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  • 敵の死体を兵器利用するなんて、ゾンビマスターみたいで格好いいね!(再2)

    2025-03-21 19:5813時間前
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     次の日曜、弱者男性論についてのイベントをやります。
     ご興味のある方は、以下をチェック!

     イベントやるよー!

     さて、また(再2)というビッグな手抜きです。
     もっともこの記事の再掲も三年ほど前なんで、まあいいかなと。
     実はオタク論関連のマガジンを作りたくて記事の再掲を続けているのですが、ならここで『電波男』について語っておくべきと思いつつ、その時間が取れず。
     んで、この結果となりました。
     元は2015年11月28日に発表されたもの。

     近年、「フィクトセクシュアル」という(捏)造語による「オタクをセクシュアルマイノリティの一派に位置づけようという政治的目論見」がやたらと目立ちますが、これもまた、オタクを自らの駒にするためのサブカル、リベラルの一環ですよってお話です。
     では、そういうことで……。

     *     *     *

     当ブログではこの夏を通して、「男性学祭り」を執り行ってきました。
    「男性学」とはやや乱暴に表現すれば、渡辺恒夫という男性学の提唱者を殺し、その死体の上で行われている宴でありました。
     神話には神様や巨人の死体から食物や国土が生まれてくるパターンがあり、死体化生神話などと呼ばれているのですが、何だかそれを連想する話です。
    『ウルトラマンタロウ』で時々「キノコの怪獣をやっつけるとその死体からマツタケが湧いてきて、防衛隊の隊員がそれを美味い美味いと食う」みたいなのをやってましたが、これは意識的に神話を模倣していたものと思われます。
     ――えぇと、取り敢えずそれはどうでもいいんですが。
     ともあれこの祭りにおいてぼくが申し上げたかったのは「男性学に騙されるなかれ」との、ただ一言です。
     そして今回はそれに引き続き、本田透の死体の上で執り行われつつある宴についてご報告し、それに騙されるなとのご注進を申し上げたいと思うのです。

     ここしばらく折に触れて指摘していることですが、ネット上では時々「オタクをセクシャルマイノリティの一カテゴリーとして位置づけよう」という目論見にお目にかかります。
    「オタクィア」とか「二次元性愛者」といった造語がそれに当たりますね。

     オタクとは、アニメや漫画のキャラクターに性的欲望を抱く存在だ。

     なるほどなるほど、確かにその通りです。

     だから、生身の人間に欲望を抱く三次元性愛者に対し、彼ら彼女らは「二次元性愛」というセクシュアリティを持った、セクシャルマイノリティなのだ。

     え?
     そ……そうだったのか……?
     何というか、ちょっとヤバいヤツにいきなり、「お前の前世は織田信長だ」とまくし立てられた気分です。
     相手はテンションマックスでこちらの前世について語ってくれるのですが、こっちとしては心の底からどうでもよくて、頭の中は今夜の夕食のメニューや花澤香菜のことで占められていくばかり――といったシーンをつい、連想してしまいます。
     言うまでもないことですが、オタクはセクシャルマイノリティなどでは、ありません。
     確かに、二次元は至高です。
     三次元はクソです。
     それは人類の辿り着いた絶対普遍の究極真理であり、これより以降も覆ることはありません。
     しかしそれは「真理」であって「セクシャリティ」ではないのです。
     いわゆる萌えオタの中に、三次元の女性に一切の興味がない者がどれだけいるのかとなると、いささか疑問です*1。例えばですが、「眼鏡っ娘フェチの人が眼鏡っ娘以外の女性には全く性的興味を覚えないか」という比喩で考えればわかりやすいでしょうか。或いはまた、「ぼくたちが“守備範囲”とか“属性”とか言う時、その範囲外には全く性的興味を覚えないか」と言い換えてもいいかも知れません。
     こう言うと彼らは「いや、バイセクシャルが同性にも異性にも性的興味を覚えるように、二次元と三次元の両者に興味のある者がいてもよい」或いは「真性のサディスト、マゾヒストでなくともサディスティック、マゾヒスティックな心理を持ったり、そうした要素を含む性行為に及ぶことはある」といった反論をしてくることが予想されます。
     しかし、それは違います。
     ぼくが最大限にリスペクトし、当ブログでも度々名前を出す本田透氏は二次元の三次元に対する優位性を説きました。が、ある人物はその主張を

     モテないからと言って、女性に対してテロ行為に出てはいけないよ。

     というものであると端的にまとめていました。
     そう、確かに本田氏の著作を読んでいると度々「モテない男の、現実へのテロ」への危惧が言及され、萌えこそはそんな男を救う道であると説く場面に出食わします。例えばですが『電波男』では『タクシードライバー』の主人公のテロ行為を、「非モテ故の行為」であると解釈しています。
     しかしそうした文脈では当然、萌えキャラがある種の「現実の代償」であるという価値観が前提されているわけです。
     ですが、ところが、いつも繰り返す通り、本田氏は今ではすっかり忘れ去られた存在になっています。
     後期の著作ではバッシングを受けていることを暗示する記述もあり、そうした誹謗中傷や恫喝に耐え兼ねて、表舞台から去ったのでは……との推察もつい、してしまいたくなります。上に「殺した」の「死体」だの繰り返したのも、そう考えると満更過剰な比喩とも言えなくなります(渡辺恒夫氏もまた、フェミニストたちからのバッシングに苦しめられたことを匂わせる発言をし、表舞台から去った人物です)。
     そして、そんな本田氏を殺した上で、彼らはその死体を踏みつけにして、「闇の大首領様」に対しておもむろにこう言い出したのです。

     貧民どもが牛丼で満足しているのと同様、きゃつらは二次元で満足してございます。

     きゃつらはjpgを与えておけば結婚とかしなくても幸福だと申しております。

     本田氏の主張はモテない者の、しかしそれに耐えていこうという凜とした宣言でした。
     その死体の上で、本田氏の悲しみも辛みも全て踏みにじった上で、彼らはそんなことを言い出したのです。
     彼の「心」はないものと切り捨てた上で、「でもそのロジックは使えんじゃん」とばかりに一度埋めた屍体を掘り返し、リサイクルし出しているのです。それは丁度、『エヴァ』以前はオタクを見下していたにもかかわらず、目下はオタクの味方を演じている人々と全く、同じに。
     海燕師匠が「オタクはリア充だ、何となればリア充でなければならないからだ」と言い募っていたことを思い出します。ちなみにぼくがこの海燕師匠に対する反論をブログに書いた時、大炎上してしまったのですが*2、どうも話を聞いてみるとブログを荒らしていた人たちはかなりの比率で、「オタクはリア充である」論を兵頭新児自身の主張であると思い込んでいたご様子です。
     それは、例えば為政者が山田鷹夫さん(『不食』の著者で、人は食べなくても生きられると主張している人物)をスラムへと連れていき、バタバタと餓死している人間を見下ろしながら「餓死なんてあり得ないですよね、寝てるだけですよね」と頷きあっているようなものでしょう。
     そう、目下、左派の間で牛丼を食っている愚民たちに対してウナギやメロンを食いながら「脱成長」を説くことが流行っていますが、それとこれとは全く、同じなのですね。
     いくら何でも、言葉を失ってしまうほどの、容易には信じがたいほどの、地獄の鬼も震え上がるであろうほどの、残忍さです。

    *1 ただし、女性、或いはセックスそのものに対する嫌悪感から、女性との性交渉を拒む者はある程度多いかと思います。しかしそれは「セクシュアリティ」とは違うでしょう。
    *2「海燕『ほんとうはリア充なオタクたち。クリスマスを前に多様化する「幸福のかたち」を考える。』を読む。」(http://ch.nicovideo.jp/hyodoshinji/blomaga/ar26499

     ――さて、ところで、ちょっと順序が前後するようですが、ここで申し上げておきましょう。
     上に挙げた「オタクィア」というのは、小谷真理師匠の造語かと思われます。『網状言論F改』に所収された「おたクィーンはおたクィアの夢を見たワ。」がその初出ではないかと恐らく、思います。
     ただ、上の小谷師匠の論文では、タイトルに反して実のところ「オタクィア」という言葉の実質については、大して語られておりません。
     また、「おたクィア」「二次元性愛」といったワードをネット上で検索しても、これぞといった記述を見つけ出すことができませんでした(何しろ「おたクィア」で調べると、ぼくのブログの昔の記事*3がトップに来ます!)。
     そのため、上に挙げた「オタクィア」「二次元性愛」の概要はあくまでぼくが記憶によって書いたものであることを、お断りしておきます。
    「萌えフォビア」といった造語や、また「リベラル/ラディカルフェミニズム」に対するデマが積極的にウィキに書き込まれているのに比べ、いささか後手に回っている印象です。
     しかし、とは言え、だからこそこの論調、これから盛んに言われ出すだろう……という気が、ぼくにはしているのです。それは丁度、忘れ去られていた「男性学」が復活したのと、全く同様に。

    *3『男性学の新展開』(http://blog.goo.ne.jp/hyodoshinji/e/42ed34b541bfa0ee2eb51ce4814b160e

     これには恐らく、「アセクシャル」という概念の一般化が関連しているものと、ぼくは想像します。
    「アセクシャル」は無性愛者の意で恋愛感情を抱かない、或いは性的欲求を抱かない人のことを指します。
     そうした人々がいることは否定しません。
     ていうか、知識がないのでそれに対して断定的なことを言おうとは思いません。
     しかし例えばですが、ツイッターのプロフィールで性同一性障害を匂わせている腐女子の全員が本物の性同一性障害者かとなると、疑問を感じずにはおれないのと同様、アセクシャルを自称する人々の自己申告が100%信じられるかとなると、やはりそれは疑問と言わざるを得ないでしょう。
     そして、この概念が(ある種の思春期の病的な)自らのジェンダーに対する、セックスに対する嫌悪へのエクスキューズとして働く作用があることもまた、どうしたって否定はできません。
     そうした「性欲を持たぬ聖なる存在」としてアセクシャルを持ち上げることと、自らを「三次元への欲望を抱かぬ二次元性愛者」としてプロデュースする心理は、「完全に一致」しているのではないでしょうか。
     もう一方、忘れてはならないのは、こうした概念を持ち出したがる人々は往々にして「恋愛至上主義はけしからぬ」といった主張をする人々と重なる、ということです。

     ――ん? それのどこが悪いのだ? 本田透も「恋愛資本主義」を批判していたではないか。

     いえ、それは違います。
     本田氏のスタンスは、まず恋愛を良きものとして前提した上で、現代の形骸化した愛を嘆くというものです。
     しかし彼らの「恋愛至上主義」を否定しようという動機の裏には、「それが男性支配社会の罠であるから」「家父長制へと絡め取ろうとするシステムだから」全否定しようとする強烈なフェミニズムのイデオロギーが潜んでいるのです。
     一部の人々にとって、彼らのスターであるLGBTの末席にオタクを加えていただくことは、大変な名誉なことなのでしょう。しかし客観的に見て、その話に乗っかったところで「恐らく十年くらいパシリやらされた挙げ句、隅っこにだけ座らせてもらうことしかできないんだろうなあ」という予感が、ヒシヒシとします。
     何となれば、同性愛者や性同一性障害者たちがあれだけ持ち上げられるのは、彼らが「名誉女性」だから、なのです。
     浅田彰師匠は「ホモは素晴らしい、そして男性ジェンダーを捨てた男たちもまた、ホモの一種である(大意)」などとどうにも能天気なことを書いていました。
     そこでフェミニストたちのお稚児さんになることを切望している人たちは、「よし、俺も」と思ったのでしょうが、肝心のフェミニストたちがぼくたちオタクを「男性ジェンダーを捨てた男」と認めるかとなると、どうにもそうは思えません。正直、その性行動を見ても、ホモ一般に比べてもオタクの方が「草食系」じゃないかなあと思うのですが、彼女らは一向にそのような指摘をする素振りを見せてはいませんから*4

    *4 上の『男性学の新展開』は実は田中俊之師匠の初期の著作です。ここで田中師匠が上に挙げた小谷師匠の文章を引用しつつも、「しょせんオタクはヘテロセクシャル男性の一カテゴリーだ」と言い捨ているのは、極めて象徴的と言わねばなりません。

     暗鬱たる気持ちにさせられる話ですが、最後にちょっとだけメシウマな点について。
     これまでの文脈からも想像がつくかと思いますが、この「オタク=セクシャルマイノリティ」論はフェミニスト自身と言うよりは、その理解者たらんとしている男性たちによって専ら、唱えられているような気がします。
     そう、その意味でこれもまた、「男性学」の一種と言えましょう。
     しかしその一方で、フェミニストたちはオタクが好きではない。
     ぼくたちが三次元の女性を求めず、二次元に引き籠もっていること自体が、彼女らにとっては「テロ」であると思えていることでしょう(正直にも、ツイッター上でそのように言っていたフェミニストもいたと記憶します)。
     彼女らがぼくたちに求める「性役割」は「自分たちが幾度も幾度も肘鉄を繰り出そうとも、それでも服従を誓い、靴を舐め続ける」ことでしょうから。
     しかし更にもう一つ言うならば、幾度も指摘している通り、「彼ら」の側もフェミニストたちのあまりのムチャクチャさにいい加減呆れ、彼女らへの批判を強めている。

     ツイフェミは偽のフェミだ、しかしどこかに真なるフェミがいるのだ、見たことはないが。
     ラディフェミは悪しきフェミだ、しかしどこかにリベフェミがいるのだ、見たことはないが。

     そう繰り返す「彼ら」もまた、フェミのロジックのおいしいとこ取りをせんとする、ゾンビマスターの一人でしかありません
     しかし、いずれにせよそうしたセコいマネは早晩、ムリが出てきます。
    「彼ら」に求められるのは「正しい死体遺棄」でありましょう。
     そう、これはフェミニストと、彼女らをガールフレンドにしているオタク界のトップとの、「価値観の不一致」の予兆と言えるのです。

  • ネットハイ(再2)

    2025-03-15 19:15
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     来週日曜、弱者男性論についてのイベントをやります。
     ご興味のある方は、以下をチェック!

     さて、今回も再録ですが、実は一度、noteでも再録したもの。
     まあ、それも四年前のことなので、今回は(再2)として再録させていただきます。
     これは唯人の動画でも採り挙げていますので、是非そちらも見ていただきたいのですが……。
     ともあれ、以下が再録部分です。

    *     *     *



     ……と言いつつ、ちょっと困っているのは、本作はネタバレが禁じられていて、内容をそのまま書けない、ということ。元のニコブロでは「バレ部分を白地にする(反転しないと読めなくする)」ことで対応していたのですが、noteって色替えできないんですよね。仕方ないのでこちらでは伏せるべきところは空白にしておきます。大体は見当がつくかと思いますが、気になる方はニコブロの方をご覧いただければ幸いです。

    *     *     *

     俺らがゲームに、なりました。
     いえ、去年の今日、11月26日、丁度一年前に発売したゲームなので、正確には「なっていました」(記事を書いた当時の日付です。発売は2015年になります)。
     それが今回ご紹介する『ネットハイ』。
     本作を一言で説明するならば、ネット文化、オタク文化を舞台にした『ダンガンロンパ』。いえ、どちらかと言えば『逆転裁判』の影響が大らしいのですが、ニコニコ生放送そのものが舞台に選ばれ、主人公と敵とのディベート中に聴衆コメントが流れる辺りはやはり、『ダンガンロンパ』的です(学級裁判でのガヤの声の演出も、ニコ動が着想の元になっていたと言います)。また、マスコットキャラの声はガチャピン、ムック(の声優さん)が担当しており、これもまたモノクマの影響が大きい。
     本作は膨大なフォロワー数を誇るリア充どもを、ド底辺な主人公が爆発させるというゲーム。「ニコ生における論戦で、ツイッターのフォロワーを競うディベートバトルゲーム」なのです。
     いえ、劇中では「ツイッター」に近しい「ツイイッター」というのが登場するのですが、面倒なので本稿では「元ネタと思しい」サービスの名前をそのまま書いていきます。ご了承ください。
     それともう一つ。
     本作はネタバレ禁止とされています。
     しかし正直ネタバレなしに本作の面白さ、深さ、素晴らしさを批評することは困難です。
     よって今回は体験版として公開されている第一話は置くとして、それ以降については、キーワードを空白にすることで対処しました。
     ネタバレしても面白さを損なうゲームではないと思いますが、以上のような次第ですので、どうぞご了承ください。

     さて、本作におけるディベートは「ENJ(エンジョイ)バトル」と呼ばれるのですが、主人公は敢えて「爆発炎上バトル」と呼称します。というのもリア充どもを「炎上」させ、「爆発」せしめることが、このゲームにおける目的だから。そう、「オタク」という言葉を「非リア」と読み替えることで、そのバトルをある種の階級闘争に準えたのが、本ゲーム。
     何しろ国家が「ネオ・コミュニケーション法」を施行、人々にツイッターアカウントの所持を義務づけ、フォロワーの数でヒエラルキーが決まってしまう、というのが本作の世界観なのですから。フォロワーがゼロになった者はアカウントを凍結され、「Zランク」にまで落ちてしまいます。これは実質的には社会的な死。「Zランク」は俗に「ゾンビアカウント」と呼称されるのです。
     ぼくの想像なのですが、恐らくこの世界観の根底には岡田斗司夫氏の提唱する「評価経済社会」の概念があります。他者の評価が数値化され、そうした「人気」の高い者がヒエラルキーを形作る「いいね!至上主義社会」。それは既にネット上では確立しつつあり、しかしぼっちでありコミュ障なオタクにこそ厳しい社会なのではないか、という疑問。それが本作のスタート地点にある気がしてなりません*1。
     もう一つ、ネタ元を勘繰るとするならば、『ゲームウォーズ』でしょうか。以前にも採り挙げたことがあるアメリカの小説ですが、近未来、ヴァーチャルリアリティの中だけが居場所の超底辺少年が日本の巨大ロボを操り大活躍、というお話で、ここで描かれる「SNS運営によって大衆が支配される超格差、管理社会」といったディストピア的世界観は恐らく、本作の元になっている気がします。
     アマゾンのレビューに秀逸な批評がありました。

    表面的にはリア充爆発というケツの穴の小さいテーマに見えますが、中身は全然違いました。

     そう、その通りなのです。
     今まで「オタクvsリア充」のバトルは「オタクという唾棄すべき存在の、やっかみ」という解釈のみが許されてきました。本田透は『電波男』で(当初は「チクショー、オタクが何したっていうんだよ!?」というボヤき芸を想定していたところを急遽、路線を変えて)「オタクは勝った!」と勝ち鬨を上げましたが、そんな危険思想がこの社会で許されるはずもなく、彼は存在そのものが「黒歴史」として葬られました。「女災」という概念を提唱した者もまた、しかりです。
     そんな絶望的状況の中、現れた第三の戦士、それが本作の主人公「俺氏」なのです。
     そう、本作は俺らのゲーム、なのです。
     繰り返しましょう。
    「オタク」ネタは、どうしてもそれを嘲笑しなければならない、という社会の「お約束」の前に、苦戦を強いられてきた。『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』、『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い』は主人公を少女化することでそこをクリアしましたが、今やオタクネタのコンテンツは『うまるちゃん』、『私がモテてどうすんだ』とみな一様に、女性向けのものに埋め尽くされてしまいました。ガガガ。
     そしてこれはむろん、「男性」全般に言える話です。ハゲは、インポは、ブサメンは、童貞は笑われなければ、なりません。
     先に挙げたアマゾンのレビューは、それを表しているわけです。ただ単にオタクがリア充をやっつけるだけというお話であれば、それはケツの穴が小さい。いえ、決して小さくはないはずなのですが、世間はそう見る。
     ならば、ぼくたちはどうすればいいのか。
     その答えを、本作は完全に提示しています。
     この「俺氏」はヘタレで気の弱いオタクですが、ある日、捨て猫をきっかけに、とある心優しい少女と会話を交わします。しかし彼女のツイッターはいきなり「炎上」、フォロワーがゼロとなり、アカウントが凍結されてしまいます。そう、ネット社会では日常茶飯事ですが、「こいつは悪者だから叩いていいのだ」と決まった者を、よってたかってそいつを晒しageて、集団でフルボッコにする。そうした様子を目の当たりにして、俺氏は「こんな腐ったシステムはぶっ壊してやる」と決意するのです。

    「必然的に観客もhimeのフォロワーの比率が多くなる
     最初から公平な戦いなんかじゃねえんだよ」
    「でも、それじゃあENJバトルってなんのために……」
    「そうだな……公開処刑ってところか」
    「こ、公開処刑……」
    「人気者に噛みついてきた無謀で愚かな人間を
     フォロワーという数の力でいたぶるんだ
     観客たちはそうやって火あぶりになってもがき苦しむ人間を
     画面の向こうで眺めて楽しんでやがるんだよ
     なにがエンジョイバトルだ
     それこそ炎上バトルじゃねぇか……!」

    「ちょっとばかり失敗したヤツをフォロワーの数にまかせて
     これでもかと叩いて笑いものにする
     ツイイッターじゃめずらしくもねぇ光景だ
     だけど、俺はそういうやり方が一番気に入らねぇ
     だから言わせてもらおう
     一緒になって叩いてるヤツら! そして見て見ぬ振りを
     しているヤツら! どいつもこいつも最低のクズどもだ!」


     フォロワーが四人しかいない俺氏ですが、現れた美少女型ナビゲーションAI「シル」と共に「ENJバトル」に殴り込み、圧倒的フォロワー数を誇るリア充どもへ、敢然と戦いを挑みます。

    ■中央が「俺氏」。右が宿敵「MC」。左がナビの「シル」。可愛いです。

     70年代、漫画やアニメの世界では、叩き上げがエリートを努力と根性でやっつけました。代表例は星飛雄馬と花形満ですね。
     80年代はそうしたドラマツルギーが徹底的に無化されました。これはフジテレビなど、リア充をも含めた全体的な流れだったのですが、そろそろリベラル君たちがこれをオタクの仕業であると歴史修正を始める気もします。
     90年代は本当の意味でのニヒリズムが蔓延し、シンジ君は戦いを拒否。
     ゼロ年代は夜神月が、そしてなろう的チート主人公が人気を得るに至りました。
     しかし10年代からは――と言っても、もう後半まで来てしまいましたが――再び「持てる者」へのカウンターが描かれる、70年代への回帰が始まるのかも知れません。
     ただ一つ違うのは、「努力と根性」という要素は相変わらずオミットされていること。それは仕方がありません。現代で「努力すれば報われる」と語っても、それはギャグにすらならないでしょうから。
     では、「俺氏」は何を武器に戦うのでしょうか。
     本作では、「愛」が敵と戦う武器に選ばれています。
     なぁんだ、と思われるでしょうか。
     この「愛」こそ80年代に空疎に振り回され、世の中をエゴイズムに染めてきた諸悪の根源である、と言いたい人がいるかも知れません。
     てか、そうした物言いは、(最近してないですが)以前、ぼくがよくしておりました*2。
     しかしまあ、待ってください。
     ここから先は更に、本作のストーリーを詳しくご紹介していく必要がありそうです。

    *1 本作一話では「食べログ」が登場。飲食店を逆恨みした者が不当に貶めるレビューを書き込む様が描かれ、「これもまた飲食店版のリア充ランキングだ」と語られます。
    *2 「兵頭新児の女災対策的読書・Rewrite」「Rewrite(その2)」など。

     俺氏は「リア充、爆発しろ!」「特定完了!」の決めゼリフと共にリア充どもの「正体」を暴いていきます。
     本作における「ENJバトル」、基本は相手のゴシップを集め、その正体を暴露するという、かなりゲスなものです。とは言え、まず最初に俺氏はこのシステムそのものを否定しており、「そうした手法を使わざるを得ない矛盾に苦悩しつつも、それによりシステムそのものを否定しよう」とするところにこそ、本作の醍醐味があるわけなのです。
     例えば、第一の敵、「Mrエリート」。
    「超一流」のブルジョワである彼は、90年代あかほりアニメのライバル役でよくいたような、何だかちょっとカマっぽいスネ夫キャラです。彼はまさにリア充のお約束の行動として、ディナーをツイッターにうpします。高級フレンチを食べたとドヤ顔なのですが……ん? よくよく見ると何だかコラ画像のような……ENJバトルで、彼が本当に食べていたのは牛丼であったと暴露されます。まさかこれ、内田樹師匠と古市憲寿師匠が元ネタになっていたり……しないよなあ?
     案の定、Mrエリートの正体は単なる牛丼屋のバイトでした。イケメンのアバター(?)とは裏腹に、本人はデブなキモオタ。
     しかし、本作の秀逸なのはここからです。Mrエリートは牛丼をバカにされ、本人の「牛丼愛」故にそれを看過できず、正体を現してしまう。俺氏はそんな彼の牛丼愛を讃えるのです。
     何となれば、俺氏は愛を武器に、戦うのですから。
     とあるブログで「俺氏は相手に同情も、ましてや嘲りもしない、敬意を持って臨むのだ」と評していた人がいました。まさに「それな」です。
     以降も次々と現れるリア充どもの正体を暴くことで、俺氏はバトルを勝ち進むのですが――ここで更なるネタバレをしておくと、本作のもう一つのすごさは、その女性観のシビアさにあります。
     Mrエリート自身は男性ですが、彼のパートナー「部下子」は「意識高い系OL」。
     彼女は俺氏がMrエリートにとって不利な客観的事実をツイートすると、猛然と噛みついてきて「ツイートを消せ」「訴える」「弁護士と相談している」と恫喝を始めます。
     本作は俺らの、ゲーム化です。
     本作は「推理ゲーム」をフォーマットにしてはいるものの、あくまで「民意誘導」こそがその目的(何しろシステムの中に「民意先導スピーチ」というものがあります)。論理の整合性に重きが置かれているわけではありません。だからこそ女性対戦者は「女子力」をもって戦いを挑んできます。彼女らはみな一様に被害者ぶり、或いは色仕掛け、「私のことが好きなの?」と主人公に問うことでバトルを乗り切っていくのです。
     第二話の対戦者himeが「誰かhimeを守って!」「himeを守ってくれる王子様はどこ?」と続け、俺氏に対して「ひょっとしてあなたが王子様?」と迫る展開は、敵ながらあっぱれです。
     ちなみに第二話のタイトルは「ウソつきは姫の始まり」。もうこれだけで「はは~ん」となる人がいるのではないでしょうか。このhimeは日本のオタク文化を愛し、ユーチューバーとしての知名度を誇るブリュンヒルデ王国から来たお姫様。「クールジャパンを愛する異国の姫」というのが既にオタク心をくすぐる設定で(そんなの、宇宙からやってきたぼくのことを溺愛してくれる美少女、といっしょですもんね)、当初は「少女の憧れである魔法少女アニメが好き」と語っていたところを「魔法少女は少女のためだけのものではない」と反論され、「深夜の、ちょっとエッチな魔法少女アニメ」も好きであると語ることで支持を挽回する下りは見事です。そう、俺氏が指摘するようにぼくたちは「アニメには夢がある」など一遍通りなことを言う「にわか」を何よりも憎みますが、そこを「あなたたちの愛する、欲にまみれた深夜アニメをも、受け容れる」と言われたら、「あぁ、本当に俺たちのことをわかってくれるんだ」となって、一発でメロメロになっちゃいますよね。
     そして彼女は最後に「           」という正体を現します。
     彼女の取り巻きである「騎士くん」は彼女を守ると称して(彼女に不快感を与えた者へと過剰な報復行動に出るなど)暴走を続けていました。俺氏は「仮にそれが姫の命じた行為ではないにせよ、男たちの歓心を買い、彼らを操縦していたことで責任は免れない」と憤ります。そんな彼女が「どうしてみんな仲よくできないの?」を連発することで俺氏の戦意を削ぐ戦術を使っていた(口先では平和を謳いつつ相手の攻撃を続けていた)ことがまた、見事。ここでは「女性性」、即ち「受動性というジェンダーが持つ攻撃性」が十全に描かれているのです。
     最終的に、彼女はアバターを暴かれ、本来の姿を現します(アバターを剥ぎ取り、相手の正体を「特定完了」することが本作のクライマックスです)。王冠を被り錫杖を手にした異国の金髪の姫が、「姫と呼ばれたかったーーー!!」と絶叫しながら、ネコ耳に魔法少女ステッキを手にした、ルックスも微妙でボディラインもたるんだ「いまいち萌えない」正体を現す様は悲惨でもあると同時に、しかしその「残念さ」に萌えてもしまいます。結果、彼女は                            に戻るのです。

     第三の敵はボカロ。とは言え、本丸の敵はこのボカロを操るプロデューサーであり、俺氏は彼と、オタク文化の尊厳を懸けた戦いを繰り広げます。ここで語られるのは、「愛もないくせに、金の匂いを嗅ぎつけ、外から俺らの業界に入ってきたものへの違和」。

     まさか、こんなテーマを語ることが許されていようとは、ぼくは夢にも思いませんでした。何しろ現実のオタク世界を支配する「運営」は、オタクたちがそんなことに疑問を持つことを厳に禁じています。思想犯は矯正されるか、アカウントを凍結されるしかありません。しかし俺氏はオタク文化に愛のない者へと、果敢に噛みつくのです。
     本作は俺らの理想を描いた、ゲームです。
     もっとも、このボカロもまた、「いろいろあって、リア充界から都落ちしてオタク文化にすがるようになった」切ない正体を現すのですが……。
     第四の敵は「ギャル」です。「スウィーツ()」とか「携帯小説」といった表現はさすがに古いからか表には出ませんでしたが、要するにそういう感じの人物。「オンナのコわ、もっとワガママでいいと思う」という彼女の「恋愛脳」から発せられるワードはその理解不能さで俺氏陣営を苦しめ、一方、彼女の著作に感化された女性たちは「モンスター女子」としてネットにもリアルにも夥しい被害をもたらしています。ツイッター上で萌えキャラが叩かれる描写も(ちょっと抑えたものですが)あり、これが実際のいかなる事件をモデルにしているかは明らかです。

    「女子はか弱い。女子は守られなければいけない
     そんな考えがどんどん過激にエスカレートしていって
     ついには男子が女子のために尽くすのは当たり前
     女子のために尽くすことが男子の幸せだ――
     そんな思想を持って男子を虐げるようになってしまったんだ
     今や女子たちはモンスターそのものだよ」

     本作は俺らのゲームです。
     このギャルのもう一つの決めゼリフである「愛があれば、言葉なんてなくたって気持ちは通じる」に対して、殊更に俺氏は批判的で、男女のディスコミにおける女性の「ムードでわかれ」圧力が、オタクにとっては極めてムチャ振りであることが、ここでは十全に描かれるわけです。
     さて、ではこの「ギャル」がどうなるかというと――みなさん、そろそろおわかりになってきたかと思います。
     対戦相手の正体は例外もあれど、ぶっちゃけてしまえば、みな「非リア」でした。だからこそ正体を現した相手と俺氏とは和解し、友情を育んでいく。作品として非常に後味のいいものになっているのです。
     このギャルの彼氏は非実在であり、そして彼女の正体は――あぁ、やっぱり   だったか! そんな「   」しようとしていた彼女が   としての生き方を取り戻すことが、本話のテーマだったのです。
     また、彼女のケータイ小説は映画化などがされるにつれ、スポンサーの意向に振り回されるようになったと描写され、そのスポンサーである企業こそが悪ではないかとも暗示もなされ、「ラスボス」への伏線を張ります。

     第五話は、中でも一番、女性へと辛辣な話でしょう。
     対戦相手はイケメンアイドルなのですが、ここでは実際の事件をモデルにした「バンビーナ事件」というものが描かれます。「バンビーナ」とはこのアイドルのファンである女性を総称する言葉なのですが、かつてこのアイドルの(正確には彼がかつて所属していたグループの)ライブが急遽中止になり、地方から上京してきたバンビーナたちがコンビニや行政に食事や宿泊場所を無償で提供せよと主張、またバンビーナを狙う性犯罪者がいるなどのデマまでをも流してしまう、といった事件が起きていたのです(彼女らが「か弱いバンビーナを守れ!」と自ら発信していたというのがまた、見事)。それ以降、バンビーナたちはタチのよくないファンとして暴走することになってしまったのです。
     本作は俺らの住む現実世界の、ゲーム化です。
     また、このアイドルは同時に俺氏の幼なじみでもありました。
     俺氏の非リア、コミュ障は、元を辿れば小学生時代の金魚殺しの冤罪を着せられた過去に起因します。
     証拠もなく俺氏を犯人として糾弾するクラスの一同。その吊し上げ、糾弾会の様を、俺氏は「今思えばネットの炎上に似ていた」と述懐します。

     が、そこをただ一人、幼なじみは俺氏をかばってくれました。二人の友情はそれをきっかけとしたものでしたが――ENJバトルの場で、衝撃的な真実が明らかになります。実は                でした。「俺がこいつの味方をしてやったら、女どもは俺のことを優しいと言うのだ。証拠もなく犯人と決めつけた相手に『死ね』と罵詈雑言の限りを尽くしたその口でな!」。

    「傑作だろ! オマエに「しね!」と言った口で
     今度はオレに「好き」だとかぬかしやがるんだからな!」

    「今世紀最高のイケメン、オンナたちバンビーナと呼び
     数え切れないオンナを抱いた肉食獣!
     だが、本当の肉食獣はそのバンビーナたちだった!」

     本作は俺らの、ゲーム化です。
     ここではイケメンアイドルの女性への失望がイヤというほど描かれます。
     彼は虚飾の世界に疲れ果てたアイドルという「正体」を晒し、退場していきます。いえ、現実の世界では「女性を罵るイケメン」はミソジニストと呼ばれることも決してなく、充分に需要があることでしょうが……。
     アイドルの明かした過去の事実には、女性性のリアルがこれでもかというくらいに描破されています。
    「『死ね』と言ったその口でイケメンのことは『優しい』と言う」。
     残念なことに近い事例は世間のあちこちで見ることができますが、これを分析するならば、「判断を強者に委ねた者」「観客であることを許された者」故の無責任さである、とまとめてしまうことができます。
     そうした匿名性、受動性は女性ジェンダーのネガティビティでもありますが、同時にネットの特性でもあります。
     本作は何よりもそうした匿名性をこそ、受動性をこそ「悪」であると厳しく告発しているのことが、おわかりになるでしょう(考えれば『絶対絶望少女』のテーマもまさにこれでした)。
     この五話を最後に、本作は以降、最終編へと突入していき、「女災」的テーマからはいったん、距離を置きます。しかしラスボス戦においてすら、俺氏はこの「リア充至上主義社会」、否、実のところフォロワーたちのリアクションが、「いいね!」を押す者が主導権を握っている……えぇと、ポピュリズム社会、みたいな形容でいいのかなあ、ともかくそうしたものの裏を掻く「邪道」で勝利を収めるのです。

     そして、もう一つ。
     先にぼくは「俺氏」は愛を武器に戦うと述べました。
     しかしその愛は、「リア充」の言う愛ではない。
     オタクが愛と言う時、オタク文化への愛を指すことが多く、そのニュアンスに独特のものがあることにお気づきでしょうか。それは「自己愛(ナルシシズム)」と言い換えてもいいでしょうし、「ライナスの安心毛布的なものへの愛」と言い変えてもいいでしょう。ぼくは時々、オタク文化を「裸の男性性」と形容しますが、要するにオタクのキャラやコンテンツへの愛情は、自らの内面への愛情だとも言い得るわけです。
     自分を愛することをタブーとし、女性に全ての愛を捧げよと命じられた男性が、フェミニズムによる社会動乱に乗じて、とうとう自分自身を愛するガジェットとして、萌えというものを発明した――それが、オタクの言う「愛」の実体です。
     先に「俺氏は敵に敬意を持って臨む」との意見を引用しましたが、Mrエリートが牛丼を愛しているからこそ俺氏は彼と友になり、またhimeが「          」である点については厳しく糾弾しますが、          がある一面に対しては、リスペクトもします。
     俺氏は「いいね!至上主義社会」を基本的に否定していますが、オタクの愛を信じることで、民意を自分側に向けさせもするのです。オタク文化をバカにしたMrエリートを批判することで流れを変える展開など、その好例ですね。

     今まで貼ってきた画像をご覧いただければわかるように、本作のキャラクターデザインは「島本和彦」系です。実際、ファンの中にはデザイナーさんを『グレンラガン』の人だと信じ切っている人が結構いるようです。
     島本和彦先生と言えば、もう彼自身を語るのに別な記事を五つも六つも書く必要が生じてしまう作家なのですが……要は「男性性というものが否定されてしまう状況下で、一度、男性性を笑いのめし、しかしその中から立ち上がっていこうという実験をした作家」と定義することができましょうか。
     本作もまたその魂を受け継いでいます。
     ぼくは以前、オタクの内部指向を「格好は悪いけど、ぼくは自分のニーズに没頭する」、「対外的には自虐しつつ、自らの欲求を吐露する、スタイル」と表現しました*3。
     本作では島本先生の「熱血→ギャグ」という流れを「オタクの自虐」に読み替えました。
    「男の魂」を笑いのめし、しかし感動に持っていくという島本先生の荒技に倣い、本作はオタクの愛の全肯定という荒技を敢行した作品である、と言えるのです。
     ――ぼくは一ヶ月ほど前、本当に何気なく本作を手に取り、そして毎話、感動と驚愕に震え上がりながら、終えてしまうのが惜しいと感じつつ、プレイを終えました。
     が、大変残念なことに本作、一般的な知名度はそこまで高いとは言えません。
     興味を持っていただけた方は、まず体験版を――と思ったのですが、プレステストアを見てもどこから体験版をDLできるのかわかりません。ニコ動ででも見て気に入った方は購入していただけたら……と思います。

    *3 サブカルがまたオタクを攻撃してきた件  ――その2 オタク差別、男性差別許すまじ! でも…?

  • イベントやるよー!

    2025-03-08 19:33
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     目下、『WiLL Online』さまで「赤いきつね」炎上について記事を書かせていただいています。
     ランキング三位! より以上の応援をよろしくお願いします!

     さてそれと、「弱者男性」についてイベントを開催します。
     昨日、先週とupした動画のようなこと……と言いますか、その前段階について、いかに弱者男性の発言が左派によって捻じ曲げられているか……といったような話です。

     動画を見ていただければわかりますが、赤木智弘は平成時代の弱者男性として、「希望は、戦争。」(平成19年『論座』に発表)とぶち上げた人物です。
     これは当然、「社会が硬化し、上の者が下の者を搾取するばかりであり、情況打破にはカタストロフしかない」との暴論なのですが、これに対応した当時の左派陣営の読解力のなさにはほとほと失望させられました。

     同様に令和の世にこそ「弱者男性論」喧しいですが、ここでも情況を理解できぬ左派論壇人がSNSでの論調を読解敵わず(というより故意に捻じ曲げて)デタラメを吹聴している光景があちこちで見られます。

     当初、本会では「弱者男性論」で発表しよう、と思っていたのですが、うかつに権威ある人間の書いた「テキスト」を手に取ると、まずそれが嘘だらけという罠が潜んでいるのです。

     つまり、本論以前の問題として、嘘がまかり通りすぎている現状をまず、検討する必要があるということです。

    ​ 今回はいくつかテキストを採り挙げ、「左派って、この程度の文章すら正しく読めてないぜ」とツッコむのがメインになります。

    ​ ともあれ、「弱者男性」とはSNS時代にモノを申し始めたサイレントマジョリティです。

     騙されることなく、その主張に耳を傾ける準備をまず、したいと思います。

    ​ 今回は下記のように、書籍以外に、ネット上の記事や動画など、多様なテキストがあがっています。すべてに目を通す必要はありませんが、いくつかはご覧になったほうが兵頭さんの話に入りやすいでしょう。

               記

    1.テーマ : モノを申し始めたサイレントマジョリティとしての、「弱者男性」

    2.テキスト

    ①赤木智弘『若者を見殺しにする国』(この本は双風社版と朝日文庫版があり、後者はkindle版以外は絶版のようです。また前者のほうがオリジナルで、後者はそれにかなりの増補改訂が施されているとされています)

    ②藤田直哉のネット記事「フェミニズムでは救われない男たちのための男性学」 

    ③兵頭新児の動画「風流間唯人の女災対策的読書」





    ​3.レポーター : 兵頭新児

    ​​​4.日 時 : 令和7年3月23日 午後2時~6時

    ​5.場 所 : ルノアール飯田橋西口店会議室

            東京都千代田区富士見2-2-6 今井ビル2F

            ℡ : 03-5226-6345

        飯田橋駅西口より徒歩3分。早稲田通りを左手へ直進、

        2つ目の交差点を渡り左手のファミリーマートの上

    6. 会 費 : 1,600円(当日徴収)

    連絡先:由紀草一 luna2156@mtf.biglobe.ne.jp