ゲストさん のコメント
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お暑うございます。今日は整体行ってきまして、ラジオやってればねえ、頭と胸に溜まったまま抜けない熱を抜く整体とかやれてたのになあ、あ、キクチカメラでやるか。キクチカメラ最近全然やってないからなあ。ちょっと増やしますね。この日記と「ゼロ文」だけじゃねえ、まあ、過去の動画アーカイヴも面白いけどねえ。「ポップアナリーゼリローデッド」とか最高ですよ。
とまあ、それは兎も角、昨日は song-xx の3回目のライブでして、なんか「全然お客さん来ない」という下馬評が出てて、「もうダメだ日本国の国民はヒップホップとジャズの本当の融合には全く興味がないようだ。僅か10人ほどの好事家のためになってもみんな頑張ろう」「(メンバー全員)。。。。。。。」といった、ある種厳かなまでの雰囲気を練習スタジオで湛えたまま、だからつって改めて宣伝したりとかしなかったんですが(笑・なんかさー。 DM とか、恐らくだけど SNS とかウンザリしない?ほら客こい客こいのコイコイで、「音楽家って、必死に自分で告知するのが仕事?っていう感じ」←アメリカ映画のセリフ風)、蓋を開けたら2セット共にパンパンになってて、特に第二セットは超満員御礼で、急遽11月7日という国民の記念日(<フェイスブックをかすめた日>→「いいな」だから。因みにさっき「エイスグレード」っていう超越的に傑作な青春映画見てたら、アメリカ人の若者はもう FB はやらないらしいですよ)に再びモーションブルーでやります。ご来場ありがとうございました。
引用させて頂きました。
斎藤環さんが、象徴界の作用は、人間生活の及んでいる。その作用は意識されることもあるけど、無意識の部分がずっと多い。ラカンの有名な言葉に「無意識は言語として(のように)構造化されている」とか「無意識はシニフィアンの宝庫である」っていうものがあるけれど、それはだいたい、このへんのことを意味していると考えてくれていい。
フロイトーラカンの素晴らしさは、まさにこの点にある。純粋なイメージなんてものは存在しなくって、イメージは常にシニフィアンから二次的に作り上げられるものだと考えている。これは、かなり、画期的な発想なんだ。それというのも、誰だってイメージのほうが言葉よりもずっと豊かだ、と考えがちなんだから。
片山洋次郎先生の「仇敵は似る。何が?内面でなければ、外面が」という、フロイドーラカンの結論と野口晴哉の結論がクロスするポイントから演繹して「オウム真理教バスターズの人々は、オウム真理教の信者に相貌がそっくりである」両者はある必然によってあらかじめ似ている近親憎悪がオーヴァードライヴする、初動から似ている、戦えば戦うほど似てくる、そして互いに全く、相貌の近似を意識してない。
追記:モーションブルー素晴らしかったです。菊地さんのネイルが気になって仕方なかったですけど(笑)
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