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田畑 佑樹さん のコメント


 Mummy-Dさんが2年前に出したソロアルバムに『虹』という曲があり、自分がいけるかなと思ってた女性が実はトランスセクシュアル者で、びっくりしながらも不器用かつ朗らかにそれを受け容れる。という筋の詞で、もちろん良い曲なのですが、ひとつ明らかにどうかと思ったのは、その詞の最後に「Red, orange, yellow」...と「虹」色をひとつひとつ数えていくパートがあり、それが多様性の祝福として位置付けられているらしいことでした。

「あのDさん、俺もちろんわかってるんですよ、Dさんがすごく他人思いで勉強家で、それが誰にとってもチャーミングだってことは。で、俺ずっとRhymesterのファンで、アルバム全部聴いたしライブのブルーレイも買いまくってるし、ツアーでこっち来てくれた時は必ず行った、そういうゲイの言うこととして聞いてほしいんですよ。あの『虹』の最後のやつですけど、多様性の象徴としてのレインボーってのは、こう、個々で数えるものじゃないんですよね。ていうか、ノンケの人にも絶対スペクトラムがあるじゃないですか。個々のセクシュアリティがどの色ってことじゃなくて、単一の色だと思ってたものも実は周囲の色から影響を受けてた、そのグラデーションをわかってもらうものとして21世紀以降のマイノリティ理論はやってきたとこがあって。だから本当の虹的な考え方はノンケの人も生きやすくするはずなんですよ。ただ、Dさんの『虹』の詞は、最後に個々の色を数えて、それを讃える流れになってるんで、むしろ固定化を呼んでるというか……俺いちばんどうかなと思うのは、あの最後のほう、ライブでは観客が合唱するかもしれないじゃないですか。なのでそういう、公でやることの意味でも『虹』の色をひとつひとつ挙げるのは止したがよかったというか。たとえばDさんある日ね、虹を見て、その個々の色が隣接してる周りと強調して美しい景色を作ってた、それに気づいたと。俺はただの青色だと思ってたけど周りから影響受けて成り立ってたんだな、みたいなね。これだったら性以外にも人種の文脈も繋がるし、イケてると思うん……あああのすみませんDさん、うるさいこと言いたいわけじゃないんですけど」
↑のような、架空の話を架空のバーカンでしている姿を想像でもしなければちょっと対処不可能なものとして自分には受け取れ、そのうち「いや、いちいちこのような煩悶を抱かせるベテランラッパーのアルバムとは何なのか」と冷静になり、一度きりで聴くのをやめてしまいました。「レインボーの色をひとつひとつ数えても意味がない」というのは、菊地さんが執拗に指摘しておられた「アベノミクス三本の矢というが、毛利元就の逸話で知られる三本の矢は束ねられているからこそ強いのであって、ひとつひとつ射って使っては折られる」件と似た話で(笑)、もちろんDさんは安倍晋三なんかとは政治観も人間性も全然違うと解ってるけど、でもDさん大喜びで戦国武将の話しちゃう人でもあるから、そのへんの言語センスが実は似ちゃってるのかな……とまで考える始末です。

 他でいうと ちゃんみな関連の例も含め、「本来は(朝鮮ルーツの人々が日本で生きる・または女性が日本の芸能界でクリエイティブコントロールを握るに際して生まれる摩擦、などの)明らかな社会・政治的マターを動かす力になるはずだったものが、いつのまにか私小説的な"個"の特例にパッケージされて出されることが一般化し、もしその表現が大衆的に影響を与えるにしても、実質は"その人オリジナルの弱音を新たに吐かせること"しかやれていない」という例が歌詞表現の現場で増えすぎ、この変な切実さが、ジャンル・国籍関係なくエモ表現が必須または金価として位置付けられる原因を据えてしまっていると思います。

 先に述べたMummy-Dのアルバムには、彼自身が長年にわたって言わずにおいた、家庭内暴力を振るった父との関係が唄われたものもありました。私自身もDさんと同じような環境で育った当事者ですが、その同類でさえ「この、誰もが表面に浮かんでしまった傷ではなくわざわざ内部にあるかもしれない傷をわざわざ探して、それを自身の本質だと勲章さながらに外面化しているような傷見せびらかせの時代に、いまDさんのようなベテランラッパーがそういうカードを出しにいくというのは、ちょっと危うさばかりが勝らないか。ずっと"陽気でダンディで独立した人"でよかったのでは」と思わざるを得ず、このあたりから菊地さんが目撃したエモ偏重表現への布石は敷かれていたと言えるかもしれません。実際、件のアルバムでDさんがTBHのBossさんと共演した曲は文句なしの素晴らしい出来で、いつもどおり「男ばかりの世界で生きてる人のリリシズム」で問題ないじゃん、どうして今の進歩的なアーティストは少しでも「マッチョ」に見られることを怖がるんだろう? そういう抑圧を解くための考えが多様性なんだけどな、と「当人がしておくべきと思ったことと、実際に成ってしまっていること」の表現のせめぎ合いに関して思います。

 これらの例は、90年代中盤のモダンヘヴィメタルシーンで Korn がブレイクした直後に「いやあ俺にもトラウマあるんだよね、誰にも言えなかったけどさ」くらいのノリで(家族からの性的虐待のような、社会的なケアが必要とされる例ではなく)学校で受けたイヤなイジメくらいの内容を歌詞にしはじめた、あの穏やかな微苦笑モノの季節を思い出させ、「しかしあの頃は Nu Metal の奴らが似合いもしないアディダスを着てて笑えたからよかったけど、今は切実で真面目なだけに……いや違うか、アディダス着たメタルバンドが自分のヌルい辛さについて唄っていた時期と、いま同じような精神性のラッパーがあまりアディダスを見せびらかさなくなったことには、反比例的な関係があるのか……?」と、要りもしない歴史性を召喚することになり、それによって日本語ヒップホップの新譜を聴くモチベーションが下がっています(笑)(『New Collapse』はサウンドもフロウもリリックも本当に素晴らしかったですが。)

 要らぬ歴史性といえば、スエズ危機もキューバ危機もそこそこのコミュ障事象だったと思うのですが、先日去ったとされる「危機」を時系列で追った記事がアル・ジャジーラに上がっており、それを読んで明らかになる「何も進んでなさ・解決してなさ」には本当に腰砕けました(笑) USA、イスラエル、イラン全員のコミュ障っぷり、その脇で絵に描いたようなパシリをやらされるパキスタンの哀れぶり(今ほど「イスラマバード」という首都名の尊厳が侮辱されている時期もないと思います)、いまさらイスラエルがパレスティナと結んだあと蹂躙し続けた「停戦」と同じになるぞなどと言いませんが、USA、イスラエル、イランのうちひとりでもいいから相手の眼を見てケンカできるようになってくれよ、と思いました。パキスタンの使節が一番思ってたでしょう(笑)
No.6
1ヶ月前
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シンプルな話、ルアンさんのアルバム制作しながらぺぺの新曲のデモ作りをしながら TV ドラマの音楽(泉京香じゃないやつ)をやりながら日記書いて飯食って風呂入って薬飲んで寝るんで、すごい。共産主義者にでもなった気分だ。   今は、ピュアマルキシズムではないけど、共産主義のターンだ。コミュニストになろうかなこの際。とかマジで思うのだけれども、今日「世界が核戦争にならなくてよかった」と思って、ガチでホッとしてる人はどれぐらいいるだろうか?どんだけバカだとしてもゼロではないはず。   昨日の日記、及びコメ欄を読んでいただければお分かりいただけるかもしれない。トランプは無茶苦茶な「自作自演のキューバ危機(=核戦争の回避)」をやろうとしてたらエグい。もっと凄い、とはいえ可能性はゼロじゃないのが、「 JFK がキューバ危機によって、フルシチョフと一緒にノーベル平和賞を受賞している」と思い込んでいることだ笑。有りえない笑。故にあり得る(有名なデカルトのアレの、赤塚不二夫パロディみたいだ)。  
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