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風流間唯人の女災対策的読書・第51回「女子はレ○プをいただき続ける」
第五十一回目です!
いただき女子りり子が逮捕されました。が、メディアはそのカワイソーな生育史を専ら伝えるなど、彼女への「欲情」を続けるばかり。
一方、ホストに騙された女性たちの救済へと国が動き出しました。
両事件は男女ジェンダーの非対称性をまさに顕著に示していますが、ぼくたちはまず女性たちの「被害者になりたい欲」をこそ、正しく見据えねばならないのではないか――。文中の小山晃弘氏のnoteは以下を!
レ〇プされたがる女、レ〇プしたがらない男藤本由香里師匠の驚くべき発言については以下を!
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海燕『ほんとうはリア充なオタクたち。クリスマスを前に多様化する「幸福のかたち」を考える。』を読む。(再)
連休の前日に動画をうpしようと思っていたのですが、ちょっと間にあいませんでした。
仕方がないので、ちょっと予告編でも。
https://x.com/Frozen_hyodo/status/1727197743008174547/
それと、再録です。
前回、海燕師匠の面白コラムをご紹介しましたが、考えるとそれに先んずるこれ(初出:2013年1月3日)を再録しないのは片手落ちでした。
まあ、今になってみれば馬に食わせるほど巷に溢れている、「彼女がいないからって嘆くことはまかりならん、オタク如きが弱者を称するなど死罪である!!」という左派のありがたいありがたいお説教なのですが、海燕師匠はこうした傾向をかなり先取りしていた方であろうとは思います。
では、そういうことで――。================================
さて去年のクリスマス前、このニコブロの中でトップクラスの人気を誇る海燕さんが、上のようなコラムをアップなさいました(http://ch.nicovideo.jp/article/ar23559)。
有料だったのでしばらくスルーしていたのですが、どうしても気になって先日読んでみました。そこで展開されていたのは非モテとか非リアのルサンチマン語りという芸風そのものが何とも古くさいものに思える。
というのも、いまの時代、リア充だけが楽しい人生を送っていて、非モテなり非リアはつまらない人生を送っているのかというと、決してそんなことはいえないと思うんですよ。
たとえば20年前、30年前と比べても、日本の「幸福のかたち」は多様化していて、ひとつの「幸福のかたち」を手に入れられなければそれで不幸になるかというと、決してそんなことはない。そもそも不幸じゃないのに不幸なふりしてどうするんだと思うわけです。
結局のところ、恋人なり伴侶がいるひとだけを「リア充」と呼び、それだけがしあわせな生き方であると考えることはいまの時代に合っていないのではないか。ぼくはそう思います。
といった論旨でした。
彼の「非モテとか非リアのルサンチマン語りという芸風そのものが何とも古くさいものに思える。」という指摘には、一応、頷けるものを感じます。
しかしそれは――皆さんお気づきかと思いますが――要するに不況のおかげでみんな貧乏になったから、ということでしかありません。なるほど、「リア充」を「DQN」と読み換えれば、いかにもビンボーくさい、あんまり幸福でなさそうなイメージが喚起されます。
そうなると彼の主張は「みんなどーせビンボーで不幸なんだからいいじゃん」とも解釈でき、だとするならばそれはいささか無神経です。
そもそもぼくたちは「そもそも不幸じゃないのに不幸なふり」をしているのでしょうか?
彼の目から見てどう考えてもそう想像せざるを得ない何かがあって、そのように裁定しているのでしょうか?
読む限りそれはそうではなく、「価値観が多様で“なければならない”から不幸を感じては“ならない”」という論理(否、イデオロギー)が先行しており、そんなリクツでこっちに「感じ方」を押しつけられてもなー、何とかジニーじゃあるまいし、と思ってしまいます。
仮に上の「みんな貧乏になったから」論を受け容れたとしても、DQNと非モテ、彼女がいるだけ前者がマシということにしかならないのではないでしょうか。「あのDQNどもの連れて歩いている女とつきあうくらいなら一生童貞でいい」と思うのも一面の真理ではあるけれども、一方、「でも彼女が欲しいよな」と思うのも事実であり、そもそもそうでない限り、萌え産業がここまで発展するわけがないのです。実のところこうした物言いは、オタクを鼓舞するためのものであれば有効であると思います。
「障害者の抱える障害は決して“障害”ではない、“個性”だ」などという言い方、欺瞞以外の何ものでもありませんが、障害者自身が自らを鼓舞する意味では「有効」だと思います。
彼は「好きなもの(趣味)を持っているオタクこそ真のリア充だ」とも言っていて、そもまた、そうした文脈から見ればわからないものではありません。
そう、それはまさしく本田透さんが『電波男』において「オタクは現実に勝った!!」と勝利宣言したように。――だがちょっと待って欲しい。それなら海燕さんも同じことを言っているんだから、それでいいはずではないのか?
――海燕さん自身もオタなのだから、仲間同士で自らを鼓舞しているのではないか?まあ、そうとも取れるのですが、不思議なのは上の文章を読んでも、海燕さんが本田透さんがお好きだとは、あまり思えない点です。
そもそも、この文章はよりにもよってこれがクリスマスに向けて書かれたものです。そこにはやはり、少なからぬ意味があると考えざるを得ません。本田さんは当初、『電波男』を「オタクが何をしたってんだよ~、チクショ~」といった調子の泣き言本として出そうとしていた。それが酒井順子師匠の『負け犬の遠吠え』など、女性ライターのオタクを見下したスタンスにムカつき、論調を転換した、といった経緯があったはず。
やはりそれは一種の「鼓舞」に他ならない。
しかしそもそも「鼓舞」するということは、その裏にはやはり、ルサンチマンが深く深く潜んでいるはずです。
それは本田さん自身が同書の中で「アニメの美少女は部屋の掃除をしてくれない」と嘆いている点からも、KEYといった「家族」をテーマに据えたゲームを発表するメーカーを盛んにリスペクトしている点からも伺えます。
好きな人がモニタから出て来てくれない限り、基本的にぼくたちは充足できない存在なのです(とは言え、ならば美少女アンドロイドが生まれればぼくたちは満たされるんでしょうか? 造形のみならず行動パターンなどあらゆる点において「不気味の谷」が立ちはだかっている気がしてなりません)。クリスマスに戻りましょう。
ぼくは海燕さんのコラムを読んで、二人の人物について思い出しました。
一人はSF作家の星新一、もう一人はタレントの伊集院光です。
星新一に関してはクールでニヒリスティックな筆致のSF作家、というのが多くの人のイメージかと思います。てか、それで正しいんですが。ですが、その才能は彼が世に出た高度経済成長期の宇宙開発ブームの頃より、それが一段落した後のことさらSF色のない作品でこそ十全に発揮されたのではないか、というのがぼくの個人的な感想です(などと、通ぶったことを言ってみる)。
が、それよりも更に星新一の鋭い視点を味あわせてくれるのが、彼が書いたエッセイです(と、更に通ぶる)。これもまたショートショートに負けず劣らず皮肉の効いた文明批評が展開され、極めて味わい深い……えぇ~い、面倒だ。
ぼくが言いたいのは、そんな彼が珍しくセンチメンタリズムに満ちたエッセイを書いていたことがあった、タイトルなどは忘れたが、感じとしては「さよなら、クリスマス」とでもいったものであった、というようなことです。
クリスマスとは、彼の世代にとっては敗戦後の圧倒的なアメリカ文化の豊かさの象徴でした。しかし、エッセイが書かれたのがいつかは判然とはしませんが、察するに高度経済成長に翳りの見られた70年代後半頃のことでしょうか、この辺りになるとそうした「物質的豊かさ=人類の幸福」といった図式が揺らぎ出してしまったわけです。
星さんはいつものクールさもどこへやら、「クリスマスさん、君もとうとう役目を終え、おわコン化してしまったんだね、今までありがとう、さようなら」みたいな感傷的な文章を書いていたのです。
さて、とは言え、ぼくがそのエッセイを最初に読んだ時の感想は、( ゚д゚)ポカーンというものでした。
無理もありません。
ぼく自身が幼かったこともあるし、読んだのは確かバブルの頃だったはず。
この頃はこの頃で、男の子が女の子とのイブを過ごすために一等地の何かすんげー高いホテルを予約してどうたらこうたら……みたいなことがメディアでさも当然のごとく語られていた時代です。
そう、この当時、というか80年代全般はその躁病的恋愛資本主義社会の象徴としてのクリスマスが、言わば恋愛の神として君臨していた時代でした。
さて、実は去年のクリスマスイブにも実は、極めて象徴的なことが起こっていました。
クリスマスイブの夜は月曜日。
そう、月曜の夜と言えば?
伊集院光がラジオをやる日ですよね。
ところがこの日のトークで伊集院さんは「ここ数年、クリスマスって俺たち非モテがやっかんでいた、リア充がよろしくやる日ではなくなってきているよなあ」といった主旨のことを言っていたのです。
伊集院さんと言えばまさにバブルの絶頂期、周囲の若い連中が躁病的に女の子たちと浮かれている中に青春時代を送った、深い深いルサンチマンの主です。
その彼のクリスマスおわコン宣言は、星新一とはまた違った意味で象徴的です。海燕さんのコラムが伊集院さんの感想と近しい心理に端を発するものであることは既に書きましたが、一方で星さんのエッセイでもわかるように、戦後のクリスマスはアメリカの圧倒的な豊かさの象徴でした。そしてまた日本に輸入されてきたファミリードラマにも同じことが言え、そこでは豊かさを享受する「幸福な家族」の姿が繰り返し描かれていたのです。
そうした登り調子の時代では当然、子供が未来の担い手として尊ばれます。クリスマスは豊かになりつつあった高度経済成長期の日本で、子供が高価なオモチャを買ってもらえる日でもありました。『勇者ライディーン』では高価なオモチャであるジャンボマシンダーが売られる時、CMで愛川欽也を起用して「アカガマキンニコ」と唱えさせました。「赤ちょうちんを我慢すれば(オモチャを買えるから)息子のキン坊がニコニコだぞ」とのお父さんに向けたCMです。
星さんと伊集院さん、二人のクリスマスおわコン宣言はそれぞれ「家庭」、「恋愛」による大量消費というビジネスモデルの終了のお知らせであり、それは最早、景気がよくなることを期待できなさそうなこれからの日本にとって、不可避なことなのかも知れません。
が、だからと言ってそれを幸福と感じるか不幸と感じるかは、また別な問題です。
「家庭」、「恋愛」。
いずれもオタクが手に入れることが叶わず、それ故に拘泥し続けてきたものであることは、もう本田さんの著作を引いて説明するまでもないでしょう。
それを「必要ないのだ、それ故オタクは不幸ではないのだ」と主張しても、首肯する人はほとんどいないのではないでしょうか。
何となれば「萌え文化」というものはオタクによる、上の星さんに負けないほどに哀切を極めた表情で「家庭」、「結婚」のおわコン化を惜しむ歌なのですから。 -
『黒子のバスケ』脅迫事件の被告人意見陳述に対する、正義の味方たちの醜い言説(再)
相変わらず再録です。
以前、サブカル関係の記事の再録をやったことがあるのですが、今しているのは、「オタク界から見た」というか「オタク界を攻撃してくる」サブカルについて、オタクである筆者の視点が強く出ているものを選び、サブカルとオタクの関係性を炙り出そうという趣向です。
今回の記事は2014年3月28日にうpされたもの。
当時、『黒子のバスケ』脅迫事件というのがあったのです。
さすがに昔過ぎてぼくも細かいことは忘れちゃいましたが、「京アニ放火事件」の被害の少なかったバージョンと見て、まあ間違いないと思います。
それが、その時の左派連中の物言いが、本当に非道いもので、それに噛みつくのが本稿の趣旨なのですが、その噛みついている対象は「海燕」というオタクブロガー。オタクでありながら左派的な価値観でオタクをバッシングするといういかにもな人物で、当時はこういうのがよくいたのです
とまあ、そんなわけで……。================================
『黒子のバスケ』脅迫事件の被告人意見陳述(以降、「陳述」)の全文が公開されました*。
申し訳ありませんが、今回長くなりそうなのでこの事件についての説明は省略します。
公開したのは『創』という雑誌の編集長、篠田博之さんです。
この雑誌はぶっちゃけ左派寄りで、日垣隆さんが「死刑囚フェチ雑誌」などと揶揄していたこともあるほどです。とは言え、左派に「国家権力のチェック機能」という側面がある以上、ある種、「犯罪者フェチ」になることは必然とも言えます。しかしその反権力も最近ではいささか暴走気味だったりリアリティがなくなったりで、大衆の支持を失いつつあります。
そして大衆は例えばですが生保などを「弱者権力」であると認識し、自分たちは恩恵に与れないのだとの諦念を前提に、それらに否定的な主張をし、左派は自分たちが支持を失った原因について内省することもなく、「ヤツらはネトウヨだ、肉屋を支持するブタだ!」と泣きじゃくるばかり……というのが近年の傾向だったはずです。
しかし更にここしばらく、彼らの「犯罪者フェチ」ぶりに変化が生じつつあるのではないか……というのが今回のお話です。ツイッターでのつぶやきと被る部分が多いですが、ご容赦ください。
*「黒子のバスケ」脅迫事件の被告人意見陳述全文公開1
「黒子のバスケ」脅迫事件の被告人意見陳述全文公開2――目下、当ブログでもお馴染み海燕師匠のブロマガが「社会・言論チャンネル」の記事ランキングでトップを独走しております。
「平凡、凡庸、退屈、迷惑。『黒子のバスケ』脅迫事件の被告人意見陳述を読んだ。」がそれです。
このタイトルを見て、おぉ、冷静な自己評価のできる人だったんだ……と師匠を見直しかけたのですが、この「平凡、凡庸、退屈、迷惑。」とは驚くべきことに師匠の自身のブログについての自己分析ではなく、陳述についての感想だったのです。
ぶっちゃけ、(いつも通り)師匠の文章に内容らしい内容はありません。ただ、この事件の被告である渡邊容疑者を軽薄に罵っているだけです。
これはまた、togetterのまとめ「黒子のバスケ事件」を読んだ時にも感じたことでした。
本件で『黒子のバスケ』ファンたち、或いは実害を被ったTsutayaの店員などはある程度、渡邊容疑者を罵倒する「権利」があると、ぼくは思います。しかし彼らの中に、そうした人々がいる可能性はかなり低いでしょう。
渡邊容疑者は陳述を見る限りネトウヨという感じではなく、またむしろネトウヨを揶揄すらしているのに、「悪者だからネトウヨに決まっているのだ」との確信の元、「格差犯罪に手を染めやがった、ざまあみろ」と卑しく快哉を叫んでいる者もいました。
これは聞きかじりなので話半分に聞いていただきたいのですが、上のまとめで渡邊容疑者に罵詈雑言を浴びせていた連中のアカウントを確認すると生保については引き下げ反対論者が多かったそうです。
一体全体どうしたわけか、普段は「弱者の味方」を持って任じている人たちが、本件では一方的に渡邊容疑者をバッシングし、酸鼻を極めた罵詈雑言を浴びせているわけです。
どうして彼らはここまで冷酷な言葉を並べ立てることができるのでしょうか。
また裏腹に、ぼくはこの犯人に、ある種の感情移入をしてしまっている。
これは恐らく、表裏一体の現象ではないでしょうか。海燕師匠が今回、少ないボキャブラの限りを尽くしていることが象徴するように、本件で陳述を読んだ正義の味方たちがひたすら「凡庸、凡庸」と泣き叫んでいたのは、いささか奇観でした。
渡邊容疑者が「凡庸」ということはそれだけ犯罪者予備軍が大勢いるわけで、凡庸であればあるほどこれは重要視すべき喫緊の問題であるはずなのですが、彼らは凡庸を根拠に切り捨てているのです。これは大変不思議なことです。
逆にぼくは漫画家というオタク界の成功者にオタク界の最下層の人間が怨念を抱いたという今回の事態に極めてリアリティと共感を感じ、大変にゾッとしました。
海燕師匠を初めとする今回の渡邊容疑者への「切断行為」「排除の論理」はむしろ、彼らもぼく同様、本件で自らの暗部を見せられ、それを慌てて覆い隠そうとしたが故のフライングであった、と信じたいところです。彼らの中にも数%くらいはそうした気持ちがあるのだ、と信じたい(「犯罪者の中に自らを見て取れ」式の物言いも左派寄りの人たちが繰り返してきた、今更のものでしょう)。
が、ぼくは恐らく、彼らの中にあるそうした感情の比率は極めて低い、と考えます。
逆に言えばぼくの中の「共感」の何%かは、陳述の内容が「ネット的」であることに起因していることは、疑い得ません。それはネットスラングが頻出している、といったレベルでもそうなのですが、のみならず彼の発言が「ネットでくだを巻いている負け組のロジック」そのままである、ということです。逆に言えば海燕師匠のリアクションも「ネットでよく見るヤツ」を見た時のことを思い出しての脊髄反射であることは、想像に難くありません。
これは例えばですが、「男性差別クラスタ」と、それに対するフェミニズムのリアクションと同様と言ってもいいかも知れません。つまり今回左派がこの陳述に拒否反応を示したのは何のことはない、「自分たちが守備範囲にしている弱者様」ではないからなのです。
アメリカでプアファットホワイトマンが弱者として認められないように、日本でオタク男性は弱者とは認められない。そう、彼らが渡邊容疑者を切り捨てたのは、彼ら「弱者奉行」のお眼鏡にかなわなかったから、箱船のチケットを発行するに値しないと判断されたから、なのです。
海燕師匠はタイトルで陳述を「退屈」と評しておきながら、本文では「なかなか面白い」と書いています。
その矛盾に気づき、自らコメント欄で「まあぼくのなかでは筋が通っているんだけれど。」と記していますが、これは極めて示唆的で、彼は「自分よりも下の人物を見下すことの面白さ」に狂喜しているのです。
師匠はまた、渡邊容疑者が非モテである自身を嘆いているのに対し、自らも同じ境遇だ、と言います。いままでただの一度も恋人を持ったことはない。というか、そもそも異性であれ同性であれ、ひとに対し恋愛感情を抱いたことがぼくにはない。それが特に異常だとは思わない。ごく普通のことだと思う。
何度か採り挙げているように、師匠は「オタク=リア充」論者であり、オタクが自らを不幸と考えるとはまかりならん、との主張の主です。つまりこれは、渡邊容疑者の「非モテ」としてのルサンチマンを否定しようとしての発言なのです。
師匠は「非モテだ、弱者男性だなどと笑わせるな、不平不満を漏らすのは神聖にして侵すべからざる『真の弱者様』への冒涜であるッッ!!」と言っているのです。さて……実は本件には、海燕師匠やtogetterに集う正義の味方たちにとって、大変不都合な真実があります。
渡邊容疑者は(自己申告を信じるならば)ホモなのです。
当たり前の話ですが、本件は腐女子の仕業だと噂され続け、その予測が外れたことに多くが肩すかし感を抱いたかと思います。が、このホモだったオチが出来過ぎているというか何というか、非常に皮肉なものに、ぼくには見えます。
「犯人は男でした」という「外し」のオチに「なあんだ」と思っていたところへ持ってきて、「犯人がホモですた」という二段オチ。
これは同時に、正義の味方たちにとっては赤ずきんちゃんが全裸でベッドにダイブしてきたようなステキなサプライズかと思いきや、赤ずきんちゃんの正体こそがオオカミであったというような、「更なる外し」オチだったでしょう。
ともあれ、この犯人は「腐女子」の爆発を望んでいたのです。
ぼくは基本、ホモと腐女子のバトルが行われたら腐女子側につきます。あんなヤツらでもオタク仲間だし女だし、何よりネット論壇ではホモの方が弱者、腐女子はそれを搾取する悪者とされることが普通で、普段はナオンの靴を舐め回しているインテリ連中も一度ホモと腐女子のバトルが始まれば「ホモという人権強者」側につくのが通例であり、その浅ましさがムカついてならないからです(これはまたオタクの中の弱者に、オタクの中の強者である似非インテリ連中がいじめにかかっている構図でもあります)。
しかし、不遇感を感じているホモにしてみれば、腐女子とはどんな存在なのでしょうか。BL雑誌はホモ雑誌の何倍もの市場性を手にし、メディアに取り沙汰され(腐女子がメディアで騒がれ出した途端、腐男子という無理矢理な概念が持ち出されてきたのは示唆的です)、しかも腐女子どもは「お遊びで」ホモ漫画を書いているヘテロセクシャルなのです。
仮にBLを見て心奪われたホモがいた時、彼の目に腐女子というのはどんな存在に映るのでしょうか。そう考えた時、やはりぼくは渡邊容疑者にシンパシーを感じずにはおれません。例えばですが『ジャンプ』を腐女子どもに荒らされた悲しみ+その腐女子がすごくツボな美少女エロ漫画をも描いてすごい稼いでいた……みたいな状況がこれに近いでしょうか。
しかし渡邊容疑者を惨殺するという聖なる使命を帯びた正義の味方たちは案の定、この事実を一様にスルーしていました。
むろん彼らは、普段はホモと見るやその靴にむしゃぶりつき、一心不乱に舐めしゃぶる「ホモの靴フェチ」であるかのように、思われています*。しかし何、彼らはあくまでホモを「人権兵器」として運用しているだけで、本当にホモ差別に心を痛めているわけでは全くないので、これからもこの事実を平然とスルーし続けることでしょう。
それはまるで、ホモが小学生をレイプしているのを平然とスルーし続けるフェミニストくらいの、スルー力で。
*いや、タイプとしてそう見えると言っているだけで個々の彼らが今までどうしていたかは存じ上げませんが。
いや……確かにこの件を採り挙げている方もいました。
はてな匿名ダイアリー「喪服の死神という非モテの化身。あるいは汚い顔と罵られた人間の末路」がそれです(はてなでは匿名の人物を「増田」と呼ぶようなので、本項でも彼のことは増田と呼んでおきます)。
しかし……読んでいくと、これが潔いほどのポジショントーク。渡邊容疑者に対しては海燕師匠たちほど冷酷ではなく、冷静に書かれてもいるのですが、やはりいただけませんでした。
増田氏は渡邊容疑者に対し「彼はセクシャリティに関してだけは、言及を拒む。」などと評していますが、拒み続けたのは海燕師匠たち、正義の味方の側でしょう。
更に、増田氏はしきりに彼は饒舌にウェブ上に氾濫する非モテキモオタの類型コピーを演じて見せるが、一方で、自らのセクシャリティたる同性愛については、まるで《安価》が付けられていない。
などと言い立てます。
ちなみにこの「喪服」は渡邊容疑者のことを指します。彼は犯行時「喪服の死神」を名乗っており、この「喪」が「非モテ」を意味することに増田氏はしつこく拘泥します。
また、《安価》は「アンカー」であり、増田氏にとってはどうしたことか渡邊容疑者がホモ用語を使っていないことが、人殺しと同じくらいに悪いことと認識されているようです。2000年代、2ちゃんねるやはてななど、ウェブ上で隆盛した「非モテ」とは、自らの身体性あるいは性価値に対する自己否定、キモいと罵られた汚物のような人間は誰かを愛するにも不足するという絶望を、自らに対して自己否定のレッテルを貼り付けることで自己肯定に転嫁する、クィアにも似た試みであるが、やがて、彼らにはじめから内包されていた自己否定によって自壊した。
との発言が象徴するように、増田氏は渡邊容疑者が人を愛せなかったことを、「非モテ」の自己否定性を批判します。そこまで言うならばそのロジックでアセクシャルをも切り捨てて見せろ、と言いたいところです。喪服が自らの性について語る言葉は徹底してウェブ上の異性愛社会で用いられる言葉であって、セクシャル・マイノリティの為に用いられる言葉は現れない。
ゲイ社会で用いられる言葉も、LGBTを構成する言葉も無い。
要するに彼は渡邊容疑者をホモとは認めないぞ、我々の教団に所属し、お布施をしなかったお前如きに神は救いを与えないぞと絶叫しているのです。ローカルルールで同性愛者の投稿が禁じられたモテない男性板。
非モテから同性愛者を斥けてミソジニーとホモソーシャルの産物と断罪するセクシャリティ論。
女性たちのホモソーシャルであるボーイズラブ系二次創作の世界。
などと言い出すには笑ってあげることもできません。
2ちゃんの「モテない男板」がホモを排除したことがサベツだと言いたいようですが、正直、それは同性愛板でやればいいことでしょう。
彼はオタク文化や腐女子を激しく憎悪しているようですが、そんなヒマがあったら、実はフェミニズムもクィア論も、市井のホモにとってはごま粒ほどの救いにもなっていなかったという事実、それを少しでも、考えてみるべきだったのではないでしょうか。だって「腐女子を妬むホモ」なんて、彼ら彼女らの世界観では語られたことのなかった存在に違いないのですから。この増田氏と海燕師匠の振る舞いは、まるで鏡で映したように同じではないでしょうか。両者とも、自らの村で生じた放射性廃棄物を他人の村へと不法投棄しようとしているのです。それはまるで、火のついた爆弾を人に押しつけあう、昔のカートゥーンの定番ギャグのように。
そしてまた、彼らの醜悪さは言うまでもなく「牛丼福祉論者」の醜悪さと全く、同じです。
「ボクは喪服同様モテませんが、リア充です、そう言い張り続けないと犯罪者になっちゃうから」というロジック、一体どこまで「体制」に従順なのでしょうか。
彼らは「仲間を売れば、自分だけは肉屋のお目こぼしに与れる」と勘違いしている哀れなブタなのです。
以前にも書いた通り、右派=体制/左派=反体制と考えるなら、両者はそれぞれがそれぞれの役割を持つ、車の両輪のような存在でしょう。
しかし今の左派は完全に「限られたマイノリティの既得権益を守るためのクラブ」にまで堕してしまっています。彼らは自分たちの微々たる土地を守るため、マジョリティをジェノサイドすることに躍起です。
少し前まで、彼らはマジョリティを「マイノリティを圧殺する存在だから」として批判していました。が、もはや彼らにそんな論理武装は必要とされません。「マジョリティは弱者だから殺してもよい」と、彼らは宣言を始めたのです。
貧者にも弱者にも一切寄り添わず、ただ利権を守り弱い者いじめを続ける左派。
もう、彼ら彼女らは完全に終わったことを、ぼくたちはしっかり心に留めておきましょう。
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