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  • 中川大地『現代ゲーム全史――文明の遊戯史観から』序章【全文無料公開】 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.676 ☆

    2016-08-26 07:003時間前

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    中川大地
    『現代ゲーム全史――文明の遊戯史観から』序章
    【全文無料公開】
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2016.8.26 vol.676

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    今朝のメルマガは、8月24日に発売された中川大地さんの著書『現代ゲーム全史――文明の遊戯史観から』の序章を無料公開します。
    第二次世界大戦後に登場した〈ゲーム〉という娯楽は、私たちの社会をどのように変えてきたのか。ロジェ・カイヨワの「遊び」の4分類による遊戯論や、見田宗介の戦後を3分割する時代区分を援用しながら、巨大なゲーム文化を総体的に論じるための手がかりを提示します。

    本メルマガで連載していた『中川大地の現代ゲーム全史』はこちらのリンクから。

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    ▲中川大地『現代ゲーム全史――文明の遊戯史観から』 (紙書籍版:早川書房/電子版:PLANETS 同時発売)


    序  章

     ゲームは現実よりも強い。
     かつて人間の本質を「ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)」だと説いたオランダの歴史家ヨハン・ホイジンガが、「遊びは文化よりも古い([1])」と喝破したのとよく似た意味合いにおいて、迷いなくそう言い切れる人生の数が、かつてない規模で増殖している。第二次世界大戦を機に、20世紀後半から21世紀にかけての文明世界に爆発的に普及したテクノロジーの徒花・コンピューターゲームの影響によって。
     
     言うまでもなく、現在のコンピューターゲームないしデジタルゲームを可能ならしめているのは、国民国家の共同幻想を醸成する大衆的な装置となった映像技術や通信技術、そして元々は核兵器開発のための数学シミュレーターとして発展した電子計算機技術に他ならない。これらの技術の発展が、人間の知覚と身体に双方向的にはたらきかける感性情報を生成可能にし、時に人間が〈現実〉なり〈自然〉と誤認可能なほどに豊かなレスポンスを打ち返す人工のフィードバックシステムを生み出すことになる。それは学術研究や事務処理、遠隔コミュニケーション等々、本来的には実用的・汎用的な目的に供するための〝手段〟として社会の様々な場面に導入されていき、1970年代あたりからは一般の人々も利用する、いわゆる高度情報社会を醸成していったことは周知の通りだ。
     こうした社会環境が徐々に姿を顕してゆく過程にあって、まだ庶民が実際的な使い道を見出すには未成熟な段階にあった時期から、情報機器と戯れることそれ自体を〝目的〟とするエンターテインメントが見出されていったことが、コンピューターゲームの成り立ちである。当初は研究者コミュニティの手慰みとして、続いては新奇な見世物や玩具として、人間の原初的・土俗的な快感原則にかなう遊びの道具に供されることで、合理主義的な知性の産物として生まれたはずのコンピューターは、はじめて産業レベルでの継続的発展の基盤を獲得しえたのである。
     言い換えれば、人類の文化全般が遊びを揺籃として発生したとするホイジンガ的な描像をテクノロジカルに再現するような図式で、ゲームを先行実験としながら、我々は農耕革命や産業革命に次ぐ「第三の波(アルビン・トフラー)」たる情報革命を実現してきたのだとも言える。
     
     そしてヒトの遊びの力に衝き動かされてコンピューターが発展していったのと同時に、遊びという人類学的な営みの側もまた、コンピューターという他者に媒介されることで、かつてないレベルで文明のありように作用する力を強められつつある。
     ゲームデザイナーのケイティ・サレンとエリック・ジマーマンは、遊びというものの本質の一つは、日常の現実世界とは切り離された空間的・時間的領域やルール・法則の支配する〈魔法円(マジック・サークル)〉を恣意的に作りだし、遊ぶ者たちがそれをひととき共有することにあると説いた([2])。電子計算機に三目並べの抽象的なルールを判定させたり、テニスのようなボールの表示装置上での挙動を制御させることから始まったコンピューターゲームは、論理式や物理演算を行う計算能力を転用することで、遊び手となる人間同士の合意やコミットがなくとも、ゲームの〈魔法円(マジック・サークル)〉を半自動的に形成できる点を特徴としている。
     ゆえに、インターネットを典型とするように、コンピューター技術を用いた可塑性の高い情報環境がユビキタスな擬似自然として人々を取り巻くようになった21世紀文明にあっては、日常生活が送られる現実空間そのものの中に、遊びの〈魔法円(マジック・サークル)〉を穿つためのハードルが格段に引き下げられたのである。この環境を利用して、ビジネスや政治、社会運動といった領域に、デジタルゲームが培ったユーザーの快楽的なモチベートのためのノウハウを実装する手法も開拓されつつある。
     
     「現代ゲームの全史」を僭称する本書が物語ろうと試みるのは、そのような世界の変容の全体性である。
     今日のエンターテインメントジャンルとしてのコンピューターゲームを育んできたのは、主にアメリカと日本という、戦後の自由貿易体制下で資本主義世界をリードしてきた二つの産業国に他ならない。この両国におけるハードやソフトの系統的な発展を中心に、コンピューター技術そのものの黎明から2010年代前半に至るまでのデジタルゲームの来歴を、遊びとテクノロジーと社会文化がせめぎあう特異な表現ジャンルとしての異種混交的なダイナミズムを、極力見落とすことなく辿っていきたい。
     むろん、とりわけインターネット以降の世界では、欧州や中国、韓国といった日米以外のプレイヤーの存在感も無視しえない。しかしながら、それぞれのローカル市場の脈絡におけるヒットの域を超えて、どれだけゲーム全体の在り方や遊びの本質論にイノベーショナルな変容をもたらしたのかという観点においての意義を、現状の筆者の知見と能力では把捉することができなかった。あくまでもジャンル通史としての本書の視野は、20世紀終盤から21世紀初頭にかけてのデジタルゲーム分野の草創発展期に、たまさか世界標準となることのできた日本ゲームからの見方に軸足を置いたものに限られる。
     そうでありながらも、たかだか日米ゲームの比較文化論的な叙述の底に人類史的な全体性や普遍性が見出しうると筆者が考えるのは、その産業的成立の出自に、かつて太平洋を舞台に繰り広げられた未曾有の総力戦の戦勝国と戦敗国としての相克が抜きがたく刻まれ、経済・技術・文化闘争に形を変えて継続しているからだけではない。本質的には、片や新大陸という実験場に人種の坩堝を築き、プラグマティックに尖鋭化されてきた西欧近代の文明原理と、片や旧大陸の文化伝播の終着点として、悠久の時をかけてフィルタリングと習合を重ねてきた極東アジア列島のそれとの、衝突と融和のプロセスを見出すことができるためだ。
     
     大まかに腑分けするなら、今日のエンターテインメントジャンルとしてのデジタルゲームは、汎用コンピューターを用いたパソコン(PC)ゲーム、アミューズメントスポットなどに設置される業務用のアーケードゲーム、テレビモニターに接続する据置(コンソール)型および携帯(ハンドヘルド)型のコンシューマー(家庭用)ゲームという三つのカテゴリーで発展を遂げ、21世紀以降はフィーチャーフォンやスマートフォンなど汎用携帯型端末で動作するモバイルゲームが第4の領域として急拡大している。
     それゆえ、それぞれの領域はコンピューター登場以前からの異なる技術的・文化的脈絡を背負っている。つまり、パソコンゲームには軍事を目的とした米英の巨大科学に抗するハッカーたちのカウンターカルチャーとしての脈絡が根強く、アーケードゲームならばエレメカやピンボールの設置されていた都市遊戯場や百貨店の屋上遊園地、とりわけ日本の場合は近代以前の祭礼芸能や見世物小屋に連なる土俗性が、コンシューマーゲームを担った玩具産業についても、江戸時代文化文政期あたりに爛熟した家内制手工業や職人文化からの継承の相などが検出可能である。
     これらまったく異質な技術的営為とカルチャーが併存・交雑しつつ、情報技術によって結び合わされているために、デジタルゲームの短い歴史は、およそあらゆるタイプの遊びを包摂するとともに、そこから東西古今の文化と文明が生成されていった人類史そのものの本質を濃縮してエミュレートしているとも言える。
     
     したがって、これから現代ゲーム史を読み解いていくにあたり、各時代のゲーム作品に通底する共時的な構造を大づかみに把捉するための横軸の枠組みとして、ホイジンガの批判的継承者たるフランスの批評家ロジェ・カイヨワが主著『遊びと人間』で提起した古典的な分類体系を、本書では便宜的に踏襲していく。すなわち、スポーツやテーブルゲームのようにルールに基づき技能によって勝敗を競う〈競争(アゴン)〉、サイコロ遊びやクジ引きのように確率的事象に委ねて勝敗を分ける〈運(アレア)〉、ごっこ遊びや演劇のように虚構的な約束事に基づき何かを真似する〈模擬(ミミクリ)〉、ブランコや舞踊のように日常とは異なる身体体験の爽快感やスリルを楽しむ〈眩暈(イリンクス)〉の四つの要素の組み合わせとして、人類のあらゆる遊びの理解を試みようとする見方である([3])。
     実際、例えば「モンスターハンター」シリーズのような個々のゲームタイトルを想定してみても、キャラクターを操作することで現実にはできない身体的なアクションを楽しむ部分は〈眩暈(イリンクス)〉、それに習熟して巨大なモンスターを倒すことを目指すという点では〈競争(アゴン)〉、攻撃判定や未知のフィールドに挑む際など常にランダムな要素が行動の成否に影響するという意味では〈運(アレア)〉、クエストの受注などを通じて物語の登場人物としての役割を担うという点では〈模擬(ミミクリ)〉と、大なり小なり面白さの本質がカイヨワの分類に妥当することがわかるだろう。
     
     このカイヨワの枠組みの白眉は、遊びの要素を単に形式的に分類記述しただけに留まらず、〈模擬(ミミクリ)〉と〈眩暈(イリンクス)〉の結託をして儀礼やシャーマニズムの支配する原始社会の原理ととらえ、ここからより組織立った遊びとしての〈競争(アゴン)〉と〈運(アレア)〉の結合が優勢化していくことで、ギリシャ・ローマ型の市民社会風に文明化していくという描像を提示した点にある。むろん、このカイヨワの主張そのものは、〝未開〟から〝文明〟への素朴な社会進化論や西欧中心主義といった19世紀的価値観の残滓が根強く、現代的な人類学や社会学の学説としてはアナクロかつ粗雑に過ぎるものだ。しかしながら、ホイジンガの遊戯論を具体化して文化や文明の創造作用の機序をモデル化する大枠の作業仮説として、今もって包括性において容易に替わりの見つからない、一定の現象説明能力を有し続けている。
     とりわけ、日米ゲームの比較文化論的構造の抽出を必然とする本書の立論においては、章を重ねるごとに「〈模擬(ミミクリ)〉〈眩暈(イリンクス)〉寄りの土俗的な日本ゲーム」対「〈競争(アゴン)〉〈運(アレア)〉寄りの理知的な欧米ゲーム」といったカイヨワ的ステレオタイプが、確かに超時代的に再生産されていくかのような見え方が鮮明化していくはずである。しかもそれは市場競争上の勝敗に基づく興亡のストーリーテリングをも伴うものでもあるため、社会ダーウィニズム的あるいは「文明の衝突(サミュエル・ハンチントン)」的な優勝劣敗のニュアンスが、必要以上に伝わりすぎてしまうかもしれない。そうした通俗単純化の危惧を甘んじて受け入れつつも、ひとまずは後進の議論の共有基盤となりうるデジタルゲームの史観形成のための補助線として、批判的に継承し活用していくことにしたい。
     そしてこの過程を通じて、最終的には遊びとゲームをめぐるホイジンガ–カイヨワの包括的なモデルを21世紀的に更新する手がかりを得ることこそが、本書の理論面での目論見となる。
     
     以上の遊戯論上の枠組みを横軸としつつ、現代ゲーム史の直接的な背景駆動因となる20世紀後半以降のテクノロジーと社会文化の足の速い変化を、相応しい解像度で通時的に把捉するために、もう一つ縦軸の枠組みを援用したい。日本の社会学者・見田宗介が、『現代日本の感覚と思想』(講談社学術文庫 1995年)などで提起した時代区分である。すなわち、第二次世界大戦が終結した1945年を起点に、ソビエト連邦の崩壊で冷戦体制が終焉する1990年代までを、約15年おきに〈理想〉〈夢〉〈虚構〉という「現実」の三つの反対語によって戦後社会の精神史を分節化するもので、国内社会文化の批評や人文研究の領域ではポピュラーなフレームとして援用されることが少なくない([4])。
     この枠組みの白眉は、未曾有の国家総力戦によって焼け野原となった敗戦直後の凄惨な現実を変えていくべきビジョンとして、人々がどのような「反–現実」を思い描いていったかの時代のモードの変遷を、見事なレトリックで言い当てたことにある。本来的にはこれは、現実に働きかけようとするマルクス主義的な〈理想〉が時代を追うごとに廃れ、徐々に意志的な革命へのモチベーションが大衆から希薄化していくさまをアイロニカルに言挙げした、いわば上部構造たる「政治と文学」の情熱性に関する命名であった。しかしデジタルゲーム史の分節化にあたっては、その下部構造として作動する「経済と科学技術」の在り方に着目することで、非常に適合的な視座を得ることができる。
     なぜなら、すでに述べたようにゲームとテクノロジーはいずれも、目下の現実世界では不可能なヒトの願望を、人為的な工夫によって一時的ないし恒常的に実現していこうとする営みだからである。これが資本主義経済下で産業化・商品化されることによって、市場を通じて人々の現実を実際に変えて革命への〈理想〉を不要化し、ひいては共産主義の人類史的実験に終止符を打たせたのだという言い方さえできるだろう。
     
     よって、本書前半の構成もまた、このレトリック体系に沿って展開していくことになる。
     第1章では、前史的な段階から日本の敗戦復興期にあたる〈理想の時代〉にかけて(1912~1959年)、欧米で戦前・戦中から続いてきた計算機技術そのものの黎明とともに、コンピューターゲームの起源となるいくつかの事例が発生した経緯を辿る。この時代、世界がイデオロギッシュな〈理想〉で二分されて米ソが核実験を繰り返す一方で、発電への応用を〝平和利用〟の美名で掲げたりと、「原子力」こそが人類の未来を左右する基幹テクノロジーとして位置づけられていた。そうした国家的な巨大科学開発の片隅で、『Tennis for Two』のようなゲームがひっそりと生み落とされた脈絡の持つ意味を探っていく。
     第2章では、日本の高度経済成長期にあたる〈夢の時代〉(1960~1974年)、アメリカ東西両海岸の研究機関等で勃興したハッカーたちのコミュニティが、カウンターカルチャーとしてのゲームを育んでいったさまを描出する。前時代のような直接的なイデオロギー対決や核開発競争に替わり、軍事的実利と国威発揚の儀式的効果を兼ねた「宇宙開発」が、SF的な〈夢〉をまといながら世界を牽引するテクノロジーと想像力の新たなフラッグシップとして浮上する中で、『Spacewar!』にどのような思想が結実したのかが焦点となる。
     第3章では、〈夢の時代〉終盤から〈虚構の時代〉(1975~1989年)への移行期、ノーラン・ブッシュネルやラルフ・ベアらによるアメリカでのビデオゲーム産業の立ち上げを扱う。〈虚構の時代〉は、日本ではオイルショックを機に安定成長期に入りバブル経済へと向かう時期に相当し、もはや人々が革命への動機を完全に失って消費文化の〈虚構〉に耽溺していく時代と位置づけられている。しかしテクノロジー的には、軍事や宇宙技術からスピンアウトした民生エレクトロニクスによる「情報技術」が技術進歩の主戦場となり、国家による巨大科学の主導性が解体される、民主化の成就期に他ならない。そうした〝成功した革命〟の象徴として、『ポン』のヒットを契機とするゲーム産業の成立を捉え直していく。
     第4章では、日本でのゲーム産業受容を担う主要プレイヤーたちの来歴と背景をなす脈絡を辿りながら、世界を席巻するに至った『スペースインベーダー』へといかに結実したかを検証する。それはとりもなおさず、〈虚構の時代〉の最初の5年期にあって、ビデオゲームこそがその時代精神を最も端的に体現する文化産物として浮上するとともに、経済的繁栄に裏打ちされた〝日本ゲームのターン〟の始動を告げるものでもあった。
     第5章では、〈虚構の時代〉中期にあたる1980年代前半、『ゼビウス』などのアーケードゲームの濃密なムーブメントや、ソフト交換型のテレビゲームが持続的な市場発展を遂げていく契機となったファミリーコンピュータ(ファミコン)の台頭を中心とする動きを扱う。この段階に至り、パソコンとアーケードと玩具という別々の脈絡で発展してきたゲーム文化が、いよいよもって一つに結び合わされていく。
     第6章では、ファミコンがゲーム全体の事実上の標準プラットフォームとしての地位を強固にするブームの中で、『スーパーマリオブラザーズ』や『ドラゴンクエスト』などのヒット作を経て、様々なデジタルゲームのサブジャンルが成立していく〈虚構の時代〉終期にあたる80年代後半の状況を点描する。それは戦後世界を規定してきたヤルタ体制の最後の5年間に重なり、結果的に冷戦終結に向かう風景を彩るに至る。
     
     ここまでで、見田が提起した三つの反–現実で規定される一連の戦後史観のセットは完結する。冷戦の終焉という世界史上のメルクマールのみならず、日本国内では奇しくも元号が昭和から平成に変わり、さらにはバブル経済が崩壊して長期にわたるデフレ不況に陥るなど、社会の前提が名実ともに切り替わっていく時代に突入する。
     したがって、1990年以降にさらに飛躍と細分化を遂げていくゲーム史を捉えるためには、新たなターミノロジーが必要である。ここからは、批評家の宇野常寛が『リトル・ピープルの時代』(幻冬舎 2011年)で見田を継承しつつ提起した、二つの時代区分を援用したい。すなわち、同時代に浮上したヴァーチャルリアリティ(VR)やオーギュメンテッドリアリティ(AR)といった情報技術上のコンセプトに由来する、〈仮想現実の時代〉および〈拡張現実の時代〉である([5])。「現実」を修飾するこの命名法には、〈虚構の時代〉にゲームが先導した情報技術の普及により、テクノロジーは何らかの反–現実を志向する観念を表象するものというよりも、人々の身体的な現実感そのものを直接的に合成したり変容させうるツールとなったことが、見田の用語系との対照性を担保しながら端的に示されていると言える。
     
     よって、本書後半では、ここまでの時代区分と同様に15年スパンで〈仮想現実の時代〉(1990~2004年)と〈拡張現実の時代〉(2005~2019年)を規定し、それぞれをさらに3期に分けて章立てしてゆく。これはファミコン以降のコンシューマーゲームの各社プラットフォームが、約5年ごとに世代更新を重ねてきたことを扱う上での便宜に合致する切り分けでもある。
     第7章では、〈仮想現実の時代〉の確立期にあたる1990年代前半、スーパーファミコンがファミコンから王座を引き継ぐ中でのゲームシーンの爛熟を取り上げる。2Dドット絵の表現によるコンシューマーゲーム機が比較的「透明なメディア」となって作品性の追求が行われるとともに、対戦格闘ブームの火付け役となった『ストリートファイターⅡ』や、ポリゴンによる3D表現の導入で来たるべきVR世界の未来像が垣間見えた『バーチャファイター』など、アーケードから新たなムーブメントが興った時代である。
     第8章では、新たな「国民機」の座を奪取したプレイステーションやセガサターンなどの「次世代機競争」が産業トピックとしても取り沙汰された、日本ゲームの黄金期とも言える1990年代後半の諸相を見る。いよいよ3DCGがゲーム機の標準機能として実装されて『バイオハザード』『ファイナルファンタジーⅦ』のような作品が世間を驚かせ、子供たちのコミュニティでは『ポケットモンスター』が口コミでブレイク。さらにGUIを備えたパソコンやインターネットの本格普及で『ウルティマオンライン』のようなオンラインゲームの進化も始まり、〈仮想現実の時代〉は急速に実質化していく。
     第9章では、プレイステーション2やドリームキャストなどへの代替わりを経て日本ゲームの進化が臨界に近づき、右肩上がりだった市場が陰りを見せる中で〈仮想現実の時代〉が終期を迎えるさまを描出する。国内的には、大きな話題となるソフトが超大作か「東方Project」『ひぐらしのなく頃に』のような同人ゲームかへと二極化する一方、海外では徹底的に3DCGによるフォトリアリスティックな表現を活かした『ハーフライフ2』のようなファーストパーソンシューター(FPS)などがグローバルスタンダードのゲームジャンルとして伸長。21世紀には国内外のゲームシーンの動向が次第に乖離してゆく状況が浮き彫りになる。
     第10章では、生活環境としてのネットやケータイの定着が「コンテンツからコミュニケーションへ」の潮流を引き起こし、2000年代後半から〈拡張現実の時代〉が姿を現していく時代変動のプロセスを追う。とりわけ日本では、『脳を鍛える大人のDSトレーニング』のようなエデュテインメント系タイトルのブームからカジュアル層への浸透をもたらしたニンテンドーDSや『モンスターハンターポータブル』のヒットで街の風景を変えたプレイステーションポータブル(PSP)など、携帯型ハードにコンシューマーゲームの主流が移行する。さらには携帯電話インターネットサービスの独自進化に下支えされた『怪盗ロワイヤル』などのモバイルソーシャルゲーム(ソシャゲ)の登場で、国産ゲームのビジネススキームそのものが大きな転機を迎えることになる。
     第11章では、スマートフォン(スマホ)の普及により、いよいよ文字通りのAR技術がゲームエンターテインメントの分野に導入され、〈拡張現実の時代〉が本格化していく2010年代前半を扱う。日本ではガラケーソシャゲからのカジュアルな脈絡を継承しながら『パズル&ドラゴンズ』のようなスマホゲームが市場の主流に躍り出たほか、世界的にはインディーズ発のクラフト系ゲーム『マインクラフト』が動画サイトなどでプレイ風景を共有する「ゲーム実況」文化の隆盛を背景に大きな潮流を生み出したり、位置情報ゲーム『Ingress』がかつてない規模でゲームと現実空間を交錯させたりといった風景が現出している。
     以上を史的叙述の本論として、終章では〈拡張現実の時代〉の最終期として『ポケモンGO』やVRの本格普及が話題を呼んでいる現在進行形の動向を追いながら、デジタルゲームを通じてテクノロジー化された遊びの力が、いかに今後の文明のありようをデザインしていきうるかの原理的な考察を試みたい。
     
     世界は、すでに変えられている。
     かつて近代物質文明の確立期に唯物史観が観念的に想定した革命のプロセスよりも、はるかに実質的なかたちでゲームと情報技術は社会をハッキングし、さらには人間の生の意味そのものに大きな影響をもたらしつつある。それは必ずしもバラ色の未来を約束しない、古典SFが警鐘を鳴らし続けてきたような人間がテクノロジカルに管理されるディストピアの現出にもつながる、様々な功罪が入り交じった道程であろう。
     
     それでもなお、生物としての人間の原初の営みでもある遊びの原理を見定めることで、我々は歴史をバグフィックスし、あたかもゲームデザインのように望ましい未来を築いていくための視座を得ることは、決して不可能ではないはずだ。そのような信念のもと、さしずめ「文明の遊戯史観([6])」の材料となるべき史実の語りを、ここに始めていくことにしたい。


    [1]ヨハン・ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(高橋英夫訳 中公文庫 1973年 原:1938年) 15頁
    [2]〈魔法円〉の語源は、元々は『ホモ・ルーデンス』において遊び場の例示として挙げられた何気ない一節である。これをサレンとジマーマンが『ルールズ・オブ・プレイ ゲームデザインの基礎(上)』(山本貴光訳 ソフトバンククリエイティブ 2011年 原:2003年)にて「核となる概念」として取り上げた。(192‐193頁)
    [3]カイヨワ『遊びと人間』(多田道太郎・塚崎幹夫訳 講談社学術文庫 1990年 原:1958年) 46‐66頁
    [4]例えば、見田の直系の弟子筋にあたる社会学者の大澤真幸や宮台真司の社会論、あるいは東浩紀のオタク文化論など。特に大澤真幸の場合は、〈夢の時代〉の独立性を消去し、戦後から1970年までを〈理想の時代〉、1970年から1995年までを〈虚構の時代〉、それ以降を〈不可能性の時代〉としている。
    [5]ただし「政治と文学」にフォーカスする宇野の場合は、大澤における〈虚構の時代〉の異名として〈仮想現実の時代〉を規定し、1995年(世界的には2001年)以降を〈拡張現実の時代〉とする枠組みを提起している。本書ではこれを見田の原義に忠実に15年おきの均等な区分に戻すことで論者の主観に時代区分の画期を依存せずに済むようにするとともに、〈虚構の時代〉と〈仮想現実の時代〉を別時代として区分することで枠組みの発展を図る。
    [6]もちろんこれは梅棹忠夫『文明の生態史観』(1957年)に触発され、村上泰亮や川勝平太、安田喜憲など、様々な文明論者が「文明の○○史観」を提起した系譜を意識しての立場である。


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    今朝のメルマガは『石岡良治の現代アニメ史講義』をお届けします。2010年代に入って「難民アニメ」を数多く手掛け、男性視聴者を中心に支持を拡大したスタジオ「動画工房」。今回は、動画工房アニメのなかでも例外的に男女双方からの支持を獲得し、最大のヒット作となった『月刊少女野崎くん』の現代性を考察します。


    ▼プロフィール
    石岡良治(いしおか・よしはる)
    1972年東京生まれ。批評家・表象文化論(芸術理論・視覚文化)・ポピュラー文化研究。東京大学大学院総合文化研究科(表象文化論)博士後期課程単位取得満期退学。青山学院大学ほかで非常勤講師。PLANETSチャンネルにて「石岡良治の最強☆自宅警備塾」を放送中。著書に『視覚文化「超」講義』(フィルムアート社)、『「超」批評 視覚文化×マンガ』(青土社)など。
    『石岡良治の現代アニメ史講義』これまでの連載はこちらのリンクから。


    ■ポスト京アニ的な身ぶり表現を展開するスタジオ「動画工房」

     ゼロ年代以降の深夜アニメにおいて制作スタジオの「シャフト」「京アニ」が象徴的存在となったことは広く知られており、この『現代アニメ史講義』でも独立して扱いましたが、2010年代に入り存在感を見せているスタジオに動画工房があります。動画工房は前回扱った「難民アニメ」すなわち「きらら系」原作ものを得意としており、近作では『三者三葉』や『NEW GAME!』がそのカテゴリーに当てはまります。実際には様々なタイプのアニメの元請をしていますが、現在アニメファンが「動画工房的」と聞いて思い浮かべる作風は、『ゆるゆり』(2011年)以降のものになり、監督としては太田雅彦や藤原佳幸を挙げることができます。
     動画工房の作風について、明確な特徴を挙げることは難しいのですが、京アニが得意としているキャラクターの身ぶり・しぐさの作画を、「きらら系」のデフォルメされたデザインに乗せつつ洗練させている、と言えば良いかもしれません。『未確認で進行形』(2014年)や『NEW GAME!』(2016年)のOP動画を見るとある程度明らかだと思います。京アニの『けいおん!』(2009年)は原作絵のデザインを変えることで、やや寸胴にすら見えかねない体型のキャラたちのしぐさを半ばリアル寄りに描いていましたが、動画工房の場合は、特にきらら系原作アニメでは、キャラクターデザインを原作絵に近付けつつ、ポスト京アニ的な身ぶり表現を手堅く展開しています。
     このような作風のアニメは、現在ではもっぱら男性向けとみなされる傾向があります。だいたい二昔前ぐらいまでは、男性キャラ中心の作品=男性向け、女性キャラ中心の作品=女性向けという了解がありましたが、今では完全に逆になっています。例えば、『黒子のバスケ』や『ハイキュー!!』のようなスポーツマンガや『おそ松さん』のキーヴィジュアルを目にすると、現在のアニメファンは「これは腐女子などに受けそうだ」と考えずにはおれないはずです。ですがもちろん赤塚不二夫の『おそ松くん』は、もともとは1960年代の週刊少年サンデーに掲載された少年マンガで、当時は男性が主要なターゲットでした。また逆に、きらら系難民アニメに典型的な女性中心のヴィジュアルイメージを見た時、現在のアニメファンの多くは、まず男性向けアニメと考えると思われます。
     『ゆるゆり』が「ゆるい百合」から取られているように、深夜枠で多く見られる女性キャラ中心のアニメでは、純然たる友情よりは若干恋愛感情寄りでありつつも、現実のレズビアンと比べるとかなりデフォルメされた関係性がしばしばみられます。この事情はBL作品と現実のゲイ男性とのズレとも似ていて、一般に、現実のセクシャルマイノリティと、オタク文化に現れるセクシャルマイノリティの表象にはしばしばズレが見られます。BLにしろ百合にしろ、ときに性差別的な表現も現れるので、考察には一定の慎重さが求められますが、それでもここで少し考えてみたいのは、なぜ現在の男性向けアニメに女性キャラ中心のものが多いのかという問題を、性的な表現の観点から検討していくことです。


    ■深夜アニメに典型的な性的モチーフの変容

     深夜アニメでは、今でも「水着回」「温泉回」(いずれも観光リゾートの基本であることは注目されます)が定番となっていますが、少し前のアニメではよく見られた、男性が女性の着替えや裸を直接覗きに行くようなセクハラエピソードは、現在では激減しています。代わってしばしばみられるようになったのが、男性が男性、女性が女性の裸体に関心をもつという仕方での、形を変えた「セクハラ」モチーフです。ここには同性愛差別的な要素が皆無とはいえず、また性的な表現の妥当性の感覚はいつの時代でも決して安定しているとは言いがたいので、はっきりした根拠で断定できる事柄は残念ながら多くありません。けれども、例えば1960-80年代ぐらいまでのアニソンに顕著に見られた「男らしさ」「女らしさ」を強調するタイプの歌詞が現在激減しているように、性規範的な役割についての規定が流動的になる傾向は明らかでしょう。
     しばしばオタク文化は性差別的と非難されますが、私は一定の留保が必要だと考えています。それは今述べたように、過去と現在のアニメ表現を比較すると、時代ごとの諸々の規範の変化に伴い、性的な表現に関する許容可能性の感覚も変化していること、そして、深夜アニメでは性的な表現が一つの売りとなっていることが無視できないと思うからです。『ドラゴンボール』の亀仙人のような振る舞いは、今ではゴールデンタイムで許容されることはほぼなく、深夜アニメでも即座に撃退されるネタキャラであることが通例でしょう(ジャンプ系で言うなら『To LOVEる』の校長が典型です)。


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  • 【対談】犬飼博士×中川大地『Pokemon GO』から考える近未来の社会――Nianticが設計するヒューマン・コンピュテーションの可能性 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.674 ☆

    2016-08-24 07:00
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    【対談】犬飼博士×中川大地
    『Pokemon GO』から考える近未来の社会――
    Nianticが設計するヒューマン・コンピュテーションの可能性
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2016.8.24 vol.674

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    今朝のメルマガは、評論家/編集者の中川大地さんと、eスポーツプロデューサーの犬飼博士さんの対談をお届けします。『Ingress』に深くコミットし、『ポケモン』の全作品をプレイし続けてきたという犬飼さんと、本メルマガで「現代ゲーム全史」を連載し、その書籍が本日発売になる中川大地さん。ゲームの文化・歴史に精通する二人が、『Pokemon GO』ブームと今後の可能性について語り合いました。


    本メルマガで連載されていた中川大地さんの『現代ゲーム全史』の単行本が、本日、発売になります。ファミコン以前の時代からスペースインベーダー、マリオ、ドラクエ、FF、パズドラ、Ingress、さらにはPokemonGOまで――。"文化としてのゲーム”のすべてを一望できる大著です。ぜひともお買い求めください!

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    『現代ゲーム全史−−文明の遊戯史観から』
    )/(電子


    ▼プロフィール
    中川大地(なかがわ・だいち)
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    1974年東京都墨田区向島生まれ。ゲーム、アニメ、ドラマ等のカルチャー全般をホームに、日本思想や都市論、人類学、生命科学、情報技術等を渉猟して文化と社会、現実と虚構を架橋する各種評論の執筆やコンセプチュアルムック等を制作。批評誌『PLANETS』副編集長。著書に『東京スカイツリー論』、編書に『クリティカル・ゼロ』『あまちゃんメモリーズ』など。

    犬飼博士(いぬかい・ひろし)
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    1970年愛知県生まれ。ゲーム監督、eスポーツプロデューサー。IT(ゲーム)とスポーツの間に生まれた情報社会のスポーツ「eスポーツ」や、空間情報科学をテーマとした展示「アナグラのうた 消えた博士と残された装置」、「未来逆算思考」、「eスポーツグラウンド」、「スポーツタイムマシン」など、身体的コミュニケーションを誘発するフィジカルな作品を制作。近年は運動会を次世代ゲームプラットフォームととらえる「未来の運動会プロジェクト」を進行。「超人スポーツ」委員としても活動中。

    ◎構成:長谷川リョー

    https://lh3.googleusercontent.com/n3XcKX8fpyX24zDwXyfMjiAnQsIECcu9Et_utnBV7MjBMSMDHEST03Cbq16BTQmFjuTWZ4BxOtAAqD2wbmcTjNKTtxRcKxKQBX-8q4x7F56TbwgICOn2yL_dXVnwafR2wgNlxKaZ


    ■『妖怪ウォッチ』への米国からの応答としての『Pokemon GO』

    中川 日本での配信開始から1ヵ月、『Pokemon GO』はすっかりコミュニケーションインフラとして定着しました。それによって、一定のプレイ文化の形成も徐々にされてきている印象があります。犬飼さんは、本作の前身にあたる『Ingress』でも地域ベースのプレイヤーコミュニティの運営に深く関わっていらっしゃいましたが、両者を比べてみた印象はいかがですか。

    犬飼 『Ingress』が出たときよりも興奮していますね。初めて『Ingress』をプレーしたときは、初めてのことが多すぎて何が何だか分からなくて、面白さを発見するまでに時間がかかったんですよね。じわじわと興奮がやってきた。一方もともと『ポケットモンスター』シリーズは大好きで、新作が出る度に買っているんですが、今回の『Pokemon GO』の最初の感触も、新作をプレイするときの興奮に近かったかもしれない。『Ingress』と『ポケモン』の新作が合体してやってきたので興奮しています。

    中川 アメリカで先にリリースされて騒ぎになっていたことも期待感を高めましたよね。日本でのリリース日がなかなか決まらないので、かつてのドラクエの発売日前のワクワクがいつまでも続いているような、ゲームにまつわる懐かしい空気を多くの人に味わわせてくれた感があります。
    このメルマガで連載していた「現代ゲーム全史」は2014年までが最終章になるので、最終回では『Ingress』と対比させて『妖怪ウォッチ』を取り上げたのですが、『Pokemon GO』は『妖怪ウォッチ』が『ポケモン』から取り込んで進化させた部分――目に見えない妖怪が近づいてくると反応して、覗くと妖怪が見える、というAR的な機構を、再び奪還したような関係になっている。9月に発売が予定されている「Pokemon GO Plus」にしても『妖怪ウォッチ』のコンセプトそのままですよね。つまり、アメリカ産のAR技術と、アニメ『電脳コイル』でもモチーフになっていましたが、日本の妖怪という想像力が融合することで、『Pokemon GO』というコンテンツが生み出されたわけです。しかし、それがアメリカであそこまで熱狂的な盛り上がりをみせるのは意外でした。

    https://lh6.googleusercontent.com/UT1bI0j0SfOW3Va29NG6vvBmbnX1sRr1Uv_kcN97hBznSe0Uen6ikzug5_jkokr5KUxeo60iFMoWcROalmztVZF_vp0WCQb7E7rLhkiPARU9ZFA0_zb3toCA88lSgVYKppFRtP7YRVcURND97A
    ▲「Pokemon  GO  Plus」(出典


    犬飼 日本の場合は、ゲームに触れるより先に、マスメディアによって煽られてしまった部分が大きいと思います。「『Pokemon GO』という面白いゲームが出るらしいぞ」ということが、広告や宣伝ではなく、社会現象として世間に広がって、ニュースで大々的に報じられたり、リリース前なのに内閣府から「注意せよ」とお達しが出るなど、ありえない現象が起こっていった。
    これはアメリカ在住の友人から聞いた話ですが、向こうでは最初から劇的な盛り上がりがあったわけではなく、街中で遊ぶ人が少しずつ増え始めて、それが取材されてマスメディアに乗り、YouTubeで拡散されて社会現象化していった。その過程で起きていた現象は、単純に人が集まっただけです。「パーティーをやってるらしいぞ!」と噂になったけど、何のパーティーなのかよく分からない。音楽も流れていないし、ただスマホを持った人がウロウロしているだけ。こんな風に街中に人が集まる現象を、これまで誰も体験したことがなかった。

    中川 これまでも風景にタグがついたり特定の場所にチェックインするとバッジがもらえる仕組みのARアプリはありましたが、「見えないもの」を見たい、という動機があって初めて一般の人々が衝き動かされて、社会現象として可視化されたということですね。


    ■『ポケモン』に伏在するアメリカ文化への幻想

    犬飼 アメリカでは『Pokemon GO』のプレイヤーを狙った強盗が現れたり、プレイ中に死体が発見されたりといった事件が起きていますね。

    中川 『Pokemon GO』で遊んでいて死体を見つけてしまった話は、すごく象徴的だと思います。『ポケモン』は『MOTHER』の強い影響下にあることが知られていますが、もともと『MOTHER』というゲームは、映画『スタンド・バイ・ミー』のような、アメリカの田舎の少年の成長物語にインスパイアを受けている。要するに「幻想としてのアメリカ」をモチーフとしているんです。
    映画『スタンド・バイ・ミー』は、子供たちが現代人にとって他者性のある「死体」を探しに行くという、一種の通過儀礼を描いた作品ですよね。つまり、『Pokemon GO』は「死体を発見する」という『ポケモン』の原点にあたる風景を、もう一度、逆輸入する形でアメリカに現出させたわけです。こういった、危険も含めた原体験のようなものは、さんざん注意喚起された後にリリースされた日本では味わえないので、正直、羨ましささえ感じます。

    https://lh5.googleusercontent.com/kUK3is7yQlmDz28IBKJiZAyrF-xZ_2Xg0CxVDZF5O4g5KW4KxsXnCM5hFwzcoohKJ9RFUZsmPLVnsao85PGOn9FUYCO7MRJFCDCeD38sGF8XaErOwXzFcwXonC3vFc07ndIjdHaJHiUW2tuBEw
    ▲1989年発売のRPG『MOTHER』。糸井重里、宮本茂が手がけたことでも有名。(出典


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