田畑 佑樹さん のコメント
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長沼と移動の時は、大体スケジュールの話をするのだけれど、前書いたように、僕のスケジュールは、概ね2ヶ月切りになっていて、今は3~4月のターンにいるんだが、現段階で整理し直したら4月の全休がピタッと1日も無くなった。パズルがハマったみたい。「おおお」と云う感じだ。
と、まあそれはそれで特別珍しいことでもない。毎日働くのは尊い。安息日なんて要らない。仕事がある日に休息も取れば良いのだし、知らずオーヴァーワークになったら、体が風邪をひいてくれて自主的なんだか強制的なんだか、一週間倒れたりするので過労死とかのリスクも低い、アレ(過労死)は、倒れることもできない精神、肉体、状況が3カード揃ったものだろう。若い人が「モームリ」に手を出すのは、少なくとも仕事に殉死する死亡率は下げるだろうが、とにかく徹夜はいけない。徹夜は運動不足と考えすぎが重なると起きる。運動して、余計なことを考えなければ人は眠れる。僕は気功のコントロールによって余計な事を考えたりはしないが、いかんせん運動不足はしょっちゅうなので、頓服として睡眠導入剤は飲むけどね。
とまあ、1ヶ月休みがないとして(以下、この状態のことを「真っ黒」とする)問題は、同じ真っ黒でも質が違うと云うことだ。一回でもアフリカに行けばわかる。キャラメルブールセル程度の薄ーっい焦茶色の人から、墨汁のプールから上がったぐらいの人までいる。
コロナ禍の最中にマスク着用が義務付けられていた頃の職場で、職種に不釣り合いなほどの厚化粧で・凄まじい若作りで・なおかつ推し活について蕩けた顔で話すお局が居まして、その人とだいぶいがみ合ったのですが(笑)、その仕事を辞めてからどうしても前の職場に行かなきゃいけない用があり、数年ぶりに対面しました。
もちろん気は進まなかったのですが、そのお局がマスクを外した姿を初めて見まして、数年を経て美白からエンバーミングの域に達してきている厚化粧が、まるで白糖の上にレーズンを2つ置いたような・もしくはミイラの乳首みたいな感じの眼球が際立っており、「えええこんな顔だったのか」と、むしろ私のほうが動揺するようでした。
加えて、そのお局の髪型が、なぜかパンチパーマになっており(笑)、互いに見ず知らずの他人のように振る舞っている間、私だけが笑いをこらえるのに必死でした(笑) クールジャパンの漫画文化では「自分を迫害したやつらにリベンジする」というテーマが執拗に反復されるようですが、「かつての職場で嫌いだった奴がマスクを外したら全く違う顔で、しかもパンチパーマになっていた」ことに癒される展開もあればいいのにと思います(笑)
イスラームと精神分析の件ですが、ラカンの孫弟子(ラカン→ピエール・ルジャンドル→)でフェティ・ベンスラマというフランス国籍ムスリムの精神分析家がおり、彼の著作にあたるのが一番良いのですが、日本語訳がきわめて少なく私も原著では読めず、なおかつベンスラマの理路を日本に紹介するに最適な立場だった佐々木中(ドミュニスターズ『夜戦と恋愛』のネーミング元ですね)が典型的なTwitter→X依存で、世界の問題を解決するどころかむしろそれらを固定するための義憤ばかり垂れ流すようになって久しいので、このあたりにも鮮明な理解を妨げる一因があると思います。
原理原則としては、精神分析の患者⇄分析家の関係はカトリック(しかしマルティン・ルター自体が「カトリシズムを究極に詰めたらこうなるしかない」例なので、カトリックとプロテスタントの二分法で考えるのには意味がないと思いますが)を嚆矢とする国家大の司牧権力を源流に持ち、しかしイスラームは全能者アッラーと下僕(一般的なイスラームの信徒のこと)との間に聴罪師のような媒介者を立ててはならないので、この時点で大きな構造的差異があります。イスラームの一般的な理解においては、生前の自分の行いを全能者アッラーが裁く運命が前提として在り、その仲介者として「こうしておけば天国に行けますよ、あなたも許されますよ」と保証してくれる個人・団体を求めた場合、全能者アッラーと同等の判断力を持ったと仮定される者を拝んだということで、偶像崇拝の罪になります。
代わりに、聖クルアーンとアハディース(聖預言者の教友の証言)集には罪が許されるためのドゥアー(祈願文)とその作法が明確に書かれており、ウラマー(とくに聖法の学者)の助言によってそれを日々行うことが大ジハード(奮闘努力:異教徒相手の戦闘行為は小ジハードのほう)となります。ここにおいてもウラマーや周囲の人々はあくまで法と規範を参考にしながらの助言者であって、先述した信徒⇄聴罪師や患者⇄分析家のような「浄罪を代行する媒介者」のモデルは成立せず、あくまで下僕と全能者の直接的な当事者関係(を法と規範によって測る)のみとなります。日本仏教でいう高野山のような「思い詰めのための場所」が、イスラームの場合は書物の中に含み込まれていて、それを読むに際して元の悩みとは必ずしも直接関係のない個人や集団性との接触が自然に生まれます。
この差異が、ローマに取り込まれて世界大の帝国化したクリスチャニティ・その変装として輸出された告解モデル・精神分析の「一般性」と、イスラーム世界が西暦7世紀から自明としていた統治性とを決定的に隔てています。イスラームの下僕がなにか「罪」の意識にとらわれていたとして、それが許されるための具体的作法は老若男女の区別なく聖クルアーンかアハディース集のなかにいくつも書かれているために、それを実行すればよく、必然的に聴罪師や分析家のような立場は必要となくなる(むしろ、姉妹兄弟に適切な助言をいつでもしてあげるために、全員がその立場であらなくてはならない)ので、イスラームの下僕が神経症みたいになったらとりあえずマスジド(礼拝所)に生き、イマーム(個々のマスジドでは「礼拝履行責任者」程度の意味)に開端章の発音を直してもらい、マーシャアッラーと言われ、悩みごとを話したら「あなたを悩ませているジン(悪精)もアッラーが定める運命に勝つことはできない」とでも言われ、時間があれば帰りに自宅での食事に誘われる。というのが、イスラームに「臨床」モデルを見出した際に該当するものかと思います。
(なので、20世紀以降に「精神分析的」と一般化される治療モデルがあらゆる世界の統治性のヴァリエーションの中にあらかじめ在るのであって、ベンスラマはその偏向を批判しているのだと思いますが、むしろ私はムスリムになって以降フロイトを読み直して「いやあ、あなた必死に無神論者みたいに振る舞ってたけど、そのへんの成金転向アシュケナジムなんかよりよっぽど出来の良い一神教徒だよ。シェイクスピアだけじゃなくてトーラーも読み込んでたでしょ」と敬意を新たにしました)
巷間言われるとおり、イスラーム世界は「聖俗一体」なのではなく、恩知らずな人間たちがそれでも謙虚に生きるための法に則っているので、人間が人間を特別に教え導くためのセミナー業が発達しません。あと個人が自ら(とくに、生活の余裕がない人に)料理を振る舞うことが徳とされるので、外食産業も壊滅的です(笑)
スマートフォンとの関係では、私が見た姉妹兄弟たちはおしなべて集団での写真撮影が大好き(さながら、「日本人は観光地で写真ばかり撮る」というパブリックイメージが逆転したかのように)で、マスジドに行っても大体スマートフォンからニュースのアナウンスが流されていますね。ハッジに行った兄弟からの話では、「聖地を前にした夜にはできるだけ多くの章を読みドゥアーを唱えるのが徳とされるが、だいたい皆スマートフォンをいじっていた」のだそうです。
前々回のラマダーン中にマスジド未満の託児所的な会合施設に行ったのですが、その壁に子どもたちの手書き(日本語)とおぼしきパレスティナの地図と人口と簡単な年表が貼ってあり、「おお、さすが寺子屋」と思っていたところ、その隣に「こども向けイスラームだより」みたいなのがあり、「スマートフォンでゲームをしていたら、すごいアイテムをあげるよという人がDMをしてきて、ログインのパスワードをおしえたら、アカウントをぬすまれました。」・「スマートフォンは便利な道具ですが、よくかんがえて使わないといけませんね。」と、純朴極まりないことが書かれていました(笑)
ちなみにこれは一般化めきますが、私が見てきた姉妹兄弟は日本製のヴィデオゲーム文化に敬意を評してある者が多く、知り合いのビギー大好きなヒップホップヘッドのムスリムは小島秀夫について私より詳しく、マスジド近くでムスリマが星のカービィのデザインが施されたピンク色のスカーフ(既製品のリメイクというより、それとして流通しているとしか思えないもの)を着けているのを見たこともあります。
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