田畑 佑樹さん のコメント
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今まで何千回「仕事が重なって大変だ」といった、ワーカホリカーの怠惰な愉しみを繰り返してきたか分からないが、もう怠惰な愉しみなどと言っていられない状態になって、恐るべきことに、普通に更新していると思っていたら、それまでほぼ毎日書いていた日記が一週間書いてなかったり、録ったばっかりだと思っていたラジオデイズが2週近く飛んでいて唖然とした。
工房制作に転換したのは、勿論、制作規模を拡大しつつ制作水準を上げる。というミケランジェロ時代の発想だったわけだが、まあ自分が引いたとは言わないが、まさか結房時に「 AI 」などという化け物が現れるとは全く思っておらず、ましてや工房が AI を導入するとは思ってもいなかった。
「生成 AI がコスパとタイパを<上げる>のではなく<無くす>」と、ラジオデイズで発言したのは AI を手にしてからすぐだったと思うが、適法化した現在、僕がしつこく言い続けている(本当に誰
ゴダールがルグランによって喰らわされた(音楽との恋がうまくいかない映画監督としての)不全感は、マルクスになぞらえれば剰余価値が逆転した「純粋過剰価値」のようなもので(音楽家はその作品を創るにおいて木材や金属のような物資を必要としないので、絵画や彫刻や工業製品とは違った「純粋」さが付与されやすく、菊地さんの『ユング〜』はそれに関する考察としてとても面白いです)、その豊かさ・多さを消化できなかったことに屈辱めいたものを覚えたのだと思いますが、2010-20年代のシン・飽食感はこの「純粋過剰価値」に似ていて、作り手よりもむしろコンシューマーのほうに根付いていると思います。
Netflix制作の日本原作オリジナルアニメなどは予告編を見るだけですごい映像クオリティなのですが、この「コンシューマーとしてそれらの作品群にふれて感想をネット上に書き続ける限りは、自分も同時代の豊かさを享受できている=搾取されていない」感覚をもたらすのが全方位的コンテンツ過剰供給であり、それが全世界的な民の、真の革命を起こす地力の獲得をかろうじて妨げさせている。という意味で、90年前にゲッベルスが述べた娯楽観を360°回転させて元の位置に戻したかのような観があります。昨年の晩夏にネパールの民衆が起こしたデモで『ONE PIECE』の海賊旗が団結のシンボルとして使われていたことが小さな話題になりましたが、少なくとも20世紀的な「飢え」の感覚があったネパールの民衆と、同じマンガにふれながらも『ONE PIECE』実写版の感想をネットに書いているだけの他国コンシューマーとでは、コンテンツから触発された飽食感の意味が全く違いますね。
いきなり話が変わりますが、菊地さんは Jerskin Fendrix がランティモス最新作(韓国映画原作)『Bugonia』に付けたサウンドトラックをお聴きになりましたか? これの日本公開時期がちょうどラマダーンとかぶったので私は観ていないのですが、サウンドトラックは配信されていたので聴いたところ、前作『KoK』であれだけ時空を超えていた Jerskin の作風が、いきなり保守的というか、エルガーみたいに聴こえることさえあったので(笑)、大英帝国が復古するとケンブリッジ卒の才能ある音楽家さえこうなるのか? と、色々な意味で面白く聴けました。
また、菊地さんが『Bugonia』をご覧になっておられましたら、同じ陰謀論的世界観を使った(らしい)タメのチャヌガの最新作と比較して明らかになったこと、などがありましたらぜひ伺いたく思います。
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