悟性は自然の中にある普遍的な法則を認識する能力
理性は、普遍的な原理から「何をなすべきか」を導き出す能力
自由とは、何かの手段ではなく自分自身が目的
美とは目的なき合目的性
美しいものは、何かの目的のために存在しているわけではないにもかかわらずその、あり方に、「ふさわしい」という心地よい印象をもつ
世界に目的がある。人間こそその究極目的
本質の「見つけ方」
瞑想(めいそう)の果ての直観や悟りなど深層の意識の働きを通じて本質を見極めることができるとするもの(朱子学など)
マンダラのようなイメージやシンボルを通じて本質を捉えられるとするもの(密教など)
事物に正しい言葉=名前を与えれば、普通の表層の意識で本質を認識できるとするもの(儒教の名実論など)
禅→無心(意識の究極的原点)に至り、事物の本質など存在しないと悟れ。本質と見えたものは、言葉による世界の区分け(分節)が生み出す錯覚
カッバーラー→本質は神の言葉とともに無から創造される
物のあわれが最も深くなるのは、触れようとしているそれに触れ損なったとき、触れることが不可能になったとき、触れようとしていた物が喪(うしな)われたとき
物のあわれの中に、公的秩序をもたらす政治的なポテンシャルがある。よき政治の原点に、「真心」が、物に触れて深く動かされる心がある
純粋経験とは、主観と客観が分化する以前の意識の統一状態。裸の自然の情景が喜びの感情を帯びてたち現れる
「場所」とは現実がそれに対して与えられる「この私」のこと。現象が生ずる前提であって、それ自体は対象化されることがないので「無」
行為的直観は、物への関わりには知的観想を超えた行為的側面があることを強調した概念
信念を実行に移し、有効な結果がもたらされたとしたら、その信念は「真理であった」ということになる。これがプラグマティズムである。
何が有用かという判断は価値観と切り離せないので、有用性によって真理を定義すると「事実と価値の区別」も捨てられる
人生に意味を与え、安心感をもたらしてくれる歴史や物語による意味づけが崩壊するのは苦しい。しかし人間はその崩壊の場にたち戻らずにはいられない=反復強迫
なぜなら意味づけ不可能な出来事は、人生や社会を物語化・歴史化したことの代償として、それらに必ず伴っているからだ
まさにここと呼べるような固有の状況の中に投げ込まれている現存在=人間
現存在とは、自分の存在、自分のよきあり方を気づかうという本性をもった存在者
死への先駆によって現存在は自分の将来の(有限の)可能性にかかわらざるをえない。それは同時に、過去から与えられた自分の条件を引き受けることでもある
死を受け入れた者だけが、「良心の呼び声」に応えることができる
死がいつでも訪れうるという状況の中で初めて、今それをなすべきかが切迫した倫理的な選択になる
対自存在(意識をもった存在、つまり人間)は「それがあるところのものではなく、あらぬところのものである」
私は定まった意味や同一性もなくまず存在しており、自由な選択を通じて、未(いま)だあらぬ何者かになるほかない
「実存は本質に先立つ」
私たちは皆状況に巻き込まれているわけだが、「状況を受け入れた」ということをも含めて、私たちの自由な選択の所産である
とすれば私たちは状況に責任があり、それに積極的に関与することができるし、すべきだ
時代ごとに基本的な「認識枠組(エピステーメー)」がある。認識枠組は徐々にではなく、突然、不連続に変化する
中世の認識枠組の中心にあるのは「類似」
何かがある事物の記号になりうるための条件は類似で。たとえば紐(ひも)が蛇を表す記号になるのは、蛇に似ているから
中世の特徴は、記号とそれが表す事物とが同じ水準に属していること。世界そのものが一種の書物
近世の認識枠組を特徴づけているのは、事物を鏡のように映すこの(記号との)対応、「表象」
近世においては、記号の秩序と事物の秩序は別の水準に分かれ、人は両者の間に対応を付けることで事物を認識する。記号は事物と似ている必要はない
近代において初めて、事物の系列から記号の系列を分離し、同時に両者を関係づける蝶番(ちょうつがい)の働きを担うもの、認識し欲望し意志する「人間」が、認識の対象になる
その人間も「波打ちぎわの砂の表情のように消滅するであろう」
正しい(真なる)数学的命題は証明可能で、誤った命題は反証可能。
証明か反証のどちらかができる命題のことを決定可能な命題と呼ぶ。
すべての命題が決定可能なとき、そのシステムは完全だとされる
数学には証明も反証もできない決定不能な――しかし真である――命題が必ず存在する
数学のシステムは、自己の無矛盾性を証明できない
無矛盾とは、証明可能であると同時に反証も可能であるような命題を含んでいないということ
数学は真理の土台である数学の中に、証明できない真理、真理であると確証できない真理が含まれている=「理性の限界」
出来事を時間の上に位置づける仕方は二種類ある。「より前、より後」と「過去、現在、未来」。後者がA系列、前者がB系列
時間にとってより大事なのはA系列
時間にとってA系列が不可欠なら、時間は実在しない
知性が与えてくれるのは、世界の不可解さを直視する勇気
言語は自他に共通の存在者の存在を起点として初めて成り立つ、世界が本質的に一枚の絵に描けることを前提にした世界把握の方法
この今(という特殊なあり方をした時点)が実在することを語ろうとすれば、ある特定の時点の存在か、一般的な現在性(いかなる時点もその時点にとっては今であること)の存在か、どちらかを語ることしかできない
この私(であるという特殊なあり方をしたやつ)が実在することを私が問おうとすれば、私は橋本宗大の存在を問うか、一般的な(超越論的)自我の存在を問うか、どちらかしかできない
一般意志は、それぞれの個人の利益に関わる特殊意志を足し合わせた「全体の意志」とは違う
多数決で決められる法は一般意志と合致している
一般意志には客観的な「正解」がなければならない。正しい答えがある、という前提が必要
人は、自分にとって得か損かではなく、どちらが正解か、つまり日本にとって何がよいのかという観点で投票しなくてはならない
人々が賢明で、正解率は五割を超えていなくてはならない
どんな人間社会にも贈与は見られる。しかも、繁殖と無関係に常に贈与する動物は人間だけ
貧困(経済)の問題など動物的な必要を満たすことなど政治に値しない
本来の政治の条件 「自由(フリーダム)の創設」
自由は、好き勝手ができるという意味ではない。公的な空間に現れ、かけがえのない個人として尊重される中で討論し、政治的に活動できる、という意味
基本的自由(言論・集会の自由、思想の自由等)に関して人々は平等でなくてはならない。
機会均等の原理。性別や家柄等によって特定の地位に就けない、ということは許されない。
格差原理。不平等な措置は、最も貧しい人に最大の便益をもたらすときだけ正当化される
投資は、不安に抗して、あえて世界を信頼し、将来の不確定性に立ち向かうことである。
貨幣への愛着は、不安からの逃避だ。貨幣の価値は債権と違って安定しており、貨幣を保有している限り、人は将来の不確定性を直視せずに済む
資本主義は、不確定性に挑戦する積極的な投資がなされているときに安定する
政府の公共投資によって有効需要を創出する等の政策は、投資を決断する勇気を与える効果をもつ