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【第2話】宮城県気仙沼市/仕事がなくても従業員800人の雇用は絶対に守る!!
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【第2話】宮城県気仙沼市/仕事がなくても従業員800人の雇用は絶対に守る!!

2012-11-22 19:00
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宮城県で「サンマリン気仙沼ホテル観洋」などのホテルや、産加工工場、物販センターを経営している阿部長商店グループの社長・阿部泰浩さん。多くの施設を津波で失った阿部長商店グループを、震災の中でどのように導いたのか……

取材者:島田健弘

取材日:2011年9月12日


  
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■震災当日は絶望しかなかった

 宮城県気仙沼市、南三陸町、石巻市、岩手県大船渡市で水産加工工場、物販センター、ホテルなどを経営している阿部長商店グループは、今回の震災で気仙沼市内9つの水産・食品加工工場・冷蔵施設のうち8つを津波で流失した。

 自社工場が巨大な津波に飲まれているとき、社長の阿部泰浩さん(47)は中国の上海にいた。ホテルのテレビで津波と炎に飲み込まれている気仙沼を見た時、「絶望しかなかった」という。日本とは連絡がとれず、気仙沼に戻れたのは3日後だった。
 重油とガレキとヘドロにまみれた気仙沼に戻り、すべてが失われたと思っていた阿部さんが目にしたのは、同社が運営する「サンマリン気仙沼ホテル観洋」と「気仙沼プラザホテル」だった。

「それを見て希望が差し込みました。何もかも失ったと思っていたけど、そうではなかった。無事なホテルを見て、まだ立ち直れると思ったんです」

 しかし阿部さんが確認できたのはホテルの無事だけ。気仙沼に帰ったのが夜だったこともあり、被害の様子はまだ確認できなかった。

「その日はホテルが無事だったから、従業員は無事なんだろうなとは思いました。しかし、あとはまったくわからない状況でした。工場も市内に6つあるけど、全部みることもできませんでした。大船渡の工場、南三陸の工場、石巻の工場、おのおのがどうなっているのかという情報はまったくなかったですね。ひとつひとつ自分の目で確認しなければいけないと思って、翌日から気仙沼市内の工場を回ってみると、思っていた以上に壊れていました。でも、そのころはテレビ取材が密着してたからあまり落胆できないし、随分気を張り詰めていたというか、感情を表に出すこともできなかったというか……。でも、それがよかったかもしれないなと思いますね」

 ホテル観洋はそのまま阿部さんを含めた従業員と地元被災者の避難所となった。従業員全員の生存を確認できたのはそれから一週間。奇跡的にほとんどの生存が確認できた。
 上海で震災を知り、帰国の途中、阿部さんは父・阿部泰兒さんの落ち込みを心配していた。同社は1961(昭和36)年に泰兒さんが気仙沼市で鮮魚仲買業を創業し、育てた会社だった。

「一代で連結の売上が200億円を突破する企業にして、それがほとんど壊されたんです。きっと落ち込んでるんだろうなと思ったら逆で、一番元気でした」

 歌津町(現南三陸町)出身の泰兒さんは母(阿部さんの祖母)のお腹の中で1933年の三陸地震を経験していたという。さらにチリ地震でも店舗を壊された経験を持つ。それが泰兒さんが元気な理由だった。

「親父が店舗を津波で流されるのはこれが2度目なんですね。父は歌津の小さな浜の育ちで昔から漁業やってた家に生まれ、13人兄弟の12番目だったそうです。結婚する前に南三陸町の志津川で魚の小売店をやっていて、二店舗くらいまで増やしたと聞いていますが、それが1960年のチリ津波で全部ながされた。そこで無一文になって、それから結婚を機期に気仙沼にでてきて行商からいまの阿部長商店をはじめたのです。そんな父でしたから、『今回は全部流されたわけじゃないだろ』と。それで僕も楽になりましたね」


■震災を経験しはじめて社長業を意識した

 阿部さんは幼稚園のころから家業を継ぐものと思ってきた。

「幼稚園のころから何になりたいかと聞かれるとひとりだけ魚屋って言ってました。ほかは警察官とか野球選手とか言っているのに。何も疑うことなく家業は継ぐものと思っていたんでしょう」

 大学は東京。最初の就職先は東京の水産会社だった。福岡の支店などで勤務し、1986年に退社して、同社に就職した。当時は徐々に水産加工の事業を広げていった時期で、その年に石巻市の工場を作り、その翌年には南三陸町に工場を作った。

「バブルはじまってちょっとしたくらいの時期でしたから、景気はよかった。帰ってきたばかりだったし、特に意識して仕事をしていたわけではなくて、その時の流れにまかせて仕事をしてきたような気がします」

 バブル崩壊後も経営は厳しくなりつつも、水産業のほかにホテル経営などを展開し、同社はいつしか三陸沿岸で有数の企業に成長していた。港町の産業の基本は水産業、食品製造業、水産関係者や観光客が泊まる宿泊業だ。そのすべてを備えた同社は、まさに港町の顔だった。2010年の売上高は連結で200億円にのぼった。しかし阿部さんはこれらの成長は泰兒さんの力によるものだという。

「いま思い返せば社長になっても震災前までは社長らしい仕事をしてこなかったかもしれないと思うんです。自分の中では、なんとくこれまでの延長で、決められたことをただやってきたような気がします。私が社長になっても会長が引退したわけではなくバックにはいると思ってたから、特に社長業を意識したというよりは現場的な仕事のほうに比重を置いていたのかもしれません」

 2011年は創業50周年にあたる年だった。4月には50周年を記念したお祝いを考えていたが、震災でそれどころではなくなった。会社をどう立て直すか、800人の雇用をどう維持し続けるか。社長である阿部さんには考えることが山ほどあった。
 阿部さんは震災を経験し、はじめて社長業を意識した。

「経営者としてすべきことは、こんな時だからこそ従業員の雇用を守るということでした。水も食料も電気もありませんでしたが、ホテルは被害も少ないし、いずれ復旧できると思っていました。でも、その時に従業員がいなくては仕事はできません。政府の雇用支援は必ずあるだろうからと、従業員には仕事がなくても給料を払いました」

 阿部さんはグループ含め800人におよぶ従業員を誰一人解雇しなかった。雇用を維持するためには休業手当や社会保険料などで月1億円以上かかった。政府からの助成金が降りるのを待ったが、一向にそんな話がない。そのうえ、頼りとする行政からは解雇を勧められた。

「『企業負担が少ないのは解雇することです。通常の解雇とは違うので安心して解雇してください』と行政から言われました。『国が面倒みますから、解雇が一番いいですよ』と勧めるわけですよね。それにはすごく違和感をもちました。待てよと。いくら通常の解雇ではないといっても、受け取る立場からみれば会社から必要ないという通告じゃないですか。そんなことしたくありませんでした。でも、いつ事業が再開できるか見通しもなかったんですね。解雇もやむなしという意見をもっていた役員もいました」

 結果的に阿部さんは従業員全員の雇用を維持し続けた。

「実はその時はなにも計算なんてしてませんでした。誰も解雇したくないという気持ちだけでしたね。震災前は創業50周年のお祝いを4月にやろうと言ってたんですよ。それに震災で信頼関係をなくしたくなかった」

 阿部さんの自宅も被災し、同社のホテル住まいを余儀なくされた。阿部さんのように自宅が被災し、ホテルに身を寄せた従業員は少なくなかった。

「震災直後は物騒で、非常に治安が悪かった。物取りとかもずいぶん横行したと聞いているし、いつこのホテルが襲われるか、みんなが不安でした。宿泊業はある程度の現金商売でもありますから、本来であれば毎日銀行に預けたりします。しかし、そのころは銀行も被災していたりしたので、まとまった金額をホテルで管理していたのです。だから従業員が交代でロビーで寝泊まりしながら、ガードマンみたいなこともしてもらいました。ほかにもホテルの設備は放っておくと劣化するものも多いので、頻繁に保守管理も交代でやってくれたりしていましたから、従業員とは一つ屋根の下で家族みたいに一か月間ホテル暮らしをしたんです」

 阿部さんの従業員を守りたいという決意は、この暮らしで固まった。

「この時に生まれた信頼関係は壊したくないし、みんなを職場に戻したいという気持ちも強くなりましたね。それでダメになったらダメになったときに考えようという半分開き直りのような状況でした。だから計算もなにもないんです。計算したら絶対こういう答えにはならないですから。あとは仕事を再開したいという思いですね。再開した時、また新しい人を雇用するのでは、育てる労力がかかるし、気持ちもひとつになれない。でも、いま頑張って会社を支えてくれている人は、経験もあるし、信頼関係もある。彼らにいてもらったほうが断然いいはずなんです。これはいまでも間違いなくベストな選択をした思っています」
  
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 津波によって破壊された阿部長商店のトラック
 
 
■従業員の協力で生まれた大ヒット商品

 社長の心意気に社員も答えた。
 水産部門とホテルの調理部門が共同で同社オリジナルの新商品「ふかひれ濃縮スープ」を開発したのだ。
 これまでは水揚げされたカツオやサンマを大量に冷凍保存し、注文に応じて解凍して出荷したり、加工場で干物などの加工品にしたりしていたので、一年を通じて仕事があった。しかし冷蔵庫が被災してしまったいまは、水揚げされた魚を加工することができない。水揚げが少なくなる冬以降の仕事を作らなければならなかったのだ。
 ふかひれ濃縮スープはそんな時に誕生した。この新商品は現在は、被災した大船渡食品の2階にあって、浸水を免れた加工場で作られている。大船渡食品は昨年8月に完成したばかりだった。7月24日にホテルや直販店で販売を開始すると、たちまち売り切れ、大ヒット商品となった。
 ふかひれ濃縮スープは原料の調合からスープの仕込み、袋詰め、ラベル張りまですべて従業員の手作業でおこなれる。そのため、1日の生産数は2000パックだという。
 念願の自社オリジナル商品の開発は、従業員に自信を与えた。

「以前から自社開発商品をつくろうという話はありましたが、お付き合いのある納入業者との関係もありなかなかできなかった。けれど、震災で地元メーカーのほとんどの工場が機能を失い、地元の商品がないという状況になってしまいました。いまなら復興の目玉として新しい人気ある商品を作れるかもしれないということになったんです」

 発案は従業員から。商品の選定、生産ラインの構築、販促戦略、デザインなど従業員たちが相談しながら開発した。

「私が指示したのは納期だけでした。これまで営業は営業、加工場は加工場、販売は販売とそれぞれの部署が独立していて、協力して何かにあたるということはありませんでした。それが震災をきっかけに自分たちで考えて行動しなければ、この町も会社もよくならないという気持ちが芽生えたようで、みんな一所懸命やってくれるようになりました。そういう意味では、会社が変わるひとつのきっかけになりましたね」
  
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ふかひれ濃縮スープ
 
 
■命ある喜びをかみしめて、仕事していきたい

 阿部さんには「震災前の水産加工業に戻りたくない」という思いがある。危機感は震災前からあった。魚の国内需要は減り続け、2010年の時点でサンマは全国で年間に45万トン水揚げされながら、国内では20万トン強しか消費されていなかった。縮小する国内マーケットに危機感を持っていた阿部さんは海外に売っていかないと将来がないと考えていた。そこで 2005年から、ロシアや中国向けの輸出に力を入れていた。毎年、1年の3分の1は海外出張だった。おかげで同社のサンマの輸出量は、2000年代前半には年間取扱量約1万トンの1割にも満たなかったが、09年には約4割に増やすことができた。
 ただ、新たな市場を求めるだけでなく、ユーザーのニーズを掘り起こしていかなければいけないと考えている。

「戦後から水産業の流通販売のシステムは変わっていません。川上から川下までの間にいくつか介在する業者がおり、それぞれの連携の悪さもあり、環境の変化に合わせた販路拡大も商品開発もなかなかできませんでした。これから復興に向かう段階になっても、昔ながらのシステムに戻るのでは、水産業は縮小するだけでしょう。自分たちで新しい商品を作り、いろんな企業とパートナーシップを組み販路を築き、同時にBtoBだけではなく、ネットも利用して消費者とも直接取引する。そうすればきめ細かいサービスができる新しい水産業の形が示せるかもしれないと思っています」

 水産業ならではの古いしきたり、とは言い過ぎかもしれないが、「暗黙上の役割が決まっていた」(阿部さん)これまでから、経営を変えていかねばならない。

「この先は変化に対応できる組織が大事です。そのためには売上よりも利益を求める体質にならないといけません。目標は3年後に震災前の規模に戻し、減収しても前年増益するという体質にしていきたいですね」

 その変化のきっかけを震災は与えてくれた。

「震災前までは僕も従業員もホテルはホテル、水産は水産というスタンスでやって来ていましたから、それを融合させるということがなかなかできませんでした。それが震災を経験し、各々の従業員が会社全体を考えながら自律的な仕事をするようになってきたのです。気仙沼の産業は津波でほぼ壊滅しました。そういう意味で我われはやろうと思えば、どこにでも参入できるわけです。いまは何をやっても誰も悪いと言わないはずです。ですから可能性はまだまだあると思います」

 気仙沼は古くから水産業で栄えた町だ。現在においても水産加工業が基幹産業で、それが観光資源にもなっている。
 それらの事業を擁する阿部長商店は、いわば気仙沼そのものだ。

「地域の方々からの期待は正直感じます。プレッシャーでもあります。震災前までなら自分ひとりでそれを受け止めなければ、と思ったことでしょう。でも、震災を経験して一番感じたのはひとりではなにもできないということです。ひとりではなく、みんなが協力してくれる組織だったら、期待に応えることができると思っています。はっきり言って、人生でこれ以上ないというくらいの体験と勉強をさせてもらいました。命ある喜びを十分かみしめて、仕事していきたいですね」

 阿部長商店は2011年の入社式を2か月遅れの5月28日におこなった。現役の従業員だけでなく、将来の従業員を守るため、内定を取り消すこともしなかった。
「これだけの大災害があったら、普通はそこから去ろうと思うでしょう。震災後のガレキの山を見たら、ここに住みたいとは思いません。それなのに残ろうとしてくれる若い人はこれからの地域と会社を支えてくれる宝です。必ずいい人材になってくれると思います」

阿部泰浩さん(あべ・やすひろ)
1986年明治大商卒、宝幸水産(現・宝幸)入社。87年、父親が経営する阿部長商店に入社し、2002年1月から社長。47歳。気仙沼市出身。

株式会社阿部長商店
[所在地]宮城県気仙沼市内の脇2-133-3
[創業]1961年
[従業員数]約800人(グループ企業含む)
[資本金]5000万円
[事業内容]水産事業・観光事業・不動産事業
[ホームページ] http://www.abecho.co.jp/
※フカヒレスープをはじめ阿部長商店の商品は以下のサイトで購入可能です。
 
[取材]島田健弘(しまだ・たけひろ)
1975年生まれ。オンラインマガジンのライターを経てフリーライターに。現在は、月刊誌、週刊誌、Web媒体などで、政治、経済、ビジネス、サイエンス、アニメ、漫画、声優などのジャンルで取材、執筆をおこなっている。
 
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こういう従業員を大事?にしてくれる人が上に安心ですね。

No.1 139ヶ月前

結果的には良かったが、下手したら全員の雇用を守ろうした結果、会社潰れて全員職失ってたぞ

No.2 139ヶ月前
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