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2012年9月第1週号
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2012年9月第1週号

2012-09-06 23:53
    めるまがアゴラちゃんねる2012年9月第1週号をお届けします。

    コンテンツ

    ・「ゲーム産業の興亡」(17)「可処分時間」の奪い合いが生むインフラ化するゲーム

    ・『気分はまだ江戸時代』連載第007回 「日本人はなぜ特殊なのか(その二)」与那覇 潤 / 池田 信夫

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    特別寄稿:

    新 清士
    ゲーム・ジャーナリスト

    「ゲーム産業の興亡」(17)「可処分時間」の奪い合いが生むインフラ化するゲーム

    家庭用ゲーム機は、参加している人口が多い割に、市場規模はそれほど大きくない。業界団体のCESAがまとめる「CESAゲーム白書」によると、ゲームを遊んでいるユーザー数は3142万人(日本人の29.4%)。それに対して、2011年の国内のソフトウェア総出荷額は、5310億円。
    ユーザー1人当たりだと、1万6900円という計算になる。単純計算すると、月に1400円買っていることになり、年間新作タイトル2本程度購入している。ただ、ゲームは、費やすことができる時間に対して、圧倒的にコストパフォーマンスのよい娯楽だ。その結果、常に価格下落の圧力との争いになる。


    ■常に価格下落の圧力にさらされている娯楽

    例えば、8月2日に発売になった「ドラゴンクエストX(ドラクエ10)」(スクウェア・エニックス)の場合、ゲームを遊ぶには2万円の「Wii」とインターネット環境といったものが必須だが、それをのぞいたとしても、ゲームを遊ぶには、ソフトウェアとUSBメモリを合わせて約9000円程度かかる。
    それで20日間の無料で遊べる権利が付いてくる。無料期間終了後は、月額の会費制を取っているが、月に1000円かかる。他のPS3などのゲームが5000〜7000円程度というのが一般的な価格帯で販売されていることを考えると、高いという感覚がするが相対的なものだ。

    「ドラクエ10」の場合、そのお金を一度支払ってしまうと、一ヶ月の間、何時間遊んでも値段は変わらないためだ。仮に20日間の無料期間に、1日2時間遊んだとしても、40時間。時間当たりにすると、1時間当たり約225円に過ぎない。
    翌月以降も1日2時間遊んだとすると、1時間約17円に過ぎない。もちろん、遊んでいる時間が長くなればなるほどコストパフォーマンスは良くなる。

    これは、ゲームだけで起きる現象ではなく、映画、雑誌、テレビなどのメディア一般にも見られる傾向で、一家計当たりの可処分所得に占める割合は低い。
    それは、生活必需品でない娯楽であるためだ。そのため、他のエンターテインメントと個々人の「可処分時間」を奪い合うことになり、供給過剰状態が当たり前になる。そのため、価格は下落する傾向が出てくる。時間当たりのパフォーマンスがよく、コストの安いものをユーザーは自然に求めていく。

    近年のインターネットなどを通じて供給される様々な大量のコンテンツは、さらに、その下落傾向に拍車を掛けている。例えば、動画サイトYouTubeはブロードバンド回線さえ持っていれば、無料で見ることができる。ソーシャルネットワークも同様にほとんど無料で遊ぶことができる。
    エンターテインメントの選択肢が増えるほど、価格下落圧力に様々なメディアはさらされることになる。そのため、エンターテインメントは社会的に派手に見え、利用者の数も多いが、社会全体の中では動く金額が小さい。


    ■個々のゲームも目指し始めるインフラ化

    そのため、エンターテインメントであっても、インフラ化を目指す傾向が出てくる。
    例えば、「ドラクエ10」は、MMORPG(大規模マルチオンラインロールプレイングゲーム)で、仮想世界がユーザーに提供され、ユーザーはその世界にアクセスする権利を、お金を払って得るそれを最初の購入料金と、月額1000円という形で、サービスを展開している。そこに数十万人のユーザーを抱えることができるならば、収益性は通常の家庭用ゲームよりも高くなる。
    ただ、「ドラクエ10」を遊んでいるユーザーの可処分所得の多くを奪ってしまうため、他のゲームを遊んでいる時間的余裕はなくなる。ヘビーにゲームを遊んでいるユーザーほど特定のゲームに拘束することになる。価格で考えたとしても「ドラクエ10」は、購入から1年間遊び続けたとすると単純計算で約2万円程度掛かることになり、平均の1万6900円を大きく超える。

    ゲームは2〜3年掛けて一本のゲームを作り上げ、リリースするのが一般的だが、ゲームショップでの寿命は2週間程度と短い。数億円から数十億円というコストをかけながら、発売から2週間で回収できるかどうかが決まる極めてギャンブル性の高いビジネスに近年なっている。
    ゲームの販売価格に対して20〜30%が、ゲームの開発費に対する純粋な利益というのが一般的な相場であるため、PS3などリッチなゲームコンテンツの価格帯は、日本国内では7000〜8000円前後の高い価格帯に設定される傾向が生まれる。

    ところが、「ドラクエ10」の場合は、仮想世界というインフラを提供しているため、月額1000円という価格帯でユーザーが継続してくれるならば、ユーザーの継続率が高まれば高まるほど、大きな純利益を生む。仮にユーザーがゲーム内に月に1度もアクセスしなくとも、1000円をユーザーから徴収できる。これはスポーツクラブなどのビジネスと同じだ。
    ただし、「ドラクエ10」のようなゲームの場合、初期投資が数十億円も掛かっているために、最初に躓くと、回収は難しくなる。MMORPG分野では、1億ドルもの開発費を掛けたエレクトロニックアーツの「Star Wars: The Old Republic」が大失敗をして、20万人程度のユーザーしか抱えることができなかったために、同社の業績を悪化させた要因になっている。

    一方で、通常の家庭用ゲーム機向けゲームでも、大ヒットさせて、その後も継続的にプレイさせ、ユーザーの可処分時間の多くを抱え込むことによって、他のゲームを遊ぶ「時間」を失わせる傾向も強まってきている。ポイントはやはり「ネットワーク」を使っているところだ。例えば、「モンスターハンター」シリーズ(カプコン)が、その典型だ。

    プレイステーションポータブル(PSP)はモンハン専用機とまで呼ばれるほどの人気を呼んだ。Wi-Fiを利用して4人対戦での同時プレイを可能にしたことで、友だちとの間の遊びができるようにした。また、ゲームそのものも1000時間遊んでもゲームのすべてが終わることがないほどのやり込み機能が追加されており、ユーザーはモンハン以外のゲームをする必要がない。
    05年に発売になった「モンスターハンターポータブル」は、「2nd」(07年)、「2ndG」(08年)、「3rd」(10年)といった形で1〜2年ごとに、過去のコンテンツをそのまま利用した続編やアップデート版をリリースしている。特に「3rd」は発売から1年以上売れ続け、450万本以上の大ヒット商品になっている。
    これ以外にもWii版や、PS3版、3DS版などコンテンツの再利用を積極的に行い、販売と収益機会とを広げている。それにより、ゲームそのものはパッケージとして完結しているが、ユーザーに新しいゲームを販売することによって事実上のインフラ提供に近い状態を生み出している。

    PSPは日本でしか市場形成ができていないが、「モンハン」のヒットが牽引している。一方で、莫大な時間を費やすことができる「モンハン」以外のゲームは不要という状態も起きている。

    新 清士(しん きよし)
    ジャーナリスト(ゲーム・IT)。1970年生まれ。慶應義塾大学商学部、及び、環境情報学部卒。他に、立命館大学映像学部非常勤講師。国際ゲーム開発者協会日本(IGDA日本)副代表。日本デジタルゲーム学会(DiGRAJapan)理事。米国ゲーム開発の専門誌「Game Developers Magazine」(2009年11月号)でゲーム産業の発展に貢献した人物として「The Game Developer 50」に選出される。連載に、日本経済新聞電子版「ゲーム読解」、ビジネスファミ通「デジタルと人が夢見る力」など。
    Twitter ID: kiyoshi_shin


    『気分はまだ江戸時代』

    与那覇 潤
    池田 信夫

    第七回

    勤勉革命と「ブラック企業」

    池田 話を近世に移しますと、今の新田開発で江戸時代みんなが豊かになってからの日本の特徴として、速水融さんの勤勉革命(industrious revolution)という言葉があります。これは産業革命(industrial revolution)のシャレなんだけど、世界的に通用する概念になりつつあります。西洋は資本蓄積で発展したのに対して、日本を含む東洋は労働集約的に発展するというわけです。人間が余っているので、人間が長時間労働で山の上まで田んぼを耕して、非常に悪い条件でも一生懸命働くことでカバーする。
    この間ワタミで自殺した女の子の話なんて、しんどかったら辞めればいいと思うのに、毎日明け方の5時まで働いたっていうんでしょ。日本人の頭には、20代の女の子にも、一生懸命お客さんのために働くという労働倫理が刷り込まれてるんですね。それはそれで一つの発展経路で、東南アジアあたりも似たような発展経路だといわれている。
    それは西洋と違うわけですね。西洋の場合はアメリカへ行ったりアジアへ行ったり、植民地から略奪して資本を蓄積する。結果的にはそっちのほうがパフォーマンスは高かったので、近代に至ってそっちが普遍的なモデルだと思われてるんだけど、意外と日本型の仕組みはアジアに共通らしい。
    日本がなぜそうなるかって、やっぱり基本的に土地が狭いということですね。よく言われる日本の会社効率悪いとか、みんな働き過ぎだって言うでしょ。でも土地の利用効率というのを世界で比べると、日本は圧倒的に高い。一平米当たりの付加価値額ってもう群を抜いて高いんですね。コンビニなんか、あんな狭いところにたくさん置いて、ものすごくきめ細かく品質管理して、徹底的に土地を有効利用するわけですよ。
    それが資本主義から見ると、人間を無駄に夜中まで働かせてと思うんだけど、日本人にとっては土地が希少資源で人間は余っていたので、徹底的に人間を浪費する文化がある時期まであったわけです。それはまだみんなの頭に刷り込まれてるんだけど、残念なことにこれから労働人口がどんどん減っていくわけで、ワタミみたいな人間の使い方していたらダメなわけです。
    人間を有効に使うためには、その人が一番労働生産性の高いところに動けるようにしなきゃいけないんだけど、残念ながら日本人の頭には勤勉革命が刷り込まれている。一所懸命という言葉に表れているように、一つの所に死ぬまでずっといて、そこでスキルを蓄積して長時間労働するという労働倫理が刷り込まれちゃって、それも日本人のタコツボ的な行動様式を補強する結果になっているのかなという感じがします。

    與那覇 そもそも速水融さんがいうindustrious revolutionとは、池田さんがおっしゃったように元はダジャレ的なネーミングです。「産業革命」の原語がindustrial revolutionなのを、接尾辞を変えてindustrialをindustriousにすると、「産業の」ではなく「勤勉な」という意味になる。実際、江戸時代だと「当初は牛馬を使って農耕していたのに、後には家畜の分まで人間が働くようになっている」例があるらしいんですね。
    なので語呂合わせで、ヨーロッパはindustrial revolutionで、「資本を蓄積して新しい産業を興す」ことによって発展したが、日本はindustrious revolutionで、「資本蓄積ではなく労働の強化で、ひたすらみんなが懸命に働きまくることで生産量を増加させた」のではないかというのが、速水さんの学説です。
    これ、言い方を換えると、まさに池田さんがよくブログで書かれる話題ですが、要するに日本人は決して「フレームを替えよう」とはしないところがある。新しいフレームに切り替えることで儲けを出していくのではなく、あくまでも「与えられたフレーム」の中でベストを尽くして、ひたすら努力し続けることで問題を解決しようとするのが、典型的な日本人の行動様式。
    だから「この会社の労働条件、どうなの?」と思っても、よそに移ることを考えるんじゃなくて、もっともっとこの条件の下で自分が精進研鑽して、頑張り抜けば、やがては希望が見えるはずなんだと思って、頑張ってしまう。これが江戸の勤勉革命からワタミ事件に至るまでの、日本人の労働エートスなわけですね。
    実は、速水さん自身の本にも、それこそ「エコノミック・アニマル」という用語で海外からバッシングを受けた80年代頃からの「ちょっと変だよ日本人」的な風潮を意識されて、過労死の問題も「勤勉革命の負の遺産」として捉えられるのではないかと、はっきり書かれているんですね。
    ですので、もし速水さんが生まれるのが遅くて、昭和ではなく平成の時代にそういう歴史観を作っていたら、もともと「勤勉革命」というのもシャレだったわけですから、それこそ「ブラック革命」という用語を発明したかもしれない。
    投資家の瀧本哲史さんがツイッターで、大略「ブラック企業的なエートスが政治に持ち込まれたら、『ブラック国家』が生まれるのでは」と発言されていたのに絡んで「だったら『ブラック革命』もありえますね」とか私もツイートしていたら、見ていた編集者から連絡が来て、週刊誌の記事になるそうです(対談「『ブラック国家』と化した日本」『週刊現代』2012年4月21日号)。
    個人的には楽しみな企画ですけど、しかし、そういうことをつぶやいて仕事依頼が舞い込む国というのも、文明のあり方としてちょっとどうなのかという気がして、非常に複雑な心境ではありますね。
    さらに敷衍すると「、土地は希少だけれども、人が余っている状態」が日本という国のかたちを決めてきた、というのは池田さんのご指摘のとおりで、しかも江戸時代の最初の100年で3000万人まで増えたと先ほど申し上げましたが、実は、この3000万人の状態でもすでに人が「余っていた」わけなんですね。
    余っていたから何をやったかというと、これも同じ速水さんが明らかにしたとおり、農村の次男坊、三男坊というのは農家を継がせられないので、都市部に出して丁稚奉公=「フリーター」をやらせる。江戸のフリーターなんて当然、今以上の「ブラック」ですから、そうして劣悪な環境で働かせて過剰人口を処理する―要は殺して、人口を維持して社会の平安を保っていたのが、江戸時代の真ん中の100年間(1701年〜1800年)。
    ところが、こうして3000万でも余っていたのが、近代に入ると人口が増えてしまって、もっと「余る」ことになるわけですね。今日、これから日本は人口縮小社会に入っていくと言われていて、それはそれで重大な問題なのですが、近代のはじめにおいては逆に、「人口増えすぎ社会」の方が日本人の主観では、最大の難題だった。3000万人でも余っていたから、「都市のブラック企業でフリーターやらせて殺す」という相当ひどいやり方で社会を維持してきたのに、もっと増えてしまったらいったいどうなるんだという。
    だから、日本人が近代になぜあれだけ植民地の獲得とか、対外戦争に熱狂したかというと、その背景には「人口が養いきれなくなること」に対する恐怖心というものが、相当強くあった。このまま日本国内で人が増えすぎると、国家として破滅するから、もう植民地でも何でも取って、外へ送り出さないといけないんだ、という主観的なプレッシャーが非常にあったわけです。
    つまり換言すると、日本とは前近代から、「(人間以外の)資源は限られている」ということがマインドセットされていた国で、そのなかでどうやって多くの人口を養っていくかというフレームで、物事を考え続けてきた。これが江戸時代の半ば以降、ずっと日本人の頭に取り憑いた問題で、その処置を失敗すると、非常に悲惨な社会をつくったり、あるいはさらに悲惨なことに戦争や植民地支配を通じて、外国にも迷惑をかけたり、といったことを繰り返してきたのではないか。

    ※ 次号「優秀な兵士と無能な将校」に続く。
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