よっぴーと宇野常寛が語り尽くす、
「ネットではなく”ラジオ”だからできること」
☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
2014.9.17 vol.160

今日のほぼ惑では、今夜放送の「ラジオ惑星開発委員会」内の重大発表にあわせて、昨年11月にイベントで収録され、PLANETSチャンネルの旧メルマガで4回にわたってお届けした、吉田尚記さんと宇野常寛の対談記事をまとめてお届けします! インターネットが登場して以降、激変したと言われるメディア環境。この10年で「メディア」と、それを享受する「オタク」のアイデンティティはどう変わってきたのか。そして言論・ジャーナリズム、電波メディアの担いうる役割とは?

▼プロフィール
吉田尚記(よしだ・ひさのり)
1975年生、ニッポン放送アナウンサー。慶應義塾大学文学部卒業後、1999年にニッポン放送に入社、制作部アナウンサールームに配属。以来、「オールナイトニッポン」シリーズ、「ミューコミ」などの番組を担当。現在は「ミュ~コミ+プラス」などを担当しており、2012年にはギャラクシー賞DJパーソナリティ賞を受賞。自身のラジオ番組ではTwitterなどネットを積極的に活用し、さらには自らトークイベント「吉田尚記の場外ラジオ #jz2」を開催するなど、その先駆的な取り組みが注目されている。放送業界でも一、ニを争うアニメやゲームのオタクとしても知られる。愛称は「よっぴー」。
 
◎構成:中野慧 
 
 
■「オタク」というライフスタイルに宿る本質とは
 
吉田 いきなりなんですが、宇野さんってなぜだかわからないけども、人前に出た瞬間に、オタクの人ってすぐに分かりますよね(笑)。

宇野 そうですか(笑)。僕はね、20歳ぐらいのときに「オタクである自分を引き受けて生きよう」と思ったんですよ。そうやって開き直った結果、今こういう仕事をしてメディアに出ているという感じなんですね。

吉田 その感覚、僕もよくわかります(笑)。「ニッポン放送のアナウンサー」というより、「ガチのオタクの人がうっかり人前に出てきてしまった」という感じなんですよ。「オタクであることを引き受ける」という言葉は面白いですね。それはどういった感覚なんでしょう?

宇野 うーんと、まあ、僕が変わったというのもありますが、世の中全体のオタクを見る目が変わったのが大きいですよね。僕がアニメに興味を持ち始めた頃には、「オタク=いい歳してアニメばっかり見ている駄目なヤツ」という感じの空気は完成されていたんです。それが、だんだんオタク人口が増えていって、ネットを使った発言力も出てきて、ビジネス的な関心も集めて、高年齢化に伴ってコミュニティもしっかりしてきて、気がついたらもう昔のようなイメージをオタクに対して抱いている人が若い世代にはぐっと少なくなっていた。年々、オタクとして生きていくのがラクになっていった。

吉田 僕の場合はオタクって、自分が子どもの頃から見ていた楽しいものからつながっているわけだから、すごくポジティブなものなんですよ。『Zガンダム』に代表されるような80年代のアニメブームのあと、宮崎勤事件が起こってオタクが劣勢になったと言われますが、その後の『ふしぎの海のナディア』だって面白かったし、僕の中では劣勢も何もなかった(笑)。
 僕の実感だと、オタクって「世の中から差別されている」側であるということが、ちょっと中二病的にカッコよく思えたりしていました。実際のところはオタクになったところでまったくモテないんですけど(笑)。

宇野 なるほどね。まあご存じの通り、僕はオタクのカジュアル化のなかで青春期を過ごして評論活動も始めているので、オタクをカウンターカルチャー的なものとして捉える動きにはちょっと冷ややかなんですけどね(笑)。デビュー作の『ゼロ年代の想像力』のなかでは、「同時代で一番大事な作家は宮藤官九郎だ」って書いたんですよ。そうしたらまず文学やハイカルチャーを好きな人たちから「ま~た社会学系のチャラいサブカル評論が出てきた」といった扱いを受け、オタクの側からは「ジャニーズが主演しているドラマを肯定するなんてけしからん!」と叩かれた。
 彼らはやはり、「オタク文化はマイナーだから価値がある」という立場にずっと立っていたんです。でも僕はメジャーだろうがマイナーだろうが関係なく、ある作品に力があって、その作品から受け取ったものでユーザーたちが何か熱い運動を起こすとか、作品から受け取ったものから跳ね返すものがあるかどうかがすべてだと思ったんですね。

吉田 なるほど。宇野さんは言論活動をサブカルチャーの批評から始めたと思うんですが……アニメや漫画を好きな人たちは、まず作品を見て、「また次の作品を見よう」となる人と、見た後にやたら何かを書く人とがいますよね。宇野さんは後者だったと思うんですが、それはどんな動機からだったんでしょう?

宇野 僕の最初の動機は、「この作品の素晴らしさを世界に訴えないと俺は死ぬ!」みたいな、そういうよく分からない思い込みですね。

吉田 あー、それわかるなー! 俺がいま「PSYCHO-PASS」とかに思っていることとかと近いよね……。何か使命が宿る瞬間ってありますよね。

宇野 作り手にとっては余計なお世話かもしれないし、「評論が読みたいから作品を見る」という人はほとんどいないと思うんです。「ある作品を見て感動したから、それにまつわる評論を読みたい」という人は沢山いますけど。だから評論家の作品に対する思いって、すごく片思いで、ストーカーじみたものと言ってもいい。そういった妄想に近いものが原動力になって、評論を書かせるんだと思います。
 そのときに僕にとって一番大きかったのは、やっぱり「平成仮面ライダーシリーズ」なんですよ。平成ライダーは日曜朝の子ども向けの枠を使って、すごく面白いことを好き放題やっていると思ったんです。だから「この素晴らしさを世界に訴えないと俺は死ぬんじゃないか?」ということを思って書いたのが、僕の二冊目の単著『リトル・ピープルの時代』です。

吉田 ということは、あの本の前半で村上春樹を扱っているのはギミックだったということですか?

宇野 今だから言っちゃいますけど、ギミックですよね。

吉田 やっぱり(笑)! 宇野さんはつまり、「たとえどんなギミックを使おうとも、自分が知ってしまったこの福音を、他の人に届けなければいけない」という使命感を持ったエヴァンジェリストであると。イエズス会から日本に派遣されて、日本にキリスト教じゃなくて仮面ライダーを広げるザビエルなんですね。でも、たとえば自分の力で誰かが何かにハマる対象――その一次情報みたいなものを作ろうと思ったりはしないんですか?

宇野 もちろん、機会があれば小説も書いてみたいし、集団創作の現場にも参加してみたいと思っていますよ。でもいまは僕は雑誌を作ったり、イベントを開催したりという活動がそれに当たるのかなと思います。僕はもともと、少年時代にアニメ雑誌を入り口として雑誌が好きになったという過去があるんです。でも、いま面白いと思う雑誌が周りにないんですよ。そうなったとき、じゃあ自分が少年時代に古本屋で出会った感動みたいなものを、自分の手で再現したいな、と思ってやっているんですよね。
 雑誌で取り上げているものは、僕らが何らかの対象について語っているかもしれないけども、「今この問題をこういった面子でこう語るのが面白い」という企画や座組だったり、デザインや形式も含めてメッセージなんです。「自分でメディアを作っている」ということに関しては僕らは一次情報を出していると思っているんですよ。
 僕はもともと編集者出身というところがあって、半分プレイヤーで半分プロデューサーなんです。プレイヤーである評論家・宇野よりも、実はプロデューサー・宇野の方が「一次情報をつくる」というのが実現できている気がしますね。
 もちろん評論でも、僕らがなにか言葉を投げると、言葉を受け取った相手のものの見方が変わるということが起きる。この動きこそが本質的なことだと思っていて、その動きを起こす「素材」としては、スポーツでもアニメでも漫画でも何を使っていてもあまり変わらないと思うんです。だから僕は最近、「素材」に対してのこだわりみたいなものは薄れていて、「どれだけ世の中の見え方や世界の見え方を変えるような言葉を出せるのか?」というところに興味の比重が移ってきているんです。

吉田 なるほど。もう大体の人が気づいちゃっているかもしれないけども、僕がやろうとしていることも似ていると思います。それがやりたくて僕も「吉田尚記の場外ラジオ #jz2」なんていうイベントをやっているわけですから。普通に考えれば、ラジオ局のアナウンサーが対談イベントをやる必要なんてないわけですからね。
 しかし宇野さんの話を聞けば聞くほど、僕らは似通ったところがあるな、と思います。それで僕が宇野さんを見ていて一番いいなと思うのは、「楽しそう」だということなんです。

宇野 そうですね。ちょっと評論家っぽいことを言うと、日本の知識人って楽しくなさそうだからダメだと思うんですよ。

吉田 ホントそうですよね! 俺もすごくそう思いますす。

宇野 基本的に、彼ら知識人は大衆は馬鹿だと思ってるわけで、「でも、それでも諦めずに、メッセージを発信し続ける俺カッコいいでしょ?」と支持を訴え、自己陶酔しながら死んでいく。つまり、ナルシシズムと自己同一化しかメッセージがないんですよ。それだと熱心な信者は生まれるかもしれないけども、外へ向かって広がっていくような波及力が生まれない。
 だから僕は、知識人とかジャーナリストの語り口を変えなきゃいけないと思っていて、「ただ自分自身が楽しくて、ワクワクするからやるんだ」ということを出発点にして、それを恥ずかしがらずにやっていこうと思っているんです。

吉田 まったく同意です。「世の中、大変だよね」みたいなことをいう人がすごく多いけど、「何でだろう?」と思っていたんです。冬になると寒いけど、今年は『THE IDOL M@STER』の映画が公開されるから楽しみじゃないですか。
 でも、僕に関しては、そういう「世の中の楽しさ」をみんなに伝えなきゃ! ということはあんまり思わないんです。「あまりにみんな暗い顔してるから、俺だけでも楽しく生きよう」ということに近いんですよね。
 さっき、オタクがどんどんカジュアル化していったという話がありました。僕がずっと思っていたのは、オタクって「楽しそう」なんですよね。悲痛なオタクってあんまりいないでしょ。AKBの総選挙で大量に投票したけど順位が低かったオタクは「こんな順位か……」という顔をしてるかもしれないけど(笑)、でもそれも楽しさのうちなわけですからね。

宇野 まったくよっぴーさんのおっしゃるとおりですね。

吉田 これも宇野さんと話してみたかったんだけど、僕らぐらいの世代だと、おそらく宮台真司にコンプレックスを抱いている人が多いと思うんです。で、宮台真司を読んでいると、師匠筋の見田宗介の話が出てきますよね。僕が大学生くらいの頃、見田さんが『現代社会の理論』という本を出していたんですが、これまでずっと人文社会系の学者や知識人の間で「資本主義ダメ!」みたいな風潮があったなかで、見田さんはその本のなかで「いやいや、資本主義いいじゃん」ということを言っていた。
 今でも覚えているんですけど、この本のなかで「システムの輪としての幸福は情けないということをよく言うが……」という記述があって、これを逆に読み解くと「幸福の輪のためにシステムがあるんじゃん。それの何がいけないの?」ということになるわけで、僕はまさにそのとおりだなと思って生きてきたんです。
 それと同じことが、オタクと、難しいことを考えている人との間で起きている気がするんです。難しいことを考えている人の方が頭良さそうに見えるけど、楽しくなさそうなんですよね。それに対して、オタクはみんな楽しそうなんです。事実、俺はすごく楽しい。だから難しいことを考えている人たちは放置でいいんじゃないかなと思ったりします。
 先週ちょうど「Anime Japan」っていう世界最大のアニメイベントのプロデューサーに会ったんですけど、その人がある難しい会社の人と話すところになぜか僕も一緒にいたんです。その時にプロデューサーが「彼らオタクは楽しむ天才なんです」ということを言っていた。まったくその通りだと思うんです。
 
 
「『頭の良さ』を『楽しさ』に投資する」ということ
 
宇野 昔のオタクって、いい意味でルサンチマンのパワーだったと思うんです。世間が訴える「男らしさ」みたいなものにストレートに憧れられない人たちが、ロボットアニメとかを好きになって、日本独自の文化として豊かに進化していくということがたくさんあった。
 でも今は、それだけにとどまらない別の可能性が生まれているでしょう。それがまさにオタクのカジュアル化が象徴する、オタクの「楽しさ」なんですね。僕が考えるオタクの面白いところって、ある種の性的な屈折だけではなくて、「自分の外側にすごく好きなものがある」ということなんです。自分を着飾ることよりも、自分の外側にある美しいものを愛したいとか、そういったかたちで自分の外側にナルシシズムを渡してしまって、それをもう一度自分のなかに受け取る。これはやっぱり、普通の人とはナルシシズムの持ち方が違っていて、そのことがいろいろ面白い文化を生んでいると思うんです。

吉田 昔の評論家の人たちの「自分が好き」とは違いますもんね。

宇野 そうそう。たとえば、僕はあまり好きな議論ではないんだけど、サブカル対オタクみたいな文脈ってあるじゃないですか。僕が思うに、80~90年代にはいわゆるオシャレカルチャーが渋谷を中心に東京の西側にあったけど、今は特定の土地と結びついていない、ネットワークを中心としたアニメとか漫画のほうが力が強いというだけで、それって流行の流行り廃りの話でしかないと思うんです。ただ、そこで一点だけ分析的なことが言えるとすれば、サブカルはファッションだけど、オタクってパッションなんですよ。

吉田 おお……! なるほど!!

宇野 ちなみにこれはツイッターで僕がこういう話をしたときにリプライを送ってきてくれた人の言葉で、著作権が彼にあることを明言しておきます(笑)。話を戻すと、これからのオタクは、自分の外側に面白いものがあるとか、同じキャラクターが好きとか同じメカが好きとかいうことで無限にいろんな人とつながっていって、二次創作がいっぱい生まれていくとか、そういう独特のコミュニケーション様式を武器にして面白いものを作っていくという方向を追求してもいいと思うんです。まあ、現実も、勝手にそうなっているわけですが。

吉田 たしかに、そういう動きは自然に起きていますよね。僕が思うに、昔のオタクの人が言うようなルサンチマンって、要するに楽しくないじゃないですか。誰かに対する恨みを持って生きていても……。俺からすると、もう「楽しむ」という方向しかないし、その方向性が勝っていくのは自明でしかないと思うんですけど。

宇野 これは難しい問題ですよね。もちろん僕らからすると、それは自明のことだし、その世界を信じてガンガンやっていく。そういう人たちが若者を中心にたくさんいます。ところが、やはり日本は高齢社会で、特に年上の人たちを中心に、今僕らがしゃべっているようなことを、まるでまったく別の国のファンタジーのように聞く人のほうが、数でいえば圧倒的に多い。濱野智史の言葉で言えば、「昼の世界」の住人ですよね。

吉田 でも、その二者が山手線で隣に座ってたりするわけでしょ?

宇野 そういった人たちにもう一つの「夜の世界」があるということをわかってもらうのは、すごく難しいんです。例えば「インターネット上には地理に囚われないコミュニケーションの可能性がどんどん広がっていて、そこにクリエイティビティがある」という話を、僕らは体感的に知っているし信じているんだけど、それをおっさんたちにわからせるのはすごく難しい。「ネットって言ってもどうせ効率化とコストカットにしか役に立たないでしょ?」とか言われちゃうんですよ。

吉田 でも、その人たちにわかってもらう必要ってあるのかなと……。こう言っちゃなんですけど、30年したらみんな死んじゃっているわけだし。

宇野 だから最近の僕は、説得とか関係なく、「できるかぎり彼らにスルーされながら勝手に幕府みたいなものを築くにはどうしたらいいか」ということを考えていることが多い。

吉田 そう考えたとき、それを実現可能なプランにしなきゃいけないわけじゃないですか。僕に関して言えば、「自分一人が楽しければいい」という戦略はほぼ完成しているんです。僕が仮にラジオのアナウンサーの仕事をしていなかったとしても、一生楽しく生きていくだけのものがある。要するに僕が持っている録画メディア、DVD、Blu-rayだけで、平均余命を絶対に超えている自信があるということです(笑)。

宇野 僕もですね(笑)。死ぬまでに10回見たいと思う作品だけで超えてしまいそうですね。

吉田 だから僕はもう自分の人生は面倒を見きったと思っている。しかも、どんどん新しくて面白い作品が生まれてくるわけですよ。もう楽しくて、自分のなかでは「あがりー!」って感じなんですね。あとは、普通に仕事ができるような健康だけ確保できれば、おそらくもう大丈夫です。
 でも、だとすると、まず自分の楽しさが第一にあったとして、じゃあ次に何かをしようとしたとき、何かしっかりとしたプランが必要になるんじゃないでしょうか。

宇野 僕が思っているのは、今の世の中って、能力があって面白いことを考えている奴ほど生きづらい世の中になっているんじゃないかということなんです。そういう奴らが能力を発揮したほうがもっと面白い世の中になると思うし、そのためには積極的に外の世界と分離して、新しい世界を作らなきゃいけない。
 そう考えたとき、AKBって一番うまく表の世界と付き合っているように思えるんですよ。「夜の世界」から生まれてきた人たちが、どうやってお役所や大メディアのような「昼の世界」と関係していって、かつ自分たちの世界を守ってきたのか、というお手本を秋元康さんに見ているんです。

吉田 なるほど。いま初めて宇野さんと意見が違うかなって思ったのは、僕は逆に、本当の意味で頭のいい人って、頭の良さを楽しさに使うんじゃないかと思うんです。