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田畑 佑樹さん のコメント


 菊地さんの御体調に不穏なものが兆すたび、「ああ、ということは今回も大丈夫だな。また強靭になって帰ってこられるのだ」と思うようになりました(『色悪』のボーカルは、度重なる病と怪我の後で録られたとは思えないほど瑞々しく、旧譜のどの曲よりも若やいでいます)ので、今回の報にもなるほどと思いながら接しました。菊地さんが以前お書きになっていた “僕は欲望に関して、恐らく、だが、自分から止めた事は一度もないと思う。誰かに止めさせられるだけだ。生きることが欲望なのだとしたら、だが、僕は殺されて死ぬだろう” という一文が私はとても好きで、繰り返し思い出すほどです(もちろん、「どうやら菊地さんにとって生きることは欲望ではないらしい」という前提と共に)。
 私自身も「全力で」とか「本気で」とかの表現に意味があると思えず、幼少の頃からそれらの表現が漫画やドラマの中で意味ありげに・良きこととして使われているのを見せられ続けて困惑しきりでした。人間にとって「全力で」やる以外に一体どのような仕方があるのか、私には未だに解りません(「全力で頑張ります」と言いたがる人の心的機制がどのようなものかはフロイト的に理解しているつもりですが)。21世紀以降、いわゆる発達障害の人々が打ち明けはじめた「過集中」も、この「全力で」系の表現を逆方向に補填したものでしかないように思われます。政治家や土建屋やサラリーマンが言う「全力で」も、現在マイノリティの境涯にある人々が訴える「過集中」も、私にはなにかピューリタニズム的な焦慮がまとわりついているように思われてなりません。「全集中」なる表現が使われた少年漫画が大ヒットしていることを知った際には、ああこれは危険な兆候だな(「全集中」はモノリズムで、モノリズムは全体主義の要素なので)と思ったものですが、どうやら多くの人々は「集中していない・力を出していない」人間の状態がありうると前提し、「全集中・全力」のゾーンに移行することで前者を超克したいと考えているようです。
 私が日常的にふれあっている中で「全力で」という表現が最も似合う状態にあるのは、楽器演奏者はもちろんのこと・ミキシングやマスタリングのエンジニアさんも含めた音楽制作関係の人々です。あれほどまでに異様な没入感が毎度毎度続き・なおかつ余裕に満ち溢れている職能の人々を私は他に知りませんし、一方で彼(女)らが自らの状態を「全力」や「過集中」などの語で表現しているのは見たことがありません。以前コメントにて菊地さんと vigil(antism) についての話になりましたが、易々と数時間経過させて日が暮れたり夜が明けたりする vigil の感覚は、やはり音楽的なものだと思います。「いいとこまでいったね、休憩しようか。あれ? もう6時間経ってたっけ」という体験が当たり前で、その作業によって手元に確かなものが(しかも個人の所得ではなく、集団で分かち合うものとして)残る。という真の意味での果報の感覚を、主に音楽を介して伝達できれば、もう誰も焦った顔で「全力で」などとは言わなくなるかもしれない。2025年の音楽家は、「AIの時代に重要なのはモノをつくる人の心」などと言う前にそのことを実践しなければならない。と私自身も先日、久々にバンドと演奏しながら思いました。

 トランプの新組閣が、さながら「21世紀アメリカの天才児総集合」みたいな感じになっていたので、これは絶好の機会だと思いコロンボの『The Bye-Bye Sky High I.Q. Murder Case』を観ました。この回のあらすじから私が予想していたのは、60年代スパイ映画というかヘルファイア・クラブ系の天才オカルト陰謀組織モノでしたが、実際に観てみると the gifted の友愛会として現在の基準でも通用する vulnerability の話になっていたことに心地良い意外性を覚えました。
 USAが自らのいじめ(られ)っ子性を自覚してきたのは、赤狩りの50年代からヴェトナムの70年代までの流れにおいてだと思いますが、77年放送のエピソードで the gifted の vulnerability が犯行の主因を成している(小学生どうしがくすぐりあうようなノリから殺害に入る)のは中々すごいことだと思いました。それがコロンボ本人の(いかさない風体で世の成功者たちからは軽んじられる、的な) vulnerability とは別に設定されていて、同じ高知能者でもコロンボのそれはキレた the gifted の犯人を鎮静化させるための役割を担っていたわけですね。あの回でコロンボが最後に言う「あたしはこの仕事が好きなんでね」のセリフは、ピューリタニズムとは別の、紛れもなく音楽的な軽やかさを伴っていたと思います。

 イーロン・マスクの Wikipedia 記事を読んでみると、予想通りかつていじめられていた経験にまつわる記述があるわけですが、2025年現在のUSAを取り囲む世界は、いじめっ子の罪責感と・いじめられっ子の報復願望の両方が液状化したことにより雑多なグルーヴを産みつづけている状態にあると思います。イスラエルは「いじめっ子になりたい元いじめられっ子」の典型として20世紀的に理解できますが、21世紀のいわゆる tech geek 的な精神性は、もはやいじめられる側/いじめる側との非対称性が消滅して、その燃料を消費するためのエンジンだけが動いている(「いじめ」という現象を生み出す学校空間に何度でも戻りたいし・その中にしか存在したくないし・その中でしか発言したくない、という退行と反復強迫の合わせ技の)ような状態ですね。
 トランプ就任式で演奏していたヴィレッジ・ピープルのボーカルがやたらグラグラな音程だったのを観まして、これは何かあるぞと思って一連のくだりを注視していたのですが、世のメディアが最も興奮して取り沙汰したのはイーロンの(ドリフで例えるなら)「オイッス!」の件だったとは、2025年現在の世界の酩酊ぶりに慣れていたはずの身でもさすがにクラっときました。「学級会」とはネット上の不毛な言論の応酬を揶揄する表現として使われてきましたが、BBCのような機関ですらイーロンの「オイッス!」をナチとの関連で大真面目に報道していたとは、もう Twitter → X というイーロン御用達のヤバいヤクの効果で(その運営体制に異議を唱える人々さえも含めて)皆一斉にラリっているとしか思えませんでした。
 ニュルンベルク党大会の映像を観直せば解りますが、いわゆる「ナチ式敬礼」は(たびたび両踵による打音を伴って)伸ばした腕を頭頂から45°の傾きで固定し、その状態を数秒から数十秒維持するものです。なので、チョップ状にした掌を対象に放る「オイッス!」がナチ的仕草として認定されるわけがなく、イーロンがあの壇上でこれから新たな仕事をくれるボスとその支持者たちに対して「オイッス! もいっちょオイッス!」の仕草で愛着を表明したかったのは十分理解でき、むしろメディアはそこから浮かび上がる「株式会社USA」的な体制をこそ批判して然るべきだと思いましたが、おそらくニュルンベルク党大会の映像をちゃんと観たことすらないのであろう人々が集団的に・大真面目に「あれはナチだ」と言って憚らなかったというのは、もはやいじめっ子/いじめられっ子の区別が無くなった世界で「いじめ」のエンジンだけが駆動している世界で起こる珍事の典型例でしかなかったと思います。「ナチ式敬礼でさえフォーマルな仕草だったのだ。その formality と performativity を踏まえないまま雑多なレッテル貼りに終始する精神性は、体技性と政治性との関連を見失った現在の大衆の状態をそのまま反映している」などと書くと一番安っぽいwebライターみたいなので、さすがに止しますが。

 あまりにも多くの人々が、しなくてもいいことを自分の役目と信じて、したくないことを自分の仕事と思い込んで、そのようにして行ったことが何の解決ももたらすことなく、次第に自分の本当の仕事さえも侮蔑するようになってゆく。とは、国籍の区別なく、現在の圧倒的多数派として君臨している心身性でありましょう。ここからの脱出は、やはり音楽の力によってしか為され得ないと思います。「推しの楽曲なら毎日聴いてますよ」的なことですらなく、自分の仕事を尊敬せずに自分の仕事を続けるしかない・堕落したピューリタニズムのような(つまり純USA的な)精神性を打破するのは、当たり前の仕事をずっと続けているうちに時間が経つのすら忘れる・音楽的= vigil 的な行いによってであろうと、近頃とくに強く思います。菊地さんの “誰もが誰かと繋がって、好きな仕事に没頭できる。そんな世の中になればいいのに。” というお言葉にも賛意と敬意を評します。すでに冬の終わりが兆しつつありますが、また来る春の頃にはより多くの憂さが祓われていますように。
No.4
18ヶ月前
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 中居くんが引退したり、トランプくんが就任したり、リンチくんが亡くなったり(リンチの追悼記事はキネマ旬報に寄稿します)、しくじり社長の港くんがやっちゃったりして、世の中非常にもう無茶苦茶なわけですが、ワタクシ、実は正月明けからつい先日まで、生きた心地がしないまま旺盛に活動していまして笑、とにかく世の中、病的に心配性の人がいるから、マネージャーの長沼以外、公表は避けておったのです。    以下、<新音楽制作工房>の LINE (ココとペン大各クラスの LINE グループは存在するのです)に書いたものに、公表用の加筆修正を加えてみました。      
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