お題は『MINDGAME』(湯浅政明監督)。ゲストはライターの廣田恵介さんと、上田繭子さんでした。
今回は投稿のあった原稿が40本あり、参加者32人は持ち点80点(40本×2点)を40本の原稿に自由に割り振りました。
前回も書きましたが、もちろん点が高いからといって絶賛されたわけではなく、点が低いからといって酷評ばかりではないのが、この勉強会。今回はいりんな意味で工夫を凝らした原稿が多くて、高得点と同時に「逆」(高得点ではないがある意味で印象に残った時などに1回だけ使える投票)を集める原稿が目立ちました。
なお原稿に添えられた想定媒体は、あくまで読者層の想定をするための仕掛けでして、「文字数」「用字用語」「企画の方向性」などにまで準じたものではありませんのでご容赦を。
第2位
原稿【18】/小川びい/想定媒体:日経サイエンス・くじら特集
文芸作品では、『白鯨』『鯨神』など、鯨には怪物の意匠が強いようだが、アニメの中ではそうしたものは少ない。
逆に目立つのが「跳躍」のイメージだ。そのものずばりが、たむらしげるの『クジラの跳躍』。時間の進みにズレのある世界での、鯨のジャンプのイメージが鮮やかだ。跳躍のイメージがさらに進めば、飛翔となる。『ワット・ポーとぼくらのお話』、『くじらのホセフィーナ』等々、アニメの世界では鯨が空を飛ぶ作品がなぜか非常に多い。鯨が空に浮かんでいる街が舞台の『最終試験くじら』なんていう作品もある。『ムーの白鯨』では、最初は単なる空飛ぶ鯨だったのが、サイボーグ化し、最後には宇宙にまで飛び立っていく。その先の宇宙を舞台にした物語が出崎統の『白鯨伝説』だ。また『機動戦士ガンダムSEED』には宇宙鯨なるものが出てくるが、それがいったい何かは結局明かされずじまいだった。
鯨には一方で、巨大というイメージもあるだろう。ただ、そうした意匠を借りたアニメは意外に少ない。アニメは巨大なものを、そのまま巨大なものとして描くことが実は苦手なのだ。だから「飲み込まれる」というアクションが必要となる。歯のないヒゲクジラの存在も、丸呑みのイメージを強化しているのだろう。古典である『ピノキオ』、その本案である『ピコリーノの冒険』などが代表だ。『侍ジャイアンツ』では、鯨に飲み込まれた鯨捕りが、腹を突き破って出現、仁王立ちになるという場面がある。
戦後すぐの1953年に作られた大藤信郎の『くじら』では、3人の男と1人の女が一緒に鯨に飲み込まれ、潮吹きで脱出する。露骨に性的な描写もあるが、それ以上に、死と再生という性的なイメージがそこには重ねられている。2004年公開の湯浅政明の『マインド・ゲーム』では、飲み込まれた男女が、腹の中で性的な意味を含めたユートピアを築く。半世紀の時を超えて、大藤と湯浅が鯨という意匠を共有しているように見えるのが面白い。
※一言コメント コラムとしてのおもしろさに対して、「作品に対しての導線が弱いのではないか」という意見も出ました。あと『SEED』ではなく『SEED DESTINY』であるという指摘も。
第3位
原稿【23】/遠藤大礎/想定媒体:『マインド・ゲーム』のムック
アニメーターの初監督作品。それが優れたアニメーターとして名を馳せた人物の作品となれば注目せざるをえないだろう。原画や作画監督として監督を凌ぐ程の存在感を見せたあの人がついに、と思いは高まり期待はいつしか確信へ変わる。だが待ち望んでいた作品を目の当たりにした僕たちは当惑を隠すことができない。確かに期待通り、いやそれ以上によく動く作品なのかもしれない。ただ面白くはないのだ。これだけの人材を集めたのに、長い制作期間をかけたのに、なぜだ! その原因を探ってみるもついぞ答えは見つけられず、作画も演出も脚本も何でもこなせてしまう人間がそうそう存在してよいはずがない。と小市民的欲求を満たすことで自分を慰めてしまう。
僕たちはそんな「よく動くけれど面白くない」作品を見過ぎてしまった。だから時に「天才」とも呼ばれるアニメーター湯浅政明が劇場初監督と務めた『マインド・ゲーム』もそんな作品の一つだろうと思い込んでしまうかもしれない。クリエイターの個性を重視する制作会社STUDIO4℃と手を組んだことも、コンテやシナリオまで監督自身が担当したこともその先入観を加速させる。しかし『マインド・ゲーム』は作画を見せるために他の全てを犠牲にした作品にはならなかった。むしろ逆で、魅力的なアニメーションがなぜか説明カットによって邪魔されてしまうのだ。その点に着目すると『マインド・ゲーム』は「作画アニメ」とはまた違った姿を僕たちに見せてくれる。
問題となるのは作品のクライマックス。主人公の西たちがクジラの中から脱出する場面だ。打ち寄せる波によって筏が壊れ、投げ出された彼らは水の上を走り出す。ここで唐突に教室の風景が挿入される。先生が「アメンボは足に生えた毛のおかげで水に浮く」と説明をしている。どうやら過去に受けた授業らしい。すぐに時間は現在へ戻り、今度は足の裏のアップ。そこには毛がビッシリと生えている。なるほど西たちはアメンボと同じ原理で水面を走っていたのか。このように『マインド・ゲーム』は現実ではありえない描写を補足するために過去がエクスキューズとして挟まれる。
これはよくよく考えると奇妙だ。例えば宮崎駿の劇場初監督作品『ルパン三世カリオストロの城』で最も印象に残るシーンの一つ。ルパンが大ジャンプを決める場面。ここでルパンが靴にバネを仕込む様子や植えた麻を飛び越える日々が挿入されていただろうか。そんなことをしては台無しだろう。このシーンは本来止まっているはずの絵が動くというアニメーションの快楽に充ち満ちている。僕たちは「こんなのありえない」とは露にも思わず自然とこのウソを受け入れてきた。わざわざ説明を加えてしまうことはアニメ自体を否定するのに等しい。
では『マインド・ゲーム』のアニメーションが『カリオストロの城』とは違い説得力を持ち得ていないのかと言えばそうではない。5分を超える脱出シーンは総作画監督の末吉裕一郎をはじめとした優れたアニメーターの描写により異様な迫力を持って僕たちを魅了する。だからこそ突然表れる過去に違和感を覚えてしまう。山本精一のBGMが場面の同一性をなんとか保ってくれるが作画を楽しむ点において明らかに邪魔だ。その後も「折れた足が牛乳を飲んでいたおかげで瞬時に治る」など過去が次々と挿入されていく。
なぜこうもフラッシュバックが多用されるのか。それは過去が脱出の成否を握っているからに他ならない。このシーンは自分のそれまでの人生を賭した脱出劇なのだ。だから西は過去の力で水に浮いたり骨折が治ったりするのに対し「悪いことをいっぱいした」と語り過去を否定的に見ていたじいさんは水の底へ沈んでしまう。脱出の成否は過去を肯定できるかどうかにかかっているのだ。その構図をフラッシュバックによって作画の見せ場に持ち込んだことで、脱出シーンは映像面もドラマ面も充実した内容になっている。しかしそれだけでは終わらない。西たちがクジラからの脱出を果たすと今度は一転して未来が映し出される。そこでは幸福な未来も不幸な未来も平等に明るく描かれている。クジラの中から地上へ戻った西たちにとって、未来を選択できると言う点において不幸さえもまた輝かしい存在なのだろう。『マインド・ゲーム』は過去を受け入れた直後にまだ確定していない未来さえも肯定してしまう究極の人生謳歌映画なのだ。
すべてを肯定してしまう『マインド・ゲーム』は手描きアニメーションだけでなく3DCGや実写までも取り込み、カーチェイスやダンスシーンなど何でもアリな表現方法と絶妙にマッチしている。もちろんそのすべてが成功を収めているとは言えないかもしれない。しかしすべてを大胆に肯定する本作の力強さを見せられてしまった後ではそんなことは些事に思えてしまう。だから僕は一部だけではなく全体を指してこう言いたい。『マインド・ゲーム』は面白いと。
※一言コメント 話題になったのは「問題となるのは作品のクライマックス」以降の細部への言及でした。そこまで真面目にとらえるべきかどうか。