先日出雲大社に行ったついでに日御碕に行きました。こちらは日御碕神社の近くの海岸。
実はこの中に息子二人がいます。浜の一番遠いところにいるのですが、拡大してみても全く判別できませんでした(苦笑
浜は砂浜でなく砂利なのですが、そこで二人は延々と砂利を投げていました。この春、花粉の季節が終わってからは、水辺に行くことが多く、二人のブームは護岸工事や石投げでした。ゴールデンウィークに錦帯橋に連れて行った時も、橋には一瞥もくれずに川岸でダム作ったり、石投げてました。
この時、彼らが浜の一番遠いところまで行ったことがなんだか印象に残っています。大人から離れたかったのかなあと。こういうところでなにかやってると、大人ってなにかとあれはだめこれはだめうるさいじゃないですか。自分たちはやりたいことやりたいだけなのに、ものによってはいいし、ものによってはだめだし面倒くさいですよね。
とりあえず親のいないところで好きにやりたい、そんな心理の表れかなと思いました。
別に仲が悪いわけではありません。そろそろ帰ろうということで呼び戻した時、少し一緒に砂利投げしたらとても喜んでましたし。
だとしても、彼らにとって自分たちの価値観で行動できる時間は貴重です。その砂利投げにしても、正直近くにいたら「ほどほどにしとき」と言っていたかもしれません。子供からすれば、親がいつ制限をかけてくるかの予測がまだ上手にはできませんから、ようは大人が近くにいるときには、何をするにも大人の様子を伺いながらやらなくてはいけないのです。
さらに日に日に思い知らされるのは、子供達がいかに自然が好きかということです。
なぜか。それは自然で遊ぶときそこにあらかじめ設定された目的はないからです。
人の作ったものはそこに意図があります。たとえば滑り台は滑ることが意図されています。しかし子供達はすぐに逆に登る可能性に気づきます。しかしそれをしようとすると時として大人の介入が入ってしまいます。それは間違った使い方だと。子供達にとって人の作ったもので遊ぶことは、(それを作った人も含め)大人の様子を伺いながら遊ぶことになります。
しかし、自然は、人間の子供に対して、ここでこう遊びなさいという意図を持ちません。子供がそこでなにをしようが知ったこっちゃないのです。
さらに、もともと意図された遊びはありませんから、年齢性別に関係なく、その子にあった遊びができます。次男がまだハイハイの頃、海に連れて行ってまず最初にしたことは、砂を口に入れてみることでした(苦笑
一方、人間の作る遊具は、それに比べると対象年齢の幅がどうしても狭くなりがちです。
ですから、子供達にとって、親と距離を置いて自然で遊ぶことは、大人の影響を受けずに自分の思うがままに行動するまたとない機会です。そしてそれが、とてもとても楽しそうに見えるのです。
私が長男くらいの頃は、すでに大半の自由時間を大人の目の届かないところで過ごしていましたが、今の子は、住むところや家庭の事情によって大人の目の届かないところにいることが滅多にありません。物騒な世の中なのでしかたありませんが、子供も窒息気味かもしれないのです。
ですから今は、大人が意識して、子供だけの時間を作ってやらなくてはならなくなりました。
子供だけの時間の効能は絶大です。長男はものを投げるのが苦手ですが、この遊びの後、はっきりと進歩していました。一心不乱に砂利投げてればすぐ上達するのです。
昔、公園で手ほどきしようとしたこともありますが、その時の吸収の悪さを覚えているだけに、もう笑うしかありません。子供は苦手なことを克服するのが苦手ということと子供だけの時間の大切さをを思い知らされるエピソードでした。
さらには将来の社会の担い手としての感覚も磨かなければなりません。私たち大人の考え方にどっぷり浸かってしまったら、将来新しい世界を作ることもできないし、最悪その新しい世界に付いて行くこともできないかもしれません。どうやったら私たちの古臭い考え方に毒されすぎてしまわないか、毎日腐心しています。