-
2011年女災10大ニュース(再)
――さて、ここしばらく『ぼくたちの女災社会』[増補改訂版]刊行を記念して、記事の再録を続けています。
目下、『WiLL Online』様で牛角炎上問題について語らせていただいております。
本件について、どこよりも深くまで切り込んだものと、自負しておりますのでどうぞ、ご愛顧ください。今回はブログ初期、2011年の末に書かれた「10大ニュース」の中から『女災』関連の10位から8位までを抜粋してお届けします。
読んでいただければ当時の日本において、フェミニズム批判、男性の権利を主張することがいかに危険か、おわかりになるのではないかと思います。
最後の出版社の件など、業界がフェミに牛耳られていること、フェミ騎士たちはこの当時から思考を完全に停止させ、「アンチフェミ」は「非モテ」なのだというフェミ様のありがたい説法を鵜呑みにしていることなどが浮かび上がってきて、興味深いのではと思います。
ちなみにこの出版社の件、ぼくについてのデマを流した加野瀬未友が嘲笑していたことがある、というのは今思い出したメモリーであります。では、そういうことで……。
* * *
新年、明けましておめでとうございます。
いよいよ2011年の始まりです。
これよりの二週間がみな様にとってよい年でありますように、お祈り申し上げます。
――わかりにくいので書いておきますが、以上は歌丸師匠が毎年やる新年恒例のボケのパロディであります。さて、というわけで今回は今年の「女災10大ニュース」でも発表しようかと思います。
といっても具体的に新聞などで騒がれた大きな事件などは一切、扱われません(笑)。
あくまでぼくの視点から、ぼくの感覚に基づいて選んだニュースなので、トピックスとしては抽象的なものばかりになりますが、そこはご容赦ください。
それでは早速、10位から発表して参りましょう。【第10位】『女災社会』電子出版
えぇ~と、ぼくの気づかぬうちに、拙著『ぼくたちの女災社会』の電子版が出版されておりました。出版予定があったこと自体は以前より聞かされていたので、出版(配信?)にあわせてここやツイッターでも告知して、何か連動企画でも考えようとか、自腹でネット広告でも打とうとかいろいろ考えていたのですが……まあ仕方ありません。紀伊國屋書店BookWebで購入できますので、環境が許す方はご覧になってみて下さい。
【第9位】有村悠師匠、なか見検索で拙著をご高閲
有村悠師匠、ぼくはよく存じ上げないのですが、ネットでは結構な有名人のようです。
彼については「ろりともだち(その2)」でも軽く触れました。
師匠はブログでぼくの著作を読みもせず、しかもぼくのみならずAmazonで好意的なレビューを書いた人々まで(呆れたことにレビューを自身のブログに引用して)口汚く罵るというナイスな挙動に出た御仁です。あまりにも目にあまり、「せめて読んでから貶してはどうか」と進言したのですが、師匠のお答えは「残念ながらこの本にそんな必要は認められない。」というもので、その思考停止ぶりに感銘を受けてのランキングとなりました。
が、実は師匠、これ以降も「ザ・インタビューズ」へようこそ!(「ソーシャルインタビューサービス」というものらしいです。よくわからん)において拙著を引きあいになさっていました*。
そこで拙著は「なか見検索で読む限り、相当残念な本です。」とのお言葉を頂戴することになりました。なか見検索とはAmazonの試し読みのサービスで、最初の6pはそこで無料で読めるようになっているのです。
たったの6pで原稿を書いてしまう勇気には敬服しますが、読もうが読むまいが頭は停止したままなのですから、師匠には兵頭バージンを貫いて欲しかったところです。*「「男性差別」という言説が僕は嫌いなのですが、有村さんの見解が聞きたいです。」という、まあ最初から出来レースみたいなやり取りですね。案の定、師匠の発言は「長い歴史を通じて、女性はマイノリティとして扱われてきました。」といった幼稚なもの。革命戦士の「思考停止力」の本領発揮、といったところです。
【第8位】女災ラノベ出版中止
実は企画があったのでありますよ。
ぼくがお世話になっていたヲタ系出版社がありました。この数年はここのおかげで食えていたと言っても過言ではなかったのですが、会社の方針が小説の出版を縮小、ノンフィクション系に力を入れたいというものに変わり、ぼくも「萌える○○」的な企画書を作って提出しておりました。
なかなかうまくいかず、苦し紛れに担当編集者Kさんに『女災』を見せて「こうしたものの萌え版はどうか」とプレゼンしたところ意外や感触がよく、先方から「ライトノベル化しよう」といったアイデアが出されたのです。
『女災』の内容に対しても、Kさんは「最初は兵頭さんが僻みっぽいのかなと思ってましたけれど、お話をお聞きしておっしゃる通りだとわかりましたよ」などとおっしゃっていました。まあ、この種の発言がなされる場合、基本的には本音は前半部分にあるものなのですが、仮にそうだとしても(本音ではぼくの意見に同意してはいなかったとしても)商業的にある程度、企画について興味を持ってもらえたものと確信しました。
むろん、こうした企画というものは(特に不況の昨今にあっては)そうそうトントン拍子に行くものではありません。出版にまで漕ぎ着けられる企画書なんて何十も出して一つや二つといったところかも知れません。とは言え、Kさん自身のモチベーションは取りつけたと思っていたのです。
ところが。
プロットをまとめ、出版社を再訪したところ、寝惚けたような顔で「ピンと来ない」「リクツは判るが」と繰り返すばかりの、気の抜けたような対応になってしまったのです。前回に形成されたはずのコンセンサスは全て、Kさんの脳からすっぽりと抜け落ちているかのようでした。
「仮に女性専用車両を受け容れても、ぼくたちは両手を挙げて電車に乗らなければならないわけですよ」
「両手を挙げて電車に乗ればいいじゃないですか(事実、彼はそうして乗っているらしい)」
「仮にそうしていてもなお、痴漢に間違われかねない現状を生きているんです」
「いや、リクツはわかるがピンと来ないですね」
要領を得ないことを言い続け、ついには
「(この企画は)どうしようもないってことですよ」
と言い放ったKさんに、ぼくはすごすごと出版社を後にすることになりました。
正直、Kさんの真意はわかりません。
彼が自らの信念に照らしてぼくの主張がどうしても許せないと感じたのであれば、最初からそう言えばいいのだし、信念を曲げてでも企画を検討したのであれば、それを通すべきでしょう。売り上げなど別な理由から企画を取りやめたいのであれば、それをそのまま言えばいいだけのことです。
更に言えば、そこまでやる気がなくなったのであれば、ぼくをわざわざ呼びつけなくともメールでその旨を伝えればいい話です。この業界、不誠実で非常識な編集者というのは残念なことに数多いのですが、しかしある程度の間、仕事をさせてもらっていたおつきあいのある編集者さんが(いかに不要になった作家相手と言えど)そうした言動を取る理由が、ぼくにはさっぱりわかりません。
そんな相手に対してわざわざ時間を費やしてプロットを作成し、「別案ですがキャラクターたちにこのような設定を加えては……」などとドヤ顔でプレゼンしたぼくの方こそいい面の皮です。
しかも、無理してつけた流行のラノベ風のポップな仮タイトル――『ぼくの妹が女災に怒りすぎて恐い』。
あぁ……萌えです。萌え萌えです。恥ずかしくて死んでしまいたいです(笑)。
が、この時のKさんの発言で極めて印象的なものがありました。
『女災』を読んでの感想なのですが、
「兵頭さんはモテたいのかな、と思った」
とおっしゃったのです。
あまりにスットンキョウな発言で意図がわからず、ぼくも間の抜けた返答しかできなかったのですが、事後、一ヶ月ほどした時にふと彼の発言の真意に思い当たりました。
元々、Kさんの口からは東浩紀とか上にも名の挙がった有村悠(笑)といった名前が出ていたのですが、恐らく彼はそうした人々のイデオロギーに影響を受けつつも、フェミニズム関連の知識は持っていなかったのでしょう。ぼくとの会議の後、何かの加減でそれについての意見をグル様だか誰だか影響力のある人物に問い、「兵頭は悪しき非モテ論壇の一味だ」といったお告げを賜った。
想像ですが、当たらずといえども遠からずの状況があったのではないでしょうか。
むろん、このことだけをもってフェミニズムと親和的な進歩派が「まるで北朝鮮のような思想統制を行っている」とか「その底辺には一切の思考力を持たず指導者様の命を実行に移す革命戦士が大勢いる」とか「その組織は『命令に従わない者は、殺す。』とか『平和を愛する者は、殺す。』などといった鉄の掟で縛られている」とか断言したいわけではありません。とは言え、本件を出版やマスコミ業界におけるフェミニズムの影響力の一例として考えることは、できるのではないでしょうか。 -
表現の自由クラスタオワコン問題は小山田圭吾炎上問題である――『小山田圭吾冤罪の「嘘」』を読む
目下、『WiLL Online』様で牛角炎上問題について語らせていただいております。
本件について、どこよりも深くまで切り込んだものと、自負しておりますのでどうぞ、ご愛顧ください。
――さて、本編は前回記事に引き続き、巷に溢れる小山田圭吾擁護のデタラメを暴いた電八郎氏による電書、『小山田圭吾冤罪の「嘘」』のレビューです。
トップ画像は前著ですが、まあ、これは見た目の差別化を図るためです。
ともあれ本書(前著じゃなく新刊の方)では小山田の愚行は当時のサブカルの愚劣さの一端として理解する必要があるとし、当時の悪趣味・鬼畜ブームが鋭く斬られていました。当時はそうした、身の毛のよだつような悪趣味・鬼畜AVというものがサブカルによって得意げに製作、視聴されていたのです。
ただ、それを否定しようとするあまり、電氏もフェミ騎士の論文を引用したりで、そこは頷けない、そうした批判をしたかと思います。
さて、ではその悪趣味・鬼畜AVとはいかなるものだったのでしょうか。
ちょっと前回と順序が逆になった感もありますが、サブカルの悪行を忘れないためにもどうぞ、ご一読ください。
もっとも、お断りしておきますが読んでいて気分の悪くなる内容が延々と続きます。
苦手な方は、お読みになりませんよう。
なお、電書にはページというものがないので、引用、紹介した文章の末尾に項タイトルを()内に添えておきますので、ご了承ください。さて、ここでは幾人か(一般のAVではない)悪趣味・鬼畜AVの作り手たちの名が挙がります。バクシーシ山下もその一人ですが、彼は著書『セックス障害者たち』において「当時」(と言ってもいつのことかは判然としませんが)は避妊などしなかったと書いています。カンパニー松尾(って、誰?)は「病気になったらなった時だ」とうそぶいていたとのことで、非道い話です。ちなみに同書、編集したのは北尾なんですね(「北尾修一とバクシーシ山下」)。
また、山下は『女犯』シリーズで本当のレイプを撮影していたのではないか、と疑惑の持たれた人物でもあり、正直ぼくは本件について、表現の自由クラスタ側の「フェミのポルノに対する攻撃」という文脈でのみ見聞していたのですが、本書を読むと印象も変わってきます。
ただ、同書の引用には、AVスタッフたちの「レイプやったら?」「いいッすね、それ」などとといった会話が頻繁に登場し、驚くのですが、これは当然、「レイプ物のAV」という意味であり、「バクシーシ山下は、出演女性には前もってレイプ作品であることを伝えて撮影許可を取っている」わけです(「バクシーシ山下『女犯』の中のレイプ」)。
『オバケのQ太郎』の小池さんは(モデルとなった鈴木伸一氏同様)アニメーターであり、彼が企画会議で「都市に爆弾でも落とすか」と話しているのを聞いてオバQが国際的犯罪組織のメンバーだと思い込む話があるのですが、何だかそれを思わせます。
ただ、ならば山下の仕事に問題はないのかとなると、そうでもありません。
同書の引用からの孫引きになりますが、『セックス障害者たち』には以下のような下りもあります(「バクシーシ山下『女犯』の中のレイプ」)。A子(仮名)にはこの時に、特記事項としてスタンガンを使用することを承諾してもらいました。
ま、彼女はスタンガンが何なのか、分かってなかったかもしれないですけど。
(194p・仮名は電氏による)
ぬけぬけと書く山下も悪辣ですが、もし本当にスタンガンが何なのかわかっていないならむしろ、「ガン」という言葉に過剰に脅威を感じるでしょうし、ちょっと怪しいなあと思います。というか、契約した後で「知らなかった」で通用しないのは、社会の常識ではあります。
電氏も指摘する通り、こうした業界に流れ着く女性には知的能力に問題を抱えた人もいるのかも知れませんが、いずれにせよ前回の『童貞。をプロデュース』でも書いたように、どちらに責を負わせるべきかは、非常に曖昧で微妙で繊細な問題です。
100%の合意と充分な説明があったとも言い難いが、最低限の説明はあり、女性側もガードが甘かった、といった辺りが正しいんじゃないでしょうか。平野勝之というAV監督もまた、この種のものを撮っていた人物で、電氏はポルノ・買春問題研究会による著作『映像と暴力――アダルトビデオと人権をめぐって』の中の宇野朗子「平野勝之『水戸拷問――不完全版』の分析」を以下のように引用しています(「平野勝之『水戸拷問』と『監督失格』の間にあるもの」)。
浣腸をしたまま、書店にいって『走れメロス』を買いに行かせられる。床についた便をなめさせられる。ミミズを食べるよう要求される。 漏斗で、男優の大量の尿を飲ませられる。失神している顔に、便をかけられる。
(36p)
同書では中村敦彦『名前のない女たち』も引用されます。この中村、ご承知のように弱者男性への憎悪に満ちた著作があるなど、ぼくも嫌いな人物ですが、ともあれ悪趣味・鬼畜AVに対する筆致は以下のような具合(「平野勝之『水戸拷問』と『監督失格』の間にあるもの」)。監督は威圧的に『小便を飲むんだよ……口を開けろ!』と、訳のわからないことを怒鳴っている。突き出されたチンチンから小便が出てきて、彼女は口で受け止めた。信じられないほど不味い液体が、口の中に充満して、排泄物の毒素が全身に広がっていくようで気持ち悪かった。小便をした男は鬼のような目でビンタしてきて、『貴様、一滴ももらすんじゃねえぞ!』なんで怒鳴っている。
悪いことをしてないのに何発も、何十発もビンタをされた。顔を腫らせた麻保子は、殴られる理由を何度も何度も考えたけれど、何も浮かばなかった。
『おい、飲め。全部飲めるだろぉ!』
監督は偉そうに声を張り上げている。
(348p)
読んでるだけで嫌になりますし、この種の「企画物AVの女」は契約違反があっても事務所が守ってくれないともいいます(が、今一このソースは判然としません)。
他にもバッキーについても語られます。
これは明らかに狂人である栗山竜が代表を勤めるAVメーカーで、『子宮破壊』という聞くだにおぞましいシリーズをリリースし、女性に一生残る障害を負わせ、2004年にスタッフ共々逮捕されています。ディレクターは公判で「バクシーシ山下を目指していた」と語っていたと言います。
これについては物理的な虐待以上に作り手の女性への嗜虐欲、悪意が壮絶で、本当に読んでいるだけでダメージを受けるので引用は差し控えますが、興味のある方は買って読んでみてください(「バッキー『問答無用 強制子宮破壊』と「監禁友の会」「『女犯』から15年後のバッキー事件」)。これらは確かに、いずれも目を背けたくなるようなものですが、しかしやはり重要なのは表向きの残忍さではありません。
実はぼく、やはり「飲尿物」のAVを観たことがあります。そこでは「素人」の女性が飲尿したいという欲望を抱えて出演者となり、必死の表情で男優に放尿してくれと哀願していました。
もちろんそれすら借金苦でやむなく出演し、いやいやそうした演技をしていたと言われればそれまでですが、見ている限りそうは思えない。そりゃ、そういうプレイを望む女性だっているでしょとしか言えないし、だからこそフェミニズムは「女は誰一人男とのセックスを望んでいないのだ」との妄想を前提にすることでしか成り立たないわけです。
いえ、むしろ上の女優は変態的なプレイを哀願する演技に自己陶酔しているようで、いささか閉口させられました(わざとらしい喘ぎ声に醒める感じですね)。
つまり、女性にも醜悪でグロテスクで陰惨なプレイを望む者がいないとは言えず、重要なのはあくまで女優とのコミュニケーションとリスクマネジメントが機能していたか否か(言い換えれば「レイプ」が虚構か否か)であり、ただ「残忍だから」、ましてや「その表現が女性全体への差別、ヘイトだから」という理由でこの種の表現をつぶすことは、やはり避けられるべきなのです。まあ、そこまではぼくも「表現の自由クラスタ」と同意見なのですが、しかしならばそちらに全振りで同意できるかとなると、もちろんそうではありません。
何しろ、どんな陰惨なAVよりもおぞましいことに、「朝日文化人」たちがこうしたAVに対し、絶賛の限りを尽くしていたのですから。
先の山下たちは業界内でも地位を確立しますが、電氏は以下のように続けます(「朝日文化人」としてのバクシーシ山下)。これだけなら業界内部の評価であるが、やがて『女犯』や『ボディコン労働者階級』を宮台真司や高橋源一郎や速水由紀子が称賛し、朝日新聞系メディアの『RONZA』や『AERA』までもがバクシーシ山下をAV界の鬼才として祭り上げていく。ちなみに、速水由紀子は当時、宮台真司と交際しており、桜井亜美の筆名で援助交際をネタにした稚拙な小説を書いていた。
そしてこれも同書で引用されている中里見博師匠の文章の孫引きになりますが(「朝日文化人」としてのバクシーシ山下)。「絡みを終えた女優のプライドは、ずたずたに引き裂かれ、中には泣いたり放心状態で動かない者もいる」と指摘しながら、その問題性については一言も述べることなく、逆に「彼〔山下〕は女を欲望の対象ではなく、独立したキャラクターとして撮る。フェミニズムには歓迎されるべきですよ」(太田出版、北尾修一)とか、「彼は欺瞞を剥いで自分の生理に忠実なAVを作った」(山下と「交友を続ける」社会学者、宮台真司)といったデタラメとしかいいようのないコメントを紹介して締めくくっている
(『ポルノグラフィと性暴力 新たな法規制を求めて』114~115p)。
この中里見師匠はドウォーキン大好きっ子のフェミ騎士であり、彼のスタンスには一切、同意ができません。
また上を読めば非道い話だとは思うものの、再三繰り返すように、問題は女性との契約時にちゃんとした説明があったか(同意があったか)否かでしょう。
しかしそれとは全く別個の問題として、北尾は当たり前としても宮台師匠、速水師匠がこれら作品を称揚していたというのはなかなかにショッキングでした。
もう一人、高橋源一郎師匠(何か、少女漫画に詳しいことを自慢にしている評論家のおっさんです)が『週刊朝日』で『セックス障害者たち』を絶賛していたのにも驚きました。アダルトヴィデオが男性の性欲を昂進させるためにあるのだとしたら、彼の作品はアダルトヴィデオではあるまい。
(所収『退屈な読書』朝日新聞社・43~44p)
また師匠は、『週刊朝日別冊 小説トリッパー』における連載でも、バクシーシの作品に称揚の限りを尽くします。けれど、時々、タカハシさんは単にエッチであるのではないアダルトヴィデオにもぶつかる。
単にエッチでないどころか、ガンとやられるやつにもぶつかる。そして、ほんとに時々、頭が真っ白になるやつにだってぶつかる。
(所収『文学なんかこわくない』朝日新聞社、1998、101p)
この「タカハシさん」というのが誰なのかわからず、一瞬考え込んだのですが、ハタと「自分で自分をそのように呼んでいるのだ」と気づき、その尋常じゃない痛さ加減に思わず悶絶しました。
(この後、タカハシさんの311の震災を材に採った社会風刺小説『恋する原発』についても説明がされるのですが、これまた麻酔なしの歯科手術レベルの痛さ)
(以上、タカハシさんについては「「朝日文化人」としてのバクシーシ山下」)先の平野は出演者の女性に告訴されたようなのですが、呆れたことにタハカシさんは平野をゴダールに準え、絶賛しています(「平野勝之『水戸拷問』と『監督失格』の間にあるもの」)。
ウソのような、ほんとうのような、本気のような、冗談のような、深刻のような、明るいような、暗いような、ただわかっているのは「エッチではない!」ことと映画への愛が溢れていることだけというこの超大作AVを見ながら、ぼくは、マンガやコピーを一つの(芸術)ジャンルとして成立させてしまったこの国で、ついにAVまでもがそんなジャンルに仲間入りをしてしまったのかと感心したのだった。
(「北野武もすごいが平野勝之もすごいぞ」所収『退屈な読書』朝日新聞社、190~191p)
――このタカハシさんの著作がいずれも「朝日新聞社」から出ていることにも、呆れます。
そう、朝日は女性への虐待の限りを尽くす狂った作品に対して、絶賛の限りを尽くしておりました。
(ただし、あまりに朝日が続くので、これはこれで電氏の意図があるのかも知れませんが……)
しかしそれは、考えてみれば不思議でも何でもありません。
朝日は自分の赤ん坊をフェラチオし、「将来は去勢したい」と口走るフェミニストの児童ポルノを「微笑ましい育児エッセイ」だと強弁し、ベストセラーにした過去があります。
そもそも(児童へのもの含む)レイプはかねてより、左派にとっては「正義」でした。
彼らが(児童へのもの含む)レイプを「体制への反逆()」であると勘違いしていたことについては以前も書きましたので、それを参照していただきたいのですが、そうした「勘違い」に「勘違い」を重ねた結果が、このような事態だったのだと言えます。
「サブカルの逆襲」と「萌えの死」(前編)それと何より、ここまでで引用されてきたタカハシさんの文章は、再三AVを肯定的に評しながら、「性欲を昂進させない」「エッチでない」と繰り返していたことにお気づきでしょうか。
どういうことか。
そう、タカハシさんは芸術家であらせられるバクシーシ山下様、平野勝之様の女へと虐待の限りを尽くすAVを「体制への反逆だから」お褒めになっておいでなのです(大爆笑)。
確かに、「残忍なAVもフィクションであれば認められるべきだ」というのは正論です。しかしその時に持ち出されるべきリクツは「需要があるから」、言い換えれば「そうしたものを好む人間も、犯罪を犯さないのであれば許されるべきであるから」といったものであるべきです。
上の飲尿動画で述べたようにそうした表現がそうした趣味の(男性はもちろん)女性を救済している面もあるでしょう。
しかし朝日文化人にかかっては、それに政治的な意味づけがなされてしまう。
そこがぼくには、たまらなく不潔に感じられます。
それは丁度、表現の自由クラスタの上層部であるサブカル文化人が、「萌え」に対し、親の仇以上に激しい憎悪を燃やしつつ、しかし「体制へと反逆する」口実のために味方のフリをしているように。
彼らがアニメに何の愛もなく、しかし同人誌の中でも版権キャラを陰惨に虐待するようなものにだけは、涎を垂れ流しながら飛びつくように。
タカハシさんは(否、左派文化人は全員)エロが大好きという顔をしていますが、当然、エロなど好きではない。彼らがエロの周りをうろちょろするのは、おっぱいの向こうにいるおまわりさんの制服でマスターベーションをしたいからでした。
近いことはいつも言っていますが、彼らがホモを神であるかのように称揚するのも、当然、それと同じです。彼らはホモを先のスカトロAVと全く同列に見なしており(いや、同列なのですが)だからこそ自分たちの警官の制服への欲情のダシとして、称揚していたのです。
一方、山下が自らの作を「フェミニズムに適った作」と称しているのも印象的です。
彼はまた、抗議してきた相手を「フェミニズム団体もどき」と称してもいます。まるで、表現の自由クラスタが「ヤツらは偽のフェミだ、真のフェミは善きものだ!!」と泣き叫び続け――そしてとうとう、オタクの支持を失ったように。
もうおわかりでしょう。
宮台がフェミニストの使途であることが雄弁に物語るように、彼らはフェミニストと仲よしのお友だちなのです。
彼らにとってフェミはポルノの味方として認識されている。もちろんそんな馬鹿なことはないのですが、上野千鶴子師匠が結婚していたことからもわかるように、彼女らも若い日には学生運動のバリケードの隅っこでは表現の自由クラスタのグルと「共闘」していた過去があり、仲よしだった。
だからフェミも、九〇年代のサブカルにおいては悪趣味・鬼畜文化に寄り添っていた。香山リカ師匠が「碧志摩メグは許せぬが、会田誠の女子高生を虐殺する表現は大勢への反逆()なのでおk」などとほざいていたことはあまりにも象徴的です。
それが近年、左派がフェミ的な価値観の方を重要視するようになってきた。
これには或いは、ぼくには窺い知れない大首領の深謀遠慮があるのかも知れませんが、ぼくの理解できる範囲内で想像するならば、やはり「フェミニズムの成果によって」若い女性の性的魅力を憎悪する女性が増えたから、フェミニズムが兵器として有効だとの判断がなされたからではないかと思います。
サブカルはそろそろ歴史を修正し、こうした自分たちの過去を「実はオタクの仕業だったのだ」と言い出し、性表現と共にオタクを葬り去ろうとする。
「そんな無茶な」と思われるでしょうか?
でもつい最近も、X上で小山田事件を批判していたサブカル陣営の方が、近いことを言っていました。彼は根本敬を舌鋒極めて批判しつつも、一体全体どういうわけか明らかに根本を擁護していたロマン優光については肯定的に語り、何より「オタクもまたサブカルのように残忍なものを好んでいたのだ」と強弁しだしたのです。彼には、本当にオタクの姿がそのようなものに見えてしまっているのでしょう。
小山田事件での歴史修正ぶりを見れば、サブカルの卑劣なやり方はもう、明らかなのです。 -
兵頭新児のレッドデータコンテンツ図鑑 ⑦タイムボカンシリーズ――歴史修正される、女ボス
さて、noteの進行度に追いつくための再録シリーズ。久し振りのレッドデータコンテンツ図鑑です。
今回はずっと前から言っていた「タイムボカンシリーズ」について。
また、先週、動画をうpしましたのでそちらもよろしく!
* * *――あのさ、思うんだけど今の若いヤツってドロンジョを「単に、フツーにいい女」と思ってんじゃね?
はい、ここでみなさん共感の嵐。
え? 全然共感しない?
困りましたな。
ほら、何かの広告ではブラックジャックと婚活してたじゃん。他にも転生もので主役の悪役令嬢を張ってるらしいですよ今は。
キャラデザは何と天野喜孝御大。美麗でセクシーなキャラデザインです。
声優は先日物故された小原乃梨子。のび太のイメージの強い方ですが、旧作『うる星』ではお雪さん、洋画ではブリジット・バルドーを持ち役とするなど、妖艶な美女も得意とする方です。
だから、今の人は峰不二子的な位置のキャラだと思ってるかもと。――と、まあ、タイムボカンシリーズについて書く書くと予告していたので、前々から以上のようなことを書き溜めていたのですよ。
ところが上にもあるように小原氏が亡くなられ、それをきっかけにまさにぼくが上に書いた通りのことをおっしゃっている御仁が現れました。
それも「若くてよく知らない」人ではなく、林譲治氏というSF作家さん。結構なお歳で、リアルタイム視聴者のはずなのですが。いや、まあ、一応、林氏の言うように、このキャラは「男を顎で使う女」の先駆けとは言えました。
しかし「ドロンジョは色を使わない」ってのは明らかに違うでしょう(もっとも、これは林氏とは別な方の意見です)。彼女は常にセクシーな衣装に身をまとい、自分の女を十二分に利用していました。
そんなわけで、「格好いい悪女」というキャラであるというのも一面の真実ではあります。
が!!
この人、それと同時に徹底的な道化でやられ役で負け犬のド雑魚なのですな。
毎回ヌードを披露してたけど、それすら(お色気を狙っているとは言え、同時に)ギャグとして描かれてたんで、滑稽なんですな。
というわけで、今回は小原乃梨子さん追悼の意味も含め、タイムボカンシリーズです。
本シリーズについて今までも言及しつつ、なかなか採り挙げられませんでした。
また、書きたい内容は以前から言っていることの繰り返し――つまり70年代後半、政治の季節が終わり、正義が曖昧化した「パロディ」の時代を迎えつつあった時期に登場した怪作――といった辺りなのですが……。
『アルベガス』、『レザリオン』はロートル作家がそうしたオタク的「パロディ」芸を真似ようとして失敗した、と評しました。
・兵頭新児のレッドデータコンテンツ図鑑⑥ 東映まんが祭り 光速電神アルベガスvsビデオ戦士レザリオン 空中大激突ところが『ゴレンジャー』、『ジャッカー』は(そのホンの数年前)、同じ脚本家によって書かれた、極めて先進的な「パロディ」的作品だったのです。
・兵頭新児のレッドデータコンテンツ図鑑⑤『ジャッカー電撃隊VSゴレンジャー』――80年代ニヒリズムを先取りした者たちそしてまた本作は丁度『ゴレンジャー』と同じ時期に始まった作品。
では果たして本作は、『ゴレンジャー』といかなる違いがあったのでしょうか……?ご存じない方も多いでしょうから、簡単にご説明します。
ただ、前にも言ったように今から全話見直すといった時間や金銭を投じる余裕はないので、あくまでかつて見た(再放送を繰り返していたので、それでも結構見ていました)記憶で書かせていただきます。
まず75年に始まったのが『タイムボカン』。
少年少女がコミカルなメカに乗り込み大冒険。ところが悪の三人組が、少年少女の追い求める秘宝を奪おうと、妨害を繰り返す。
以降、本作はシリーズ化し、後のシリーズでもこの基本ラインは大体、守られます。
ただ、実のところこの『タイムボカン』そのものは「ちょっとコミカルなヒーローもの」といった感じで、そこまではっちゃけた作品でもなかったのですが、次回作『ヤッターマン』により、シリーズのカラーが決定されます。『タイムボカン』シリーズと銘打たれてはいるものの、実質的には『ヤッターマン』シリーズとも称するべき作品群がこれ以降、続くのです。
では『タイムボカン』と『ヤッターマン』はどう違うのか。何しろキャラクターのシフト(少年少女の正義の味方に、三人組の小悪党は女ボス、頭脳派、肉体派の子分という布陣)も同じ、キャラデザも同じ。声優さんも続投するという徹底ぶりで、実質毎回同一人物が名前だけ変えて再登場していたようなものなのですが、それでも演出する側の意識のようなものが、『ヤッターマン』では根本的に変わっているのです。
それは「正義の、ドラマツルギーの、徹底的な無化」であり、おそらくこれは『ボカン』ではそこまで徹底されてはいなかったのでは……と。
これはまさに『ゴレン』の次回作『ジャッカー』のビッグワン編で戦いの戯画化がより徹底した形でなされるようになったことと、奇妙な合致を見せています。
ヤッターマンは登場時、「ヤッターマンのいる限り、この世に悪は栄えない!」と格好よく名乗るのですが、そこに悪党であるドロンボーが冷ややかなツッコミを入れる――そういう感覚は、『ボカン』ではなかった気がします。そもそも名乗りがなかったんじゃないかなあ……。
またヤッターマン1号2号はカップルで、戦闘時でもこの二人、身体が弾みで接触するなどすると「愛ちゃん好き」「私も」といちゃつき出す。「健全で明朗な正義の味方」というものを、スタッフは徹底的に馬鹿にしていたわけです(白黒時代から清廉な少年ヒーローを立て続けに演じた太田淑子さんがこの1号を演じているのが、また皮肉)。
一番特異なのは、毎回展開されるストーリーです。時代劇などでもこの種の作品、ヒーローや悪以上に、「悪に翻弄される毎回のゲストである庶民」が重要な役割を担いますよね。
ところがこれ、例えばですが以下のような具合。飲んだくれで妻子を蔑ろにしているオヤジ。ドロンボーに利用され、儲け話に手を出すも失敗。ヤッターマンの活躍によりそれがドロンボーの口八丁のデタラメと知り、妻子に泣いて詫びる。「俺が悪かった、これからは真面目に働くよ」。めでたしめでたし。
――以上の経緯を見守り、ヤッターマン自身も「よかった」などと喜ぶのですが……これらは全て茶番なのです! 劇中ではノーツッコミです。しかし見ている側はここにテンプレなドラマの空疎さを見て取り、笑ってしまうのです。――「ノーツッコミ」って、それはお前、スタッフはマジメに感動させようとして作ってたんじゃないの?
いや、そうじゃないんです。確かに、ひょっとすると理解できずに見ていた層もいるのかもしれませんが、明らかに、スタッフは茶番として描いているのです。
それは上にも挙げたヒーローの演出もそうで、一応悪役が「格好つけんなよ!」とツッコむものの、全体としては正義側はあくまで正義として描かれ、悪役は否定されて終わる。それでも見ている側はその「正義の空疎さ」を感じ取ってしまうのです。これは同時に悪役の描かれ方を見ることで、より明快になるかもしれません。
『ボカン』における悪役ガイコッツ(これは彼らの操るメカの呼称とされることもありますが、同時にチーム名でもあるんじゃないかなあ……)も、ドジな小悪党であり、憎めない悪役、それが、大の大人にも関わらず毎回少年少女のヒーローに敗北を喫するところがギャグになっていました。
ところが『ヤッターマン』では悪役チーム、ドロンボーの上に立つ正体不明の首領ドクロベエが配され、三人は「しがない下っ端」といった性質を持つに至ります(さらに後期作になると会社員という設定を配されることもあり、これは『ガンダム』がそうであるように当シリーズも三人組に「サラリーマンの悲哀」を見て取る「リアル系」へと変貌していったということなのですが、その辺りの作品は、個人的には今一です)。
ともあれ、ここら辺りから「大人の悲哀」こそが少年少女のヒーローの照り返しを受けて強調されることとなり、それこそが作品の売りになっていくのです。
頭脳派のボヤッキーは折に触れ「(今は都会で悪党に落ちぶれているが)故郷の会津若松には恋人を残してきている」と嘆きますし、何より女ボスのドロンジョはとにもかくにも結婚ネタでいじられます。例えば、ヤッターマンにやられた時のボヤッキーとのかけあい。「これはお前の作戦ミスだよ!」
「あたしが作戦ミスならあんたオールドミス」
えぇと、ひょっとすると「オールドミス」がわからない方もいるかもしれませんが、ようするに「嫁のもらい手がなく、ババアとなっても独身の女」ってことですね。
他にも後期作(『ゼンダマン』辺り……?)でも悪役のテーマで「結婚したい!」「相手がいない!」といったかけあいがありました。
本シリーズの(小原氏演ずる)女ボスは確かに美女として描かれ、『ボカン』の女ボスであるマージョは企画書で明確に「ウーマンリブの信奉者」と書かれており、男たちを顎で使う女傑です。
しかしそんな女性だからこそ結婚ネタ、年齢ネタ、即ち女としての欠落が嗤われていたわけだし、同時にからかわれて恥じらうところが大いに可愛げとなっていたわけです。
このオールドミスいじり、昭和の時点で急速にタブー化していき、何だったか、『名作劇場』の後期作でオールドミスキャラが出てきた時、「今時ありなのか」と驚いた記憶があります。
もちろん、現代社会においては、「オールドミス」という言葉自体がわからないのではと書いた通り、それはもうタブーと化して久しい。
林譲治氏の言もそれと同様、ポリコレに対応してドロンジョの一面だけを評価する、バイアスのある見方です。
しかし果たして、それは女性にとって幸福なのでしょうか。
水着撮影会が中止になることで女性モデルの仕事が奪われるのと同様に、(本当にオールドミスとからかわれ、傷つく女性がいる一方)それが一律に禁じられることは、単に女性が「可愛げ」を発揮するシーンを奪われる、「女性の仕事を奪う」ことでしかないでしょう。
繰り返す通り、『うる星』は「男性性の否定」をテーマとする作品と言っていい(余談ですが、同時期にアニメ化された『じゃりン子チエ』のテーマもまたそれであり、何とアニメの音楽担当が同一人物なのですな)。
面堂終太郎は完全無欠の二枚目がギャグを演じるというパターンの先駆けと言えました。いえ、縷々述べてきたようにヤッターマン1号も近いキャラなのですが、文武両道、金持ち、二枚目とスペックを積み上げた挙げ句ギャグで落とすというのはあまり先例はないはずで、ともあれここでは男性性が徹底的に茶化されている。
ところが本シリーズではそれよりも数年前に、女性性を茶化していたわけです。基本、女性性とは神聖にして犯すべからずなもののはずで、その意味でこのキャラはかなりエッジなものなのですが、やはり悪役だからこそ、そうした変化球も許されたのでしょう。……もう一つ、ちょっと(ここでぼくが書かないと、永久に忘れ去られるであろうことを)書いておきましょう。
先に本シリーズを『ゴレンジャー』と同時期であると述べました。
そして『ゴレン』はご存じの方も多いでしょうが、紅一点のモモレンジャーを登場させた、変身ヒーローものの中でも(先例はあれ)女性の社会進出の先駆け、といえる作品でした。ここでしかしモモレンジャーは意外にプロフェッショナル然としており、あまり「私」は出さない(もっともこれは『ゴレン』そのものの作風でもあります)。
ところがやはり同年に『コンドールマン』という変身ヒーロー作品が放映されていました。川内康範原作で、主人公はゴリゴリに堅い(そう、まさに『ヤッターマン』でからかわれるような)当時としても古くさいキャラだったのですが、しかし敵の怪人であるレッドバットンというのが先進的だったのです。ご覧の通り、当時としては図抜けて可愛らしい、オーパーツとも言えるような萌え系の怪人。彼女があくまで悪の組織の作戦として、義賊のように装うという話があるのですが、そこで彼女は使命を差し置いて、義賊として民衆にちやほやされる快感に目覚めてしまうのです。
言うならば、彼女は悪役でありながら「悪の正義」にすら忠誠を誓わない、「ドキンちゃんの十年前に登場したドキンちゃん」だったのです。
そして、これは実のところ、ドロンジョにもあった特徴なのです。
多分当時観てたみなさんもお忘れだと思うのですが、ドロンジョ、ガンちゃんが好きなのです。
「ガンちゃん」というのはヤッターマン1号、主役です。上に書いたように1号には2号のアイちゃんという彼女がいるのですが、その正義の味方に、ドロンジョは横恋慕しているのです。年齢差、十五くらいあると思いますけどね。
最終回ではドロンジョがガンちゃんへの愛情から悪党人生に嫌気が差し、そのためドロンボーが瓦解する様が描かれます。
即ち、彼女らは悪のサークルのクラッシャーであり、女というものが、悪なり正義なりといった理念を超越したところで動いている存在である、ということが、ここでは語られているのです。これは丁度『キカイダー』の人魚姫ロボットの時にも申し上げたことですね。
・兵頭新児のレッドデータコンテンツ図鑑②『キカイダー』シリーズ 長坂秀佳――ホモソーシャルの作家(この種のキャラの元祖はテレビ版『バットマン』のキャットウーマンがバットマンを愛するようになる……という辺りでしょうか)
八十年代、「物語の喪失」と共に、ヒーローの正義は形骸化した。ところが「悪の正義」すらもが実のところ形骸化していることを、ドロンジョは描いて見せた。
そして九十年代。専ら女性が「悪」として描かれる時代が現出した。いや、これはちょっとオーバーに言いましたが、以前『スパロボV』について語った時に書きましたよね。『マイトガイン』の明らかにキャットウーマンを意識した女賊カトリーヌ・ヴィトン、『GS美神』のピカレスク的ヒロイン美神さん、他にはタイムボカンシリーズ的なテイストの『ゲンジ通信あげだま』の男子小学生が正義のヒーロー、そのクラスメイトで小学生離れしたプロポーションを持つ女子、九鬼麗が悪玉であった図式などが思い浮かびます。この時期に、「世界征服」といった明確なヴィジョンを持つ「悪の正義」は失われていた。
そこで(ある意味、しょうことなしに)「女のエゴ」が「悪」そのものとなった。
ドロンジョは実のところその「どうしようもなさ」(何しろ、最後に組織を瓦解させてしまう)までをも、描破していた。そして観ていたはずの人たちもそれから何一つ読み取らず、いまだ「女に顎で使われたい」とか言っているのでした。
めでたしめでたし。
1 / 156