただのヘンタイかキチガイとしか扱われないだろうに、女がそれをやれば芸術になり思想になるというのだから、フェミニストってのは実にヌルイ世界で生きてるんですね…。
>>3
いや、何というかあの人らのやることって判で押したように画一的ですよね。
「ガクモン」ならそれで許されるんですけどねえ……。
>女がそれをやれば芸術になり思想になるというのだから
本当に、あの人たちは「我々は被害者だ」という意識だけで構成されているように思います。
多分彼女らは仮に自分が「地球破壊爆弾」のボタンを押して人類を絶滅させても、罪悪感など微塵も感じないのではないでしょうか。
何と申しましょうか。
そも、熟女にやらせてもらえって……。
これ男女逆転させてみれば、下手すればおじいさんと言えるような年齢の男性が、
「女子中学生の初体験を~」
というような話ですよね。単純に考えても気持ち悪い話です。
男性がもしそんなこと言ったら社会的には終わりですが、女性だと許されてしまうのがどうにもこうにも。
親の立場からしても、自分の息子が変なおばさんにそういう目で見られるのは不快極まりないでしょう。
仮にOKを出すとしたら、完全な未成年への性的虐待。犯罪です。
だいたい男子中学生にしたって、選ぶ権利というものがあります。
自分たちが拒絶される可能性を考えたことがないんでしょうか?
中学生から見ればいくら美人とモテはやされても、四十すぎの女性はオバサンでしょう。
そりゃあ芸能人などには、実年齢よりも若く魅力的なかたもいるのでしょうが、一般人でそんな女性がどれだけいることか。
(というかまともな人間なら、そんな願望があったとしても公共の場で発言したりしないと思うのですけど)
それとも、自分たちには若い男、ないしは少年とセックスする権利がある! と本気で思っているのでしょうか?
だとすれば病気ですね。
>>5
>これ男女逆転させてみれば
明らかにセクハラですよね。
師匠がこういう「さばけたキャラ」を貫きたいのなら、そのようなことを(じいさんが女子中学生に同じことを)言っても鷹揚に構えているべきでしょうが、どう考えてもヒステリーを起こすに決まっている。
「子供の身を守る団体に所属している」と自称するフェミニストが、ホモの男児へのレイプは華麗にスルーしてみせる。
彼女らの中には「男だから何をやってもいい」という復讐史観、「男だから(例え子供でも)何をやっても平気なはず」という甘えにどっぷりと浸かっているのでしょう。