氷解
家に着いたのは0時半を回った頃だった。
こんなこともあるだろうと次の日の仕事も半休にしていた。
久しぶりの東京往復に流石に疲れていたので風呂を沸かし、湯船に浸かった。
風呂上がりに何が冷たいものが欲しくなった。
眠る前に珈琲を飲む癖がついていて、夏場はアイスコーヒーを作って冷蔵庫に入れておくのだが、豆を切らしていて作れなかったのを忘れていた。
飲み会の前や帰りにどこかで買ってくるつもりだったのに。
あきらめてソファに腰を下ろして、深夜1時過ぎのテレビをつけた。
ニュースはもうやっていなくて、終わりかけのスポーツ番組やテレビショッピングがだらだらと流れていた。
Nはふいに、タバコが吸いたくなった。
離婚して以来もう7年も吸っていなかったタバコを、別に我慢していたわけでも、何かの戒めにしていたわけでもないが、そろそろ吸ってもいいような気がした。
ついでにアイスコーヒーを買いに、コンビニまで行こうか。
Nは面倒臭さの天秤をタバコを吸いたいという重りで振り切って、徒歩5分の深夜のセブンイレブンに向かった。
風呂上がりで少しリセットされたせいか、夜の南風に混じる潮の香りがとても芳しかった。
ところで夏の深夜のコンビニは、寒い。
これでもかというくらい冷房が付いていて、早く用を済ませて帰れと言わんばかりに愛想がない。
Nはセブンに入り、無意識に雑誌のコーナーを横切った。
そこには配送されたばかりの「週刊少年ジャンプ」が山積みになっていた。
表紙は「ONE PIECE」と「名探偵コナン」のコラボ表紙で、どうやらジャンプとマガジンとの初の試みらしかった。
Nはそれを見てふと思い出した。
ネットのニュースで「ONE PIECE」が満を持して最終章に入ると、作者がコメントを寄せていたことを。
自分はどうも子供っぽい絵柄と勧善懲悪な展開が好きになれなくて、途中で脱落したんだが、Kは全巻持っていた気がする。
「…そうか。あいつは「ONE PIECE」の最終回を見ずに死んだのか」
そう思うと、次にこうも想った。
「……彼は、「ONE PIECE」の最後を読むことができるんだろうか」
獄中で?差し入れで?刑務所にジャンプ届けていいのか?としても誰が届けるんだ?彼はそもそも読みたいのか?
さっきまですっかり忘れていた彼のことを、Nはふわりと思い出した。
そしてもはや思考ですらない、もっと確信めいた気持ちでNは、あいつらの代わりに「ONE PIECE」を、最後まで読もうと想った。
タバコとライターとアイスコーヒーを注ぐための氷入りカップと、最新のジャンプを買った。
昔吸っていたのはマルボロの赤だった。
でもこの日はマイセン(メビウス)にした。
学生のころ、Kが吸っていたやつだった。
半分追悼で、半分は全然好きじゃないマイセンの方が、あとあと続けないだろうと思って買った。
それだけ買えば流石に手が塞がるので袋に入れてもらう。
アイスコーヒーを入れるために全自動ミルドリッパーへ。
氷入りカップのビニルの蓋が思いの外固くて、蓋の摘むところで指が滑るのもあってなかなか開けない。
手を拭いて思い切って引っ張ってみると、蓋は勢いよく剥がれたが、その反動で氷が飛び散った。
全てではなかったが、全体の3分の1くらいは床に落ちた。
それを見ていた定員が
「取り替えますか?」
と言ってくれたのだが、なんだか自分が情けなくて断った。
なぁに、少し氷が少ないくらいなんだっていうのか。
ミルドリッパーにカップをセットし、ボタンを押す。
グィーン、キュルキュルギュルギュル……とマシーンは駆動し、しばらくすると真っ黒い液体が透明なカップに注がれる。
みるみるうちに氷は溶けて丸くなるのがわかる。
コーヒーを注ぎ終わってカップを取り出すと、手のひらに氷がコロコロと回るのが、冷たさと共に伝わった。
コンビニを出て、駐車場横の喫煙所に。
コーヒーをひと口だけ飲み、約7年ぶりのタバコに火をつけて、吸う。
意外と頭はクラクラしなかったが、古い本を燃やしたような味がして、決して美味しくはなかった。
「こんなもんか…」
Nはアイスコーヒーをコンビニの窓ガラスの外側の淵に起き、サンジのようにタバコを咥えてジャンプを開いた。
巻頭カラー、いきなり「ONE PIECE」が始まった。
全く意味がわからない。
登場人物の何人かはわかったが、ほとんど知らないキャラクターが戦っていた。
あと絵も何だか、すっかり変わっている気がする。
そういえば読むのをやめたのは、離婚よりも前のことだったな。
いやそもそも結婚する前からも読んでなかったか。
Kと違って“冒険”や“海賊王”なんかに憧れもしなかったもんな。
そう、タバコよりも何よりも前に辞めていたのは「ONE PIECE」だった。
いや、それだけじゃない。
思えばいつの間にか、映画も、漫画も、音楽も、文学も、スポーツも、なにひとつ、心からハマれなくなった。
でもそれが歳を重ねるということで、そういうもんだと想っていた。
決して倦んでいるわけでも、閉ざしたているわけでもなかったが、いつの間にか、いろいろなことを卒業したような気でいた。
Nはジャンプを閉じて、袋に入れた。
マイセンは半分吸って、火を消した。
アイスコーヒーを手に取ってもうひと口飲んだ。
氷がまたコロコロと回った。
Nはふと思った。
この氷が溶ける前に、海に行けるだろうか?
今から歩いて、先に浜に着いたら自分の勝ち、溶けたら負け。
いや流石に溶けるかな。
でもいい。
それでいい。
何でもいい。
そんな馬鹿馬鹿しいことが、無性にしたくなった。
夏の朝焼けが美しいのは知っている。
秋の風が美しいのもとっくに。
冬の月が、春の雨が美しいのも、知っている。
そしてそれらがもう大した救いにもならないことも。
そうして深夜2時前、Nは平塚駅近くのコンビニから海まで歩き始めた。