キーとなるマーケティング部内はどんよりとした雰囲気が漂っていた。一人の中堅の男性社員が暗い表情で話始めた。
「杉並部長は昔は業界紙や報道番組に取り上げられるのるほどのマーケターだったんです。CM賞もとるクリエイティブもあるし、営業成績を残すバランス感覚があります。僕は電信堂の社員だったんですが、利益重視主義にうんざりして、だって30代なら毎年10億、10社は担当しなきゃあいけないんです。給料は良かったですが、時給に換算したら・・・まあそんなとき南雲社長の共同体ビジョンを社内外にスマートかつ効果的にPRして30年以上に渡って大正電力の伝道師として活躍された杉並さんと出会いまして今の自分があります。何卒、わが社をよろしくお願いします。」
「できる限りのことをさせていただきます・・・。」
気がつくと、部内社員全員が小林に頭を下げていた。
水先が杉並マーケティング部長の部屋に行くまでに、杉並の経歴と現状を補足してくれる。
杉並哲郎55歳。年齢は沼田専務など現経営陣と変らない。入社時は南雲直属の企画部に在籍し、28歳にして社命で2年ロンドン留学、帰国後マーケティングと言う真新しいメソッドを大正電力の持ち込み、マーケティング部を立ち上げ以来、25年マーケティング、広告業界で常に先端を行くキーマンとして注目を集め続けた。マーケティングを始めて日本に持ち込んだ一人と言われる。「杉並さんは南雲社長の懐刀と言われています。バブルの時代も派手な広告を控え、着実に予算を増やしていました。銀行の過剰融資を回避していましたが、市場が飽和状態に近づいていたのです。こちらが杉並執行役員のお部屋です。」水先が軽くノックをする。
「総務の水先です。明智MKの小林さんをお連れしました。」ゆっくりと足音がして、杉並が自らドアを開けて迎えてくれた。「どうぞ、お待ちしていました。水先さん、ありがとう。慎重は175cmはあるだろう、彼ら年代にしては大柄な杉並哲郎は、昨日会議で同席したが挨拶はしていない。目の前にした杉並氏は、とても大きく見えた。しわや白髪の多さが年齢以上の印象を相手に与えている。「小林です。今日はお時間ありがとうございます。」名刺を交換しながら、杉並は着席を促した。「とんでもない、さあおかけください。」水先は「私は外でお待ちします。」と言って、さりげなくドアを閉めた。
入り口右手にはcm賞のトロフィーや盾が所狭しと並び、応接用の椅子は茶色の革張りで仕事机及び本棚も含めクラシックテイストでそろえら手いる。欧米の学者の部屋を思わせた。本棚にぎっしりつまった飾訂本も絵画や写真、映画を中心に西洋、東洋の文学集もある。マーケティングや広告に関する本はない・・・。室内のアート感覚に見せられ手いる小林を杉並の目線がとらえた。「すいません、つい見入ってしまいました。良いお部屋ですね。」「ありがとう。」欧米感覚なのか、謙遜せずに杉並は答えた。「マーケティングの分厚い本や、広告関連の本はおいてないんです。絵や、文学の歴史は長く、含蓄を含んだものが多い、比較的歴史が浅い学問であるマーケティングや広告はそれを何とか権威付けしたいように重くて分厚い本をだしたがる。マーケティングの事例は企業と同じ数が存在します。相応した広告の事例なども多い。だがそれを持ち歩いて考えるのが私らの仕事ではないのでね。」現場で常に生のマーケットを見続ける、それがmarketingだということですね。「クリエイティブは、祖先の残した芸術、文学にヒントがあると思ってます。」
カンヌやニューヨークで賞を取ることよりも、現地でのアートとの出会いや、ユーザーの評判の方が参考になるし、醍醐味を感じること。数々のクリエイティブ賞のユーザー評判や、成功要因について、顔をほころばせて話す杉並はアート肌なのだと小林は感じた。性格がアートだけに、南雲社長はロンドンへ留学させ、理論を学ばせたのだろう。
アートな人間が社内政治に向かないことは、杉並の顔見れば一目瞭然であった。
執行役員部長の杉並は改めて現実にひきもどされるように複雑な表情で小林を見た。
「小林さんには、我々スタッフにかわり、社内マーケティングに活躍してもらい本当にありがたい。これは部員及び関連会社8000名の嘆願書です。」
「嘆願書?まだ南雲社長がおやめになると決まったわけではないですが。」
「その通り、でも社長が勇退をよぎなくされたときは社内でもっとも南雲体制を信じているマーケターたちの思いを経営陣にぶつけたい。」
「ありがとうございます。でも、まだ」
「あきらめてはいないんですよ。ただこの雰囲気を見てもらえばお分かりの通り、いくら40年の南雲ビジョンを信じたいと思っていても、会社のボードメンバーが沼田専務の利益重視主義になびいており、すなわち南雲社長の進退が危ないという現実を感じている。私たちマーケターは大正電力の伝道師です。だから余計にその現実の重さを感じてまいってしまっている。伝道師というと、いささか宗教じみているが、南雲ビジョンは社の精神的支柱なんです。」
精神的支柱、今の日本企業にどれだけ支柱となる人物やビジョンがあるだろうか。
戦後GHQは天皇陛下は日本の精神的支柱だから、残したという。敗戦国への哀れみではない。天皇の精神的影響力が大きかっただけに、天皇という精神的支柱がなくなれば国民は再度立ち上がりアメリカに抵抗すると考えた末の、賢しい戦略からである。
現にアメリカが戦争に勝って、占領に成功した国は世界でも例は見ない。
南雲ビジョンすなわち大正電力の精神的拠り所となる考え方は、リッツ・カールトンやオリエンタルランドに負けない、日本的サービス精神を表現していた。元来日本人が持つ、礼節や慣習がサービスとは違うことが良く分かる。南雲ビジョンを明確に映像化したCMや広告を見せながら、淡々と語る杉並には往年の覇気こそないものの、伝道師としての円熟味が感じられる。マーケティングの最高責任者から直接“教え”を受けたことで小林の理解度は高まった。同時に精神的支柱を守らなければいけないと思った。
「教え、ビジョン、社長自身が人を一つにさせると信じていた。」
愛国心にかわり、愛社精神がこの国を成長させてきたことは事実だ。数字、利益目標が、愛社精神にとってかわろうとしているのだ。どうしたらいいのだろう。その答えを求られて、私はここにいる。私がすぐに答えを出せるほど簡単なことではない。沈黙と思考を止めて杉並は一つの箱を小林に手渡した。真ちゅう製の30cm四方の箱は軽くはない。鍵がかけられて開かない。
「ここに南雲と大正の全てがあります。鍵はこれです。明智さんに箱を渡して、小林さんがかぎを持っていてください。必要なときが来たら開けて使用してください。」
ものには魂が宿るという。使用した人間の思いが残るのだ。箱は小林が持てる重さだ。嫌な雰囲気は感じられない。何がしまわれているのだろう。いわゆるパンドラの箱だろうか。大正電力が隠す事実や事件・・・いやそんなことはない。私は“必要なとき”が来るまで中身を知らなくていいのだ。
「よろしくお願いします。」まるで全てを託してどこかへ行ってしまうようだ。小林は言葉ではなく目で応えて、大正電力のビショップから箱を受け取り部屋を出た。
杉並執行役員の扉をでると、水先が柔らかな笑顔で迎えた。
「お疲れ様です。」
「お待たせしましたか。」
「いえ、1時間きっかり業務をこなして、今きたばかり。」
「もう少しマーケティング部の人間をご紹介しましょうか。」
「はい、よろしくお願いします。」
水先が再び大正電力社史を続けた。「創業から20年、時代が明治から大正に変った頃、くしくもわが社の電信網、当時は木の電信柱が関東及び関西を結びました。でもまだ日本ではランプ灯がほとんどでした。普及率20%。小林さんの世代なら信じられないでしょう。当時の日本は現在日本のように東京一極集中ではなく、各地方で重軽産業が個別に活動していました。八幡製作所や三池などの炭鉱、女工哀史の繊維も本社は東京ではなく書く地方に存在しました。これは戦後しばらくまで続きます。」
豊島課長のデスクまで進んだところで、話を一旦終了した。豊島は小林を待っていたかのように、デスクから歩みよんできた。
「課長の豊島です。」
「小林です。今日はお時間ありがとうございます。」
「いえいえ、ちょっと飲み物でもいかがですか。私がデスクであなたが椅子で面と向かっては、上司と部下のようだ。応接室に移動しましょう。」周囲の目がきになるのだろうか。豊島は水先を残して、小林をエレベーターホールへと連れ出した。エレベーターに入ると、屋上のボタンをおした。屋上はもちろん応接室はない。そこはオールドファッションのカフェがあった。ドアをあけると、1フロア分全てが食堂なのだが、食堂というよりカフェだ。銀座のロマン館を広げたイメージだ。ウェイターもいる。豊島は小林に飲み物を尋ね、注文を受け取って外へ出た。社員食堂のある最上階は日比谷の新しい高層ビル群を下から見るかたちになるが、ニューヨークの古い建物の屋上を思わせる。ビルの狭間で休息も悪くない。大正モダンの社員食堂とレンガ作りのテラス。名前の通り、大正モダニズムが現代に息づいている。豊島がレモネードを小林に渡した。夏はビールといいたいところだが、昼間はフルーツジュースがいい。
「すいません。部内ではおおっぴらには話せないこともあるもので。」
「いえ、事情は理解しています。素敵な社員食堂に連れてきていただいて。気がつかなったと思います。」
大正電力のビルは日比谷駅から地下でつながっている。縦200m、横400mの外装は東京駅を建築した辰野金五郎の作品であり、重要文化財に指定されている。大正建築の代表としても有名だ。内装もできる限り大正モダンを維持しながら、エレベーターやシースルーの会議室などの現代建築とうまく融合させている。九段の@@会館や迎賓館ほどの派手さはないが、屋上のカフェを社員食堂にするとは見えないお洒落だ。
「恥ずかしながら、部内も一枚岩ではなくてね。営業部のように数字重視の人間とは一線引いてるんですが。やはり、数字は重要だという意見もある。会社というのは社会の縮図だというでしょう。会社がふんばりどころにあるときは、人間本音で動きます。
動けない人間、動こうとしない人間、口を閉ざす人間、私のように声を上げて内部を動かそうと言う人間。当然反対派で動くものもいる。部長にお会いになったんでしょう。杉並執行役員が力不足だったわけじゃないです。南雲ビジョンに利益重視と銀行側の圧力があることが問題なんです。我々大正電力はエコプロジェクトの最後の抵抗者ですからね。1企業が国に強がっているようなものなんです。エコプロジェクトはビジネス目的の“プロパガンダ”とまでいいませんけど・・・国の方針がビジネスでいいでしょうか。国こそ、国民全体に“奉仕”するのが正常でしょう。いくら杉並さんが伝説のマーケターでも、大多数の企業と、国家の“ビジネスマン”が相手では、勝負になりません。」
「どうでしたか?」
時間は万物に平等。聖人にも時間は限られているのだ。執行役員の水先が案内をしてくれることじだい無理をいっているのだ。めがねをかけ、懐中時計を見たあと、急いで手帳をめくりる姿もゆったりとしたものを感じたが、「申し訳ありません。後10分で部長会議にでなければいけません。今日はここまで、明日改めて案内をさせていただきます。」
そういって、小柄な身体に初速をつけて走り去っていった。
そうだ。水先を見て、何と表現したらいいか、一つ気にかかっていた。せかせか、ではないか、不思議の国のアリスのせかせか兎に似ている。
「忘れてました。総務へ行ってください。この名刺をさしあげます。」
総務部長代理 水先一郎。5分後に名刺の男にあったときには驚いた。水先と瓜二つの、しかし少々曲者顔の中年男と差し向かいで面談している。総務“部長”の水先は白兎、こちらは灰色兎ってところかしら。