3D小説「bell」本編
■越智幸弘の視点/ボツ原稿の公開
※本来、8月16日に行われたイベント「だれかのタイムカプセルを掘り起こそう!」中に小冊子の形でみつかる予定でしたが、もろもろの都合でボツにしていました。
「謝れよ」
と僕は言った。
本当はあれこれと口出しをするつもりなんてなかった。知ったことじゃない。僕には関係ない。そう思っていたけれど、美優も隆もあまりに不用心で、みていられなかった。
「美優が悪くないことはわかってるよ。でも、さっさと謝って、みんな終わりにしちまえよ。今の人間関係なんて小学校のあいだだけだ。もう何年か先には、景浦のことなんてどうでもよくなってるよ」
美優は正義感が強い。だから多少の反発はあるだろうと思っていた。
でも彼女は固い表情のまま、頷いただけだった。ずいぶん参っていたのだろう。
それで、少しだけ悲しくなった。
※
美優が景浦に降伏したことで、クラスにはとりあえずの平穏が訪れた。
かつての美優の友達は彼女から離れたままだったし、たまに些細な嫌がらせはあったようだけれど、でもそれがなんだっていうんだ。隆はクラスで居心地が悪そうにしていたし、僕は彼とケンカしたままだったけれど、それがなんだっていうんだ。僕たちはもう友達ではないかもしれないけれど、それがなんだっていうんだ。みんな苦しみながら生きているんだ。多少のことは仕方がない。
やがて1学期が終わり、夏休みが訪れた。僕はその夏、はじめて父が持っている山にいかなかった。なにをしていたのかよく思い出せない。知らないあいだに夏休みが終わった。時間の流れ方が平坦だと思った。
すべてが変わったのは、2学期になって、うちのクラスにひとりの転校生が現れたときだ。
※
彼は久瀬太一と名乗った。
東京から転校してきたとのことで、景浦がずいぶん彼に興味をしめしていた。でも久瀬の態度はそっけなくて、そのことが意外ではあった。景浦は外見だけは悪くないから、本性を知るまではたいてい、誰だって彼女に好意的なのに。
景浦は大人びていると、よく言われる。日曜にたまたまみかけたときなんかは、かなり濃く化粧をしていたりして、他のクラスメイトとは違うなと確かに感じる。
でも僕は、彼女を大人っぽいというのはなにか違うような気がしていた。それよりも久瀬という転校生の方が、なんだか大人びてみえた。彼はみんなと同じようにふざけたり、サッカーで遊んだりしているあいだはそれほど目立たないけれど、たまに妙に鋭いことがあった。
ある日の帰り道だった。
「あの山本って子、なんで嫌われてんの?」
と久瀬は言った。
彼とは家の方向が違う。わざわざその話をするために、僕を追いかけてきたようだった。
僕には疑問がふたつあった。
「どうして、そう思ったんだ?」
「みてりゃわかるよ。みんなあいつを避けてるだろ」
「じゃあ、どうして僕にそんな話をするんだ?」
「お前と、あとは白石ってやつ。よく山本をみている」
「君は探偵かなにかか?」
久瀬は妙に人懐っこい、明るい笑顔で笑う。
「そんなわけないだろ。麻酔銃も蝶ネクタイも持ってねぇよ」
「なんだか気持ち悪いな」
「うわ、ひでぇ。転校が多いからな。これでも、そこそこ苦労してるんだよ」
久瀬には奇妙な魅力があった。簡単にこちらの心の中に踏み込んでくるような、その反面で、彼の心の中は決してのぞかせないような。
普段の僕では考えられないことだけど、なんとなく、彼にペンケースのことを話してしまった。
久瀬はとてもストレートに怒りの表情を浮かべた。目の前にいた僕は、殴られるんじないかとひやひやしたくらいだった。
「なんだよそれ。ふざけんなよ」
と久瀬は言った。
僕はペンケースの話をしたことを、少し後悔した。
「余計なことはするなよ。もう終わったことだ」
「どこが終わってんだよ。お前ら、居心地悪そうじゃん」
「お前ら?」
「お前と、白石ってやつと、山本って子だよ」
僕は別に、苦痛は感じていない。
「苦しいのは美優だけだよ。それも、長くても小学校を卒業するまでだ」
「まだ3年以上もあるじゃねぇか」
「たった3年だよ。たぶん」
「で、中学校になって同じようなことがあったらどうするんだよ? また3年我慢するのか? 高校でも? 大学は4年だ。その先はどんだけ長いかわからない」
「そんな先のことは知らないよ」
「そうだよ。だから、今なんとかしないといけないんだろうが」
久瀬は険しい表情で、眉間に皴を寄せていた。
「とにかくお前、明日の放課後、教室に残ってろ」
「どうして?」
「決まってんだろ」
久瀬は妙に力強く笑う。
「その景浦ってやつ、むかつくな。オレがいじめてやるよ」
※
なぜだか、久瀬の言葉に逆らえなかった。
翌日の放課後、彼にいわれた通りに、僕は教室に残っていた。
教室には美優と隆もいた。僕と同じように、久瀬に残るようにいわれたのだろう。
景浦は取り巻きの女子たちに囲まれて、いつものようになにかつまらない話をしていた。芸能人がどうとか、ファッションモデルがどうとかいった話だ。東京では、アメリカでは、フランスでは、イタリアでは――そんな単語ばかりが聞こえてくる。
久瀬は平然と、彼女たちに歩み寄る。
「なあ、景浦」
と彼は声をかけた。
景浦は嬉しげに振り返る。
「どうしたの、久瀬くん」
「はじめてみたときから思ってたんだけどさ」
久瀬は頭を掻いて、人を小馬鹿にしたような笑顔を浮かべる。
「お前、だせえよな。もうちょっとファッションセンス磨いたら?」
瞬間、教室の空気が凍った。
これまで景浦に正面からそんなことを言う奴なんて、ひとりもいなかった。
冷たい視線にさらされながら、久瀬は平然と机の上を指す。
「たとえばさ、なんだよそのポーチ」
景浦はひきつった笑みを浮かべる。多少、余裕を取り戻したようでもあった。
「それはヴィトンよ。あなたも、名前くらいは聞いたことがあるでしょう?」
「もちろん知ってるさ。ルイ・ヴィトン。元々は世界初の旅行鞄専門店としてパリに登場した。当時は船旅ばかりだったから、ヴィトンは防水性にすぐれていて、水に浮く鞄を作った。あのタイタニック号の沈没のとき、ヴィトンの鞄につかまって生き延びた人がいるって逸話もある。質実剛健でいいブランドだよ」
おそらく予想外の反応に、景浦が気圧されたのがわかった。
「じゃあ、なにがいけないっていうのよ?」
「ランドセルにヴィトンとか馬鹿じゃねぇの? ファッションは組み合わせなんだよ。まだ給食袋の方がましだ。お前、だせえな」
久瀬は景浦の頭を指す。
「そのヘアピンだって。悪目立ちし過ぎなんだよ。だせえ」
「これがいくらすると思ってるのよ?」
「値段でファッションを語るのは田舎者だけだよ。だせえ」
「いいものは高いに決まってるじゃない」
「安くていいものもあるさ。高いものがみんないいわけでもない。本当にいいものだって、組み合わせで最悪にもなる。まさか、お前にブライトリングが似合うとも思わないだろ?」
景浦が言葉を詰まらせる。
久瀬は、はっ、と声を出して笑った。
「もしかして知らないの? ブライトリング」
「知ってるわよ、指環でしょ」
「へぇ。じゃあアグスタは?」
「……ママが、財布を持ってるわ」
「アグスタはイタリアの飛行機メーカーだよ。しったかぶりとか馬鹿の証拠だよな。あとだせえ」
教室の雰囲気が、異様に歪んでいた。
取り巻きたちも、景浦自身も、久瀬には勝てないと察していたのだろう。
それでも景浦はなおかみついた。
「ちょっとぐらい色々知ってるからってなんなのよ? 知識をひけらかすとか、そっちの方がださいわ」
「知識は愛であり光であり、未来を見通す力なのだ」
「なによ、それ?」
「アン・サリバン。知識を馬鹿にするのはなんにもみえてない馬鹿だけだって言ってんだよ。ずっと目を閉じてるよりもひどい」
「そんな人知らないわよ」
「へぇ。お前って常識的な知識もないんだな」
「どこが常識なのよ」
「誰だって知ってるぜ」
ふいに、久瀬が振り向いた。
「なあ、山本。アン・サリバン。知ってるよな?」
どきりとした。僕はアン・サリバンなんて知らなかったし、美優に僕よりも知識があるとは思えなかったからだ。
でも、美優は頷いて、答えた。
「ヘレン・ケラーの家庭教師だね。サリバン先生」
どうして簡単に答えられたのだろう?
その疑問は、次の瞬間に氷解した。
「見ることは知ることだ。これは誰だかわかるか?」
景浦は答えない。でも、僕は知っていた。
ひとなつっこい笑顔で、久瀬が笑う。
「教えてやれよ、越智」
やっぱりだ。どうしてだろう? 彼は僕たちそれぞれが興味を持っている分野を把握しているようだった。
「ファーブルだよ。昆虫記の」
と答える。僕は昆虫が好きだ。
頷いて、久瀬は言った。
「ところで、さっき言ったブライトリング。あれ、指環じゃないぜ」
なあ、と久瀬は隆に振る。
「ああ。スイスの時計だぜ」
装飾品の類の知識でまさか隆に負けるとは思っていなかったのだろう。景浦の顔から血の気がひいていた。僕は内心で笑う。クラスメイトに興味のない景浦は知らないだろうけれど、隆の家は時計屋だ。あいつも幼いころから、時計にだけは興味を持っていた。
「ほら、こいつらの方がお前よりもずっと、いろんなことを知ってるぜ」
久瀬は景浦を指さした。
「オレはさ、お前が無知で、このクラスでいちばん馬鹿で、センスが悪くてだせえやつだって教えてやってんだよ。もし勘違いしてたらいけないからな。ほら、優しくされたらお礼をいわないとだめだろう?」
景浦は小刻みに震えながら、妙に甲高い、半ば泣き声のような声で言った。
「じゃあ、あんたにセンスがあるっていうの?」
簡単に久瀬は頷く。
「ああ。少なくとも、お前よりはずっとな」
「どこがよ。アクセサリーも持ってないし、ランドセルもなんか汚れてるし。あんたこそセンスゼロじゃない」
「お洒落ってのは、ワンポイントでいいんだよ」
久瀬は彼の席まで戻り、ランドセルをごそごそとやった。
そして、満面の笑顔で、缶ペンケースを取り出す。赤い、舌を出した女の子のイラストがついた、あの缶ペンケースだ。
「ほら、センス抜群だろ」
沈黙のあとで、景浦が笑い出した。ひきつった、なんだか苦しげな笑い声だった。
「それのどこにセンスがあるっていうのよ」
「それがわからないから、お前はセンスねぇんだよ」
久瀬は大切そうに、ペンケースをなでる。
「たしかにこの絵は子供っぽい。でも子供っぽいものを馬鹿にするのはガキだけだ。高校生くらいになったら良さがわかるよ。お前は本当にガキだな」
それから久瀬は、妙に大人びた動作でため息をついて、「あとださい」とつけ足した。
その日、久しぶりに僕は、隆と、美優と一緒に下校した。途中までは久瀬も一緒だった。
「ねぇ、どうして私がサリバン先生を知ってることがわかったの?」
と美優が言った。
久瀬はさらりと答える。
「3日くらい前、学校でヘレン・ケラーを読んでただろ」
景浦に目をつけられてから、美優が教室でよく本を読むようになったことは、僕も気づいていた。でもそのタイトルまではみていなかった。
久瀬はなんでもなさそうに笑ってる。
「オレも自伝とか好きだからな。なんとなく印象に残ってたんだよ」
「お前、すげえいろんなこと知ってんだな」
と隆が言った。
久瀬は困った風に頭を掻く。
「そんなことないよ。実は昨日の夜、一夜漬けで詰め込んだんだ」
本当はオレはガキだからな、と言ったときの久瀬が、いちばん大人びていた。
※
後日談、というほどでもないけれど、それからのことだ。
景浦はやっぱりクラスの権力者で、久瀬は除け者にされてしまった。とはいえなにも変わらなかったのかというと、そんなこともない。
僕たち4人は、一緒につるむことが多くなった。4人ともまとめて、景浦に敵視されていたけれど、それでも学校に居心地の悪さは感じなかった。久瀬は本当は、景浦をどうこうしたかったわけじゃなくて、たぶん僕たちに仲直りさせたかったのだろう。
僕たちが一緒にいたのは、小学3年生の2学期の、たった4か月間だけだ。
でも僕たちは今も、あいつを親友だと思っている。
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