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長谷川リョー『考えるを考える』 第5回 美学者・伊藤亜紗の身体論にみる、「分かる」と「分からない」の地平
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長谷川リョー『考えるを考える』 第5回 美学者・伊藤亜紗の身体論にみる、「分かる」と「分からない」の地平

2018-03-14 13:10
    ※本日(3月14日)7:00に配信した記事に誤りがありました。
    ご購読者の皆様には心よりお詫び申し上げます。
    訂正した記事を再度配信いたします。

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    編集者・ライターの僕・長谷川リョーが(ある情報を持っている)専門家ではなく深く思考をしている人々に話を伺っていくシリーズ『考えるを考える』。前回は株式会社コモンセンス代表・望月優大さんに、なぜ一貫して社会問題にコミットし続けるのかをお伺いしました。今回は、『目の見えない人は世界をどう見ているのか』などの著書で知られる東工大の美学者・伊藤亜紗さんにお話をお聞きします。視覚障害・吃音・四肢切断など、障がい者へのインタビューを中心に新たな身体論の地平を拓く研究をされています。昆虫学者を目指していた少女時代からなぜ、美学者になることになったのか。究極的には完全には分かり得ない、他者の身体にいかにアプローチしているのか。「“身体のままならさ”と付き合っていくためのエネルギーを与えたい」と語る伊藤さんの身体論から、「分かる」と「分からない」の地平が浮かび上がってきました。

    「複雑で分からないから信用できる」生物学から美学へ研究対象が移った理由

    長谷川 伊藤さんは美学を専門に研究されているとのことですが、もともとは生物学者を志されていたとお伺いしました。両学問の間には少なからぬ距離があると感じるのですが、どういった経緯でいまの研究にたどり着かれたのでしょうか?

    伊藤 八王子出身だったこともあり、自然に囲まれながら育ったんです。子供の頃は、山を遊び場にしていました。自然のなかで過ごすうち、他の子供たちと遊ぶのと同じくらい、昆虫と遊んでいるような環境だったんです。昆虫をつつくと、リアクションが返ってくる。物理的なインタラクションがあるなかで、虫と共存しているような気もするのですが、「実は虫は自分とまったく違う世界に生きているのではないか」。ふとしたときに、そう気づいたんです。その気づきにはゾクゾクしたというか、怖いんだけど、とても惹かれました。

    長谷川 当然それは、ユクスキュルが『生物から見た世界』で説いた「環世界」の概念を知る前ですよね?

    伊藤 はい。それは、子供がよく持つ“変身願望”に近いかもしれません。自分自身の輪郭が曖昧だからこそ変身しやすいというか、まったく別のものに感情移入しやすい。でもあるとき、ふと引いた目でみたら、まったく違うことに気づいたんです。そこから生き物の仕組みを知っていくなかで、人間像を含めた自分のイメージが変わっていくことに面白さを感じていました。

    長谷川 中高生の頃にはすでに専門書を読まれてたんですか?

    伊藤 高校生のとき、「二重らせん構造」を提唱したジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックという人が来日したんです。その講演に行ったときには、サインを貰おうとまでしていました(笑)。あとは、科学雑誌の『Newton(ニュートン)』も購読してましたね。理系に進学した理由としては、数学がとても得意だったということもあります。

    長谷川 大学の授業はどんな感じでしたか?

    伊藤 最近の授業は双方向性を取り入れていますが、当時はまだ古典的なプロフェッサータイプの授業でした。質問をしても、いまいち答えが痒いところには届かないというか。たとえば、ある講義で、「酵素がこういう条件だと、こう反応する」といった物理的かつ具体的な説明がなされます。そうしたときに、「生命と物質はどう違うんですか?」といったやや抽象的な質問をしても、答えを持っている先生がいなかった。

    長谷川 自分が面白いと思える授業や先生に出会えなかったということですか?

    伊藤 一つだけ今でも覚えている講義があります。先生が週末に釣ってきたカツオを教壇の上に乗せて、いきなりさばき始めたんです。切った瞬間に、真っ白いもやしのような、さまざまな寄生虫が出てきました。最終的には、「さあ、みなさん召し上がれ」って醤油を渡されました。あの先生だけは、「生命とは」といった質問にも答えてくれていたと思います。

    長谷川 なんの授業だったんですか?

    伊藤 生物学基礎とか、いわゆる教養の授業だったと思います。その先生も普段は、「酵素がどう」といった授業をされていたんです。それでも私は、カツオをさばいた講義から「生命は複雑である」といったメッセージを受け取りました。カツオ単体にも複雑性があるし、それ自体が一つの生態系としてある。そうした感覚を学びたいと思ったのは、今でもよく覚えています。

    長谷川 その講義が、後の文転につながる原体験になった?

    伊藤 そこまでではなかったですが、数年自分の問いが着陸しない状態だったので、ホッとする感覚はありました。理系の実験なんかも完全に順番が決まった作業なので、バイトみたいな感じなんです(笑)。「こんなことやりたくない。嫌だ」と思い、違う本を読み始めて、結果的に文転することにしました。

    長谷川 そのときに読んでいたのは、具体的には哲学書とかですか?

    伊藤 哲学書もですね。まず、「分からない」ことが面白かったんです。身体を説明するのがとても複雑なように、哲学書にも複雑さを感じました。簡単に分からない感覚だからこそ、逆に信じられるというか。

    なぜ「難しい」と感じるのか?「分かる」と「分からない」の境界にあるもの

    長谷川 よく人は「難しくて分からない」といいますよね。たとえば、本にしても難しく感じる理由は単語レベルで分からないのか、概念を知らないのか。なぜ「難しい」は生じるのでしょうか?

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    伊藤 おそらく自分のなかで対応する現実がイメージできないというか、本のなかで言われる具体例が自分のなかにないことが大きいのではないでしょうか。自分の頭の中に持っていることや、ネットワークさせる差込口が少ないと、新しい哲学書を読んでも引っかかるところがない。それでも読み進めていくと口が増えるので、そこに差し込めば分かっていく、といったことかもしれません。

    長谷川 最近、『ハイデガーの根本洞察―「時間と存在」の挫折と超克』(仲原孝著、昭和堂)という本を3ヶ月かけて読んだのですが、全く分からないんですよ(笑)。その分からなさが気持ちよくて、分からないと考えるじゃないですか。なので最近はよく分からない本を読むことにハマっているんです。ビジネス書は明快で分かりやすいから、「なるほどね」と理解できるのですが、分からない本は立ち止まって思考を強制される感覚があります。

    伊藤 いま子供が小学校2年生なのですが、小学校に入った瞬間に「分からない」という言葉を使い始めたんです。客観的にみたら幼稚園児の方が「分からないこと」の絶対量は多いはずなのに、それ以前は使っていなかった。おそらく幼稚園児の頃は、すべてが分からないんだけど、自分なりに解釈していたんですよね。

    私の子供には足に先天的な痣のようなものがあるのですが、3歳のときに「これどうしたの?」と聞いたら、「コウノトリが僕をお母さんのお腹に運ぶ途中、ガードレールにぶつけた」と言ったんです。「生まれつき」とか「先天的」といった概念を持たないなりに、自分のなかにイメージや神話を作り上げていたんですね。幼稚園児は自分が作ったストーリーに疑いを持たないので、完全に信じ切っているわけです。

    そうして自分と世界の間にあるギャップを埋めていくことは、分かっていないけど、分かっている状態というか。そもそも、分かる/分からないの境界は面白い。分からないけど自分なりにネットワークを張っているときは、「分かる」と「分からない」が共存している状態で、それがとても大事な気がします。

    それでも小学校に入ったことで、正解があることを知ってしまったわけですね。問題集の最後には正解がついていることを知り、「分からない」といえば教えてもらえることに気づいた。小学校に入った瞬間、そうしたマインドに変わっていることがショックでした。


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