名付けようの無い踊り
おはようございます。
今週は久世が担当です。
色々と感じたことを少しづつ書きました。
内容は
・祖母の三回忌
・冬が終わること
・名付けようの無い踊り
の3つになります。
・祖母の三回忌
つい先日祖母の三回忌の法要がありました。
今回は参加するために日程も調整出来ていたのですが、コロナのため遠方からの参加は禁止ということで参加できず。
集まったみんなで故人を偲ぶあまり多くない機会。
参加できないのは仕方がないけど悲しいです。
派手なことが好きだったおばあちゃんも寂しがってるんちゃうかなと思います。
そこに世界的な社会情勢の問題もあって心がざわつく日々を送っています。
個人的な問題と社会情勢。
ミクロとマクロですが、個にも公にも属する人間なので両方の情報からくる感情が身体の中で同時に流れながら時に統合も最適化もできずに生きている。そうするとなんとも言えずに心がざわつきます。
話を戻して、祖母の三回忌。
葬式の時も思ったのですが、ほとんど会ったことのない少し遠い親戚が集まる機会が僕は好きです。
全く話したこともないのに、あって挨拶すると、あっ、この顔と喋り方と声、遺伝子が近い!と思います。良くも悪くも。
遺伝子が近いと声はまだわかるけど身体の動かし方の癖も似てくるんですね。不思議です。
遺伝子が近いから身体の特徴も近くて、身体の特徴が近いとどうしても癖も似てくるのでしょうか?瞬きの仕方とかコントロールできなそうなところが似てるからドキッとする。
そこかしこで、おばあちゃんの面影が動いて生きている。なんだか不思議な気持ちになります。
どこか別の世界に紛れ込んだような感覚。
ばあちゃんの亜種wonderland。
親戚が集まったそこから祖母がいなくなったというのは寂しいけれど、こうして近い遺伝子が揃うと豊かな大きな森から一つだけ木が枯れてしまっただけのような、いや、一枚葉っぱが落ちただけのような。そんなに大したことじゃないって思えて「おばあちゃん(の要素)ほとんど残ってるで!お疲れさん!」みたいな気持ちになってくるんです。
法要というのはそこにくる人の目的がすごくハッキリしていて、(色んなトラブルが起こる場でもあるけど)故人を偲ぶという一点で集まるからそう思えるんでしょうけどね。
普段から会ってたらしんどいことも多いんでしょうけどね。
いつかもう少し落ち着いたらみんなで集まれる機会をつくれればいいなとおもいます。
・冬が終わること。
そろそろ冬が終わりますね。
僕は冬が好きじゃないです。
寒いのが嫌いで。
嫌で仕方ない筈なのに、終わるとなると、あと何回か鍋を食べたいなとか、雪を踏みたい!とか、あのコートで出かけたいとか、元旦の何故かだいたいものすごい晴れる感じは好きやなとか、冬を堪能したい!って気持ちが湧いてきます。
不思議なもんです。それもほんの少し暖かくなったからなんでしょうけど。
あとスーパー行って、店内で販売してる鍋のおつゆが棚を占める面積が少なくなってるのを見ると、冬がどんどん消え始めた!みたいに見えて、冬がどれくらい幅をきかせているか可視化してくれている感じがして面白いです。
焼き芋やおでんが姿を消していくのも、冬が人間の生活から駆逐されていく感じがして興味深いです。
また来年も僕の予想では冬を体験するんですけど、この歳になると来年があるかどうかわからないぞという気持ちもあるんです。
・名付けようの無い踊り
「田中泯」という「踊り」を記録した「名付けようの無い踊り」というドキュメンタリー映画を見ました。
田中泯さんは、76歳で世界的にも活躍されている「踊り」です。
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