■真の民主社会を創る会
真の民主社会を創る会では、現代の自由民主主義体制の
社会的矛盾の根本である政府と通貨発行権の分離と
軍事支配を無くす社会を目指しています。
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(本文)
以前に、図形思考を軽視し、言語、論理思考を重視したために、
民主の原理のモデル図が民主主義の本場である西洋において作られて
来なかったことについて述べた。
<リンク>福原肇氏が説いた「図形哲学」 民主の原理のモデルを作り出せなかった西洋哲学の欠陥の解明
今回は、西洋哲学が
「価値と真理を分離したこと」
が民主の原理のモデルを作り出せなかった原因である
ことについて解説する。
民主主義を研究する専門的な学問は、政治学、社会学、法学、哲学などの
社会人文科学である。
その社会人文科学において最も大きな影響力を与えた人物の一人が
マックスウェーバーである。
そのマックスウェーバーに対して、米国の保守政治運動ネオコンの思想的源流であるといわれる
レオ・シュトラウスは、社会科学から価値を排除した人間として猛烈に批判した。
(レオ・シュトラウスを介してのへーゲルとウェーバーとの比較
佐藤康邦 より転載)https://www.jstage.jst.go.jp/article/studienzuhegel1995/2005/11/2005_11_85/_pdf
レオ・シュトラウスによるウェーバーの社会科学方法論に対
する批判は、何よりも、国家の問題、政治学の問題を価値判断
を排除して客観的に扱う近代科学的知性への批判という性格の
ものとなっている。端的に言えば、まさしく価値評価が問われ
る場面である政治学を価値判断から切り離してしまうのは本末
転倒以外の何ものでもないということになるであろう.(中略)
それによって、社会科学の領域から、対象に価値判断を下すような態度
を最終的に閉め出してしまうのである。
このようなレオ・シュトラウスによるウェーバー的社会科学
に対する批判は、ウェーバーの側から見れば、事実認識を規範
意識と混同した無邪気さを示すものでしかないであろう。(中略)
ウェーバーは、社会科学の方法論において、繰り返し社会学、
政治学、歴史学が価値判断から自由に研究されなければならな
いこと、それとともに、自然科学の方法にも対抗し得るだけの方法論的厳密性を獲得しなければならないことを説いている。
このように、レオ・シュトラウスはウェーバーの価値を排除した真理の探究という
理論を批判しているのである。
それと共に、ウェーバーは社会科学について倫理的判断を完全に否定したわけではなく
最後の一部分で認めている、と佐藤氏は述べている。
彼の社会科学方法論中でも異彩を放つものである「社会科学・
社会政策の客観性」(一九〇四) (いわゆる「客観性論文」) と
題する論文において、ウェーバーは、社会科学の客観性が「間
一髪の所で」主観的前提を持つものであるという指摘を行って
いる。そうであってみれば、彼の価値判断を排除した政治学の
方法も、自らの時代の宿命を見据えた上での倫理的決断の産物
であったということになるであろう。方法論と研究対象とが相
互に前提となり合う弁証法的関係にあると言って良いであろ
う。そして、このように客観的科学の要請と倫理的決断とが複
雑に交錯したものとしてウェーバーの方法論を見るならば、哲
学の復権の要求を近代の科学的知性に対抗させて掲げるという
レオ・シュトラウスの主張など、科学方法論としてのみならず、
倫理的に見ても無邪気なものにしか見えないということにもな
るであろう。
事の本質は、社会科学においてウェーバーのように価値判断を排除するという姿勢が
「価値と真理の融合を無意識化させる役割を果たしている」
ということにある。
つまりオールオアナッシングではないということだ。
詐欺経済学においても信用創造の問題は完全に無視されているわけではなく、
軽視されることによって、無意識化が図られている。
そのため主流経済学では信用創造とマクロ経済的な景気変動のモデルの融合が
創られてこなかった。(それを初めて公式化して形にしたのが2003年のリチャード・
ヴェルナー氏である)
意識化と無意識化の問題は、ゼロか100かではなく、あくまでも比重の問題なのである。
社会科学、および哲学から価値と真理を分裂させたのは上記のウェーバーだけでなく、
19世紀から20世紀にかけての現代まで続く学問の主流理論に普通に見られた傾向であった。
そのことについて政治学者のフランシスフクヤマは以下のように述べている。
(歴史の終わり 下巻 P200より以下転載)
近代の自然科学とカントやヘーゲル以降の哲学全体を考えれば、それは、
自律的な道徳上の選択の可能性を否定し、人間の行動を総じて人間以下、
理性以下の衝動とのからみで理解する方向へ動いてきた。かってカントが
自由かつ合理的な選択とみなしたのものは、マルクスにとってはもろもろの
経済力の産物であり、フロイトにとっては深く秘められた性的衝動であった。
ダーウィンによれば、人間は文字通り人間以下の存在から進化してきたとされた。
こうして人間の本質はますます生物学や生化学の面から理解されるようになったのである。
二十世紀の社会科学は、人間はその社会的・環境的条件の産物であり、
動物の場合と同じように決定論的な法則に従って行動するものだ、と教えている。
(中略)
こうして、みずからが作り出した法則に従えるだけの理性を持ち合わせた
自律的な人間像は、独りよがりの神話と化してしまったのである。
(転載終了)
価値なき真理は、19世紀以降の学問の主流となった。
人間は価値と真理を融合させ、行動するような生物だと認識されず、
様々な環境によって条件付けされた生き物としてとらえられるようになったのである。
これが、価値と真理を分裂させてきた西洋哲学の問題の根源である。
(20世紀に自由・平等・友愛の自然権を最も盛んに唱えた哲学者の一人である
ジョン・ロールズでさえ、真理とその価値基準を融合させていない)
一方で、民主主義は「個人の尊厳の実現」を前提にして、
諸権利を与えている。
自由、平等、友愛、真理の権利は個人の尊厳を目的に設定したところから
必然的に発生するのであるが、価値と真理の融合が学問の世界から
無意識化されているのだから、
その法則性がモデル化されることはなかった。
その結果、人類は民主政治がどのように国際銀行権力によって
操作されているのかを知ることができなかったのである。
19世紀に西欧の資本主義社会を管理する力を持ったフリーメーソンイルミナティー
国際銀行権力は民主主義の原理を理解させないように意図的に学問を操作して、
価値と真理の分離を図ったと私は推測する。
価値と融合した真理は、自らがどのような情報を探求していくか選び取る価値基準を
与えるために、自律した個人を作り出す。
一方で価値と分裂した無意識化された真理は、メディアや学問、世間によって与えられる
情報をもとに行動していく他律に基づく個人を作り出す。
この他律型個人を大量に作りだすことが、マスメディアを牛耳る国際銀行権力にとって
民主政治を操作する基盤を与えるのである。
上記図の詳しい解説はこちらの本をお読みください。
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