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  • 【第332号】「あの日」が生んだ「呪術廻戦」の世代

    2021-03-08 07:0021時間前
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    山田玲司のヤングサンデー 第332号 2021/3/8

    「あの日」が生んだ「呪術廻戦」の世代

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    【肩が重い】



    今週の放送中に突然「左の肩」が重くなった。



    「単なる気のせい」かもしれないけど、生放送の最中に「何かが乗ってきた感覚」になる事がある。


    あまりスピった話はしたくないので、普段は言わないのだけど「ああ、誰かが来てるな」と思う事は何度もあった。


    今回取り上げた漫画は「呪術廻戦」

    まさに「そういう話」の作品だった。


    人には「負の感情」があり、そういったエネルギーが「呪い」になる。

    そのエネルギーを使って逆に消えない「呪い」を祓い「解呪」するという話でもある。


    しかも作者自身19歳で東日本大震災を体験している。


    読むほどにこの作者の「誠実な思い」が伝わってくる。



    それまでの世代の漫画家と明らかに違うのは「死」を覚悟して現実に向き合っているところだろう。


    もちろんこの漫画には「あの日助けられなかった人達への思い」も乗っている。


    「これは中途半端な気持ちでは語れないな」と思い、僕はかなり入念な準備をして放送に向かった。



    【ナウシカとバトルロワイヤルの果てに】


    多くの漫画やアニメが「良くない現実」について語ってきた。


    近代文明は人類を破滅に導くのだ・・というやつだ。

    人類の「愚かな欲望」「傲慢さ」「エゴイズム」などが世界の破滅を招いているという話。


    昔は「邪悪な宇宙人」みたいな「外から来る敵」を倒すみたいな単純な話だったのが、やがて「地球を滅ぼすのは我々自身だ」みたいな複雑な話になっていく。


    定番の展開として「そこに奇跡の少女が現れ地球を救う」みたいなのが続き、物語は「警鐘」で終わっていた。


    やがて「バブル崩壊」や「阪神大震災」など、現実的な破滅が始まると「死にたくない」という気分が生まれ「仲間同士での生き残りゲーム」というジャンルが流行りだす。


    時代が進み、東日本大震災当時の「まどか☆マギカ」や「進撃の巨人」になると「終末との対面」が描かれている。


    「終りが来る」ではなく「終わりが来た」になったわけだ。


    それでも政府は「いつもの強いもの」のための政治を続け、今や切り捨てられた民は限界に近づいている。


    人々は「他人の不幸」を酒の肴にし、前向きな人達を冷笑し、「怪しい救世主」に救いを求めたりした。


    呪いとなる「負の感情」は国中に満ちている。


    そんな時代に現れたのが「呪術廻戦」だったのだ。



    【僕が漫画に求めていたもの】


    何度も言っているけど、漫画を読むという体験は「作者に会う」という事だ。


    物語が作られたものであっても、その背後には作者が体験した「何か」があり、そのときに感じた「思い」みたいなものがある。


    手塚治虫先生や水木しげる先生なら戦争体験。

    富野、宮崎世代なら学生運動体験。

    僕の世代でも「恋愛」や「受験」などの体験はあって、その体験からくる「生の感情」が読者の心を動かしてきた。


    作者が漫画の背後で「私はあの日こう感じたんです!」と言っている漫画。


    そういう漫画を僕は求めているし、そういう漫画を描こうとしてきたのだ。



    【僕に乗ってきた何か】


    本当に単なる「気のせい」かもしれない。


    でも確実に放送中に左肩が重くなった。

    開始20分あたり、岩手の魂について語っている頃だ。


    バカっぽく語っていたけど、この話は「霊界が身近な東北文化についての話」で、作者の芥見下々先生がこの環境に育った事が作品に大きな豊かさを与えている、という話につなげる伏線を張っている時間だった。


    それが終わり、傑作だった「呪術廻戦0巻」の話が終わると肩は軽くなった。

     
  • 【第331号】言葉が絵になる話し

    2021-03-01 07:001
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    山田玲司のヤングサンデー 第331号 2021/3/1

    言葉が絵になる話し

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    今日のメルマガは久世の担当です。おはようございます。


    今年の久世は、今のところ前半に特殊な仕事が固まっていてとても面白い状況なので、その一部をお伝えさせていただきます。


    今日は宮崎滞在制作のお話です。

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    2021年1月10日〜2月11日まで、宮崎県でアートを広めたいという方に招聘いただき、宮崎県宮崎市、海にほど近い場所にて滞在制作・アーティスト・イン・レジデンスを行っていました。


    お正月が終わってすぐの出発ということ、1か月の滞在ということ、コロナの影響、などが複合的に重なり、今年の年末年始は今まで経験したことのない感覚で時間が流れていきました。


    1年を12分割したときの1つ分。

    まるまるひと月以上住んでる場所にいないっていうのは僕にとってとても特殊な経験でした。


    そもそも滞在制作とは?というところから始めます

    滞在制作とはその名前の通り、アーティストが招聘されて一定期間その場所に滞在し、作品を制作する事業のことです。


    「アーティスト・インレ・ジデンス」という名前で知られていたりします。


    ちなみに作家を招聘して作品制作を行わせる行為は、ミケランジェロが工房のあるローマに招聘されてシスティーナ礼拝堂天井画を描いたことなど、ルネサンス以前から存在していたとのことです。(wiki)


    色んな場合がありますが、大抵の場合、制作したものをそのまま現地で展示したり、演劇やダンス、音楽の場合はそこで公演をしたりします。


    またアーティストが滞在中、そのアトリエを開放したり、ワークショップを行ったり、地域活性化などの目的、運営側の意向、アーティストの意向で、色々と付随した企画を行う場合も多いです。


    僕の場合は宮崎も緊急事態宣言下ということもあり、制作以外の企画はありませんでした。


    あれ?久世ちゃんはアーティストだっけ?詩人もそういうのに呼ばれるんだっけ?何を創ったんだろ?

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    そうなんですよね。演出家として呼ばれることはあっても、詩人としてこういうのに呼ばれることってなかなかないんですが。今回は呼んでいただきました。

    何をしていたのかというと・・・


    言葉を絵にしていました。


    共同制作の方と一緒に。


    今日のメインは「言葉が絵になる話し」です。


    本当はこの宮崎滞在制作の模様は先々週のヤンサンで「ヨルヤンサン☆トピックパレード3!〜おそ松さんは日本のサウスパークになれるか?久世の宮崎詩的滞在紀…etc」とタイトルの一部に組み込んで頂いていたのでそのとき話す予定でしたが、ちょっと時間の都合で話さない方がいいと判断し、先週のヤンサン(花束みたいな恋をした回)で話そうと準備していたのですが、本番直前の打ち合わせで「今日はそういう流れではない」との判断が下り、無しになりました!

    先週、今週とコメントで「宮崎の話は」といくつも流れていたのにすみません。


    直接、SNSなどで「宮崎の話聞けると思っていたのに」などと連絡いただいた方も本当にありがとうございます。


    勿論自分のチャンネルでもまとめていきますが、僕個人の考えとしては、ヤンサンで話すと公表されていて話さないのは自分の仕事の在り方として違うと思うので、必ずヤンサンでもいつかお話しいたしますという気持ちでいます。


    遅くとも次の雑談会・ヨルヤンサンではどんなに僕の中で他にHOTなお題があったとしても責任をもってお話したいな。楽しみにして下さっている方、ちょっと気長にお待ちくださいませ。


    という状況で、今日はせっかくメルマガの順番が回ってきたので、先ずは文章で宮崎の模様をお伝えしますね。


    宮崎で「言葉が絵になる話し」という企画をやっていました。



    アートフェア東京、アート台北、KIAFなどに出品し、アジアを中心とした海外で活躍されている現代作家・小澤香奈子さんとの共同制作です。

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    どういうものかというと、僕が宮崎で毎日毎日詩を描いて、

    それを共同制作者である小澤香奈子さんに対して朗読し、

    朗読している時間だけを繋げて、一カ月で一つの絵を完成させていくというものです。


    「宮崎で描いた詩をもとに絵を描く」ではなく「宮崎で描いた詩を朗読している時間だけで絵を描く」にこだわったのは、


    言葉が世界に質量を持った物質として現実に存在している間だけで、人間の意志(声を出そうという脳の意識)を起点に、身体を使って、声帯から発生する「声」という儚いものとして詩が存在している間だけで絵を完成させた方が、僕の詩の性質に合っているんじゃないかなと思ったんです。


    それと詩を描いた紙かデータを渡して絵を描いてもらうと、完成しているものに対して小澤さんがアプローチするということになり、小澤さんが描いている間、僕は特にすることが無く、共同で作品を創っているということにならないのではないかと思いましたw


    素材の提供だけになってしまうと宮崎まで来た意味ないなーとも思いました。


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    紙やデータを渡して絵を描いてもらうのであれば、どこに居てもできます。


    滞在制作でしか創れないやり方でつくりたい。


    これは見たことない新しい作品を創りたい!という気持ちから来ているものでもありました。


    言葉はどの時点で質量をもつのでしょうか

    空気の振動が止まったとたんに消えてしまう「声」という状態で存在している「詩」


    僕の考えでは、言葉は紙に印刷されても、質量を持っているとは思いません。


    紙の状態は、読む人の頭の中にしかないもので、頭の中にあるものは物質ではない気がします。どうでしょうか?ここは解釈が分かれるところな気がします。


    言葉は人間の心に作用する記号。

    記号は記号のままでは物質ではない気がします。


    何故か僕は「振動」ということに今回非常にこだわりを持っていました。

    この世界にあるものは生きているものも生きていないものもすべからく振動しているそうです。


    ものには固有の振動数というものがあるそうです。

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    (写真:振動している久世)

    なら、僕が振動させた空気 (声)が存在している間だけ、詩がこの世界に物質として存在しているのだと仮定してその詩が在る状態の振動数をずっと維持して、詩がある状態=朗読している状況で描くのが一番いいんじゃないかと思いました。


    実物がある状況で絵を描いてもらった方が、紙やディスプレイで小澤さんが詩を読んで描いて貰う時よりもより

    「僕の言葉がきちんと絵になるのではないか」と思ったのです。


    木を描くときに木を実際に見て描くのと同じ感覚です。

    実際の対象をずっと観察しないといい作品は生まれないと思ったのです。


    企画「言葉が絵になる話し」スタート


    企画がスタートした直後はいくつもの詩を読みました。

    最初は小澤さんに主に絵の具を使って、手始めに

    「言葉を絵や色で捕まえる」という作業をしてもらいました。

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    (身体を包む優しい沼という詩を絵にした状態)

    こちらは、なんというか、顔合わせというかなんというか

    お互いにこんなことやったことないので、まずは何が起きていくのか

    やってみよう!という形で、お互い何も見えてない状況でやっていきました。

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    (「鷲が羽を広げた」、「流れを走る」、「海の本」など様々な詩を絵にしていく。)


    この時点では、後半に比べると小澤さんと僕はまだまだ一緒に何か制作しているという感覚は弱かったと思います。

    ただ、予感のようなものはありました。


    僕の立場からすると

    「言葉を絵にすると色やイメージ、そして筆の流れ」言葉の意味が置き換わるのかというような印象を受けました。


    小澤さんからすると「言葉の意味じゃなくて、言葉を呼んでいるリズムや、声の強弱、そして読んでいる感情に引っ張られるんだな」というような感覚があったといいます。


    面白いことが起きるかもしれない!と思いました。


    この作業で二人の中での誤差のようなものがだいぶなくなったように思います。


    誤差というのは、言葉をどんなに使ってコミュニケーションをしても埋まるモノではないことが多いです。


    例えば僕は地図のある場所を指していて、小澤さんもその地図を見ているしその場所のことも認識している筈なのに、どうも同じ場所のことを指していないような。

    そんな感覚。


    最初のこの作業は絵と言葉という言語の違う二つのジャンルの制作者が新しく同じ地図を描いていった作業だったんだと思います。


    言葉はこう絵で捕まえられるのかという感覚。

    こちらの地図では、ここのことがそちらの地図ではここになるのか。

    というようなことを朗読→絵という変換作業をしていく中で

    言葉で説明せずに理解しあっていきました。


    詩は言葉を使いますが、言葉で言葉の外側の世界を描くのが詩です。


    並んでいる言葉の意味を伝えたいのではなく、言葉が並んだときに出てくるその言葉たちの持つ意味以外を伝えるために言葉を並べるのが詩。


    絵はそもそも言葉ではないです。言葉の外側にあるモノだと僕は認識しています。

    言葉の一般的な使い方のように、並べることで一連の意味を追いかけて理解する類のものではなく、その絵があるだけで、その絵はもうその絵が持つ意味そのものなのだと思います。


    僕の言葉で言うとその絵はその絵でしか描けないものを描いている一つの「言葉」、そういう気持ちになるように心に作用する一つの言葉。

    ということになります。


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    何回も筆をおいてたった一つの、その絵にしか持たせられない意味を持たせて

    新しい言葉を創る行為が絵だとして


    言葉の意味ではなく、その一連の言葉を並べたときにしか成立しない一つの「言葉」を創る行為が詩。


    僕の詩はたとえ何百の単語を使っていても、詩はその詩全体で一つの言葉で、意味そのものだと思います。


    ここでいう意味とは、説明ではなく、特定の作用を心と体に及ぼす言葉に出来ない本質的なもののことを指します。


    ジョン・ケージという音楽家が昔面白いことを言ってたので、ちょっと引用します。

    芸術における、自然の模倣について描いた文章です。


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    乱暴に要約すると、芸術は自然の中にあると、それで、それを模倣したいと、そのときに、単純に自然の音、鳥のさえずりや海の波の音をコピー(模倣)するんじゃなくて、

    自然を見たとき、いい景色を見たり、何か自分が体験して心が動いた時のその心の動きになるように作品をつくることを自然の模倣といっていました。


    僕も言葉を描くときに意識していることで「意味」というものを説明するときにもよく思い出します。

    その心の状態になるように言葉を置いて、言葉が持つ意味=説明 以外の意味を

    持たせる。


    そんな感じで詩、絵、両方とも言葉の外側にいるので、二つの相性はいいと思っていました。



    でも、正直、言葉が絵になるというのが、ここまでエキサイティングだと思いませんでした。

    今まで書いた部分を第一工程と呼ぶことにしました。


    第一工程は「言葉の捕獲」「理解」という段階だと思いました。

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    (第一工程の身体を包む優しい沼)

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    (第一工程の「影を感じて見上げると」)(詩は「鷲が羽を広げた」と「流れを走る」の二つ詩を絵にした)


    お互いの場所とお互いのことを理解する工程。


    そして、そのあとに起こった第二工程は「分解」だと思いました。


    第一工程で色・質感・流れとして捉えた詩を、もう一度分解して「カタチ」

    をみつけ紙に起こしていく作業。


    一般的には下書きと言われる工程です。


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    (第二工程の身体を包む優しい沼と「影を感じて見上げると」)


    この絵は最終的にパネルで制作します。

    きちんとした制作物にするための設計図→下書き の工程。



    この工程からは、

    「第一工程で描いたこの絵をもとに作品をつくります」

    という話があったので、

    その絵を描いているときに読んでいた詩をピックアップして、

    何度も読んでいきました。


    同じ詩を何度も何度も短期間で読むことで

    僕も理解していなかった詩の一面が見れたり

    読みながら小澤さんの絵を見て、

    小澤さんがかいた僕の詩(絵)に影響されて

    その絵のニュアンスを反映させて声に乗せてみたりしました。


    ここから二人ともずっと

    詩を絵にして、絵を詩にして、詩を絵にして、

    絵を詩にしての循環の状態に入りました。


    絵と詩の境目が消えて、絵と詩が混ざりだして、

    同じものになっていきました。


    絵は詩であるし、詩は絵である。

    絵は言葉であるし、言葉は絵である。


    二つのものが同じモノであることが、概念として頭でではなく、実感として身体で分かるんです。

    なんだろう。何かの道具の使い方を初めて覚えたときみたいな感じ。テレビのリモコンなら「あっ!これを押すと、チャンネルが変わるんだな」みたいなことが分かるのと同じ感覚です。

    個人的にこんなおもしろい発見はありませんでした。



    一緒にやってるからでしょうか。

    この工程で既に完全にこの絵は僕の詩だと思いました。

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    絵の小澤さんも僕の詩を私の絵だと思ったということです。


    人に向けて詩を読んでいる時というのは、いつもいいますが、

    身体を空にして、言葉を身体にするという作業になるんですが、

    それってちょっと通常の状態と違うんですね。


    スポーツ選手だと試合中みたいな感じかなぁ。

    試合中って、基本、当たり前だけど、集中しているし、野球なら野球、

    サッカーならサッカー、その競技の人しかいないですよね。

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    でも、今回は野球やってる同じ場所で、全然違う競技やってるって感じなんです。

    それでも一つのゴールを目指せたというか。ゲームとして成立したというか。

    同じ空間で違う時空を重ねて違う試合を同時にやってのけたというか。

    ゲームとして成立するはずのない行為が物凄くエキサイティングに成立しました。


    小澤さん曰く「普段はぜったにそんなこと思わないのに、筆を動かして絵を描いていても言葉を描いている気になった。私の描いているのは言葉だと思った」とのことです。


    小澤さんは「神様が来るための下準備」とこの工程のことを言っていました。

    神事や儀式をする際って人間もその神様がいらっしゃってもいいように、場所を整えます。


    そして、その神様がさもいるようにふるまいます。


    この第二工程の下書きはその状態だそうです。


    ここに何か直感的、霊的な何かが宿るような場所を仕上げていく。


    小さいころドキドキした場所やざわざわした感覚を感じた場所を

    絵の中に再現できるように。


    だから、小澤さんの作品ではおなじみの袋をかぶった白い妖精のような人間のような、羅漢のような存在達はまだ場所が明記されていません。

    ちょっと小澤さんの絵を紹介。

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    (僕のアルバムジャケットの原画を作成,絵「KIND OF RED」)

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    (まろかし)

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    (クッキーを少しこぼした日のこと)


    最終的にこの工程では、二人の頭の上の方でお互い何か物を作るときに発生する磁場みたいなものがあったとして、それが混ざった!!!!って感覚があり、小さい神様が来る準備が絵と言葉できちんとできた感覚がありました。


    第三工程は下書きから、パネルに絵を写していきました。

    第三工程は再構築。

    第一工程で捕まえて理解した言葉を第二工程で分解して形を抽出し、第三工程で、詩をまた絵にしていきます。

    そして、どこに、白い存在を配置するか。


    小澤さんが一番どきどきする場所に、ここに居たら、空気が変わる!と思った場所に、その存在を置きました。


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    (第三工程の「身体を包む優しい沼」)


    そのときも詩は常に作品の傍に浮かんでいました。声として。


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    (第三工程の「影を感じて見上げると」)


    そして、第四工程、着色、仕上げ。

    この工程は「クリエイション・創造」=「コミュニケーション」です。


    全部そうですが、特にこの工程が創造的でした。

    この工程では自分たちにとって奇跡が起こりました。


    小澤さんは基本的に下書きの構図を決めたらそこからパネルに移すときに

    構図を変えたりしたことは無いそうなんですが、今回は初めて、下書きからパネルに移すときに、構図を変えたそうです。


    「言葉が絵の配置や色を導いてくれて、自然と絵の構図やもともと予定していた色が変わってしまった」

    との言葉が出ました。


    このとき「朗読している時間だけで描く」という企画は正解だなと思いました。


    僕がずっと朗読している間だけで描いているとは言え、小澤さんと僕は別の人間、別の個体です。


    ここでも誤差はある。

    普段ならその誤差を誤差と思わず、誤差に気づけず、作品になるところを、


    読み続けている人間がそこにいて、観察し、絵にすべき対象(詩)がすぐそこにあるから、その誤差に気づき、自然と下書きから絵を変更できたのだと思います。


    常に「詩はここに居る」「詩はこう存在している」というのを絵に染み込ませる。

    小澤さんの筆から走らせる線は絵ではなく言葉である。


    もしも読み続けていなかったらどこかの工程で「小澤さんのなかでの僕の詩」を絵にして作品は完成となっていたと思います。


    読み続けることで常に詩のある座標を伝え続ける。


    それをキャッチし続ける小澤さん。それが成立したのがすごいと思います。


    2月9日。

    どんどんこの絵は俺の言葉だという感覚が強くなり、

    絵を見て自分の描いた詩の別の形を理解でき、それをまた声に出し、

    その日予定になかった詩を読み、本当に文字通り号泣してしまいましたw

    映像はこちら。

    https://twitter.com/waraukuze/status/1358295362004373509?s=20


    眼に見えない言葉にならないもので二人に何かの交流が起きていました。


    結局今回の制作は「コミュニケーションの形を創造してたんだ」と思いました。


    人は言語化できない感覚の共有・思想の共有ができるのか。

    そういうことをやっていたんだと気づきました。


    答えは「出来た」です。今回は少なくとも。

    分かり合えました。言葉が無くても。


    僕たちはコミュニケーションをしていたんだ。

    コミュニケーションってこうだったんだと思いました。

    願わくは引き続き日常でもこうでありたいとも思いました。


    時間を共有して、言葉を使わずするコミュニケーション。


    言葉の捕獲、理解、分解、解放、再構築、創造・コミュニケーション

    創って壊してまた創り、そして、創造の中で渦巻くコミュニケーション。

    このサイクルがとても心地よかった。


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    (完成した「身体を包む優しい沼」)

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    (完成直前の「影を感じて見上げると」)



    普段取ってるようで取ってないのがコミュニケーションで、取ってないように見えても取ってるのがコミュニケーションであるとも思います。

    絵と詩。


    僕は読んで、小澤さんは描いて。

    全然関係ないことをしているように見えて密接につながることができた。


    意味が無いように見えたことも後々に意味が出てきた

    やろうとしていたことをやめないでやり続けることで生まれることを信じる。

    積み重ね積み上げ。


    このコロナ禍で、コミュニケーションの形も変わろうとしているのを肌で感じます。


    でも。本質は変わらないんじゃないかな。


    お互い人間である限り、何もかもインスタントで簡略化していけるわけではなく、

    うわべではなく、本質的なコミュニケーションが必要なんだという気がします。


    今回の企画にしてもそうです。


    ウェブでの会議などが定着した現在。

    「声」だけによるコミュニケーションの難しさ、大事さがもっと具体的な形で問題になってくると思います。良い面も勿論出てくると思いますが、それに不便を感じることもまた多く出てくる気がします。


    「出来ないと思わないこと」。これが大事なことだと思います。


    声も身体、ちゃんと声だけでも伝わるものは伝わる。


    詩が絵になるってどういうことか始める前は全くわかりませんでした。


    でも出来ないとは一回も思いませんでした。


    言葉が絵になる話し。


    言葉は絵になりました。


    それも、実感を伴って。

    「コラボできたね!」くらいの軽いノリではなく。

    きちんと「凄いことをやってのけたね」という実感を伴って、


    言葉は絵になりました。

    このやり方は小澤さんじゃないとできなかったと思います。

    他の人とはまた別の形になるのでしょうか。試してみたい。


    小澤さんが「言葉を絵にするってよくわからないから、読んでいる間、どういう絵を描くかこっちはこっちで考えて、絵にしよう」という

    やり方をしていたらこの創り上げた感動は全くなかったと思います。


    真摯に、詩を絵にしようとして、その場で感じ続けてくれたことに感謝。

    他の人類にはできないことが二人で出来て楽しかったです。


    言葉が絵になる話し

    そして、その制作過程、

    言葉が絵になる話しの途中

    をnoteでずっと描いておりました。

    興味を持った方は是非見てください。

    https://note.com/kotobanohitoqz/n/nb2884fae98cb


    予定では3月後半から綺麗に撮影した映像を自分のyoutubeチャンネル「言葉の極北ポエムんガルド!」で配信していきます。

    https://www.youtube.com/channel/UCcfPtqFmTlROOUJPEgO8KTw



    そして、最後に、先週2月25日(木)、奈良県の神社で音楽と言葉の「奉納ライブ」なるモノを行いました。

    ヤンサンファミリーである「うるわし奈良」忠内香織さんの協力の元に行えた、私の節目となるライブです。


    良かったら見てください。

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  • 【第330号】最悪な企画をどうするか?

    2021-02-22 07:00
    220pt
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    山田玲司のヤングサンデー 第330号 2021/2/22

    最悪な企画をどうするか?

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    今週のヤンサンで取り上げたアニメ「おそ松さん」は、傍目に見ていても「最悪な企画」に見えた。


    そもそもこのアニメは「赤塚不二夫生誕80年記念」という、いわば「お祭り企画」だ。

    リメイクする作品を選ぶ際に「あまりやってないけど有名なの」を選んだのが透けて見える。


    「バカボン」のリメイクはやりすぎてるし、「ひみつのアッコちゃん」も何度かやっている。


    「ア太郎」か「おそ松」か、あえての「レッツラゴン」か?みたいな会議になったのだろう。


    そして「ここはやはり赤塚先生最初の大ヒット作、おそ松くんでは・・」みたいな流れになった気がする。



    【2種類のリメイク】


    「リメイクブーム」の是非についてはいずれ話すとして、「リメイク」には大きく分けて2つの方法がある。


    1つは「原作」に限りなく忠実にしたもので、代表的なのは、ゲゲゲの鬼太郎の元になった「墓場鬼太郎」のアニメだと思う。


    原作を冒涜するような「よけいな演出」に関しては、恐ろしく風当たりが強い。

    この話はその昔ヤンサンで「彼方のアストラ」の回をやった時監督の安藤さんも言っていたのでご存知かと思う。


    劇場版の「鬼滅の刃」ですら「原作に忠実」な細かな演出がされていて、近年のアニメはこれが主流だろう。


    もう1つのリメイクは「大胆な現代的解釈」や「アニメ担当者の作家性」などを施した「原作とは違うけど原作より面白いアニメ」というのを狙った方法だ。


    これは原作が生まれた時代があまりにも今と違っていたり、原作に当時の時勢が出過ぎている作品に多い。


    今回の「おそ松くん」のリメイクは明らかにこっち側で、明るかった60年代の原作に忠実にやったら大コケするのが見えていた。


    当時は斬新だった「6つ子キャラ」や欧米かぶれの「イヤミ」など、今の時代に「笑い」にするのは難しい要素が多い。


    しかも「おそ松くん」の笑いは、「弱いものイジメ」に見えるものが多いのだ。


    原作ではそんなイジメに負けずにたくましく生きる人達が描かれているのだけど、これは地獄の戦中戦後を生き抜いた「タフな人達」の話で、メンタルが死にかけた現代の日本人には向いていない。

    (チビ太やハタ坊には戦災孤児のイメージがある)



    この企画を「赤塚不二夫生誕80年記念なんでよろしく」・・なんて投げられた第1期のアニメ制作チームは大変だったと思う。


    彼らは同じようなキャラの原作版の六つ子に「強烈なキャラ」を加え、ヒロイン「トト子」に「リアルな暗黒面」を持たせた。


    そして「ニートの日々」という「その後のおそ松たち」を社会風刺を交えてギャグにした。


    この3つの「掟破り」が功を奏して「おそ松さん」は大ヒットしたのだと思う。



    【昔に負けるな】


    ある程度生きると人は「昔の話」ばかりするようになる。


    それは若いうちから始まっていて、高校の時は「中学時代」を、中学の時は「小学時代」を懐かしむ。