田畑 佑樹さん のコメント
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2回続けて Coachella の話をするなんて若作りしてるみたいで嫌なんだけど、最近は JB が JB ではなく JB であること、彼がマイスペースと YouTube で発見された時のことを知らない人も多く、サブリナ・カーペンターと JB (ジャスティン・ビーヴァーね。正解は)の舞台設計は、同じステージ制作会社によるもので、どちらも同じぐらい成功したとしか言いようがない、やはり21世紀はサイジングの時代だなと思うばかり。
しかし最近「僕を推して下すっている人々は、どんなもんが好きで、どんなことを知っているのだろうか?」という市場に関する問いを AI に問うてみたいような、悪くないような、というのも、今日ドミューンで「これから一回死んだ<東側 / 西側>という言い方が、前と逆転して使われるようになる」という話から、ちょこっとイスラームの話になり、「これからのイケてるスーツルックは、青いスーツに黒いシャツ、もしくはマオカラーの白シャツで、要するにノー・タイになる。つまり、現在のイランの公式スーツのスタイルである」という話に至り、「ええ、そんな鋭い話~(ファッションの話などもされるのですね)」といった反応があったり、なんかそれだけでは無いのだが、色々とね。
まあそもそも「 M/D 」をドカンと置いて始まったんだけれども、あれを通読した人はひょっとして、この場に絶無ではなかろうか?と思うと、ヌルいような冷たいような、あるいはとてもアツいような、とても奇妙な気分。最近いつも思うのは「今までの人生を<粋な夜電波>前と後に分けて、<前>にしたあらゆる仕事、話題、等々について、もう一回ずつ全部使えるのでは?」と思っており、それはとても奇妙な気分笑、これが僕の「現在は、ツイストした20世紀、あるいは近代の刷り込み直しが強力に推進されている」という史観と繋がっているのは言うまでもない。
今回の菊地さんの文章をきっかけに Sophie 自体を初めて知り、ブルックリンとコーチェラのアーカイブを聴いたのですが、DJパフォーマンスによる、平均律の(内部からの)解体をごく自然に聞かされた感じがしました。
私はDJingの機材をほとんど触ったことがありませんが、プロダクション終了段階でコード・モード情報が固定されている手持ち楽曲が、おそらくピッチ操作のノブによって部分的・段階的にズラされてループが続くことにより、20世紀後半の夢であった「無調に行かない新ポップス」の可能性を、コロナ禍直前までの理論と機材と既成ジャンル音楽でごく整然と構築した、見事な音楽のように思います。
反面的に、ビョークが世界的に著名的になりはじめた頃はDJ Shadowが「ターンテーブルを手にしたジミ・ヘンドリックス」などと呼ばれていて、いかにもロック論陣の人間が適当に言ったやつだなと思った記憶が蘇りましたが、コーダル・モーダル両方の異化がエレクトロニクスの使用によってごく当たり前になされている Sophie の音楽は、正しくヘンドリックス的と呼ばれるべきかもしれません(そういえば、これも『M/D』で論じられていたテーマの範囲内ですね)。
そして、今まで菊地さんがケイト・ブッシュに言及するのを数回読んだことがありましたが、さほど褒めるべきこともないのかなとこちらが勝手に思っていたため、文中での賞賛もやや意外ながら嬉しく読みました(『The Dreaming』あたりの、気がイってそうに聴こえるボーカル表現は菊地さんの好みではないだろうな、と思っていただけに)。
『Running Up That Hill』が私のよく知らないドラマシリーズでバズったなどはすっかり旧聞に属しますが、その劇中であの歌詞の神学=政治的トランスセクシュアリズムとでも呼ばれるべきものがちゃんと活かされていたかが気になります。大きく話がズレますが、私は初めて『君の名は。』を観たとき、性差の交換と時空の錯乱が同時進行しているという意味で正しく『Running Up That Hill』的作品だと思い、本当に素晴らしいものを観たなあと思ったのですが、大多数の世評はシスヘテロのオタク的な描写の消費(が良いとかキモいとか言われる)と、セカイ系しがみつきの人たちによるこねくり回しばかりで、結果として新海誠は『天気の子』(←いま思いつきましたがこれ、『Cloudbusting』というタイトルでもいいですね笑)という、へんにスネた優等生みたいな作品を出したので、ケイト・ブッシュ的表現を使えば、彼は大衆のモノセクシュアリズム的欲望に固定されることによって神と契約する機会を逃してしまった人だと思っています(笑)
(検索しただけの知識ですが、 Sophie は人種的にスコティッシュルーツながら生誕と国籍はイングランドということで、スコットランド出身のアニー・レノックスよりはイングランド出身のアイリッシュ女性であるケイト・ブッシュの立場に近いのですね。アニーもケイトもセクシュアルマイノリティの内輪からはアイコンと見なされつつ/世間ではあまりそういう人として意識されていない、80年代的な微妙さが未だにありますが、それにしてもこういう非ヘテロ的な表現がさまになる人はどうしてイングランド以外のルーツから出てくるのか、しっかりしてくれよ英国でLGBTの味方ヅラしてた足腰の弱いセレブ連中、といつものアングロ嫌いを延々と書いてしまいそうなのでここまでとします笑)
私にとって菊地さんは、セクシュアルマイノリティ文化に関する見解をいくらでも聞かせていただきたいと思わせてくださる数少ないシス・ヘテロ男性のひとりです。数年前にシルヴェスターの『Live at the Opera House』が新しく出たようなので聴きなおしていたのですが、冒頭で「とくに知名度の高いヒット曲の、オーケストレーションによるインストゥルメンタル版メドレー」という、ジュディ・ガーランドのカーネギーホール公演と同じ様式を踏んでいたことに今さら気づき、これは良い20世紀だなあと思ったところです。
シルヴェスターのライブ盤の会場名は The War Memorial Opera House なのですが、「ちょっと剣呑な名前ですけど、私たちがやるのは平和な芸術表現なんで、楽しんでってくださいね」的な無難に流れるのではなく、エイズ禍の文脈で名前を残すことになったミュージシャンがこの名の劇場で演ると、文字通り音楽による「戦闘」の意義が浮き彫りになり、セクシュアルマイノリティであることと政治的・社会的闘争性が地続きであった頃の精神を強く感じたくもなります。
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