菊地成孔さん のコメント
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もう情報公開されたので大っぴらに言って良くなった訳だが、東浩紀さんと対談が決まった。勿論、僕から持ちかけたのではない。っていうか覚えてるよね?笑、覚えてないか笑、ゲンロンカフェでちょっと前に後藤博士と対談した時、あれもオファーを受けてのものだったのだが、最初は「吉田豪さんと」という話で、なんともうすでに吉田さんに話も言っていて、 OK もらっているとのこと!
吉田さんを嫌いな人なんて多分いないし、僕も大変に好きだが、話す内容がトランプのこととか、 aiko の分析だとか、政治と音楽、とかいう話になると、ちょっと違うよなあ。
例えば、これは諧謔でもなんでもないが「結婚について」という話を、僕と吉田さんでする。という企画であれば、我ながらとても面白いと思うので乗ったし、あるいは「今、格闘技はどれぐらい見られているか?(格闘技はサブカルではなくなったのか?)」という話でも良い、多くの UFC ファン、ボクシングファンが驚くべきような物になるに決まっているし、「改めて、アイドルをプロデュースすること( AI 時代に)」だって良い。地下アイドルを地上に出す方法、とかいう話だ。歴史に残る対談になるだろう。まあ、適材適所というものがあるわけだ。マッチメイクですよね。昔のジャーゴンだが。
<↑のような内容でさえも、単一の政治的トピック以外は受け付けない文革体制では撥ねられてしまうのでしょうか(笑) フェミニズムと、抗資本主義と、反シオニズムと、文化的連帯と、クィアスタディーズと、20世紀の戦争とファシズム、Xユーザーたちが飛びつきそうな内容がふんだんに入っているのに(笑)>
アルモドヴァルは僕が南欧で一番敬愛する映画人ですが、日本での理解は残念ながら港町ブルースぐらいに和風にしてあげてもやはりダメで、日本人は同じ集中治療室を見ても、クローネンバーグの方が美しいと思ってしまう偏光があり、いつまでスペインはダメなのか?と思っていたら、とんでもないのをプロデュースして(例の砂漠の重低音レイブ映画ですが)、現在のヤオイ進行形と非常に上手く結びついて回春したので、撥ねられない?こともないか、、、、な。という感じですが笑、相貌もノリ(もっさりしている=「大女」の重さ感)もかなり似ているが、方や過剰にガールズフッド、方や過剰にアンチガールズフットな2人の敵対(便所で仲間と囲む女と囲まれる女)は、僕にとっては深く遠い、遠く深い「郷愁」そのものでしかなく、何故ここまで、僕の郷愁を煽る人々が、ボケーっとしながら大変な存在感を放っているのか、理由を考えようにも、郷愁がかくも思考を停止させるのか、うっとりと驚くしかありません。
ただ、Xをプレイグラウンドもしくはバトルフィールドもしくは世界としている人々の現在は、フェミニズムも抗資本主義も反シオニズムもクィアスタディーズも20世紀の戦争とファシズムも、おそらく不感症というか、<味も素っ気もない>物になっていると思います笑。
松尾さんの詞は、非常に受験勉強的で、何せラッパーの作法ではなく、メロウなスタイルで韻律を大切にしているし、何せ結果を出していますが、名門校に入学できた感が、同じ九州でも陽水さんの気が違ったような動物性(クロノス、カイロス、そしてイーオンまでが三立している)と、ここまで違うか。と深々と思います(僕とマツコデラックスの「同じ千葉で同じ弁が立つも、全然違う」感みたいなもので)。
けれどもXで「松尾が菊地にアンサーしないのはなんでだ?」というナイーブな方に対し、Xはなるべく手短に手短にという反射によって「絶対アンサーなんてない。自分は安全圏にいて、子分に悪口言わせてるだけに決まってる」というのを「九州のヤクザみたいなもんだ」という雑な暴言の形で吐いてしまい笑、では小倉と言った方が良かったか、いや小倉と言ったら、「どちらも小倉ではない」と、当たり前の反駁もあるだろうし、と、やはり、何がどうしようとバトルフィールドが違いすぎなので、ゲンロンでは僕によって神経を逆撫でられた方々に、素直に謝罪しようとは思ってはいます。
ただどうしても、チャーチルが内務大臣時代に、街中での発砲事件を直接指揮を執り、怒られた時に発した名言である「そんなに怒るなよ。面白かったんだから」が浮かんでは消え、浮かんでは消えする明滅の中で、チャーチルがXに住む人々が大嫌いな「冷笑家」かどうか、の話のがしたいなあ。とも思うんですよね。
「嫌な<今・ここ>の氾濫」は、レヴィナスを片手間に読んだから、ではなく(レヴィナス片手間の影響はむしろ、現状よりちょっと前の段階でのデモで連呼された「殺すな」だと思います)、あいだみつを的な「過去は振り返らない、未来はわからない。今、ここしかないんだよ」みたいな、駅裏占い師みたいなアレのトレーシングだと思いますし、それは「今・ここ」に限らず、多くのエモいボキャブラリーが、あの筆文字みたいなものに包摂されていると思うと、井上陽水の「それが、それが、今」という、イーオン(発生)を特殊なカメラで捉えたかのような鮮やかな時間感覚は現在、信じがたいことだけれども、「味も素っ気もない「「意味がわからない」ものになっているかも知れませんね。
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