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眠気眼さん のコメント

菊地成孔さま こんにちは。

のっけからですが、申し訳ございません。
このコメントは他の記事についての言及がほとんどです。
申し訳ないです。

パニックの記事からチャンネルに入会しました。
樹木に触れて声を聞く。という。
同居人がずっとそれを言い張っていたのですが、私は、それを「んー?(眉唾……)」と内心思っていて、神社に行ってもお寺へ行っても、お賽銭を入れなかったり、蔑ろにしてきたのですが、同居人には悪いのだけど、菊地さんの記事を読んで意識が変わりました。初めて。
ああ、言いそびれたのですが、私はもともとラジオでの菊地さんのリスナーで、さきほどまで録音していたのを聴いていたところでした。そして、菊地さんのサックスがとても好きです。ほとんどジャズを知らないド素人ですが。二人で菊地さんの音楽を聴いては「やっぱりこの人のバンド、演奏はいいねえ」と言い合っていました。
先に触れたブログの記事に書かれていたことのほとんどが、同居人が口を酸っぱくして私に言っていた内容とそのままで驚きました。
そもそも、その記事にたどりついたのが、私がパニック障害に悩んでいて、「そういえば、この方(菊地さん)もパニック障害に悩んでいたことがあったよなあ」と検索したのがきっかけでした。
今まで同居人の提案をスルーしてきたのですが……ここまで合致していて、そして同じくして(同居人も精神の病がありました)寛解、に近いところまで行き着いたというのが、本当に驚きでした。
菊地さんは音楽もそうですが、話す言葉も、頭だけで話していないな、全身に自然の音楽が流れているのだろうという感覚はありましたが、それが本当に知的という言葉の意味を遥かに超えていたこと、記事を読んで感動しました。
少し自分自身でも考える時間が必要そうですが、とても参考になりました。
ありがとうございます。

長々と、読みにくい文章になってしまって申し訳ございません。
しかも違う記事についての話でなおさら申し訳ないです。

チャンネルにたくさんコンテンツがあって驚きました。
一生観ていられそうです。
ピアノでバンドをしていとのことですが、サックスも聴きたいです。
長文失礼しました。本当に駄文、失礼しました。
No.26
9ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
1月1日   シン・年 明けましておめでとうございます。   話は昨日に戻るが、大晦日は、概ね先週書いた通りになった。これは確か一昨年書いたことの二重売りになるが、スガダイローさんのプレイの素晴らしさは、勿論、弾く内容は言うまでもなく「どんな轟音の中でも、くっきり聴こえること」であり、昨年末もそうだった。   たった3人とはいえ、常に自分を含む3名のプレイは聞こえていないといけない。その時に、解像度が高い演奏ができる人は、端的にスポーティーなプレイに向いている。セシルテイラーとか、エリックドルフィーとか、タイプ的には、僕もそうだ。音数は当然、多音的になる(「鮮明に聞こえる」ので)。   「即興演奏」とか、「純即興」とか言うより、遥かに限定的に「フリージャズ」とすると、スポーティーであるか霊的であるかに大別される。後者のがなんか凄い、何せ霊だから。というようなシンプルな話では全くない。演奏はどんな姿をしていても演奏を超えない。単なるタイプの話だ。   スガさんと正反対なのが、つまり霊性が高いのが大友っちである。大友っちの演奏は融解性が高く、音塊として常に全帯域が鳴っているので、「鮮明に聴こえる」時間は、縞状に現れ、つまり共演者にとって来訪神のような霊性を持つ。   アルバートアイラーとか、晩年のポール・モーションに近い。轟音の中に置くと、溶けてしまう。環境に与するのである(この事を理論的に再構築したのが大友っちのお師匠さんである高柳昌之の「アイラーコンセプト」である。高柳は60を待たずして59で没した)。音数は当然、少音的(音数が。音量が。ではない)になる。   「いやいや、大友さんのロック的ギターの刻みは非常に鮮明ですよ」という人がいてもおかしくない。しかし、あれは実際、同じ打点が一個もないぐらい揺れているのだ(これは「うまい」とか「へた」を意味しない。根源的でアナログなグルーヴに満ち満ちて「環境的」なのである。打楽器を叩きながら一緒に演奏してみればすぐわかる)。揺れのない刻みは時間を生成するが、揺れのある刻みは環境=場を生成する(「 catch 22」は、というか DCPRG 自体を時間側の視点で語り続けて来たが、同時に「場」が形成されていたのは言うまでもないだろう)。   これはピアノという平均律内に閉じ込められた楽器か、ギター、サックス、ドラムという平均律の外に容易に出れる楽器か、の違いもあるが、鶏か卵のアレで、フロイドの言う「誘惑者」としての演奏行為として、その性質がそのプレイヤーの性質に現れている。端的にスガさんや僕やセシルは(服装が)お洒落であるのに対し、大友っちやアイラーはお洒落ではない。が、これ(お洒落でないこと)も誘惑行為である。お洒落がボキャブラリーであることは周知のことだ。   聴衆はスガさんが「(主に「次に」)何を言っているか」を聴いている。大友っちのボキャブラリーは少なく、しかし、ずっと同じようなことをしていても、もう、音色や佇まいで掴まれているので「何を言っているのかはわからないがシビレている」ような状態に最初から誘導されている。   いきなりとんでもない事を言い出すが、僕は、ピアニストとして、ドラムとベースに入ってもらい、ピアノトリオをやろうと思っている。幾つになったらやるだろうか?   などと夢想していたら、能登半島地震を知る。急いでクインテットのベースである小西さんにメールをすると、すぐ返事がきて、無事だとわかり胸を撫で下ろす。  
ビュロ菊だより
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