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【女流名人、あるいは奨励会三段】

「美味しいケーキのおかげ」
 カメラのフラッシュを立て続けに浴びながら、大和雲雀(やまと・ひばり)女流名人はタイトル防衛の原動力について淡々とコメントを発した。立会人の棋士をはじめ、記者やカメラマンたちは揃って笑いをこぼした。
 その対面で、悔しさを必死に噛み殺す表情をするのは初瀬奈津実(はせ・なつみ)女流二段。デビューからいきなり女流名人戦リーグ入りを果たし、並み居る実力者を押しのけて挑戦者に名乗りを上げた。新進気鋭の女子大生棋士として一躍注目を集めたが、五番勝負は一方的な三連敗で奪取に失敗。第一人者の壁に為す術なく跳ね返された格好だった。
「ケーキを三個も頼むという、新手を繰り出されましたね。和服姿で勢いよく食べる様子に、ネット中継も盛り上がっていましたよ」
 記者も心得ていて、さらに追撃する。タイトル戦ではおやつが提供されるが、対局者が何を食べるのか熱心なファンは常にチェックしている。こんなところが注目される競技など、将棋以外にはそうないだろう。
「ん、これから私の定跡にしていこうかと」
 また笑いが対局室に響き、次に敗戦者の初瀬がコメントを求められたが――。
「一から出直してきます」
 こう言うのが精いっぱいで、目元に光るものを滲ませた。その瞬間を狙い澄ましたようにカメラのシャッター音が連発される。人には見せたくない姿を見られ、記録にも永久に残る。大舞台に立つとはそういうことだ。その悔しさを乗り越えられた者だけがトップに立つことができる。
 大和は女流棋戦の最高峰である女流名人のタイトルを、これで通算五期獲得することになった。男性棋戦の永世称号にあたるクイーン称号、クイーン名人を名乗る権利を得たのだ(ちなみに永世称号と違い、原則引退後に就位という規定はない)。
 彼女は他にも三つのタイトルを保持している。大和女流四冠、が正式な呼称だ。その勢いと安定感で、もはや彼女に優る者はいない。中学生でデビューしてから今日までの十年間、通算勝率は七割をゆうに超えている。
 誰もが認める最強女流。そして彼女はさらなるステップアップを望まれている……。
 数十分の感想戦を終え、窮屈な和服から普段着に着替えた大和は、小休止のあと関係者だけの懇親会に参加した。対局中に漂っていた緊張感は嘘のように消えていて、ホテルのスタッフも笑顔で最後のもてなしに張り切っていた。
 食べるのが何より楽しみ。将棋界ではつとに知られる大和なので、周囲もあまりまとわりつかず、彼女の空腹が満たされる頃合いを見計らっていた。その代わりに初瀬が歓談の中心になったのは自然な流れである。
「本当はこんなところにいたくないって顔ね? わかるわー。私も初めてのタイトル挑戦はボロ負けでね。部屋にこもって寝ていたかったもの」
 立会を務めた師村美智(しむら・みち)女流六段が明るく口にする。タイトル獲得数は四十期以上を数え、二位以下を大きく引き離してトップを走っている。現在は無冠だが、タイトル争いにしばしば絡むベテランだ。大先輩の優しい言葉に、初瀬は少しは救われたような顔をした。
「三局とも、悪くはなかったはずです……。いけるって感触が確かにあった。中盤までは。でも気がついたら形勢を損ねていて」
「あの子と戦うには、悪くない手じゃダメなのよね。そういうレベルに達している」
「奨励会で鍛えられているおかげ……なんでしょうか」
「ええ、特に受けが強くなった感じ。勝つ将棋じゃなくて、負けない将棋になった」
 初瀬はジュースで喉を湿らせてから、先刻まで激しく火花を散らし合っていた――向こうはそんな意識はまるでないかもしれない――女流名人に視線を移す。リスのように黙々と食べ物をかき込んでいる。対局で失われたエネルギーを補充するように、あるいはこれから待つ今日以上の過酷な試練に備えるかのように。
「……大和さん、三段リーグのほうもいよいよ大詰めですけど、どうなるでしょうか」
「はっきり言って、女流の対局よりもずっと厳しいからね。昇段できるかは五分五分……もないかも」
「あの人でさえも勝ちきれないとしたら、男性の棋士はどれほどレベルが違うんですか……」
 女流最強でプロ未満。
 これが大和雲雀の客観的な立ち位置だった。