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虎山さん のコメント

 ツイッターでの菊地さんと町山さんのやりとり(にもならなかったわけですが)を僕も拝見しておりました。この話題ばかりになってしまい飽き飽きとされているかもしれませんがご容赦ください。

(菊地さんがツイッターでされた第三稿を読みそのあとの町山さんのご反応を読んだらまったく対応が変わらないので、僕はその後の事を追うのをやめました。またそれまでにはご両者以外の他のかたの反応なども拝見もしました。)

 まず今回のやりとり(と便宜上します)を始めたのは(いつものように)町山さんであり、そもそも菊地さんにとってはツイッター上の行いは論争でもないし、その前の前くらいのものであり、招待状とか挨拶状であったこと、さらにその先で目指したのが論争でも攻撃でもなく和平であったことを早くもごく一部の者以外が忘れていることに「しょうがないなぁ」とか「興奮って怖いなぁ」と僕は苦笑いしております。

 ご両者の話をちょっと見聞きして適当なジャッジをする者がいるのは仕方なし、そんなものはニュース番組が流れるお茶の間や、そも情報というものが生まれた古代からあることでしょうし、その昔、蓮實さんもご著書で「票を入れる行為とは(そもそも相手のことをどこまで知っていたら票を正確に入れることが出来る(正確なジャッジが出来る)と言うことはでき無いのだから)出馬者の名前をめぐる行為である」という旨のことを書かれていてそれをも思い出しました。

 問題は適当なことをいうにしても、昔の茶の間でステテコ姿で鼻をほじりながら言うのとそれを聞くのと、SNSでフォームだけを整えて言うと聞くのでは印象が違いますから(ご両者のやりとりに聴衆として参加する者の中にはマツコデラックさんに言葉も外見(ツイッターだとアイコン(イコン)などですが)も移入しまくった者や、同昭和の無頼派、同ほぼ日、同アニメキャラなどもいらっしゃり、意地汚くも僕はそこも楽しみましたが、僕も菊地さんには移入しているので人のことは笑えないところなのですが(笑))みんな正当性とか権威とか大好きなんだなぁと思いましたし、皆が他者の正統性とか権威に精神がやらているようにも見えました。でもこれも昭和の文壇などからあった話なのでしょうね(無頼派のある種の壊れ具合、ある種の左派のかたのぶっきらぼうな感じ等々)。

 あ、でも町山さんのなりきりみたいなかたは居なかったのも面白いです。町山さんのお母さんのようになられているかたは何人かいらっしゃいましたが。

 とまれご両者のどちらかのファンのかた、詳しいかたでも事の発端や数日前に菊地さんが書かれたことも忘れているかたが多く、そこには「トホホ……」となってしまいました。

 また今回のことは論争でもありませんが、それにしてもSNSは論争には向かない場だと改めて思いました。その一番の理由は争いの場の時間制限がないことですね。時間制限があれば必ず勝敗は出ます(ドローも含む)。そうすればその場では戦いを続けることはできません、一方でSNSは時間制限がないので延々に戦い続けることが出来る(だからこそ浸透的な戦術には向いているとは思いますが、だからこそ現実での争いには革命を起こすとか政局を変えるとかの大きな影響もないと思います。タイムリミットがあったほうが現実の戦いへの影響力は大きくなるでしょうね。SNSと現実をリンクさせてのタイムリミットは原理的に不可能だと思いますが(使用時間の制限などのことではないです))。

 今回のことは論争でもありませんが(繰り返し書かないと読んでいるかたはすぐ忘れるということを改めて実感しました(笑))僕は趣味程度ですが格闘技をやりますし、格闘技観覧はk-1ヘビー級からの大したことのないものですが、それでも格闘技の試合に時間制限があることの素晴らしさを理解しました(というかもちろん、そうしないと試合として成り立たないという話ですが)。必ず決着が付くからです。ドローも決着の1つですよね。そのなかにも負けたと思ったのに勝ったとか、勝ったと思ったのに負けたとか、同ドローとかなどのグラデーションはあり、それでも決着は付きます。疑惑の判定とかもありますが、本当に(審判お前)握ったな、という場合は除き、数年たっても「あれは本当は負けた側が勝っていたのだ」と世間的(シーン的)な論調が続いているのを見たことがありませんし。(僕が知らないだけで、プロレスシーンとかではあるのかもしれませんが。例えば前田→アウトサイダー→朝倉兄弟、佐山→修斗→堀口や斎藤、その対決、というラインは僕でもちょっと過去を掘ると繋ぐことができますがあまり言われないのは前田佐山の争いが勝敗を語ることができないほどにガチすぎるのかな?とかも思っています。さんざん言われたあとなのかもしれませんけれども)。

 SNSでは(試合として、ゲームとしての)時間制限がなく決着もないので永遠に勝負を続けることが出来る。これは恐ろしいですね、そもそもSNSは勝ち組(もちろん原義のほうの意味です)しかやってられないです。なにせ文学的な装飾や粉飾無く自分の日常を公にするのですから勝っていると思っていないとそんなことはできないです(なので負け組(もちろん原義のほうの意味です)でSNSをやっているかたが一番つらそうです)。ですのでこれらは組み込み済みも済みなのですが、今回のこと(今回のことは論争でもありませんが)で改めて実感しました。

 そんななかで菊地さんが(今回のことは論争でもありませんが)期限をもってアカウントを削除することを前もって宣言したことで時間制限を設けたことは見事なプレイングだと思いました(ただ直接対話は消えたので、置き石としてならアカウントを削除せずに放置しておいても良いかとも思います。普通の人ならそこからズルズルと「これだけは言っておかねばならない」の連続で続けてしまいますが(僕も今回のことにズルズル突っ込みそうになりましたが、紙一重で退避しました)菊地さんはそうはならないでしょうから)。

 ジャンキー/依存に大きく影響するのは「やりたりない」「やりきれていない」という満足感のなさですよね。SNSは時間制限がないのでずっとできるし、そも勝負というもの自体が「やりたりない」「やりきれていない」感を抱きがちになるものですから(格闘技選手の場合やりきったら引退ですよね)、SNSでの争い(今回のことは論争でもありませんが)、となると二重というか掛け算ですからそれへの依存性はすごく大きいですね。負けが無いの反対には、勝ちが無いもあり、それはつまり相手を殺しても殺したとは思えないまで発展しますから、勝負の場から降りることができないだけでなく、攻撃の手を休めることが出来ない地獄ですね。結果として他のトラブルによる中断しかありえなくなってしまう。


 そのなかで一番怖いのがきちんと負けられないことだと思います。負ければまた練習すればいいし、他の対戦相手を探しても良いし、引退しても良い(ボクシングのトレーナーは「簡単に相手をKOし続けることができる選手は驚くほど成長しない。最終地点が低い。良いボクサーになるには負けか辛勝が何度もいる」と言っていてそれも出来ないのが恐ろしいです)。それがないから勝敗というものを超えて、勝負(試合、ゲーム。それに賭け事も同じだと思いますが)ということ自体が液状化して勝負の場と日常の境がなくなってしまう。これがSNSで一番怖いことですね。
 あ、でもこれもポテンツの話かもしれませんね。でも町山さんも格闘技観戦は大好きなはずで、格闘技を見ることはお気に入りの選手に移入してポテンツを怒張させることと同時に、「あそこに俺が居たら死ぬ」とポテンツを折ることでもあり、更に移入先のポテンツが折られるのを見ることでもあるので、そこは町山さんどうなっているのかなぁとちょっと思いを馳せてしまいます。


 話が変わりますが、菊地さんのツイッターでの第2稿で町山さんとの対談を取りやめたこと、ツイッターでの行動もやめたことは、このままでは町山さんが死んでしまう(自死)とか、自暴自棄になってなんかとんでもないことをしでかしてしまう。とお思いになってされたのでは?と思っております。

 そのことはともかく、菊地さんが初めから対談と和平を呼び掛けていたことと合わさって、キラーのイメージも強い菊地さんが実は平和的に行動しており、平和を願うイメージのある町山さんがそれらも拒み、更には聴衆を扇動していることを観客が覚えておかないといけないことですね(繰り返しますが、今回のことを先に始めたのは町山さんであり、さらにツイッターでのことは菊地さんにとっては論争ですらない)。

 双方のファンも同じで、戸惑っている方々が最大多数としても、町山さんのファンというかフォロワーも言動が、菊地は差別者だから殺して良いというレベルのもので、潰せとか逮捕だみたいなものもあり、菊地さんのファンが穏便というかノッている者が少ないことも観客は覚えておくべきことですね。
 さらに町山さんは自分の意に沿う「菊地は~だ」とつぶやく第三者のツイートをリツイート(コピペみたいなものです、ツイッターの公式な機能の1つ)していますが、菊地さんは自分の意に沿う者やファンを一切巻き込んでいないことも観客は覚えておくべきことです。

 こういったことは、町山さんがやってはいけないことだ、とこれまでにさんざ映画の批評内などで語ってきたことであって、まさに仇敵に似る、ですがこれはフロイドでなくとも、格闘技の原理(対戦相手にスタイルが似る)でもありますし、僕も覚えがあり思い出せば赤面することですが、菊地さんにはそれが無いように思えます。がこれは原理ですから菊地さんにもあったはあったと思うのですが、しかしこれはいまではどうやって回避されているのかすごく気になります。まさに堀口がボクサータイプにカーフキックを放ったがごとく(以下省略)

 そもそもアメリカに住んでいる人(町山)が、日本に住んでいて米国大統領選の選挙権もない人(菊地)を声高々にあいつはトランプ支持者だ!と指さして非難する意義がわかりません。日本の政治的なリーダーがトランプ主義者でとか、100歩譲ってこれがのちに日本にトランプ的な人物を産み出す基盤になるとかならまぁ分かりもしますが、町山さんのそれは菊地さん狙い撃ちだったので上記した攻撃の手を緩めることができない、という状況になっていると思います。


 また菊地さんが(今回のことは論争でもありませんが)手を汚さずに戦うこと、リングの外から矢を放つことではなく、自分の身を場に出したこと、(町山さんが先に手を出してきたにも関わらず)話し合う場を設けようとしたこと、その姿を見せたことは本当に偉大なことで、今回のことを子供が見てる、とは言いませんが、菊地、町山の背中を見た者が、それぞれ自身の人生の中でのちにどういった行動をとるのかということにも影響していることであり、その結果はのちに沢山出てくるはずです。


 また話変わりますが、これはあくまでも僕自身の性格の悪さのような話ですが、菊地さんのファンのかたにはその情愛のありかたが繊細なかたが僅かにおり、「菊地さんがそんな……」というその言動が、懇意にしているアイドルさんや女優さんがご結婚されたときのそのファンのかたの反応と似ていて面白いです。


 そしてSNSでは、政治=自身、政治=その人、更には政治=人生、となっているのを強く感じ「これが政治の季節かぁ」と唸っています。シリアスというか、その目つきが真っすぐになってそれ以外見えていないように思えます。
 例えば、僕はそれこそ東京オリンピック/パラリンピックの開催にはずっと賛成の立場を表明していて、理由は↑でオリンピックとパラリンピックを繋げて書いたように、そこでは東京にいろいろな肉体の人が溢れるからなんです。僕の住んでいる八王子では毎年、青梅街道を通行止めにしての大きな祭りがあったんですが、すると祭りだってんで色々な障害のあるかたとか外国人とか肌に墨が入った方とか沢山出てきてその数に毎回驚くしすごい良いヴァイブスなんですよ、それの大きいのが東京全体で開催されれば良いという理由で、経済効果とかまったくしらないんですが(笑)、かといって菊地さんへの何かが変わったわけでもないですし、『時事ネタ嫌い』も『次のオリンピックが来てしまう前に』も凄い面白かったですし。これももちろん五輪について議論したいとか意見を変えたいとか聞きたいとかでも無いです(笑)これが、政治=自身、政治=その人、になっていない者の豊かさなんですが、それも無くなるのはことは恐ろしいですね。

 
 菊地さんのこのブロマガの読者コメント欄も読んでいる、というかたもいらっしゃるとおもうんですが、そのなかでツイッターの長時間使用に悩んでいる方へ僭越ながら情報の共有をいたします。僕も昔はツイッタージャンキーでそれこそ「セックスなう」レベルのものでしたが、今ではツイッターに関わる時間が大幅に減りました。長くても1日30分とかです。見ない日はまったく見ません。大幅に減ったのは去年の5月くらい、コロナ禍が始まった位でしょうか。そのときに菊地さんがツイッターというかSNSのヤバさを仰っていてそれが改めて大きなきっかけになりましたが、それ以前からツイッターにハマりすぎるのは嫌で悩んでもいました。それで結局ツイッターの使用を少なくするというのはなんだかんか、その1年以上前から、足かけ2年くらいで行っていたように思えます。
 効果があったのはもう当たり前すぎで馬鹿馬鹿しいのですが、運動でした。運動中は基本的にタバコや酒などの合法のものも、違法なドラッグも出来ないので良いですし、日常や仕事などとは別の肉体的な満足ある疲れがあると、ツイッターをやろうとしても疲れて寝てしまいます(笑)それが続くとツイッターからの距離ができるので、それが普通になるとハードユーザーからは自然と抜けられます。運動は何でもいんですが、ビュロー菊池チャンネルの『還暦前のボディ・リメイク 』もあれ満足ある疲れが得られると思いますし、楽器演奏や歌唱も良いと思います。あとゲームも結構いです、ゲームがあると忙しくてSNSもあまりできません(笑)
 皆様がちょうどいい塩梅でSNSを使用することができるよう、同じく菊地ファンとして祈っております!(菊地さん、場所をお借りしてしまいすいませんでした!)

 今回の出来事で思ったことを書き散らしてしまいまして失礼しました、乱筆乱文すいません!
No.51
45ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
 節分が正しくはいつだか忘れてしまったが、セブンで豆を買い、一人で「鬼はー外!福はー内!」と学童のように叫んでいるところを想像したら、思わず笑ってしまった。野暮はししゃんせ侍ならば、誰が鬼だか福の神。ベランダで恵方巻きの代わりにタバコを咥える。見下ろす街は静かで、穏やかである。    明後日、生検の結果が出るが、吉と出ようが凶と出ようが報告することにする。ただ、自分が平気でも、知る方がデリケートだった場合、知らせない方が良いこともある。 Twitter がみるみるファシズムの傾向を露わにし(僕が露わにさせているという側面もある)、僕自身は呆れて笑っているのだが、デリケートなファンは苦しむだろうと思うと、我が不徳の至りに胸が痛む。    正義感と潔癖性が、暴力衝動と繋がっているのはいうまでも無い、民が正義を遂行しているという自意識で殺意に陶酔しているなどということは日常茶飯事である。幼児虐待の親のほぼほぼ100%が「躾のつもりだった」と言う。問題は集団性と、「手を汚さない事」への無意識的罪悪感だろう。「蜘蛛巣城」の山田五十鈴である。ファシズム化と、「毎日何度も掌をアルコール消毒」という義務は、とんでもない偶然によって結びつき、きちんとバランスしていると思うと、ちょっと笑う。    ここもスクショされているという現象は、端的にパパラッツィの子孫で、「時事ネタ嫌い」に<一般(者)報道>として書いた記憶がある。暇に任せて「時事ネタ嫌い」を読んだが、呆気にとられた、あの回のこの部分が、といった話ではなく、単純にもう、歴史はたった10年単位でリピートされているとしか思えない。一冊ほぼほぼ全てが今の話である。  
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