つい先週28日に発表された物価高に対応するための総合経済対策でも、当初予定されていた25兆1000億円の政府案が、自民党最大派閥の安倍派から反発され、3時間後には岸田総理の指示で4兆円が積み増しされた。中身の積み上げを主張していたはずの岸田総理が、最大派閥の圧力で規模ありきのバラマキになったとメディアは批判している。
振り返れば生前の安倍元総理も岸田総理の「新しい資本主義」に厳しく注文をつけた。政府の財政運営の指針である「骨太の方針」に財政健全化の目標を盛り込もうとしたところ、「アベノミクスを否定するのか」と猛烈な勢いで文句を言い、その表現は消されてしまった。
自民党内では財務省をバックに財政健全化を主張する岸田総理のグループと、積極財政を主張する安倍元総理らのグループが対立し、安倍元総理が亡くなった後もそれが尾を引いている。弱小派閥の岸田総理は最大派閥に勝てないことが浮き彫りになった。
そうしたことからメディアは「瀬戸際岸田政権」とか「政権崩壊前夜」とか「内閣総辞職へ」と見出しを付け、岸田政権が間もなく終わるかのように予測する。しかし私はこれまでもブログに書いてきたようにそれとは異なる見解を持つ。
私の経験ではこの程度の支持率急落で政権が崩壊することはない。例えば1976年に起きた「三木おろし」は、田中角栄氏が「金脈批判」を受けて総理を辞めた後、椎名悦三郎氏の「裁定」で弱小派閥の三木武夫氏が総理になった。すると三木元総理は選挙を巡る田中元総理への「怨恨」から、権力を使ってロッキード事件を田中潰しに利用しようとした。
それに自民党議員の大多数が怒り、三木元総理の「生みの親」である椎名悦三郎氏をリーダーに、三木派と中曽根派以外の全ての派閥が三木元総理の退陣を求めた。三木元総理は周囲をことごとく敵に包囲されたが、それでも辞めないと粘り通し、任期満了選挙になるまでの7か月間政権を維持した。
総理が辞める気にならなければ、辞めさせることは難しいという実例である。では岸田総理が精神的に追い詰められ、辞任する気になっているかと言えばそうは見えない。支持率低下の最大要因は旧統一教会問題だ。これは自民党にとって「底なし沼」の問題だから、まだまだ支持率は下がる。だが岸田総理は旧統一教会と「絶縁宣言」している。それを徹底すれば、政権維持の可能性はある。
野党やメディアは弱小派閥の岸田総理にその力はないとみて批判する。実際に旧統一教会側は岸田総理の「絶縁宣言」に恐れをなし、次々に自民党議員と旧統一教会の関係をリークして、自民党が妥協的な姿勢に転ずるよう脅しをかけてきているように見える。
だとするなら岸田総理は、逆に野党やメディアの批判を利用し、腹をくくって「絶縁」を徹底すればよい。そして最終的には2005年の郵政選挙で反対派を選挙で公認せず、分裂選挙を仕掛けた小泉総理のように、「絶縁」を公約しない自民党員を公認せず「刺客」を送る。
その結果、「絶縁」しない自民党員が多数当選し、岸田総理の意に反すればそれは国民の選択だから仕方がない。そこでは負けを認め、「絶縁」を支持する岸田自民党は他党との連立に打って出る。そちらの数が上回れば政権を獲得できる。旧統一教会問題で政界をガラガラポンするという方法もある。要は腹のくくり方一つだ。
岸田派は自民党内第4派閥である。弱小派閥であるから政権を維持するには手練手管が必要になる。その手練手管の使い方が見ているとほとんどうまくいっていない。支持率下落の始まりは銃撃されて亡くなった安倍元総理の「国葬」問題だった。
安倍元総理の死は弱小派閥の岸田総理にとって最大のチャンスとなり得る。しかし大事なことは最大派閥を敵に回さぬようにしながら最大派閥を解体していくことだ。あの場面では安倍派とその岩盤支持層を敵に回さぬようにすることが必要だった。ただそのやり方があまりうまくなかった。
国民は政治家に本音をストレートに出すよう求める。だが政治の世界はそうはいかない。相手を褒め上げるように見せて打撃を与える。逆に相手を打倒するように見せて生き残らせる。策略に満ちた世界だから、そこに政治の難しさがある。
弱小派閥の政権がどうやって最大派閥に打ち勝つか。私が見てきた例を紹介する。1982年に誕生した中曽根康弘政権は、最大派閥田中派の支援がなければ1日たりとも継続できない政権だった。だから人事も政策も田中角栄氏の言いなりになった。
メディアはこれを「田中曽根内閣」と名付けた。中曽根総理にすれば屈辱的なネーミングだが、それを受け入れなければ権力を維持できない。中曽根総理にとって最重要は田中角栄氏が何を考えているかだ。中曽根総理の首席秘書官を務めた上和田氏は、私が田中角栄氏と近い記者であることを知ったのか、ある日、私に接近してきた。
「他社の記者に気付かれないところで情報交換したい」と言う。「中曽根は田中の真意を知っているはずの政治家、秘書など6人にすべてスパイを張り付けている。ところが田中はその6人全員に違うことを言い、自分の真意を明かさない。だから君の話も聞きたい。その代わり俺は中曽根の考えをすべて話す」と上和田氏は言った。
こうして2年近く、私と上和田氏は普通の民家で落ちあい、週に1回情報交換を行った。中曽根総理が何を考えているかよく分かったが、私の田中情報がどれほど役に立ったのかは分からない。とにかく弱小派閥の中曽根総理にとって最大派閥の真意を知ることが何よりも重要だったことだけは間違いない。
そしてもう一つ、これは田中角栄氏が病に倒れ、政界から事実上引退した後で、金丸信氏から聞いた話だ。「角さんが中曽根を総理に担ぐと言った時、派内はみな反対した。おんぼろ神輿を何故担ぐのかと後藤田が言うと、おんぼろだから担ぐのだと角さんは言った。俺は中曽根嫌いで有名だが、親分が担ぐと言うのだから担ぐ、文句のあるやつは派閥を出ろと言ったら収まった。
すると直後に中曽根から秘かに会いたいと連絡が来た。銀座の料亭吉兆で中曽根は俺を見るなり畳に手を突いて頭をこすりつけ、あなたを幹事長にしますと言った」という。つまり中曽根総理は田中派の中で最も中曽根嫌いで有名な金丸氏と接触し、味方になってくれと頼んだのである。
これが後に竹下登氏を総理にするための「創政会」の結成につながる。それが田中角栄氏の病の原因となる。中曽根総理は自分を総理に担いで操ろうとした田中角栄氏に対し、最も遠くにいる金丸氏と手を組み、田中氏を倒そうと考えた。金丸氏も中曽根総理は嫌いだが、竹下氏を総理にするにはやはり田中氏を倒す必要があると考えた。
こうして弱小派閥の中曽根総理は最大派閥の田中角栄氏に対抗し、田中氏が病に倒れて初めて自分の思い通りの政治シナリオを書くことが出来た。こんなことを思い出したのは、岸田総理が政敵であるはずの二階俊博元幹事長と5月31日に会食したからである。
菅前総理辞任のきっかけは、菅前総理を支えていた二階元幹事長の辞任を岸田文雄氏が要求したことだ。二階元幹事長を権力の座から引きずりおろして岸田氏は総理の座を掴むことができた。従って2人は最も遠い関係にある。その二階元幹事長に岸田総理が面会を求めた。
仲介したのは元宿仁自民党事務総長である。田中角栄元総理から岸田文雄総理まで日本政治の裏表を50年以上にわたり自民党職員としてつぶさに見てきた稀有な人物だ。民主党政権の誕生で自民党が下野した時いったん退職したが、2012年に第二次安倍政権が誕生すると、安倍元総理に乞われて再び事務総長に復帰した。
その安倍元総理が銃撃され死亡すると、元宿氏は再び退職の準備をはじめ、岸田総理が慌てて元宿氏を会食に誘い留任するよう懇願した。二階元幹事長は長い幹事長時代に自民党本部に来るときは、幹事長室に入る前に必ず元宿氏の部屋を訪れ、情報を耳に入れてから幹事長室に向かったという。
おそらく岸田総理は元宿氏に頼んで、二階元幹事長との会食をセットしてもらった。こうして元宿氏も同席して岸田総理と二階前幹事長は2時間ほど会談し、二階元幹事長から「しっかり支える。支持率は気にするな」と言われたと報道されている。
岸田総理が退席した後、二階氏は森山裕選対委員長を呼んでさらに会談を行ったというから、二階氏は本格的に岸田支援体制を構築していく構えだと私は思った。これまで岸田総理は麻生副総裁と茂木幹事長に自民党の運営を委ねてきたが、それがうまくいかない原因だと私は見てきた。
特に旧統一教会問題で速やかに調査を行わず、調査結果の公表も不十分で、さらに山際前大臣の辞職を遅らすなどの数々の問題を作ったのは、麻生、茂木両氏の責任が大きいと思う。それを弱小派閥であるが故か岸田総理もはっきりさせなかった。その責任もあるが、ここはまだ総理を退陣に追い込めるような状況ではない。
岸田総理の足を引っ張れる人間が自民党内に誰かいるのか。国政選挙は3年間ないのだから引きずり降ろしのエネルギーが党内から出てくるとも思えない。国民は岸田政権が国民を見ていないと不満だろうが、自民党総裁選挙が国政選挙より先にあるのだから、まずは自民党内の体制固めを行う必要がある。
そうなると岸田総理はどこかで人事権を行使する必要が出てくる。そして来週の米中間選挙でバイデン大統領が「死に体」になるかどうかも重大問題だ。そのすぐ後にはG20が控えている。そこで岸田総理は日中首脳会談を実現したいはずで、二階元幹事長とはそのことも相談したと思う。
状況が目まぐるしく交錯する中で、支持率低下が止まらず、打つ手がことごとく批判を呼ぶ岸田総理が、遠い距離にある二階元幹事長との関係強化という注目すべき一手を打ったので、まずはそのことに注目して今後を見守ることにする。
【入会申し込みフォーム】
<田中良紹(たなか・よしつぐ)プロフィール>
1945 年宮城県仙台市生まれ。1969年慶應義塾大学経済学部卒業。同 年(株)東京放送(TBS)入社。ドキュメンタリー・デイレクターとして「テレビ・ルポルタージュ」や「報道特集」を制作。また放送記者として裁判所、 警察庁、警視庁、労働省、官邸、自民党、外務省、郵政省などを担当。ロッキード事件、各種公安事件、さらに田中角栄元総理の密着取材などを行う。1990 年にアメリカの議会チャンネルC-SPANの配給権を取得して(株)シー・ネットを設立。
TBSを退社後、1998年からCS放送で国会審議を中継する「国会TV」を開局するが、2001年に電波を止められ、ブロードバンドでの放送を開始する。2007年7月、ブログを「国会探検」と改名し再スタート。主な著書に「メディア裏支配─語られざる巨大メディアの暗闘史」(2005/講談社)「裏支配─いま明かされる田中角栄の真実」(2005/講談社)など。