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今月から、批評家の森田真功さんの連載「関与するものの論理 村上龍と20-21世紀」が始まります。1976年に『限りなく透明に近いブルー』で鮮烈なデビューをした村上龍。それはかつて石原慎太郎が担ったたユースカルチャーの寵児、芥川賞という権威に象徴される〈文学の顔〉の継承でもありました。以後の村上龍が日本文学の中で占めてきた立ち位置と役割について考えます。

 20年後、文学は、どのような顔をしているのだろうと考えることがある。

 いや、誤解があっては困るのだけれど、そこには必ずしも「文学とは何か」式の問いや「これから文学はどこへ向かうのか」式の問いは内包されていない。最初に述べておくと、本論における文学、とりわけ純文学と言い換えられるその括りは、意外なほどにシンプルなものであって、それは芥川賞という権威に集約されていく小説あるいは文芸の一ジャンルにほかならないからである。

 芥川龍之介賞、通称芥川賞は、1935年に設立された。今日でも年二回の授賞が行われるたびにテレビのニュースや新聞などで取り上げられ、基本的には純文学を対象にした新人賞だということになっている。同様に話題として上がる直木三十五賞、通称直木賞は、芥川賞に比べ、より大衆的でエンターテイメント性の高い作品を選考の対象にしており、新人作家やベテラン作家の区分を問わないというのが一般的な認識であろう。

 文学の歴史を紐解くことが最大の目的ではないし、両賞の意義については既に様々な識者が論じているのだったが、芥川賞が現在のようなヴァリューを持ち得た直接のきっかけは、1955年、第34回になる同賞を石原慎太郎が『太陽の季節』で取ったことにあったと通説化している点は押さえておきたい。石原は23歳、当時の史上最年少で芥川賞を受賞、『太陽の季節』は話題の作品となり、映画化もされて当たった。内容を軽く説明するなら、裕福な家庭に育ったはずの若者が享楽的な価値観と生活とに淫していくというものであって、それが大勢に支持されたことのセンセーションが、芥川賞のヴァリューをも底上げしたのだ。

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石原慎太郎『太陽の季節』(1955年)

 ここで注意したいのは、石原と『太陽の季節』とが、古い世代の文化と対決するための若者文化、つまりはユース・カルチャーを代替するものとして機能し、受け入れられ、消費されたことである。どの時代であれ、どのジャンルであれ、新しい世代の台頭は必然でしかない。が、やがて政治家にまで上り詰める作家自身のカリスマや映画化のメディア・ミックスに補助されていたとはいえ、ユース・カルチャーのように見られつつ、社会的な影響力を強く持ち合わせていたがゆえに、『太陽の季節』は、芥川賞にとってのメルクマールとして語られることとなるのであった。


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