間合いを計ったように絶妙なタイミングで、彼女のしなやかな身体がアスファルトを蹴って跳んだ。柔軟な身体つきが速度を倍加させた。

なにか格闘技をしているのか、ブラジル人はけん制の右フックではたき落とそうとした。しかし相手の攻撃が届くスピードの方が一足速く、膝がカウンター気味にそのあごを捉える。車にはねられたように、ブラジル人は真後ろに倒れこんでいった。

硬いアスファルトに後頭部をぶつけた彼に、反撃の余力はなかった。分厚いタイヤを鈍器で殴ったような不気味に籠もった音を立てて、ブラジル人は約一秒半で意識を失った。

死ぬほどの勢いで倒れた、男に見向きもしない。そのままの余力で振り返りもせず、着地した彼女は走って逃げようとする。

「止まれよ、フカマチ・マヤ」

銃声が響いた。彼女はぴたりと動きを止めた。夕空に向けて威嚇射撃を放った真田が、角から出てきた。銃口の照準は彼女の胸にぴたりと、つけられている。でも、と薫は聞き間違いを疑った。真田は、違う名前で彼女を呼んだ。彼女は、北浦真希じゃない? まさか、そんなはずはない。本当に、彼女は別人だったのか。

聞き間違いではない。真田はもう一度、別の名前を呼んだ。

「おれは本気で撃つぞ、フカマチ・マヤ。君を預かった機関から、許可されてる。どうだ、試してみるか?」

黙って、フカマチ・マヤは両手を上げた。観念したように息をつき、なぜか、薫の方にも手のひらを見せる。

「やめるのか?」

「やめとく」

真田とマヤは同じタイミングで微笑した。彼女が薫に言った。

「命の駆け引きは、一日一回で十分よ」

 

フカマチ・マヤ 彼女が追うのは

真田は彼女に手錠をかけるように、薫へ指示した。戸惑ったが、彼女の方ですすんで両手を差し出した。さっきのことといい、見た目は小娘の癖に、こうしたことに慣れきっている感じだった。

(何者なの、この子)

「君のお守りはもううんざりだって、担当者がぼやいてたぞ」

真田は言った。かなりブロークンな文法の英語だった。彼女もそれに流暢な英語で答え、しばしなにかのやり取りをしていた。雰囲気からして、彼女は純日本人だが、こちらの言葉にもともと慣れないらしい。英語の会話の方が自然に聞こえる。そう言えば、会話に独特の、変な間があった。

向こうの法制用語などが混じって全容は掴めなかったが、二人は足元のブラジル人の処遇について、議論しているようだった。真田はやがて、日本語で薫に言った。

「澤田森田も、確保したそうだ。まずは、戻ろう。・・・・・・・顔合わせも済んだし、一息入れるか」

怪訝そうな顔で二人の様子を見ていると、マヤと目が合った。たぶん向こうも同じ気持ちで薫を見ている。

「君らは同じ、補充要員だ。不満があったら先に言ってくれ」

「彼女は、何者なんですか?」

ずばりと、薫は聞いた。奇妙だがそれしか聞きようがなかった。真田は返事の変わりに、苦笑して、

「そいつは車の中で説明する。まずはここを出よう」

と、ふと、下でのびているブラジル人に目を移した。

「こいつにも手錠をかけておいてくれ。トランクに押し込む。このブラジル人はサンパウロと、アメリカの二つの州で窃盗、強姦で二桁近い容疑が掛かってるそうだ」

さっさと、真田はいなくなった。薫は、手錠をかけられた偽の女子高生と怪しいブラジル人と所在無く、置き去りにされた。

「かけたら?」

マヤが、真田から預かった手錠を差し出してくる。自分だけ、不公平だと言うように。ひったくるように受け取って、薫はそそくさとブラジル人をうつぶせにすると、後ろ手に回して手錠をかけた。

 

「・・・・・君たち」

助手席ではなく、後部座席に座ることを薫は要求された。気まずい二人は、会話もなく横並びになった。背後から無数のヘッドライトの列に照射されながら、棺桶のようなトランクに一人を載せて夜の明治通りを三人は走っていた。

「どっちも黙ってないで、自己紹介位したらどうなんだ?」

「・・・・・・わたしは」

と、声を出したのは薫だった。隣ではなく、バックミラーに映る真田の鼻から上と額に向かって言う。

「不審な点は一切ありません。説明が必要なのは、彼女だけじゃないんですか?」

「あたしも、あなたにとってなんの不審もないと思うけど」

見ての通りの女子高生だと言う風に、手錠つきの少女は言った。

「どうも、君らは自己紹介の趣旨を理解してないようだな」

「わたしは警察官です。説明しなくても身分は証明されています」

「手帳を見せて」

歌うように、マヤは言った。手錠をした彼女を薫は睨みつけた。見かねて、真田が割って入る。

「先に言っとくが、薫、おれの班での君は、彼女と動いてもらわなくちゃならない。君も知っての通り、菅沢を使って動いていたのは彼女だ。事件の裏表の情報交換は、十分にしといてもらわなくちゃ困るぜ」

「彼女が何者か、真田さんが納得いく説明をしてください」

「分かったよ。じゃあ、三つ、確実なことを教えてやる。一つ、彼女は分類上、警察官でもなければ日本人でもない。二つ、北浦真希は実在するが、彼女は北浦真希ではない。三つ、北浦真希について以外でも重要なことは、彼女から聞け。以上だ」

「ねえ、あたしからも質問していい? 彼女が新しいお守り役?」

「捜査のパートナーだ。誤解しないでくれ。君も知っての通り、彼女は君と同じ事件を追っていた。だから、君の邪魔をしたりはしないし、むしろすすんで協力を仰いでくれて構わない。彼女は、水越薫。美琴の事件を担当した警視庁捜査課の人間だ」

「だからあたしを追ってたのね?」

マヤは、いたずらげに薫を見て、言った。

「よろしく、薫。・・・・・あなたとなら、話が合いそう」

「大人をからかうのもいい加減にしなさい。ふざけてるの?」

薫は言った。運転席の真田が苦笑して肩をすくめた。

「確かに、薫、君のが年長者だし、この国では常識人だ。彼女は北浦真希よりは年上かもしれないが、まだ、未成年ではあるだろうからな。君が折れるべきだぜ、マヤ」

「分かったわ。祖国の諺ね。郷に入っては・・・・・」

「郷に従え」

理解したと言う風に、マヤは肯いた。

「と、こんな感じだ。生まれて初めてきた、祖国の常識を彼女に色々と教えてやってくれ。・・・・・これ以上彼女に、数ある重要な日本の法律を破られないうちにな」

 

ブラジル人を引き渡した後、味のない会食をして二時間、薫はいつもの自分の部屋に戻ってきた。いつもと同じでそこは、とても静かだった。

「・・・・・これから、しばらくはここね?」

マヤは当たり前のように言って、さっさと上がりこんできた。

どうして、こんなことになったのだろうと、薫は考える気力もなかった。何者とも分からない人間を、泊める羽目になるなんて。

「シャワーを借りるわ」

言うと、場所も聞かずに彼女は、シャワールームに直行しようとした。

「ホテル暮らしだと浴びれないときもあるから、本当に助かるわ」

「あなたの泊まってるホテルに、どうして帰らないの?」

「無駄なお金がないわ。それに」

モデルのような早さで服を脱ぎながら、マヤは言った。

「毎晩泊めてくれる人を探すのも、大変でしょう?」

「どう言うこと?」

「来る前にリサーチした通り」

脱いだ服を広げてみせて、マヤは言った。

「この服を着て、夜中まで歩いてると、誰かは泊める場所をくれるって声をかけてくれる。・・・・便利だけどその都度、代価を要求する相手を、黙らせる方法を考えなくちゃいけないでしょう? 脅すのも縛り上げるのも、さすがに疲れたし」

・・・・・・家出少女か。しかも、送られ狼。

マヤの所持品は、薄いショルダーバッグがひとつ。中には、フラッシュメモリに身分を偽ったと思われる完全なパスポート数枚、携帯電話の他は、怪しいものは何も入ってはいなかった。ただ、明らかに女性のものには見えない、何枚もの空の財布を除いては。

(・・・・・日本のどころか、普通の人の常識を持ってるかどうかも怪しいわ)

まったく、なにを考えて、真田が言う、海外の連絡機関は彼女みたいな危険人物を派遣したのだろうか。皆目分からない。そうだ、金城に・・・・・こんなこと、相談できるはずがなかった。

 

「かいつまんで概略だけ、説明しよう」

二人の女性に食事を取り分けながら、真田は、言った。

「彼女はうちと繋がりのある、米国の連絡機関が派遣してきた、特別捜査員だ。とある極秘システムの捜索、秘密の保持、それに関するすべてのデータの破却がその任務になっている」

「特別捜査員?・・・・・彼女が?」

怪訝そうな顔で、薫はマヤを見た。真田に言われるまでもなく、どう見ても彼女は未成年だ。

話の途中だ、と言うように、真田はそれには触れず、

「詳細は言えないが、向こうの国防総省が開発した、内外の情報収集のための極め付けのプログラムと言っておこう。悪用されれば、世界の情報システムに、壊滅的な打撃を与えることも可能な代物だ」

「もう、実際一度、本国では悪用されてるけどね」

皮肉げな口調でマヤが口を挟む。

「・・・・・ああ一年前、このシステムは不正に使用され、全米の国民のあらゆる個人情報にハッキングして改ざんすると言う、前代未聞の情報テロ事件が起きた。プログラムの名前をとって、国防総省のデータには、TLE事件とファイルされているケースだ。・・・・・簡単に言うと彼女は、そのとき、現地CIAとFBIの合同捜査チームに参加して、事態の収拾に努めた経験のある、関係者の一人なんだ」

真田の言うことはすべて冗談だと言うように、マヤは薫に思わせぶりな視線を送った。

「彼女は、この未曾有の事件の解決に非常に重要な役割を果たした人間だ。このシステムの悪用がどれほど深刻で危険なことなのか、彼女に聞けばなんでも分かるだろう」

仕向けられて仕方なく、マヤも口を開き、

「当時そのプログラムはさまざまな組織に悪用されて、電子化した個人資産や金融情報を盗まれたり、マフィアやカルト教団などが殺害した人間の身元を消し去ることなどに使われたわ。・・・・・・流用した人間は、もともとシステムの開発者のチームで、最初から別の、ある計画のためにこのプログラムを作ったんだけど」

「事件でそのチームの人間は残らず死に、データは回収された。しかし、彼らの活動によって無数のデータの断片が特殊に暗号化されて、全世界に流出していたことが、最近分かったんだ」

「あたしたちはプロジェクトチームを立ち上げて、事件後ずっと研究、監視活動を続けている。・・・・・・流出したそのデータについてはそれ自体にまったく意味はなくて、プロテクトを取り去ってすべてを再構築したところで、そのプログラムの復活は理論上不可能だと言う結論が出てたものなんだけど」

「・・・・・どうもこの日本に、プログラムを復活させた人間がいるかも知れないんだ。その人間は無意味に散乱した無数の破片から、もとの形の器を創り出してしまった可能性が高い」

「そんなこと可能なんですか?」

「理屈はいつまで経っても、理屈さ。理論上構築されえないものは、芸術と同じように、人間の感性ひとつで突然、誕生させられるものだ。マヤ、おれは可能性と言ったが、君の予定外の単独調査の結果で、結論は出たんだろう?」

ええ、とマヤは、こともなげに肯き、

「可能性は確信に変わった。でも詳細は、後日」

「おれの考えでは成田空港で取り逃がした神津良治が、そのプログラムの再生に一枚噛んでる。やつは、五年前、三つの広域暴力団の資金三百億円をさらって、ずっと行方を晦ましてたんだ」

「じゃあ、真田さんの考えではその神津はそのシステムの再生に、持ち出した莫大な資金を注ぎこんだ、ってことですか?」

「ああ、そうだ。マヤを派遣した機関からの情報提供で、やつはこの莫大な情報量のシステムの断片を回収することが目的で、三百億をさらったってことが分かったんだ。一ヶ月前の成田空港の貨物係の殺人もそのデータ絡みで起きたらしいってこともな。ちなみにそんときパクられたデータは、泰山会が神津をおびき寄せるために、香港人のハッカーから五億で買ったものだったそうだ」

「泰山会はそこまでして神津を?」

「ああ、三百億さらわれた三つの組の中で、もっとも損害を被ったのが、東日本最大の広域暴力団、泰山会だった。東南アジア諸国のどこかに逃げ込んだらしい神津を追い続けていたのは、ここの直系だけだったらしいからな。うちが確保した例の若頭は、五年ぶりに入国する神津を、どうにか押さえようとしたところだったみたいだ。誰かの下らない捜索に時間を取られずに、おれが直接指揮をしてれば、二人ともパクれたんだけどな」

揶揄する真田の視線に、澄ました顔でマヤは、食事を続けている。真田はため息をつくと、次の一言で話をしめた。

「日本中のやくざから奪った三百億だけで途方もない話に聞こえるだろうが、もしシステムの完全な運用が再び可能になれば、三百億ほどの資金なら、すぐに回収できる。おれたちが追ってるのは、馬鹿げた話だが、本当に、そう言う代物でね」

 

「タオル、借りたわ」

洗い髪をタオルで拭いたマヤが、顔を出した。

「あと、シーツや着替えも借りられたら、うれしいんだけど」

「待って」

と、薫は、言った。

「ソファも貸して欲しかったら、わたしの質問に答えて」

「なにを?」

濡れたままの足で堂々とフローリングを徘徊しようとするマヤを水際で押し止めて、

「あなたが何者でなにをしたいのか、まだ答えてもらってないわ」

「真田が話したと思うけど」

「あなたの口から聞いた憶えはないの」

タオルで髪を拭きながら不思議そうに、マヤは首を傾げた。

「あなたは北浦真希じゃない。それは分かった。でもそれ以外にはすべて、わたしが抱いていた疑問は解決されてない」

「彼女は無事よ。ちゃんと保護してある。明日、案内しながら、説明するわ。どこかに埋めたりしてないから安心して」

「嶋野美琴と野上若菜は、あなたのせいで死んだの? 本当にあなたは殺人事件に関与していない? わたしに納得いく説明が出来るのね?」

「答えはノー。ここですぐ詳しい説明をしろと言うのにも、あたしが二人を死に追い込んだ張本人だと言うあなたの説にもね」

「ここで身の潔白を証明するのは無理だけど、明日になったら出来るって、あなたは言ってるの? この事件について、あなたの知っていることを、すべてわたしに話す?」

「イエス」

はっきりと言ってから猫のようなあくびをして彼女は肯き、

「約束する。でも、今は出来ない理由はもう一つあるの。眠くて、これ以上難しい話はしたくない。ベッドも着替えもいらないわ。・・・・・シーツだけ貸してもらったら、もう寝ていい?」

 

「大丈夫?」

闇の中、マヤの声がささやくように響いた。彼女は本当にソファを使わず、部屋の入り口辺りの壁を背にして、膝を抱えて眠っていた。ベッドサイドのかすかな明かりに照らされて、マヤの影が、薫を見下ろしていた。

「あたしの目をみて。・・・・・この前と同じ。すぐ、楽になる」

と、彼女は言った。悪夢の余韻に鼓動を持て余しながら、薫は指示に従う。

「・・・・・どうして」

なぜ。彼女の言うとおりにすると。悪夢はなりをひそめる?

「・・・・・話が合うって言ったでしょ?・・・・・あたしたち、色々な意味で、話題が尽きなそう。朝まで話しててもいいけど、今日はもう、寝るわ。・・・・おやすみ」

「ねえ、これだけ答えて。・・・・・イズム」

薫は、言った。マヤの口にした、言葉だ。

「もしかして、それがあなたの追ってるプログラムの名前?」

「正解は半分。残りはさっきも言った・・・・・また、明日」

入ってきたときと同じく、なんの音も気配もみせずにマヤの影は立ち去っていった。

 

もう一人のマキ 生贄ゲーム

『北浦真希を確保した?』

金城の、怪訝そうな声が耳に刺さる。

『それよりお前、本当に大丈夫なのか?』

「なんとかね」

薫の処分についての件は、真田が処理してくれたらしい。呼び出しの話が、知らぬ間に有耶無耶になっていた。

『お前、公安と動いてるんだろ』

「事件からは降りてないわ」

『無茶はしてないだろうな』

「・・・・・今のところ、わたしはね」

起きだしてきたマヤを見やって、ため息をつきながら薫は言った。

「・・・・・前に言ったとおり、彼女が事件について有力な情報を握ってることは確かだから、彼女を連れていく。指定の場所で合流しましょう」

困惑気味ながら、金城は承知してくれた。

「で、そっちはなにか、変わったことはない?」

『満冨悠里が姿を晦ましたぞ。・・・・・野上若菜の病室にも一回も、顔を出さなかったそうだ』

「ほんと?・・・・・・困ったわ。彼女の自宅は押さえた?」

『・・・・・いや、それは無駄骨だった。悠里は両親の都合でマンションにほぼ一人暮らしらしいんだが、若菜が手首を切ったあの日に前後してマンションを引き払って、その後の彼女の足取りも判らなくなってるんだよ』

「・・・・・彼女の両親と、連絡はつかないの?」

『実は悠里の両親は、医療関係のシステムを開発するベンチャー企業を経営しているんだが、資金繰りのため頻繁に海外を飛び回ってるらしくてな。まったく連絡が取れない状態だ』

「・・・・・ついに満冨悠里までも、行方不明とはね」

薫の不審な視線をよそに、マヤは勝手に用意を整え、コーヒーを淹れている。すでに薫が買ったことも忘れていた、ブルーマウンテンブレンドのパックをどこからか見つけてきて、念入りに豆を挽いている。通販で買ったあの挽き器も、その気になったのは一回だけで、面倒くさくなって仕舞った場所すら忘れた品だ。

『お前の読みではその真希って子が、犯人かも知れないんだろ?』

「うん・・・・・実は、それなんだけど、もしかしたらそうじゃないかも知れないのよ」

『なんだよ、自信ないのか?』

「そうじゃないんだけど・・・・・なんだか、よく分からないのよ、これから自分でも、どうしたらいいか」

『・・・・ともかく、北浦真希って子から話は聞けるんだな?』

「うん、それはなんとかね」

ただ問題は。ここに一年も住み着いたような顔をして、あそこでコーヒーを淹れている女の子は北浦真希じゃない。どう言うわけか、似てるけど違う。しかも、事件の張本人ですらないらしいことだ。

「接触に成功したら、折り返し電話する。・・・・・・話はともかく、そのときにね」

『次は、あんなことにならないように気をつけてくれよ』

「・・・・努力する」

電話を切った薫の鼻先に、コーヒーカップが突き出された。

「あ、ありがとう」

釈然としない何かを抱えながら、薫はそれを受け取った。

「満冨悠里が消えた? 本当に?」

突然、マヤは聞いてきた。

「ええ・・・・・なんと自宅ごとね」

「・・・・・そう、不思議」

そのつかみ所のない反応からは、相変わらずなにも読み取れない。

「埋めたりはしてないのよね?」

彼女は肯いた。湯気の立った自分のカップに口をつける。

「薫と池袋で待ち合わせた日、彼女も来ていたはずよ」

「野上若菜と一緒に、あなたが呼び出した?」

「ええ」

と、彼女は言った。

「本当に上手く、二人には逃げられたわ」

「若菜は昨夜の真夜中、亡くなったそうよ」

「そう」

「なんとも思わないのね」

「どうしてそうなったのか分かるし。今さら驚くこともない」

「あなたに責任がまったくないって言える?」

「自分の命に責任を持つのはどんな場合も、自分しかいない」

マヤは静かな口調で言うと、肩をすくめた。

「・・・・・朝食は諦めるわ。もし、あたしと感性が合わないと思ったら、ルームシェアも諦めてもいいけど」

別に絡む必要もなかった。苦笑して、薫は首を振った。

「そこまで言ってないし、朝食はわたしが作る。・・・・・それと、着替えが間に合わないなら、貸してあげるから、下着くらい替えなさい」

「ありがとう。武士道ね、薫」

「あなたには助けられたから、昨夜も。それにあなたを追い出したりしたら、援助交際と居直り強盗を認めることになるでしょ?」

「・・・・・『敵に塩を送る』?」

「あなた、わたしの敵なの?」

答えを言わずに、マヤはクローゼットのある部屋に引っ込んだ。

マヤの淹れてくれたコーヒーは、最後の一口がもったいなくなるほど、美味しかった。薫が淹れたものとどうしてこれほど違うのか、不思議だった。薫は何年ぶりかで二人分の食事を作った。

 

時間通りに、金城はやってきた。

「思い切って、貯まってた有給取ったよ」

若菜の事件で、マスコミが騒いでいる。警察は動きを封じられていると思ったが、遺留品や事件現場の捜索など仕事は多いのだ。

「ごめんね」

薫は言った。薫が紹介する前に、マヤが手を差し出す。

「フカマチ・マヤ。・・・・・よろしく」

「彼女が北浦真希じゃないのか?」

金城は昨夜、薫がしたような顔をした。

「説明すると長いんだけど、実はそうなの。彼女が・・・・・その、本当の北浦真希の居所を知ってるそうよ」

マヤは普通の高校生の少女のように、メールをチェックしていた。

「真田は遅れるって。たぶん、なにか緊急事態ね」

「なんだよ、あいつも来るのか?」

まったく、最悪のタイミングで真田の名前が出た。

「あたしは彼に報告義務がある。薫と、あなたが持っているほとんどの疑問にも答えられると思うわ。真田には居場所を返信したから、先に行きましょう。真希が入院してる病院に、案内するわ」

「なんだって、入院?」

声を上げながら金城は、マヤが告げた電話番号をカーナビに入力した。当たり前だと言うように、マヤは答えた。

「彼女、レイプされそうになったのよ。ダメージは大きいわ」

「君じゃなくて、本当の北浦真希がか?」

「ええ。・・・・・薫、昨日、実行犯を確保して真田が送検したでしょ? あなたも立ち会ったはず」

「え、ええ、でも確保したのは澤田と森田の二人でしょう?」

「ブラジル人もね。あと、一人も、すでに確保してある」

検索完了した地図は、確かに病院の住所を示している。金城は車を走らせた。シートに座った途端、マヤは眠そうな顔になる。

「あなたが、彼女を助けたの?」

「そうよ。わけあって、うちのチームが早くから嶋野美琴をマークしてたの。・・・・・こんなことになったから、北浦真希になりすまして捜査しようって言うのは、あたしのアイディアだけど」

「つまり事件が起きてから、わたしが会っていたのは、ずっと、あなただったってことね?」

「そう。楽しかったわ。学校なんて行ったの、生まれて初めてよ」

「この子、何者なんだ?」

「わたしにもよく分からないから、聞かないで」

金城は近眼になったような顔で助手席のマヤを見る。

「しかし、本当に写真の北浦真希とそっくりだな」

「念のため言うと、顔はいじってないわ。あたしも驚いてるの。あたしがしたことは、身分と制服を借りたことだけ」

誰も想像もしないだろう。まさか本当に、別人だったのだから。

「例の七人ってやつかな」

「・・・・・自分だったらと思うと、ぞっとするけどね」

「七人って?」

「こっちの話」

「この世界には最低七人は自分とそっくりな人間がいるんだと」

言わなくてもいいのに、金城が言い添えた。

「それって、日本の諺?」

「どうなのかな」

「なんでわたしに聞くの?」

怪訝そうな薫に比べて、マヤはひどく嬉しそうに言った。

「へえ・・・・・それならあたし、もう二人も見つけたわ。薫もあたしに、よく似たところがあるの」

「どうかな、それ・・・・金城、変な目で見るのやめてよ」

真に受けたのか金城は薫とマヤの顔を交互に見て、しきりに難しい顔で首を傾げていた。

それほど時間もかからずに、ナビが案内したのは救急医療にリハビリセンターのある都内の病院だった。

「なあ、彼女、本当に話を聞ける状態なのか?」

薫が言い出すより先、金城が心配になってきたようだった。

「平気よ。たぶん、発見が早かったから」

マヤは、そっけなくこう答えただけだった。薫と金城は、顔を見合わせた。

北浦真希の病室は空だった。ちょうど、精神科に診察に出ているところらしい。怪我よりもむしろ、精神の傷がまだ深いことは、間違いなさそうだ。マヤの話では未遂とは言え、複数の大人の男たちにら致されて乱暴されかかったと言う事実は、すぐには癒えがたいものだ。やがて、リハビリ担当のOT(作業療法士)に付き添われて、入院着姿の北浦真希が歩いてくるのが見えた。

「真希、元気にしてた?」

「マヤちゃん、来てくれたの?」

遠くからマヤが声をかけると、真希は嬉しそうに駆け寄ってきた。手を握り合って親しげに近況を話し合う様子は、同じ年頃の女の子たちがしているのと、そう変わりはない。

「マジかよ・・・・なんか、気味悪いな」

「・・・・・ちょっとね」

確かに一見したところ、服装が違うだけで、二人の背格好はびっくりするほどそっくりだ。ただ、薫が同性の目でよく見ると、マヤの方が身体つきも身のこなしもしなやかな感じで、大人っぽいのに対して、真希はまだ固さが残り、下手すると年より幼い印象を与えた。入れ替わっても誰にも気づかれなかったのはもしかすると、よっぽど普段、真希の存在感が稀薄だったからかもしれないとも思う。

似た種類の花でも、野生のものと地下室の蛍光灯でひっそりと栽培したものでは、雰囲気は大分変わるものだ。

マヤにはこの年頃の少女にはまったく不似合いな、まったく違う経験を経て培われた、厳しい、なにかがある。

そこまで分かるはずもない金城は唖然とした表情のまま、鏡に映したような二人が親しく話している不思議な場面を見守っている。

「大丈夫、心配しないで。・・・・・眠れるようにはなったし、大分気持ちも楽にはなってきたんだ」

と、真希は言ったが、もともと血の気の薄そうな顔は、青白く、表情も伏し目がちに見えた。

「今朝、電話で話したとおり、刑事さんを連れてきたわ。警視庁の水越さんと、金城さん」

同じ、唇がしゃべる。

「北浦真希です・・・・・・あの、みこちゃんの事件を調べ