もちろん真田と薫の間には、仕事以上の関係は本当になにもなかった。それは誓って言える。男としてみた場合、確かに真田は社会的地位もルックスも悪くないが、極めつけの仕事人間で、一緒に行動中もはたして血が通っているのかと疑うほど、捜査のことしか考えないし話さない。真田の鬼気迫る仕事振りは、偏執的と言っても過言ではなかった。一週間も仕事をすれば、同性異性関わらず、大抵の人間は辟易するだろうとすら思う。
別に個人的な関係をもったわけでもないのに犠牲者になった薫が言うのだからこれは間違いない。まして、もう一度一緒に仕事をするなど、二度とごめんだった。今、真田と行動したらそれこそ、寝ても覚めても悪夢と言うことになってしまう。
「しかしなんだ・・・・・随分、話が早かったな」
探るように、金城は聞いてきた。金城も例の噂を吹き込まれたクチなのだ。態度を見ていれば、よく分かる。同じ配属になって、結構親しくなったのに、なかなか本格的な攻勢に出てこないところを見ると、どうやらそのせいのようだ。真っ向から体育会系の癖にまったく、意気地がない。
「別に」
わざと険悪な声を出して、薫は挑発した。
「なんの話だと思ったの?」
「そんなこと、おれには分からないよ。・・・・・ただ」
「ただ?」
「困るだろ、お前に・・・・・抜けられたらさ。この事件のうちの捜査課の担当員は、ただでさえ人手足りないんだし」
「ふうん」
薫は、言った。思えば少し、その言葉にかちんと来ていた。
「それって別にいいってこと? 他に人手があれば、わたしじゃなくても」
「そんなこと言ってないだろ。って言うかお前・・・・・」
むきになってそこまで言いかけて、金城は押し黙った。怒っているのか、なにか照れくさいことを言おうとしたのか、見ると、顔が真っ赤になっている。乱暴にハンドルを使ってごまかしている。
さすがにいじりすぎた、と薫は思った。こっちも思わぬ横槍が飛び出てきたせいで、なんだか絡み性になっていたのだ。
「わたしは降りるつもりはないから、この事件」
口で絶対言う気はないが、内心で謝りながら薫は言った。
「だから断ってきたの、きっぱりと。別の事件に気を回す余裕はありません、って」
「おう」
それを聞くと、金城はとたんに明るい顔になった。運転まで露骨に変わった。単純すぎるのも、ちょっと考えものだ。正直、薫は思った。
単独捜査は進まない
『マキ・・・・・マキですか、男か女で?』
「苗字でも名前でもどちらでもいいんだけど、誰か思い当たる人、いないかな」
『美琴の友達でマキ・・・・・苗字でも名前でも?・・・・・・いや、ちょっと憶えないですね。すんません』
電話の相手は、本当に済まなそうに薫に言った。
彼の名前は塚田芳樹(つかだよしき)。嶋野美琴の最初の交際相手だ。香港のインターナショナルスクール時代の同級生の紹介で、彼女とは二年前の秋に交際を開始する。
年齢は美琴より年上、現在二十歳になったばかりのはずだ。大学生と聞いていたので、まだ在籍しているのだと思っていたが、とっくに中退して、横浜のみなとみらいにある若者向け雑貨のショップの店員になっていた。
『美琴とは三ヶ月くらいしか付き合ってなかったですね。こっち戻ってきたばっかりで学校にもなじめないとかで・・・・・本当に地味な感じの子でしたよ。友達とか作るのも上手くないみたいなこと言ってたし』
編入したのが一年生でも、二学期の九月から入ったので、友達はなかなか作れなかったのだろう。
『勉強とかにもついていけないとかって、よく愚痴られてました。日本の学校と向こうって同じ教科でも習う順序とか、内容自体も違うこと多いらしくて。そのこと先生に話したら、帰国子女で調子に乗ってるって、結構いじめられてたとかも聞きましたよ』
「成績も良くって、すごく明るい子だって聞いてたけどな」
『どうすかね。とにかく地味な子だったから。がり勉だって聞いてたけど、それは他にすることなかったからで、親とかもそこだけは厳しかったみたいだから一応やってたみたいだけど、成績は言うほどよくはなかったですよ。本当のところ、本人もそんなにやる気もなかったみたいだし』
「あなたと別れたときはどんな感じだったの?」
『たぶん三ヶ月で日本の高校の雰囲気にも馴染んだって言うのもあったと思いますよ。・・・・・それでも、最後に会ったときはすごく感じが変わってたんで正直驚いたんですよ』
「本当? それはどんな風に?」
『いや、わたしはもう今までのわたしじゃないから、みたいなことを言われました。確かに見たところ、なんかそんな感じだったし』
「どんな?」
『いや、言葉では言えないですけど、外見も目に見えて明るくなってたし・・・・・・悪くなったとかって感じじゃないんですけど、なんか別人みたいになってて』
二年前のこともあり表現に困った様子で彼は口ごもり、
『あんまりに言うこと変わってて、別れ話もふられたんでこっちも動転してた、ってこともありますけどね』
「そのときに誰かの名前を口にしてたりとかは、あった?」
『マキ、でしょ?・・・・・どうだったかな。たぶん、そんなのはなかったと思いますよ。自分の話ばっかりで。学校では、なんでも思い通りになるようなこと、言ってましたよ』
「それについてなにか思い当たることはある?」
『ないですよ。いきなりですから』
一年で美琴が豹変した? 思いがけなく、奇妙な話を聞いた。薫が感じた違和感は、ある意味、的を射ていたのだ。
「美琴さん、ブログをやってたって話だけど、それについては?」
『ずっとやってたことは知ってましたよ。学校ずる休みして一日中ネットしてたりとか、ホームページ作ったりとか、もともとパソコンおたくみたいなところありましたから』
「彼女が作ってたブログやホームページ、消されてたんだけど内容とかは知らないかな?」
『分かんないですね。おれはそう言うの苦手だったし』
「消されるような内容が書いてあったとかは、聞いてない?」
『削除されるようなまずいこと書いたことがあるとかは、聞いたことないですよ。荒らしとか書き込みの悪口が多くて困ってるとかは聞いたことはあるけど、それかなり昔だし』
「最近の接触は?」
『全然ですね。こんなこと言いたくないですけどなんか彼女、あんまり良くない噂とかも聞いたんでこっちも距離置いてたところもあったんですよ』
「良くない噂?」
『ええ、なんか仕切ってるって』
「学校を?」
『それもあるんですけど、池袋とか新宿とかあの辺りのもっと、悪いやつらともつながりがあるって』
金城が缶コーヒーを買って戻ってきた。薫は塚田に礼を言って、急いで電話を切った。
「どこに電話してたんだ?」
「実家」
薫はとっさに嘘をついた。
「兄が同居の父と折り合い悪くて、母親の愚痴を聞いてたの。実家から離れて住んでるから、たまには相談に乗るくらい、ね」
「どこも大変だな」
金城は、ため息をついて言った。その物憂い仕草には、現場を特定するためのローラー作戦にすっかりうんざりしている色がみえみえだった。
「・・・・・で、そのせいで午後から、ちょっと抜けなくちゃいけなくなるかも知れないんだけど、いいかな」
「そんなに大変なのか?」
「うん。実は兄がもう一週間も帰ってこないみたいで、母親が心配して、こっちに来ちゃってるのよ。なんとか説得して帰さないと」
金城は腕時計を見て、
「夕方には戻ってこれるよな?」
「うん、それまでには絶対になんとかする」
兄の失踪が今日で一週間になるのは、事実だ。朝、電話をかけてきた母と話が出来て本当によかった。
菅沢学(すがさわまなぶ)が指定してきたのは、府中競馬場近くの喫茶店だった。薫が到着した頃に、菅沢はまだ到着していなかったので、彼女はちょうど塚田から仕入れた情報をもとに質問の内容を吟味する時間を作ることが出来た。
菅沢は週刊誌に、犯罪実話などを書いているフリーのライターだ。若者の風俗にも詳しいらしく、ドラッグや売春、暴走族やチーマーなどの噂をかき集めて、著書も二冊ほど出している。
薫がこの男とコンタクトをとったのは、比較的早い段階から菅沢が、被害者の嶋野美琴の内実を探るすっぱ抜き記事を嗅ぎ回っていたからだ。警察官が手帳を持って乗り込んでいくよりも、つぼを心得ている聞き上手のプロの方が、意外な情報を掴んでいるものだ。
これはあの真田の受け売りだ。もちろん集団作業的な捜査の中で今まで思い出す機会などなかったのだが。
塚田から思わぬネタを仕入れたので、「マキ」について話を聞ける方向性がより多角的になった。
転校生の三ヶ月で美琴は豹変した。そして今はあまり良くないことをしている。捜査で手に入れた美琴の個人情報とは正反対の話。真偽は確かにまだ定かではないが、「マキ」が隠れているのは、もしかしたら、この方面の人間関係の可能性が高い。
と、言うよりは、もはやこの線しかないのだ。でなければまさか菅沢のような人間と接触しようとは考えなかっただろう。
喫茶店は、灰色のジャンパーを着た日雇い労働者のような人間たちで溢れている。彼らは無関心を装ってはいたが、時折、人待ち顔の薫の様子をちらりちらりと窺ってくる。やはり女性一人で来るべきではなかった、と薫は思った。
菅沢は、三十分遅れで入ってきた。汚いジャンパーにくたびれた黒のスラックス。指定された場所柄の予想に反して色白の狐目で、眼鏡をかけた三十過ぎの小男だった。大学八年生で中退、文学青年の成れの果てといった感じだ。童顔で、瞳は落ち着きなく、人の目を直視して話すことはごく少なそうに見えた。
「ど、どうも、菅沢です」
薫の顔を見た菅沢は一瞬だけ、狐目を開き、意外そうな顔をした。
「・・・・・警察の人だって聞いてたけど、本当に女の人が来るとは思わなかったな」
そのコメントを聞いて薫は、初手はまずったかな、と、内心思った。菅沢は強面には逆らえないタイプの男なのだ。もし隣に金城でもいれば、呼び出しは効果を発揮したに違いない。
「で、なにが聞きたいの?・・・・・警察の方はおれなんかに、用はないはずだと思ってたけど」
おどおどした敬語口調が、途端に馴れ馴れしくなった。たぶん、書いている仕事柄、こう言うシチュエーションでの女性を扱いなれているに違いない。
「まずはこれについて話を聞きたいの」
薫は言うと、来る途中にプリントアウトして来たネット記事を見せた。菅沢が書いたものだ。見出しにはこうある。『衝撃! 西池袋女子高生リンチ殺人事件 被害者は現役女子高生の広域売春クラブの主宰者』
菅沢はちらりとそれを見ると、詰まらなそうに指で弾いた。
「この売春クラブのネタについては、ずっと追ってた話なんだ。本も書いてる。もともとは、別にそんな真新しいネタってわけじゃないんだけどね」
「どこの出版社も記事にはさせてくれなかったんでしょ? だから、腹いせにネット記事にして流したの?」
「捕まえるなら、捕まえればいいだろ。おれだって言う証拠があるならな」
「別にそれが目的じゃないわ」
そこで、薫は外すことにした。
「で、どうなの? 根も葉もない記事でもないんでしょう?」
ああ、と菅沢は外見に反してふてぶてしく、煙草をくわえながら二重になったあごを引き、
「さっきも言ったけど、広域売春クラブの話はおれがもともと追いかけてた話なんだよ。春先に都内に出てくる家出娘をタコ部屋に監禁して、なんて話はよくあるけど、もっと大規模で都内から千葉、神奈川なら横浜辺りまで一大ネットワークを持ってる売春クラブがあるって話でさ」
「それはいつ頃から?」
「ここ、一、二年かな。組織がでかくなってきたって聞いたのは」
鼻から煙を吐きながら、菅沢は言った。許可してもいないのに、ウエイターを呼んでクリームパフェを頼んだ。
「もともと、そのシマ仕切ってたやつって言うのは、渋谷でいいとこ張ってた男だったんだ。真篠(ましの)って言ったかな。でも、去年の夏かなんかにそいつがいきなりバレてない前科でパクられて、刑務所に入ることになったんだよね。・・・・・それがどうも、不明のタレこみがあったせいらしいんだけど」
「誰かの密告?」
「誰かは知らないけど、突然ね。捕まった本人も寝耳に水だったらしいよ。どうも二年前、真篠の女を寝取ったやつがいたらしいんだけど、真篠はそいつを仲間と奥多摩の山ん中連れてって、首まで埋めてきたらしい。そのとき、そいつに一晩中泣きいれさせたのを写真に撮らせたんだけど、なんかの拍子にそれが流出したんだよね。そのものズバリが直接送られてきて、警察が動かざるをえなくなっちゃった。実はそいつその夜以来行方不明で、実家の家族が捜索願出してたんだけど、奥多摩の山の中から死体で見つかっちゃってね。事件に関わった当時の幹部数名から、真篠本人も殺人と死体遺棄で挙げられたんだけど、クラブはそのままそっくり、別の人間の手に渡ったんだと」
「それが嶋野美琴だってこと?」
「いや、奥田ってひとり残ったホスト崩れの男だって話だったんだ。Oって匿名でおれの本にも出てるけど、そいつが都内一円のラブホテル経営者の息子でそっくりシマをもらったはいいんだけど、今度は女の子が集まらなくなって困っちゃってね。ああ言う事件の後だから、警察の目もあってそうおおっぴらには動けないし、女の子も集まらないしで、一回だめになりそうになったんだ。・・・・・・それを救ったやつがいて、ここ一年、おれはずっとその後を追いかけてたわけよ」
「それが嶋野美琴」
菅沢は、はっきりと肯いてみせた。
「彼女がそんな裏の顔を持っていたとは思わなかったわ」
大きくため息をつくと薫は、愕然として言った。
「どう思おうと事実は事実だ」
「・・・・・それに関わっていたのは彼女一人なの?」
「いや、おれの調べではあの学校の女生徒はほとんどだとさ。嶋野美琴の周りにいた人間・・・・・満冨悠里と野上若菜は、幹部として女の子の調達や労務管理を任されていたらしい。やつらが持ってくる女の子たちの質は極上で、なんでも言いなりになってトラブルは少ないし、客は喜ぶしで、一気に販路は拡大した。その売春させられていた子の友達を介してまた友達へって感じで増えていって、有名校の現役生や中学生、その下の子もかなり多かったみたいだよ」
「そんなことがどうして今まで公にならなかったのかしら?」
「なったさ。アダルトサイトの掲示板や口コミで客は、激増してたし、一部マスコミにも取り上げられた。でも、話はあくまで噂の範囲内で、表に出てくる部分も氷山の一角みたいなもんだからね。奥田に女の子を供給しているのが、または売春仕切ってるのが誰なのか、それが分からないことには、結局本気にはされないわけよ」
自分の無念を思い出したのか菅沢は神経質そうに顔を歪めた。
「そんなわけで、おれもずっと、そいつの正体が分からなくて取材に苦労してたんだよ。これはあんたの前であまり話しちゃまずいんだろうけど、おれも客になって、働いてる子からなんとか、話聞こうとしたよ。でもだめだった。そこは本当に緘口令が、徹底してるんだ。客をとらされているのはばりばりの現役なんだろうけど、それ以外なにか聞くのは全部NGで、なかには脅かされてる雰囲気の子も多かったね。絶対、逃げられないって、言ってた子もいたんだ。女の子の管理の徹底振りは本当に骨の髄までで、まったく、素人の女子高生が仕切ってるとは思えないくらいだったよ」
と、そこまで一気に話してから、初めて気づいたように菅沢は急に訝しげな顔つきになって、
「・・・・・・しかしあんた、どうしてこんな話に急に興味を持ち出したんだ? わざわざおれに、しかも女一人で話を聞きに来るなんて」
「あなたもたぶん、聞かれたらそう言うだろうと思うけど、秘密のネタ元があったのよ」
当の被害者本人から。
その言葉を苦笑で飲み込みながら、薫は言った。
「へえ、興味あるな、それ」
気のない声で言うと、菅沢は到着したパフェを崩し始めた。
「このネタ、最初はすごく、人気が取れたんだ。話題性としても十分だったし、黒幕が現役の女子高生のグループだって噂も読み物としては面白くて編集長も乗り気だった。でも、あの事件が起きたら、みんなが引いて、おれは摘み出された。不謹慎だってな。あんな悲惨な死に方した女の子のスキャンダルを暴きゃ、世間の風当たりは強いだろうよ」
「でも、あなたはそれを真実だと思っているわけでしょう?」
「ああ、そうさ。おれにだってプライドはあるよ。なんて言われようと、真実は真実だ。それを撤回する気は毛頭ないね」
「撤回しないのは自由よ。わたしも、万人受けする表向きの事実だけが、必ずしも真実だとは思ってはいないし」
鼻を鳴らして、菅沢は灰皿に煙草を突いた。
「聞きたいことが聞けて、満足したかい?・・・・・・もし、そうなら、せめてここの代金と、取材費の一部をもってくれてもいいんじゃないかな」
「質問はまだ終わってはいないわ。菅沢さん。肝心なことをもうひとつ聞きたいの。あなたが、嶋野美琴に関して話した裏情報を知ったのは、誰から? 最後にそれをぜひ教えてもらいたいのよ」
「え?」
よく聞こえなかった、と言うように顔をしかめて、菅沢は険悪に言った。
「あなたは黒幕を知ることが出来なくて、苦労してたのよね、菅沢さん。そのこう着状態を打開した情報者は、いったい誰? そして、いつ、なんのためにその相手はあなたに情報を話す気になったの? あなたの推測が入ってもいいわ、それを教えてちょうだい」
「馬鹿言うなよ・・・・・だって、あんた、さっき言ってただろう? ジャーナリストには、守秘義務があるんだよ」
「守秘義務は違法に未成年と関係を持ったことを話さない、と言う意味じゃないのよ、菅沢さん」
三流記者が、吹いたものだ。畳み掛けるように薫は言った。
「最終警告だと思って聞くのね。あなたに選択の余地はない。未成年の買春で捕まるか、わたしの望むとおりの情報を提供するか、ここで二つに一つで選ぶの」
「児童を買春したなんて、証拠はないだろ。おれはなにか言ったかもしれないが、それはあくまであんたが、勝手に聞いただけだ」
菅沢は鼻で笑ったが、笑みが引き攣っていた。買春の二文字で、周りで聞き耳立てていた人間が一斉に反応する。ペースダウンだ。今度は噛んで含めるように。薫は落としにかかった。
「それなら、犯罪被害者に対する名誉毀損でも捜査妨害でもいいわ。事件の関係者としてあなたを拘束する。そんなところに潜入取材してるくらいだから、あなたを引っ張れば当然、洗ったら別件の余罪も出てくるかも知れないしね。わたしはあなたじゃなくても別にいいのよ。それらしい人間の名前はもうこっちで押さえてるんだから」
「嘘だ。そんなんだったら、そいつに直接聞けばいいじゃないか」
ここが、かまのかけどころだ。
「ねえ、菅沢さん。わたしの考えを聞くだけ聞いてちょうだい」
と、薫は続けた。
「あなたの話から判断するに、彼女たちのガードはかなり高いところにあったはずよ。ちょっとやそっとの関係者では、あなたが望む内部情報までリークできない。あなたが関わったのは、この売春の件では嶋野美琴の直接に近い関係者でしょ? 違う?」
「さあね」
菅沢は答えない。だが顔に、動揺が現れている。後、一歩だ。
「わたしはその関係者と言うのが、今回の殺人事件にも強く関わってると信じてる。直接の実行犯じゃないにしても、主犯として引っ張れるほど責任のある人物のはずよ。それはあの、売春クラブの運営に深く関わっていた。例えば、あの奥田って男は」
「・・・・・あいつはとっくに逃げたよ。美琴が死んだって聞いたら、商売畳んですぐにな」
「満冨悠里と野上若菜にも会った。彼女たちは確かに、なにかを隠している様子だった。でも、殺人者じゃない。はっきり言って彼女たちも、なにかを、恐れているふしがあるわ」
「誰なんだ、いったい、あんたの言うそいつってのは」
「マキ」
「なんだって?」
菅沢がとっ外れた調子の声を出した。
「だから、マキ、よ」
「はあっ?」
菅沢の顔にみるみる安堵が浮かび上がった。
「なんだそいつは、まったく。そんな名前は聞いたこともない」
安堵は、軽蔑の色になった。呆然としている薫を置いて、菅沢は勝手に立ち上がった。
「誰の名前を言うかと思ったら、なんだ・・・・・ガセ情報かよ」
軽蔑には事件を追う記者としての菅沢の失望すら含まれていた。
まさか。まったくの空振りだった。
「そんな名前の人間は知らないよ。思わせぶりにかまをかけてくるから、どんな人間の名前を出すかと思えば。・・・・笑わせる」
やっぱりあれは。ただの幻想。薫の作り出した妄想の産物なのか。
「憶えとけ。もう二度と、下らんことでおれを呼び出すな。三文ライターだからって甘く見るなよ。今度おれを脅したら、お前の部署に名指しで告発してやるからな」
白い顔を紅潮させて捨て台詞を言い放つと、菅沢は出て行った。重たい木製のドアに取り付けられたドアベルが虚ろなくらい、派手な音を立て続けているのが、薫の空白の頭の中に響いてきた。
やっぱり、でたらめだったんだ。
マキなんて人間は、事件には存在しない。
捜査に戻ろう。余計なことを考えていた自分が馬鹿だったのだ。さすがに応えた。まさかここまできて無駄骨とは、思いもしなかったからだ。
一応、塚田と菅沢の話していたことは、報告すべきだろうか。いや、それこそ、根拠の薄いガセ話と一笑に付されるだろう。
菅沢がどう騒ごうと嶋野美琴には、そうした裏の顔は取沙汰されてはいないのだ。週刊誌も相手にしないようなエセライターの言うことを鵜呑みにして主張したら、それこそ、警官として立つ瀬がなくなるだろう。
こうなるとマキは、本当に美琴の関係者ではないのかもしれない。そんな人間がなぜ、犯行に関わっているのかは、もはや薫の想像力では推測しようがないが、自分の妄想で片付けるのには、まだふんぎりがつきそうもない。
でも、どうしよう。後は、縁の薄いクラスメートにいちいちあたるしか手はないが、聞き込むのにもその糸口がなければ、マキをあぶり出すことなど、到底出来はしないだろう。
約束の時間までまだ大分ある。しょんぼりしながら、薫は切符を買うべく、駅までの道のりを歩いていた。
バス停を過ぎ、ひとけのない駐車場を抜けた辺りだ。ふいに、くぐもった男の声がして、薫の注意を引いた。みると駐輪場の陰の八手の茂みの向こうで、男が二人、揉み合っている。身なりのいいスーツを着た大柄の男が小柄な男を締め上げて、なにかを要求しているようだ。恐喝か。身なりのいい男のほうはことによると、そっちの筋の人間かもしれない。いずれにしても見過ごしてはいられないだろう。薫は携帯した手帳を手に、近づいて驚いた。
襟を掴み上げられているのは、啖呵を切って出て行った菅沢なのだ。薫を前に威勢のよかった彼は銀縁眼鏡がずれて、泣き出しそうな顔で目を反らしている。もうひとりの男は兎をつまみ上げるやり方で、菅沢の首を根っこから捕えて、離しそうになかった。
男の顔をみて薫はまた驚いた。真田なのだ。
片手で菅沢を持ち上げられそうな真田は世間話でもするような声音で、菅沢に話しかけていた。
「なんだ、会うなり逃げるなよ、菅沢。久しぶりじゃないか」
「さ、さ、真田さん・・・・・あんた、海外行ってたって聞いたけど、戻ってたのか。げ、元気だったかい?」
古い知り合いなのか。口調はなれなれしいながら、にこりともしない真田に対して、菅沢はほとんどすがるような目で、当の真田に救いを求めている。こういうとき、真田は絶対に容赦しない。そのことをよく、知っているのだ。
「肺はよくなったのかよ、もう」
「あ、ああ、おかげさんで。大丈夫だよ、なんの問題もなくって」
「もう身体に悪いことしてねえだろうな」
「あっ」
言うと真田はもう片方の手で乱暴に、菅沢の身体をまさぐった。
「や、やめろっ」
「心配してやってるんだぜ、おれは。結核やってんだろ、お前」
やがて真田の手から、覚せい剤のパケやシートがぽろぽろと転がり落ちた。土を掻いてでもそれを回収しそうに飛び出した菅沢の身体を引き上げる。小柄な菅沢は折り詰めの寿司の箱のように宙吊りになってもがいた。
「相変わらずやばいもん持ってるな、お前」
パケを拾い上げて指で崩しながら、真田は言った。化学肥料のように土の上にこぼれた白い粉を、火事で家が丸焼けになったような深刻そうな目で、菅沢は見守るしかなかった。
「か、勘弁してよ、真田さんっ。あんただって、もともと、おれに・・・・」
真田は突然、ジャンパーの襟から手を離した。菅沢は内股気味に膝をついて、まだ無事な落し物に這っていこうとしたが、真田がそれを許さなかった。今度は油気のない髪を掴んで持ち上げた。
「痛いっ」
「喫茶店で女刑事となんか話してたろ。なに聞かれたか、おれにちょっと言ってみろ」
「池袋で女子高生が殺された事件の裏話だよ・・・・・どこにも相手にされなかった。死んだ女の子が、都内一円の売春クラブの黒幕だって、情報提供者が出たんだ。おれだって、二年越しにこの話は取材して黒幕の名前を探ってたのに」
「つまり、その情報提供者の名前を知りたがってたってことか。お前、あいつにその密告屋の名前、話したのか?」
「話すわけないだろっ。これが飯の種だぞ。そう簡単に・・・・」
真田は菅沢の左腕をとって、逆に締め上げた。そのまま菅沢の背中に膝を落として体重をかけ、土下座の姿勢のまま、菅沢をそこに這いつくばらせた。
「こんなことしていいのかっ、訴えてやる、人権侵害だっ」
「正当に権利を保障して欲しかったらそう言え。別におれはそれでもいいんだ。いつでもそうしてやる。このお前の持ち物とおれの一言で、次は確実に実刑だな」
堂に入った脅しで黙らせると、真田は、菅沢の持ち物の中から携帯電話を取り出すと、片手で番号をプッシュしてどこかに電話をかけた。菅沢の耳元に電話を押しつけ、
「ちゃんと言えよ。急に、気が変わってしゃべりたくなったって」
「!」
その瞬間、胸ポケットの薫の携帯が激しく振動した。分かった。なにをさせるために菅沢を痛めつけていたのか、はっきりと。その音に、はっとしたように、真田がこちらを振り向いた。
「・・・・・・いたのか」
電話を切ると、真田は言った。見られたことは気にしていない。なぜずっと見ていて声をかけないんだ? そんな感じの顔だった。
「真田さん」
もしかして。・・・・・・二の句が次げない。なにをしていたんですか? そんな当たり前のこと、聞けるはずがなかった。
「ずっと・・・・・尾行けてたんですか? わたしのこと」
「ああ」
だからどうしたんだ、と言う風に真田は肩をすくめて、
「君がこの件の捜査を抜けられないのは、どうも個人的になにか理由があるんだと思ってね」
後半は意味のある含み笑いで、薫を見た。
「・・・・・・・しかし、まさか独自の線で捜査を進めているとは、思いもしなかったけどな」
「そんなつもりはありません。わたし・・・・・わたしは」
下手な言い訳だった。自分でも分かっていた。でも。口に出したら止めようがなかった。
「このことはいずれ、確証が出てきたら上司にも相談するつもりで自分の気になったことを煮詰めていただけです。被害者の私生活の別の面から、犯人像を検討しようと」
「菅沢みたいな三文記者の言うことを鵜呑みにしてか? なかなか、冒険家だな。つまり言うと、君のところの捜査員は今、全員、検討外れの方針で捜査をしているわけだ」
「真田さん、この件のことで、あなたがわたしの上司にどう報告しようと、それは自由です。でも」
薫は息を大きく吸ってから、言った。目の前の男のペースにはまって再度、巻き込まれたくはなかった。
「なんと言われようと、わたしはこの件を外れる気はありませんから。それに、はっきり言って二度とあなたには、協力したくないんです」
「・・・・なあ、こうなったら分かってくれるまで何度も言うが」
真田も大儀そうに息をついて、言った。
「君は誤解している。君がおれに協力するんじゃない。まずはおれが君に協力しよう。そう、言っているだけだ。今のところは」
「その心配は無用です。わたしは、真田さんからなにか協力を得ようとはそもそも思ってはいないし、あなたのやり方には、ずっと、疑問を感じていたんです」
「待てよ。君は別に、おれのすべてを知っている、そう言うわけじゃないだろう?」
「ええ、確かにそうですよ。わたしは真田さんのことは、よく知らなかったし、今もそう」
薫は肯いた。知らず、感情的になっている自分がいた。
「でも、あのとき、あなたのやり方で事件を解決したせいで、新人のわたしは、確実に迷惑をこうむりました。わたしはそれを今でも忘れてない。わたしがあなたのことをよく知らないように・・・・・あなただって、あなたの仕事ぶりで知らずに迷惑をかけた人たちがいることをよく知らないはずです」
「君が具体的にどんな話をしているか、おれにはよく分かってはいないんだが、おれと組んだ事件に関してならあれは」
そのとき絶妙のタイミングで、足元の菅沢が一気に立ち上がった。隙をみたつもりだろう、散らばった持ち物を置いて、なりふり構わず走って逃げていった。彼には災難だったろう。不幸は続くものだ。道路に出た菅沢は三叉路から飛び出した赤いスポーツカーにはねられそうになって、若い男の怒号を浴びていた。
「まあ、いい」
菅沢に対してか、言い捨てると真田は、持っていたものを無造作に薫へ投げて寄越した。それは菅沢から取り上げた、彼の携帯電話だった。
「これ・・・・・・」
「持っとけよ。必要なはずだ。色々な意味でな」
お見通しだと言うように、真田は手を振って見せると、
「そいつにおれの番号も入れておいた。その気になったら、いつでも連絡をくれ」
反射的にそれを受け止めてしまった薫の様子がおかしかったのだろう、苦笑混じりで覗き込むと、真田は言った。
「・・・・・それともうひとつ言っておくが、この件と、おれが朝話した件は、同一線上にある枝葉の事件だ。菅沢と、現役女子高生の売春クラブに目をつけたのは、なかなかいい着眼点だな」
「あの・・・・・」
「さっきの話は、今度またゆっくりすることにしよう。・・・・じゃあな。電話を、待ってる」
受け取ったものを返すわけにもいかずたたずむ薫を一瞥すると、真田はさっさと、どこかへ引き上げていった。
二人の美琴
押収した菅沢の携帯電話の中にやはり、それらしい「マキ」の名前はなかった。唖然とした顔をされるわけだ。恥ずかしいが、柄にもない強面の尋問をした、そのつけだと思うしかない。ホームで缶コーヒーを買って一息入れながら、気分を立て直すことにした。
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