田畑 佑樹さん のコメント
このコメントは以下の記事についています
「常設展への供物」に連載第2回のために、毎週タクシーで前を通っている(神保町の「美學校」に行くため)皇居周縁は北の丸、「東京国立近代美術館」に行った。このエリア全体が先ずはすごくとても良いですよね。
< 常設展への供物 >
< 東京国立近代美術館 >公式
前回(初回)の上野もかなり良かったが、今回の北の丸もとても良かった。初めて来たが、口コミで星4・3は伊達ではない。
「部屋で漫画やアニメばっかり見てないで、たまにはちゃんとした絵を」などと、公害があった頃の昭和みたいなことは言わない、むしろ漫画やアニメで目が肥えている人の方が美術館は楽しいに決まっている。漫画やアニメで目が潰されて、感受性も萎えちゃってる人もそりゃあいるだろうが病者つまり少数派だと信じたい。
何だか知らないけど(本当に全然意味がわからないのだが)、カフェだのレストランだのフェス会場だのデパートだの
「精神的に病むというのは、その主体が特定の症状を必要とし、魅惑されているからだ」←などと書くのは19世紀時点のフロイト理論で考えてすら問題があり、20世紀的精神病の当事者にこのようなことを言うべきではもちろんありませんが、しかし『ラース〜』での主人公は「外界と不可避の接触が生じた際に自分を防衛するための盾」としてリアルドールが登場し、(菊地さんのご指摘どおり)教会権力とも精神医学とも別のコミュニティが暖かく彼と折り合う流れで瘡蓋が剥がれるようにしてリアルドールへの執着(陽性転移というか、対象備給?)が消滅する。というのが、本当に美しく哀切な流れだったと思います。「どうしても必要だと思われていた物神のような対象が、それに執着する主体の変化によって、もう必要でなくなる」という型の作劇にはどうしても泣かされてしまいます(もうちょっと児童心理寄りですが、『ブリグズビー・ベア』なども)
と同時に、「やっぱり最後に帰ってきたのはホンモノの女性でしたね」というオチが(ご指摘のとおり)今では欠点のようにも思われますね。脚本構造上、リアルドールが消滅するのは仕方ないですが、もし『ラース〜』と同じような男が異性または同性に熱烈な移入を起こして、その原因が(一対一の交際の最中で)徐々に明かされて、最終的には移入が解けて「良い友達」の2人が残る。というパターンだったら恋愛前提主義が忌避される現在にも適合するのかもしれませんね。と書いていたら、ポール・トーマス・アンダーソンの『ザ・マスター』でホアキンがやっていた役がそんなだった気がしてきました(笑)
Post