小学校の時のおおつきくんの思い出
こんにちは。
今年はアツいですねぇ。
でもちょっと秋めいたような。
季節の変化を感じるこの頃です。
今日は久世です。
本日は割と短めのものをいくつも書いていこうと思います。
どこからでも読んでください。
特に伏線はったりややこしい書き方はしていないです。
お題はこちら
・コロナについて
・お好み焼きにキャベツを!
・電動鼻毛切りカッター
・やちむーん!
・サメの卵
・君たちはどう生きるかの感想(ちょっとだけ)
・小学校の時のおおつきくんの思い出
それでは参ります。
・コロナについて
コロナの後遺症色濃く。
割とすぐ熱下がったのに、そのあと、次から次に日々いろんな症状が出てきます。
治りそう!と思ってちょっと動いたらすぐ眠くなるし。
電池切れたみたいに気づいたら寝てるし、
かといって寝てても別に特に治ってる気配がない。
困ったもんだ!
(今「困ったもんだ」を打ち間違えて
「困った『モダン』と打ってしまったんだけど、言葉として面白かった。ラッキー!
どこかで使うんで、見かけたら「あの時の奴だ」と思って下さい)
自分は本当に今たまたま生きてるだけだったんだなと思いました。
生きてる状態はいつまでもつづかない。
いつ倒れるかもわからない。
生きている状態は普通のことでは無いのだな。と思った8月です。
・お好み焼きにキャベツを!
お好み焼きが好きでたまに作るんですが、まだ自分なりの最高のお好み焼きが完成しません。
僕が好きなのは生地を食べるという感じじゃなくて
「とにかく異常な量のキャベツを生地に混ぜてふっくらさせる」
感じのお好み焼きなんですけど。
もうおいしいおいしくないよりも重大な問題として、
ちょっと違和感あるくらいのキャベツを一枚のお好み焼きの中に忍ばせたいんですよねぇ。
かといってヘラでおしつぶして焼くのはふっくら感がなくなるからいやだしな。
なんかいい方法ないかなぁ。
こないだ大きいキャベツを半分買って、
それの半分を全部一枚のお好み焼きに入れようとしたんですけど。
フライパンの中で割と大きい高い崖みたいになってそびえたって、
ゆっくり火を通したのに、重いのとでかいのでひっくり返せなくて…
泣く泣く二つに切ってひっくり返しました。
それでもちょっとぐちゃってなった。
味はすごい良かった。
でもあれを二つに割ったら意味ないんだよなぁ。
一枚で完結させたい。
信じられないくらいの量のキャベツを封じ込めたい。
キャベツの切り方も、千切り、みじん切り、粗みじん切り色々試してるんですけど。
今のところ粗みじんがベストかなぁ。
粉は50グラムも使わないくらいでただただキャベツの地層を蒸していく。
もっとうまくできたら最高のお好み焼きになりそうなんだよなぁ。
あと一歩で手が届きそうなときって、今まで歩いてきた全部の道のりより、
その一歩の方が果てしなく難しいし遠いことって多いですよね。
生きてるうちに完成させたいな。
おしまい。
・電動鼻毛切りカッター
電動鼻毛切りカッターを買いました。
あれ「エチケットカッター」っていうんですね。
人生初のエチケットカッター!!!
以前から、望や他の友人に「お前鼻毛出てるぞ!」といわれ笑われることが多い系詩人だったので、
一念発起して買いました。
鼻毛をきちんと管理しようと思った理由は
・鼻毛出てる人の話真面目に聞けないか
・もう40になったしやるか
・鼻毛出てる詩人…うーん……無いか…
の3点です。
僕的には今まで「鼻毛は生きてりゃ伸びるもの」「それを見て笑う方がどうかしている」
「みんな違ってみんないい」「鼻毛を出すのも多様性」
という理論で生きてきたので、特に切る必要も感じてませんでした。
そこを気にすること自体が、なんか生きていることに対して「不当」だし、「不毛」だって感じがしてたんですよねぇ。
別にほっといたら伸びるものを管理しないと対峙する相手に失礼ってなんなん?って。
むしろ「鼻毛出てるからなんなんだよ。お前だって眉毛出てるだろ。剃れよ」
くらいにイキって生きてました。
(どすを聞かせて)「鼻毛の出てる理由を教えてやろうか?」
(大声)「…それは俺が生きてるからだよ!!!」
くらいの勢いです。
髪型はどんなふうにしててもまぁいいわけです。
鼻毛がダメって理由もないでしょう!!と思うんですよねぇ。
鼻毛出てることを指摘すること自体が資本主義的病だから、
それに対してのアンチテーゼを体現するつもりで、鼻毛を今まで出してきたつもりです。
それ系の詩人です。
まぁでも、鼻毛を切らない主張も自由なら、切ることだって文化だし自由ですしぃ。
切ることもしてみようと思いました。
それに、持ってる方はわかると思うんですけど、
あんなものを鼻に入れて電気で刃を高速で回転させてまで鼻毛を切るっていう行為と
それが相手に対しての礼儀でありマナーだという文化が
おかしくておかしくて。
これを「エチケット」と言い張ってる割と多くの人類のこともなんか無性に面白くて。
さて、高速で刃をぶん回して「エチケット」するか!ってなにそれwww。
いつか何百年も時間が経った後に歴史の授業がまだあったとして
「このころの人類は『頭髪以外の毛、特に鼻毛を恥ずかしいものととらえ、
電気というものを使って高速回転する刃で鼻の毛を剃っていたとされています』みたいな授業が行われていたら面白いな」と思いました。
「そんなの絶対嘘だよ」という生徒もたくさん出てきたらいい。
どの文化ひとつとっても、その文化が衰退してしまったあとに振り替えると大抵ただ滑稽さが残るばかりであり、
その滑稽さこそがまた文化の面白さであり。そういうところが好きです。
あと店員さんにどれがおすすめですか?と聞いたんですけど
「別にどれも変わらないです。正直。異常に鼻毛が切れるとかそういうのもないです」と言われ、笑いました。
「この値段のランク以降が水で丸洗いできるタイプで、これが水洗いできないけど一番スタイリッシュで人気のあるタイプ。
鼻毛カッターってちょっとわからないですよね」
とかいう話をしてもらったんですけど。
「鼻毛カッターってわからないwwww」
分からなくなるようにしないと持ちたくないものなんて持たなくていいんじゃないの?とか思いつつ、
鼻毛カッターってわからないものを持っててそれが鼻毛カッターってわかったときの方が恥ずかしいんじゃないの?とか思いつつ。
お手入れするものもなんでもどんどん洗練しようと思ってしまうのは人間の業だなぁとか思いました。
ちなみに、もう、さも使ってるみたいな書き方してしまったけど、まだ、電池も入れてません。
買っただけです。鼻毛はまだ出ています。エチケットしないとなぁ。
あっ。長くなってしまった。次に行きます。
・やちむーん!
皆様、やちむんって知ってますか?
やちむんって、沖縄で焼き物のことを指す言葉です。
(陶芸とかそういう焼き物です)
最近、やちむんって言葉を知りました。
口に出してみたんです。
そしたら、なんていうか情景がばっと広がるというか。
「やちむん」には「やきもの」にはない言葉の手触りがありますね。
その、やちむんにあってやきものにないものだったり、
「やきもの」にあって「やちむん」にないものだったりが
「世界そのもの」って感じがしてとても好きです。
言葉にならないものを言葉で表せている分かりやすい良い例な気がします
やちむん・やちむーーん!やっちむぅーーん!
音って意味そのものだったりします。
声に出すと、言語化出来なくても肉体的に納得できること(わかること)って
結構多い。
やちむんはやきものだけどやきものではなく、やちむんはやちむんなんですねぇと思います。
「やきもの」も好きな言葉ですけど、最近「やちむん」に出会ったので、とてもやちむんが楽しいです。
沖縄で飲むオリオンビールの方がなぜか3倍くらいうまい!って聞くんですけど、
やちむんも沖縄で使われて沖縄の料理を載せてるところが一番いいのだろうか。
やっちむーーん!!!
・サメの卵
目を覚ましたら、夢で、サメの卵を触ったことを思い出せ!
って言われたことだけが残ってました。
確かに触ったことあります。思い出しました。
とても不思議な印象の夢でした。
何故か君たちはどう生きるかを思い出しました。
・君たちはどう生きるかの感想。
面白かったのに休んで言えなかったから言います。
なるべく手短に。自分的に大事なところだけ。
玲司さんも冒頭で近いことを言ってたと思いますけど、
この映画はエンタメの手法を使って私小説を色濃くやってると思いました。
だから絶賛も多いし、真逆のわかりにくいという意見も多いのかなと。
逆に私小説の手法を使ってエンタメをやる作家さんもいて、それは結構分かりやすくなってインパクトも強くなる印象です。
エンドレスポエトリー(アレハンドロホドロフスキー)とかアッカトーネ(パゾリーニ)とか8 1/2(フェリーニ)も。
さいっこうなんですけど、
そっちの方がもともと「私小説をやってきた人」がやっているので、「なんか変なの来るぞ」と最初から思っているからかもしれません。
みる方が覚悟してみたら一番私的な感覚こそものすごいエンタメになるというか。
個人的にはエンタメの(宮崎さんの)手法で私小説をやるのはフォーマットが最初あってない気がしたというか。
とはいえ、宮崎さんがずっとやってきたのは「エンタメの手法」で、それこそが宮崎さんの個人的な手法そのものであるので、
ごくごく個人的なものを語るときにその何十年もやってきた手法でやるというのは当然だと思うし
みているこちらが勝手にエンタメの手法だと異物感と違和感を感じているだけなのかもしれない。
でも勝手にたまに感じる違和感含めて、心にざわざわざらざら残るあの感じが僕は個人的にはとてもとても好きでした。
あとは宮崎さんにとって自分を託せるのはどこでもどこかの自分なんだなという風にも思いました。
色々な時代の自分に自分を託している。ミヤザキマルチバース。
どの時代にも自分がいて、その自分は石を積み上げている。(作品をつくっている)
それは「今日何とか平静な一日をつくれた」くらいの価値しかないかもしれない。どれだけ命を懸けようとも。
でも、どこかの時代の「誰か」ではなく、どの時代も「自分」を信じている
人間の本質の一つに「グレーゾーン」ってのがあると思うんですよ。
ほんと世の中いろいろある。こちらも正しいし、そちらも正しいかもしれないし。何も言いきれない。
というのでずっと人類全体で悩んでいる。正義の問題だったり、公正さの問題だったり、倫理の問題だったり。なんでも。
何に対しても悩んでいる。
悩んでなくても人類全体の絶対の正解というのはいつも一つも用意されていない。
歩き方ひとつ、走り方一つとっても何かのきっかけで全人類の歩き方が変わる何かが起こるかもしれない。
走り方も投げ方も何もかも、正解というのが定まっていない。。
何も決められないのも人間。
でもずっと、生きている間中、一秒一秒決め続けているのも人間だ。
歩くにしても服を着るにしてもその時その時で何かを選択してそうしている。
今、一秒って言ったけど、時間という考え方で語るのは適切ではないかもしれません。
時間は「考え方の一つ」であり、採用するしないは人それぞれだと思います。
そして、あの映画はあまり「時間という考え方」を採用していないように見えました。
だから成立している部分がある。
時間が流れていくことで表現しているのがアニメや音楽や舞台なのに、
そこに時間が流れていない感じがするんです。
生きている時間を一つの単位と考えたとき。
久世が70歳まで生きたとして、それを一つの単位というか久世という現象がこの地上にあったと考えたとき、
その単位や現象が終わってから久世孝臣という個がどうだったのかなんだったのか分かると思うんですけど。
単位と現象というか、久世孝臣という世界。環境。久世の環世界。
そこには数字の概念ではなく。ただあるものがあるという世界で、そこは言葉の外の世界だと思いますが。
その個が死までの決められた時間の中で、一瞬たりとも休まずずっと考え続けてその個(久世孝臣)になった。
そういう物語だったなと。
何かを決め続けてて、それが絶対正解というわけでもなかったり、途中で意見が変わったり、疑問を持たなかったりしながら、
生きて決めてきた結果が久世孝臣という個になった。
生きることは決めること。
久世は死んだときにこういうことを決めて生きた人間だ。
決めないことも含めて、その時にこう決めないことを決めた人間だったということが分かる。
決め続けるということと決めないでい続けるということを同時にしているのが人間だと思うんですけど。
それで死んでやっとその人間がどういう人間か、どういうことがあったときにどんなことをする装置だったのか分かると思うんですけど。
そういう作品だったと思います。
早くしないと。何かここにあるかもしれない。
大事な、終わったら戻ってこない風のようなもの。
吹き終わったらさっきの風は戻ってこない。
今ある程度ここで考えないとこのことを考える機会は一生訪れないかもしれないものの話をされた気がしました。
あとは、映像というものの力を教えてくれました。
文章には文章の法則。詩には詩の。小説には小説の法則や人間に対して及ぼせる力や範囲というのがあると思っています。
物語を物語ること以外に「こういう風に動くものをこういう構図で何秒見た後にこういう映像を繋げてその次にこうしたら、
人間の身体と心に「こういう効果が表れる」」という宮崎さんが発見して体感してきた、
映像という媒体にしかできない映像の秘密をたくさん閉じ込めて公開しているので、
見た人には脳に何か刻まれちゃっているかもしれないです。それが物語と別の軸で進行していた気がします。。
ストーリー関係なく、映像は映像で映像でしか語れないことをずっと語って、
それが観客の頭や体に言語化出来ない影響を与え続けている。
それがたまらねぇ。
そんな感じでした。もっとたくさんありますが、またいつか話す機会があれば。
さて、最後です。
・小学校の時のおおつきくんの思い出
これは作品です。今回は短文を連発するつもりだったので、最後に長めの作品を載せて締めようと思ってたのですが、
割と全部長くなってしまいましたね。
小学校の時のおおつきくんの思い出
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