e8ccef2fb32e93988f1d8b8ca96da17ea412baf6.jpg

 ほい、相変わらず「オタク迫害史」についてがバズっていますが、今回のネタ本は、かつてエロ同人誌を出していたのに「今のオタクが仁藤夢乃師匠を批判していること」をもって「オタクは加害者だ~~~!!!」と泣き叫ぶオタク史研究家、吉本たいまつの著作です。
 吉本は、先週うpした動画でも採り挙げた、歴史修正主義者。
 未見の方はまず、動画をご覧いただくことを推奨します。

 ただ、その前にちょっと、もう一冊、槍玉に挙げたい本があります。
 槍玉……とは言うものの、書かれている内容に真剣に腹を立てているわけじゃないので、書名は伏せましょう。「特撮元ネタ本」とでも称しますか、要するに特撮作品の裏話について書かれた、というフレコミのものを見つけ、尼で買ったのですが……それが何というか……一読して驚いたことには、「特撮」という看板に反し、延々延々、トラック野郎映画だ刑事ドラマだクレイジー映画だと、特撮でも何でもない映画についての話が全ページに渡って繰り広げられているのです。
 非特撮作品でも特撮と関係があれば扱うことに何ら文句はありませんが(例えば『ウルトラセブン』の「第四惑星の悪夢」の演出はフランス映画『アルファヴィル』の影響下にある、とか)、そしてもちろん、そうした話題も出て来るのですが、関係のないものの方が遙かに多い。当初はまだしも何とか特撮にこじつけようとしているのですが、とにかく話題が何の関係もないところまで際限なく広がっていくのがこの著者の文体です。
 以下は例えば……ということなのですが、こんな感じ。

 Aという俳優は特撮作品でよく博士役をやっていた人。ところでこの人は時代劇にもよく出ていて、B、C、Dという映画にも出ていたなあ。そこにおいてAはこれこれの役を演じ、それはファンの語る草となっていて、この作品、実はEを撮った巨匠、Fの監督作品であり……。


 だから話を特撮と絡めるとか、せめて最後に話を特撮に戻して終わらせろ!
 ぼくが考えるサブカル世代の人って、博覧強記タイプというか、とにかく知ってる知識を脈絡なく並べ立てることに快感を覚えるタイプが多い気がします。
 だから、上のB、C、D、E、Fは「知っていたから名前を出した」だけで、別にそれについて何かを(この本の理念からすればその「何か」は特撮との関連性であるべきでしょう)語ろうという意識に乏しい。文章に意味づけというものが、ないんです。
 いずれにせよ「特撮」と謳っておいてこれでは、やはりちょっと看板に偽りありと言わねばなりません。
 どうも「サブカル映画についての蘊蓄を語る本」と看板を掲げて売ってもあまり読者の目を惹かない、そこで「特撮」というまだしも読者の多いであろうジャンルを前面に出してタイトルに冠した、といったところが実情でしょう。
 それともう一つ、文章が何というか、「痛い」んですね。コソクな受け狙いのギャグが隙間なく挟まるんですが、それがとにかく笑えない。「八〇年代の同人誌」によくあった感じで、センスが古い。
 いえ――或いは作り手は天然なのでは、という気もします。サブカルというか『映画秘宝』陣営というか、この種の「オタクの上の世代」の人たちは特撮と共に時代劇、刑事ドラマ、ヤクザ映画などを守備範囲にしている人が多く、彼らの主観ではそれらジャンルにはほぼ違いはなく、あまり「脱線」している気はないのかも知れません。

 ――さて、話を今回のテーマに戻しましょう。
 要するに先の本とこの『おたくの起源』は、ほぼほぼ同じなのです。
 動画でもちょっと言及しましたが、本書の第一章ではSFについてが延々語られます。
 章タイトルは「母胎としてのSF」。要は「オタク前史について語ろう」という意図であり、SFとオタク(文化)との差異は、ここでは一応、認識されています。
 また、よく言われるようにSFファンダム(ファン界隈のことを、当時はこのように読んでいました)自体が活字SFをありがたがってアニメファンを見下す閉鎖性を持っていたという傾向についても、言及されています。
 ただ、ちょっと気になったのは「ガンダム論争」。これはSF作家の高千穂遙氏が『ガンダム』を「SFではない」と批判したことに端を発するSFマニアとアニメファンとの論争なのですが、ここにおける食い違いを、「政治の季節」を経験し、まずは論争をするのが当たり前の前者と、ノンポリ世代でそうした慣習のないの後者との差異である、とする箇所。ここはぼくがいつも「サブカルとは左派だ」と言ってることとある意味で符合し、間違った指摘ではないのですが、いずれにせよSFマニアがアニメファンを見下していたのは事実であり、これはちょっと言い訳(それとはなしにSFマニアの方がエラいと言っている)のように思えます。

 ただ、いずれにせよ「SFこそオタク文化の起源」との主張に異はないし、ぼく自身、一方ではSFに対する愛着も多少はあるので腹も立たない。
 しかし二章になると、妙にイデオロギーの匂いが強まります。
 ここでは漫画を批評しようというファン活動が活発になり、それがコミケの源流になったといった話が語られ、もちろんそれそのものは史実なのですが、全共闘世代が漫画を支持していたの、よど号ハイジャック犯が「我々は『あしたのジョー』だ」と言ったのと、やたらとイデオロギーが前面に出て来ます。
「ファン活動」こそがオタクの本質だというのは一応、頷けるのだけれど、世代的には24年組の少女漫画だ、『ガロ』だ『COM』だとやはりオタク文化ではなく、その前史ばかりが仔細に語られます。
 コミケについて語るシーンでは、①非商業主義、②上下、権力関係の希薄さ、③開放的な体質、また⑥祝祭空間といった性格を挙げ、以下のように言います。

 ①②③の三点は、全共闘運動とその後に起こった既存の社会への異議申し立てから受け継いでいる。(中略)そのためコミケは全共闘のカウンターカルチャー性を強く受け継いでいるといえるだろう。全共闘運動はみんなで集まって楽しむという部分もあったので、も全共闘的な特徴といえる。
(88p)


 まあ、間違っちゃいません。サブカルがオタク文化を憎んだのはオタク文化が商業化したからなのですが、なら自分たちの懐具合が寂しくなったからといって、擦り寄ってこないで欲しいところです。
「オタクは金儲け主義でけしからぬ」というSF側の主張は、以降のゼネラルプロダクツ(岡田斗司夫氏ら)陣営と旧SF陣営の対立という形でも言及されています(155p)、まあ、吉本自身はそれに唱和しているわけではなく、フラットな記述に留まってはいるとは思うのですが。

 ――結局、同書で語られているのは、「オタクの上の世代」の歴史であり、「オタク」という看板を掲げておいて、ただひたすらその上の世代の連中の蘊蓄がばかりが続くのです。
 その意味で、「歴史を知ることは重要」という正論にかこつける物言いには、ぼくはいささかの抵抗を覚えます。
「オタク迫害史」の渦中、(一体全体どういうわけか)「ロリコンの歴史」といったものが話題になりましたが、これも言うなら「萌え」にかこつけ、実写の少女ヌード写真などのブームの頃について語りたいヤツが横入りしているに過ぎない。
 だからこの種の「歴史ガーーーー!!」に対しては、少々身構えた方がいいと思うんですよね。

 まあ、ただ、とは言え、今まで見てきたように、本書はそれなりに歴史を忠実になぞっています。
 四章に至るや、「DAICONⅢOPアニメ」についてもページが割かれるようになります。これは1983年に開かれた日本SF大会で上映された同人アニメで、岡田斗司夫氏らガイナックス陣営の人々によって作られた、美少女、怪獣、メカ満載の作品です。岡田氏は「同作の上映の瞬間こそがオタクの誕生の瞬間だ」としていますが、本書でもそれと符合する記述が並びます。
 また、それとスタッフも被る『超時空要塞マクロス』(1982年)についても言及、同作を「(オタク)男性の好きな要素を、とにかく片っ端から突っ込んだ(165p)」と形容しています。ぼくも同様に、『マクロス』をオタク作品第一号であると称したことがあり、それはオタク世代が作り手に回り、自分の好きなものを十全に表現した第一号だったからなのです。
 つまり、この辺りの記述には、ぼくも不服はないのですが、まあ著者的には「おたくの起源はSFだ」と強調したかったのかも知れません。

 そしてこれら作品について語ったページの次の節、200pを越える本書の172p目で「おたくの誕生」という節に入ります。そう、長い長い長い長いフリを経て、ようやっとオタクについて語られるわけです。
 ここでは中森明夫による例の「おたくの研究」について言及され、また「サブカルとおたくの間で、主導権争いが発生し(176p)」ているとの見方もなされます。
 しかしそうなったらそうなったで「オタク」という言葉にまつわるネガティビティは「自嘲」である、オタクの自己省察の賜物であるといったまとめられ方がされるのだから、たまりません。
「オタク」が(サブカル側から貼られた)差別的レッテルであること、その経緯まで書いておきながらそんなことを言い出すのは、不自然極まりない。ご当人は書いていてヘンだと思わなかったのでしょうか。
 また、そのオタクのネガティビティについて大きく三つ、以下のように述べられます(181p~)。

1.子供向きコンテンツに耽溺する未成熟性
2.セックスからの忌避的態度
3.コンテンツを爆買いするなどの過剰性

 ――上は大意ですが、ちょっと呆れます。
 1.については先の中森(か、或いはその仲間のサブカル)の文章が「大人になれ」といった論調だったことに関連しているのですが、いつも言うように、これは言いがかりとしか言いようがない。「大人のロールモデル」がなくなってしまったこと自体が時代性の問題でオタクに責を帰するべきではないし、そもそもオタクが勢力を増すや、むしろサブカルはその幼児性を政治利用(結婚しなくてもいいじゃないか、的フェミ的主張)をし始めたのだから。
 何しろ、最後の最後、こんなデタラメまで真顔で書いています。

 あと大きな違いとして挙げられるのは、一九八〇年代中頃までは、おたくという言葉に、強いマイナスイメージはなかったことである。
(201p)


 以降、オタクのマイナスイメージの原因は宮崎事件だとの「偽史」が、得意げに開陳されます。
 SFだの漫画だののウンチクが子細に並べられる前半、中盤に比べ、オタクの誕生以降は光の速さでダッシュする本書ですが、ここはいかにも片手オチと言わざるを得ません。
 中森については言及しないわけにもいかなかったのでしょうが、美少女コミック誌でこそ若い才能が集い、オタク文化を形成したことについても完全スルーです。いえ、御茶漬海苔とか町田ひらくがどうとか書かれてムカつくよりはマシですが(両者とも、美少女コミックで描いていたサブカル漫画家です。)。
 看板に「オタク」と大書し、しかしながら書かれるのはサブカルについてばかりの本書、冒頭に挙げた「特撮元ネタ本」とそっくりではないでしょうか。いずれも横入りした者が得意げにVサインをしている光景なのです。

「オタク迫害史」について気を吐いている真城悠氏ですが、とにかくあちこちから「迫害されたと主張するなどまかりならぬ、けしからぬ」との常軌を逸した罵詈雑言の嵐で、随分と参っている様子です。

 普通に考えて異常な反応ですが、それが何故なのかも、もはや今となっては明らかです。
 サブカルはずっと、自身が「オタクの兄貴分」として利を得るため、歴史修正に邁進してきた。オタク文化が隆盛しても、評論家的な立ち位置で地位を得たのはオタクネイティブではなくサブカル界隈の人物ばかりであり、声を圧殺することにも成功したと思っていた。
 ネットの普及は(他の多くの左派同様)彼らに危機をもたらしたが、そこでも表現の自由クラスタに声を揃えさせることで、抵抗勢力は圧殺できたと思っていた。
 ところがここへ来て表現の自由クラスタは支持を失い、とうとう市井のオタクの声が溢れ始めた――今回の「オタク迫害史」騒動から窺われるのは、そんな現状です。
 オタクの歴史は、歴史修正の歴史そのものでした。
 しかしいよいよ、それも終焉を告げつつあるように思われます。

 あ、それともう一つ、本書で一番笑ってしまった記述を。
 七〇年代から八〇年代、つまりオタク文化の黎明期についての話(以下の「イマジナリーな文化」というのは要するにオタク文化のことです)。

 つまりこの時期、自分が何を「好き」なのか、何を選ぶのか(趣味を選ぶのか、恋愛を選ぶのか)はっきりさせなければならなくなってくるのである。
 ここで男女で違いが出てくる。女性の場合は、社会的制約要因が多いため、社会から求められることをこなしつつ、実社会とは切り離して「イマジナリーな文化」を楽しむ人が増加する。
(中略)
男性の場合は、社会的制約は比較的緩いので、好きなものを好きであり続けることは可能であった。
(139p)


 工エエェェ(´д`)ェェエエ工
 まず、誰がどう考えても社会的制約が多いのは女より男でしょう。
 ここでは(摩訶不思議なことに)社会的制約を「恋愛か趣味か」の二択であるように書いていますが、仕事というものに縛られ、大変なのが男であるのは(ことに皆婚主義である昭和なら)当たり前というのも馬鹿馬鹿しいくらいに当たり前のこと。趣味の活動をしていても、(本書でも述べられているように)進学や就職でそれから足を洗うケースもあったわけです
 そもそもこれが正しいならば、「初期のコミケには女が多かった」という本書でも嬉しげに書かれている事実と矛盾が生じるでしょうに。
 いつも言うように、少女漫画文化などがオタク文化に先んじていたのは事実で、これはこの地球における上級生命体である女が、まず趣味を楽しむことが許されるようになり、「オタクの起源」とは、その後に社会が豊かになるにつれ、男もまた「女もすなる」趣味の活動に足を踏み入れることができるようになった、というところにあるものなのです。
 そうした自明の客観的事実には歯牙もかけない吉本たいまつ。
 いや、やはりフェミ信徒はすごいです。