真田と思わぬ遣り合いをしたせいか、頭の方も一旦冷えて、一歩下がって出直す決心はついた。いわれのない悪夢から始まって独自に洗い直したこの事実について、まだ放棄するのは早過ぎる。そのことも、よく分かっていた。

ここで諦めるほど、成果が上がらなかったわけでもない。もちろん、大きな壁にはぶちあたったにしても、推理を進める取っ掛かりは出来たのだ。これに確証を伴う裏づけが見つかれば申し分ない。

塚田と菅沢が証言した内容については確かに、金城や捜査本部を納得させられるような話ではまだないが、個人的にはかなり信憑性の高いものだと、薫は思っている。二人の証言内容について書いたメモを要約してみる。

 

①わずかな期間で、美琴は別人のように変身した。

②そして誰もが持ち得ないような強大な権力を手に入れていた。

 

くしくも無関係の二人の人間が揃って同じ内容を証言していることが、まったくの偶然とは思えない。

もともとのネタ元が塚田の可能性もあるが、菅沢の携帯を薫は念入りにチェックしても、彼はまだ塚田と接触した形跡は見当たらなかった。このことは逆に考えると、当の菅沢自身が例の売春の黒幕について、その正体が嶋野美琴を取り巻く数名のグループであることを知ったのが、ごく最近のことであると言う事実を端的に示している。もともと彼は、取材を諦めていたのだ。期せずして突破口が開けて、狂喜したことは想像に難くない。

菅沢の着信履歴の中に不審な「非通知」が頻繁に登場するようになるのは、美琴の遺体が発見され、事件が報道された前後になっている。言うまでもなくこの「非通知」が菅沢の情報提供者であるとして、タイミングから考えてもこの人物は、嶋野美琴の裏側の顔の、相当深い関係者と見て、まず間違いはないだろう。

言うまでもなく、密告者は菅沢が掘り当てたのではなく、取材に頓挫して煮詰まっている彼の元に偶然、向こうから飛び込んできたものだ。彼にとっては確かに、思わぬ救いの神と言っていい。

ただ、その菅沢が運命に与えられたチャンスを、今のところ、満足にものにしているとは、到底言いがたい。暴露情報の発信者として菅沢は、ほとんど無力な存在だ。反対に情報を提供する側にしてみれば、これほど甲斐のない相手もいない。それなのになぜ、この人物は菅沢などに接触したのだろう。

情報を流す対象を大手マスコミや捜査機関にしなかったのは、言うまでもなく、真相が追及されたときに自分の素性から罪状までが白日の下にさらされてしまうのを恐れたからとも考えられる。そのことから考えても菅沢はもしかしたら、この提供者の素性を定かには知らされてはいなかったのかも知れない。

非通知で好きなときに一方的に情報を横流しすることで、菅沢に対してイニシアティヴを取ろうとする接触のやり方からも相手が持つ警戒感の度合いは想像できる。なにしろこの人物が流したのは実名入りの、それもかなり具体的なスキャンダルなのだ。

満冨悠里と野上若菜が恐れているのも、十中八九、この人物だろう。恐らく彼女たちは、この密告者の正体をよく知っており、美琴の遺体が発見された時点で今、自分たちの間でなにが起きているのか、いち早く理解していたに違いない。

だから、警察が動き出す前に売春クラブの事実も含めて後々、自分が不利益になる証拠を始末して回ることに手を尽くしたはずだ。ちょうどあのときの、薫に聞かれてはまずい相談の中身は、削除された美琴のブログやホームページに代表されるような証拠品の始末について議論をしていたと、ほぼ見ていいだろう。

ところで彼女たちにとっての裏切り者は一向に、警察に駆け込む気配を見せない。今までやったことと言えば菅沢を使って、ネットに暴露記事を載せさせたことぐらいだ。これはもしかすると、それが精一杯だからなのかもしれないとも考えられなくもない。

たぶん、その提供者は、美琴の殺害に深く関わっているのだろう。犯行に当事者かそれに近い立場で立ち会ったか、少なくとも、公の場に姿を現した時点で、そのまま、自身がなんらかの嫌疑を受ける圏内にいるはずだ。知っていることを話すと美琴に手を下した犯人から復讐されるのか、もしくは、その件で確実になんらかの不利益を被ることがあるのか。

売春は公にしたいが、殺人の嫌疑を受けることだけは避けたい。提供者が裏で動きたがる真意は、そんなところだとすれば。満冨と野上、彼女たちも恐れているが、菅沢の情報提供者もなにかを恐れているのだろうか。

(『マキ』とは違う?・・・・・じゃあ、あなたは一体誰なの?)

「マキ」の名前に至るまでの道のりはいまだ険しく、ゴールはまだ、見えてきそうにない。

(でもまだ届かない場所にいるわけじゃない)

「マキ」は実在するのだ。

必ず、うろついているに違いない。

満冨悠里と野上若菜、そして薫の周辺を。

こうしている間にも、悪夢は絶え間なく、薫を責め立ててくる。いまや突発的にやってくるイメージは薫自身の記憶の断片と化し、唐突に薫の意識をジャックしてくるその感覚は、彼女自身の肉体に直接与えられた衝撃に、ほぼ近づきつつあった。

 

電車のシートにもたれて眠っていたはずの、薫の足は剥き出しになり、宙をかすかに掻いて今、左右に揺れている。

 

若い肌の張りきった裸の足、艶のある黒い毛の萌えた陰阜、これらはみずみずしい光沢を帯びて、まんべんなく、臭気のある液体に浸っていた。まるで失禁したかのように、気分が悪い。冷たい風が一気に空気中に水分を揮発させていくのが分かる。

刺激臭。恐らく灯油か、ガソリン。死を確実にするための補助剤。ちょうど昔、魔女を焚刑に処するとき、素肌にコールタールを塗りつけたと言うのを何かで読んだ。

死の使者は、無言のまま足元にうずくまっている。深い緑色のプラスティックケースに包まれた、ホームベースサイズの、無愛想な物体。もう千年近くも岩陰で眠っていた亀のようなボディからは、無数の白い紐が伸びだしており、それはちょうどドアのない戸口の向こうに遠く続いている。

「なんだよ、また、ハズレかよ」

ドアの向こうから、うんざりしたような声がした。

「鶴見さん、リタイアだね」

「残念でしたー」

息を詰めて見守っていた沈黙から一転、緊張の切れた雰囲気。

「つか、本当につくのかよ、これ」

男たちは談笑しながら、ぞくぞくと戸口から入ってくる。

「馬鹿、どこから買ったと思ってるんだ。米軍だぞ」

「これ、ヴェトナム戦争かなんかのときの骨董品だろ」

「だから、そんなに古くねえって」

「いいから、もう一回、よく点検しろよ」

舌打ち。談笑。ビールの缶に誰かのつま先が当たる。けたたましい音の無限の反響。

男たちは、みな、携帯電話を手にしている。朦朧とした意識に視界は霞がかって、そのどれもに印象はないが、とりあえず、面子の中に女性はいない。

このうちの誰かが「マキ」なのか。マキは男?

この中の誰が?

男たちは吊るされた身体には目もくれずに、血走った目でディスプレイを見つめて、黙々と片指でキーを叩いている。仲間内での和んだ会話の雰囲気から一転、誰もがわき目もふらず、お互い、一切言葉を交わそうともしない。

その異様に一心不乱な集中力は、正常な大人が日常生活で失ってしまったもの、すべてを賭けたギャンブルに狂った人間の、ひどく思い詰めた眼差しを思い起こさせた。中には泣きそうな顔で携帯電話にかじりついている男の顔すらある。彼らは決して、この猟奇的な殺人自体に目的を見出しているようには見えなかった。

「ちゃんと繋がってるよ。絶対、間違いない」

足元の声がぼやく。しかし誰も、携帯電話から顔を上げない。

「なあ、大丈夫だってば」

「本当だろうな」

「そもそも後、何本残ってるんだよ?」

作業から解放された誰かが声を上げた。足元の男が答える。

「一応、あと五本にした」

「いいか、これはフェアなゲームになんだ。ブービーのやつも含めて、見て分からないようにまた、ちゃんとばらしとけよ」

「分かってるっつの・・・・・言われなくても」

「なあ、速攻狙いの二人はもうリタイアだろ?」

「そりゃないぜ。不発は仕切りなおしじゃないのか?」

「そんなルールねえっての。負けたやつはそこで終わり。だからこその、フェアなゲームだ」

フェアなゲーム? いったいなんの話をしているの? それぞれに夢中になったこの場の誰もが、他の人間の意志に応えてくれそうにない。

「・・・・よし、送信OKだ。折り返し、再開の合図が来る。そしたら、第二ラウンド開始だぞ」

「時間のことも考えろよ、せいぜい、あと三十分だ。タイムリミット守らねえと元も子もないんだからよ」

「そうふてるなよ。お前、チャンスがなくなったからって」

「おい、女、気絶してるぞ。・・・・・早く起こせ。さっきみたいにろくに話ができない状態じゃ困るぜ」

「薬、おれ扱えないんだけど」

「ぶっ飛ばない程度にやれよ。正気じゃなきゃ、このゲーム、成立しないんだからな」

「おい、やれよ、鶴見。お前の役目だろ、いい加減にすんなよ」

「分かってるよ」

誰かがやってきた。後ろに回る気配がした。

首筋を掴まれて、あごを持ち上げられる。自然と、弛緩した唇が開いた。

「・・・・・効きすぎじゃねえのか、これ」

誰かがぼやく声。側頭葉後野の彼方から、うつろに響いてくる。

自分のすぐ背後の頭上。見守っている誰かがいる。

そいつはいつも、訳知り顔で地上の世界を見下ろしている。祈ることでその声が届くような気がするときもあるが、生きている人間にその存在の不確かさや世界の見え方が分かるはずがないのだ。

「来たぞ、すぐに再開だ」

反響も滅茶苦茶に。

「起こせ」

声が響いてくる。

「・・・・・・・・・・・」

わたしは。

「選ぶんだ。お前の命綱を・・・・・そうだ。・・・・・後三回、ハズレを引いたら、解放してやる」

「・・・・・聞いてるのかよ?」

「おい、ちゃんと女起こしたのか」

薫は、いつしかその吊るされた肉体に変わって訴えている。

とうに起きているのだ。

声を出す気力があったら、とっくにそうしていたろう。

血を噴くような絶叫を。全力で身をよじって、抵抗を。

男たちの姿も見ているのだ。みな、同じ目をしている。

「マキ」はいない。ここに。・・・・・それもよく分かる。

「マキ」

だが、わたしはその名前を呼ぶ。彼女? そう、彼女は、わたしの意識の中に最期に、一人だけ残った人間の名前だから。

「準備完了。・・・・・いくぞ」

美琴には出来ない。薫が叫んだ。

 

「やめて」

 

誰かが、絞首台の羽目板を落としたのだ。

がくん、と、浮遊、落下する感覚があった。

深い、奈落の底に。

足が空を掻いた。

その瞬間、目が覚めていた。

薫は、はっ、と声を上げそうになって、あわてて辺りを見回した。夢につられて、身体が落ちていくことに反応してしまっていた。危なかった。また、引きずり込まれたのだ。シートの揺れも匂いも、辺りの喧騒も、すべてはさっきと同じように元に戻ってきている。夢が夢でなくなる瞬間がいつか来るのかもしれない。

美琴が、薫に。他人が味わった死の記憶が、完全に自分のものに。

例えばもし。やがてそうなるとしたら。

「・・・・・・・・・・」

まだ、心臓が早鐘を打って危機の余韻を訴えている。ずきんと突き刺すような痛みが薫の呼吸を止めた。声にならずに、あえぐ。死を、体感したせいだ。しばらく呼吸が出来なくなった。

薫と差し向かいのシートには杖にもたれて和服を着た身なりのいい老婆が、うとうとと眠り込んでいた。彼女はそこでそのままもう半世紀近くも、夢の中で安らぎを得ているように薫には思えた。

その幸せそうな顔を見ながら、きりきりと痛む心臓を押さえこんで、薫は大きなため息をついた。

 

「思ったより時間かかったな、大丈夫だったか?」

金城はすでに、当番の捜査員との引継ぎを済ませて待っていてくれたようだった。弔問客の中に、今のところ不審な人影は見当たらないらしい。

「お陰で上手くいったわ。兄と両親との話も、どうにかまとまりそう」

善意の金城に嘘をつくのは、どうも心苦しかった。

「急にわがまま言っちゃってごめんね。本当に、感謝してる。この埋め合わせは必ずするから」

「いいから気にすんな。まあ、肉親でも一緒に暮らしてりゃ、行き違いとかはあるさ」

「マキ」を見つけ出して、本当のことを話すことが出来るのは、一体、いつのことになるだろう。気は重いが、めげている暇はない。今日の参列の中にも、「マキ」がいるかも知れないのだ。

「それより公安に気をつけろよ。あの真田のやつ、いきなり乗り込んできてこっちの捜査を、大分掻き回してるらしいからな」

「そう」

「捜査に口出されたりして、みんな、ぶーぶー文句言ってるよ。一体、なに狙ってやがんだかな」

「ふうん」

金城は太い首の後ろを手で撫でて、右に傾げた。

「・・・・・真田から、なんか聞いてないのか、お前」

「別に?」

薫も訝しげな金城に合わせて、不思議そうに首を傾げてみせる。

「捜査に出るのに時間もなかったし、すぐに出ようと思ってたから。わたしも、真田さんの話は全然聞かずに断ったのよ」

「もしかしたらお前が断ったから、腹いせに色々立ち回ってるんじゃないのか?」

「そんなひどい断り方したつもりは、別にないけど」

「・・・・・あの公安、お前に気があるって話だぞ」

「まさか・・・・・・馬鹿なこと言わないでよ」

薫は相手にしないと言う風に首を振って、笑い飛ばした。まったく、うかつなことは言えない。また変な噂が再燃しないとも限らないのだ。下手なことを話すと、どんな誤解されるか知れたものではない。金城も冗談めかして聞いてはいるが、そう言うことを聞くとき、言葉が構えているのがよく分かる。

(でも、真田さん、本当にどう言うつもりだろう?)

そもそも真田が追っているのは、金融やくざの使い走りのはずだ。それなのになぜ、この件に口を出して回るのだろう。自分の扱っている案件と美琴の事件は、同一線上にある事柄の枝葉だみたいなことを言っていたが、女子高生の殺人事件が海外を股にかけて暗躍する非合法組織のいざこざと、関わりがあるはずがない。

ただ薫を引き抜くことが出来ない腹いせのために、捜査課に圧力をかけたり、思わせぶりな嫌がらせをしたりしていると言うのは、それこそ邪推だろう。確かに真田は、お世辞にも平衡のとれた人格の持ち主とは言いがたいが、そんな陰湿なやり方を好む男ではないし、仕事がらみでなければ、他局の捜査に口を出す余裕があるほど暇な身体とは思えない。

それにさっき唐突に現れて菅沢を痛めつけたのは、もちろん偶然のはずはない。単独行動をとっている薫のことも、ある程度知っているような口ぶりだった。

「あ」

そのうち、薫のバッグの中身がぶるぶると振動しだした。金城が、怪訝そうな顔をこちらに向ける。薫のではない。菅沢の携帯に着信があったのだ。薫はあわてて、電話を確認した。例の非通知ではない。菅沢本人からのものだろう。

「どうかしたか?」

「うん・・・・・親よ」

メッセージの内容を確認しながら、薫はまた嘘を言った。

「なんだって?」

「・・・・・今、無事、うちに着いたから心配するな、って」

伝言メッセージには、脅しとも恨み言ともつかない声が吹き込まれていた。真田か薫か、電話を持っているのがどちらか、見当がつかないせいか、かなり遠まわしな脅し文句だった。

「おい、これ見とけよ」

金城が薫の前に四つ折にしたプリントアウトを差し出した。

「不審車の目撃証言を洗っていた班の情報をもとにして作成された犯人グループの一人の似顔絵だよ」

「・・・・・・これが?」

「念のためだけど、万一ってこともあるだろうからな」

そこには年齢三十歳くらい、薄っすらと無精ひげを生やして、眼鏡をかけた丸っこい顔の男のバストショットが描かれている。この男が美琴の遺体を積んだと思われるバンを運転していたらしい。

一見して見覚えはなかった。

ついさっき悪夢で見た、男たちの面子にあるかと思ったのだが。

(それほど都合のいいものじゃないのね)

美琴が薬を使われていたためか、ひどくぼんやりとしたイメージだけが、薫の頭の中に残っているだけだ。言えるのは、男たちは話し振りや雰囲気から、二十代後半から三十代前半くらいの若い男たちで、人数は確認できただけで四人と言うこと程度しかない。

『鶴見』と言う固有名詞も登場した。彼はもっとも近く、美琴の傍に寄った。彼の額から下、鼻の辺りまでがどうにか、薫の記憶にも印象としては残っている。

「どうした、薫。もしかして見覚えあるんじゃないか?」

「え・・・・・うん、少しね。高校のとき引っ越した、ずいぶん会ってない同級生とか、思い出したりしただけ。たぶん、完全に人違いだと思うけど」

「まあ、ありふれたご面相だからな」

金城は難しい顔であごをひねると、似顔絵の男の鼻っ面を指で弾いて、

「正直、おれもどうも似た顔のやつ、二、三人見かけたことある気がしてならないんだよ。そんなに話もしない、高校の同級生とかな。見たとこちょうど、おれらくらいの年頃だろ、こいつ」

わたしもそんな感じよ、と言うように薫は軽く微笑んで見せた。葬儀なので、歯は見せられない。金城はわざとらしく時計を確認すると、

「始まったらおれ、奥の出口辺りで監視してるよ。なにかあったら、電話で連絡くれよ」

胸ポケットの電話をマナーモードして、金城は去っていった。

途端に壁際にもたれると、薫はため息をついた。金城と接するのが辛いのではなく、悪夢の消耗から、まだ抜け切っていなかったのだ。実は背中にびっしょりと汗を掻いている。開け放した両開きのドアから吹き込んでくる春の風に、寒気を感じて薫は身を縮めた。

(待って。・・・・・・もう少し待っててくれたら、あなたが言う「マキ」にたどり着くはずだから)

 

ついに接触してきた相手は

やがて静かに、葬儀が始まった。会場を見渡す限りそれは、なんの変哲もない葬儀のように見えた。

季節外れの花をいっぱいに活けた祭壇の前、左右に三列ずつ設けられた席のほとんどは、学生服で埋まっている。どこからともなく、クラスメートの女の子のすすり泣きが、式次第の合間の静寂を縫って思い出したように響いて、それが同席した大人たちのもらい涙をも誘っている。

用意された遺影は、薫にも見覚えのあるアングルの写真から起こされたもののようだった。そこには本当に年頃相応の明るさの、ごく普通のかわいい十八歳の女の子が、自分にはなんの疑問もないと言うように笑窪を作って微笑んでいた。

こうしてみると、美琴の周辺に疑問をもって独自の調査をしてきた薫でさえ、菅沢の言い分がまったく根も葉もない、興味本位の中傷に思えてならなかった。

果たしてそんな美琴が、本当にそれほど得たいの知れない大きななにかを動かすような持っていたのだろうか。つい、一年半前、日本に帰ってきて、独りぼっちだった高校生の女の子にいったい、なにが出来ただろう。クラスでも孤立無援だった。もはや馴染みも愛着もない、日本の学校に行くのが嫌だと言っていた女の子がたったの三ヶ月で急変していく、どんな出来事があるのだろうか。

学校生活に慣れて友達も増え、生来の積極性が再び芽を出してきたと言うならともかく、もともとがそんな女の子ではなかった。あの後、元彼の塚田が何枚か、昔の美琴の写真を添付してメールをくれたが、どれも今、祭壇の遺影で微笑んでいる彼女とは別人のように暗い顔をしていた。それが、どうしてこれほどまでに変わったのか。しかも、考えうる限りの両極端で、だ。

学業も学校生活も積極的で、人望があり、生徒会役員に選出されるほど、優等生だった美琴。

満冨悠里と野上若菜を従え、自分の学校全体だけでなく、都内一円の中高生たちの買春の斡旋を行っていた元締めとしての美琴。

いずれもが今までの美琴と比べると、辻褄が合わないほど、両極端な変化だ。どちらか一方ならともかくどれもが不連続で、ひどく脈絡がない。生前の彼女は実際、どんな子だったのだろう。今、この場にいたなら、どんなことを思っただろう。

ちょうど、喪主の父親が挨拶をしている。

二日ほど遅れて到着した父親は、白髪頭が目立つ五十過ぎの紳士で、細長い体格した、どちらかと言えば厳しい風貌の初老の男だった。船会社の重役と言うが、美琴の母親とは大分年が離れており、後添えをもらったのだと薫は聞いていた。

どちらかと言えば古風な雰囲気の、国際派のビジネスマンと言うよりは、高級官僚を思わせる無機質な感じの男性で、話し振りや物腰は薫に、自分の父親を思い起こさせた。美琴の父親は出席者の参列に気を遣いつつ、感情のない声で、ただ淡々と弔辞を読んでいる。

薫は、この父親も娘の美琴にはっきりとした関心を見せず、仕事にまい進して家庭を顧みない人だったのではないかと、ふと思った。

薫がもし、殉職しても父親は、自分の社会的地位に応じたやり方で淡々と警官としての薫を葬ってしまうだろう。それと同じで、冷え切った父娘関係には、隠しようのない白々とした空気が漂う。直感的にそう感じたのは、ただの薫の邪推なのだろうか。

 

式中、満冨悠里と野上若菜の様子を薫は観察し続けていた。彼女たちがここで、なにをするとも思えなかったが、不審な動きがあれば話を聴くきっかけにもなるだろうとも思ったからだった。

満冨悠里は例の固い表情のまま、座りこみ、ずっと前を見ていた。顔を赤く泣き腫らしたような痕跡があるのは、野上若菜だ。

薫は見ていて、二人の間に時折なにかのやり取りがあるのをすぐに感じた。折に触れて若菜が、悠里の制服の袖を引っ張って、しきりになにかを話しかけていたのだ。

雑談というのではない。彼女は必死になにかを訴えかけていた。悠里が静かにしろ、と言うような仕草で再三いなそうとするのに、しつこく袖を引っ張り続けて話しかける。それが小声でしかも、辺りを憚っている感じが見受けられるのが、ますます怪しかった。二人はなにか、誰かに聞かれてはまずい秘密を、話し合っている。

やがて若菜のしつこさに耐えかねたのか、突然、悠里が立ち上がり、彼女を引き立てて外へ出て行くのが見えた。

かまをかけるなら今しかない。薫は人並みを掻き分けて先に式場を出た。彼女たちは、トイレで話をするようだ。二人の跡をつけて薫は、様子をうかがうことにした。

彼女たちはつとめて、人のいないトイレを選んでいる。この式場がある二階のは奥が使用中だったらしく、わざわざ一階の奥のトイレに入り込む。壁際を伝いそっと、薫は近くに添った。

「ちょっと本当、まず落ち着きなよ、若菜」

満冨悠里のなだめる声が耳に入る。

「あんたが騒いでるとわたしまで不安になるでしょ?」

「だって・・・・・もう無理だって・・・・・絶対にやばいよ、あたしたち」

見たところ、若菜は大分取り乱している様子だった。なにが起こったのか。彼女にとって緊急事態が起きたことは確かなようだ。若菜は泣き声になりながらも、一生懸命、今の自分の気持ちを形にしようとするのだが、順序だてて何一つ話すことが出来ない。

耐え切れなくなったように、悠里が若菜の話を切った。

「お願いだからわけの分からないこと言わないでよ、若菜。冷静に考えて。大体今、わたしたちがどうして危険なの?」

「・・・・・・・・・・」

若菜は答えない。でも、強くかぶりを振ったようだ。なにかの恐怖に、もうこれ以上、耐えられないと言うように。

「・・・・・しっかりしてよ、本当に」

腹立たしげに、悠里はため息をついた。

「あいつが無事だったから、どうだって言うの?」

あいつ? 一体、誰のことを話しているんだろう?

「大体、もう、手は打ってあるんでしょ? あんたに全部、任したし、あんたも大丈夫だって言ってたはずだよね?」

「・・・・・そうだけど、またもし、あの子が」

「絶対そんなことないから。たぶん、なんかの偶然で、その日は来なかっただけ。それで偶然助かっただけよ」

「でも、森田くんとも全然連絡つかないし・・・・・」

悠里の声が少し、ひそめられた。

「・・・・・・こんなことになって、警察が入ってきたから、ばっくれたに決まってるでしょ? 未遂だとしてもあれがばれたら、わたしたちだって、面倒くさいことになるんだからね」

「で、でも、だってさ・・・・・マキが話すかもしんないじゃん、警察に。・・・・・あたしたちが、どうにかする前に。・・・・・そしたら、どうすればいいの?」

「マキ」だ。その名前がようやく出てきた。「マキ」は実在したのだ! 思わず、薫は息を呑んだ。

「悠里もマキと話したんでしょ?・・・・・あの子、あの夜から別人みたいなんだよ。・・・・・なんか今までと、全然違うの」

「・・・・・・だから澤田さんに連絡して、手打ってもらったんじゃないの」

「変な雑誌の記者とか使って、探りいれてきてるし・・・・」