-
京アニ放火犯はヤマカンを呼ぶ (再)
前回の続きです。
初出は京アニ放火事件の直後の2019年8月16日。
自分にとって多少、大っぴらには書きにくい部分があったので(傍から見ればどうということのないものなのですが……)、最後はちょっと、カネを取ります。
もっとも、もうちょっとしたらマガジンにまとめるので、金はその時に払った方が得かも知れません。
では、そういうことで……。* * *
誰も気づかなかったと思いますが、前回記事のタイトル、「誰が京アニ放火犯に笑ったか」は、『ルパン』1stシリーズの「誰が最後に笑ったか」のもじりでした。で、今回は悩んだ挙げ句、同じく『ルパン』の「狼は狼を呼ぶ」をもじることにしたわけです。
いや、そんなタイトルでお遊びをするような、軽く扱っていい話題でもないのですが、しかし元ネタを明かすことで、この「放火犯」と「ヤマカン」とを=で結べるということを示したくて、敢えて申し上げました。
そう、この京アニの火災が報じられた当初、まさかここまで悲惨な事件となるとわかっていなかった頃、「犯人はヤマカンでは」といったジョークが囁かれました。もちろん、その時点でも不謹慎極まりないものではあったのですが、しかし「ある意味、それは正しかったよな」といった辺りが、本エントリの主旨となります。
ぼくはよく知らないのですがヤマカン、つまり山本寛師匠、『らき☆すた』の監督を降ろされた方ですよね。で、それを怨んで(かどうかは存じ上げませんが)ことあるごとにオタクへの憎悪を吐露していた方です。
そんなわけで、師匠はブログで本件についての記事、「僕と京都アニメと、「夢と狂気の12年」と「ぼくたちの失敗」」を発表、炎上しました。そこでは以下のような主張がなされています。京アニは2007年、匿名掲示板の「狂気」と結託し、僕をアニメ制作の最前線から引きずり降ろした。
ここで言いたいのは、僕を引きずり降ろしたことへの恨み事ではなく、彼らが「狂気」と結託した、という事実である。
ここから彼らとネットの「狂気」との共犯関係、そして僕とネットとの飽くなき戦いが始まる。
正直観念的で意味が取りにくい記事です。ネットで揶揄気味に言われる表現を使うならば、「ポエム」ですよね(この「狂気」とか「結託」について、具体的に語られた個所は文中にはありません。まあ、言えない事情もあるのでしょうが)。「オタクがアニメを壊す」、そう僕は言い続けてきた。
ご丁寧に、事件の約2週間前に「カタストロフ」の予言までしていた。
僕の予言は、こんな最悪の形で、的中したのだ。
オタクがもしいなければ、そもそも壊す前にアニメがここまでの発展をしたのか……については、可哀想なので問わないでおいてあげましょう。
まあ、本記事は最後までこんな調子。小金井のストーカー事件に言及するなど、その筆致は基本、純丘師匠と同じであり、基本的には前回の純丘評がほぼ100%、山本師匠にも当てはまると言って差し支えなさそうです。
これ以降もブログでは本件について綴られていくのですが、「「被害者側」か「加害者側」か」においては以下のように宣っています。僕は最初の一週間、嘆く術すら解らず、茫然としていた。
しかし、ある違和感に気付く。
どうもオタクたちが皆、ネットでさえ自己慰撫や相互憐憫に馴れ合っているのだ。
……あれ?
ひょっとして、お前ら被害者ヅラ?
どうもオタクは本件について、青葉と連帯責任を負わねばならないようです。
性犯罪は全て男の連帯責任! と絶叫するフェミ何とかいう思想みたいですね(にもかかわらず、師匠はこの記事に対する罵倒として自分が「犯罪者予備軍」と呼ばれたことに怒っています。自分はオタクを犯罪者呼ばわりしておいてです)。
「これは戦争である。」においてはこれは事件ではない。「戦争」なのだ。
僕はそう確信する。
「オタクというテロリズム」との戦争だ。
そう、まさに青葉が「アニメ」を恨んだように、師匠は「オタク」を怨み、両者を対立概念として捉え、敵を滅ぼそうとしています。オタクとアニメは表裏一体となってここまで歩んできた「同志」であろうに、青葉も師匠も相手を敵と認識し、殲滅せよと絶叫しているのです。この両者の世界観に、一切の違いはありません。
その次にupされた(現状では最新の)エントリである「オタクという「病」:症状・改(今こそ再掲)」は400字くらいしかないような短い記事なのですが、ここでちょっとだけ師匠の価値観が明らかになります。
師匠は「ネットで暴れている、ムカつくヤツら」を列挙し、それにこう付け加えるのです。こういう症状が三つ以上顕れた人達がいたら、まず逃げましょう。
そしてこう叫びましょう。
「僕はアニメファンです!あんなオタクじゃありません!」
私の作品は「再定義した意味」での「オタク」と呼ばれる、非常に非社会的な害悪的存在に観せるために制作している訳ではございません。
何だか、非常に懐かしい気分に囚われました。
そう、かつて「オタク」は「オタク業界内」の差別用語でした。
80年代、オタクコンテンツと言えるものはアニメ(と、美少女コミック)のみでした。そのため、当時は今でいう「オタク」は「アニメファン」と呼ばれ(ないし自称し)、その中で、悪質な(ないし自分が悪質と認識した)者を峻別、排除するために「オタク」と呼んでいたのです。
この「オタク」という言葉、当初は中森明夫師匠が差別用語として持ち出し、大塚英志氏が「そうした造語で仲間を分断するのはよくない」と腐したのですが、まさに中森師匠の思惑通り、「業界内差別用語」として流通するようになった……というのが経緯です。
今では、「オタクは宮崎事件などをきっかけにした言わば“冤罪”をマスゴミに仕掛けられ、不当に差別されてきたのだ」といった史観が定着しつつありますが、これは歴史修正に近い。実際には「オタク差別」というものはオタク内差別、オタク業界の中でヒエラルキーが上の者が下の者をゴミクズのように扱っていたことこそが、その本質だったのです。
前回エントリでは「サブカルしぐさ」という言葉を繰り返しましたが、実のところ、80年代のオタク界内部で専ら行われていたのが、この「サブカルしぐさ」であったのです*1。
しかし、では、何故そこまでオタク同士というのは、仲が悪かったのでしょうか。
オタク文化というのは基本、男の欲望をストレートに表現し、それを肯定するものです。「萌え」などまさにそうですね。
こういうことを書くと、「女性向けのものを無視するのか!?」「オタク文化は本来、女性が!!」と言いたがる人が出てきますが、今に至るまで女性向けのオタクコンテンツが、少なくとも公の場で否定的に扱われるのを、ぼくは見たことがありません。
そう、現代においては男性性は全て悪、女性性は全て善、という恐ろしく薄っぺらで単純極まる価値観が、絶対のものとして広く深く信仰されています。ぼくは時おり、オタク文化を「裸の男性性」と形容しますが、男とは、裸になった瞬間、断罪される存在なのです。男とは、即ち悪そのものなのですから。
つまり、「サブカルしぐさ」とは当初、オタクコンテンツという「悪しきもの」に耽溺している自分を誤魔化すため、「自分以外のオタクども」に「ケガレ」を負わせるためのテクニックであった。しかしオタクコンテンツが世に認められてよりは、その望ましい部分を手中に収めつつ、望ましくない部分(女性差別的とされる部分や、彼らにとってウザい下っ端のオタクたち)はツイフェミと同様にに切り捨て、見下し、否定するためのノウハウへと変わっていったのです。
前回のエントリでは、純丘師匠は京アニを評価し、また自身もアニメファンであると強調していることをご紹介しました。そしてもちろん、それに嘘はないことでしょう。しかし彼の過剰な自意識は、「アニメなどという男の欲望に直結した、低劣な表現」をただ諸手を挙げて称揚することに耐えられませんでした。だから、持って回った『らき☆すた』の評価をし、「自分だけは他のオタクどもとは違うぞ」と強調せずにはおれなかったのです。そして、その時に援用されるロジックは、例外なく、フェミニズムなどをベースにした、ゾンビにも等しいリベラル的価値観です。男は、悪なのですから。それは宇野とも、『エヴァ』の時のサブカル君たちとも、*1に挙げたダニエル師匠とも「完全に一致」した振る舞いでした。*1 今となっては、このことを覚えている人は少なかろうと思いますが、例えば「コミケの中心でオタク憎悪を叫んだ馬鹿者――『間違いだらけの論客選び』余話+『30年目の「10万人の宮崎勤」』」をご覧いただければその一端がおわかりになろうかと存じます。
ここでは宮崎事件直後、コミケに取材に来た週刊誌の「差別的」なインタビュアーにサークル関係者が同調し、「オタク」に対して苦々しげに罵倒したり、また現在コミケスタッフを務めている兼光ダニエル真師匠らが「消費者」としてのオタクを侮蔑し、馬鹿にした商売をする作家たちを称揚するという実に奇妙な記述に行き当たります。
この同人誌は「オタク外の悪者が、オタクを差別していたのだ」と実証しようとして、図らずも「オタク内の悪者が、オタクを差別していたのだ」と実証してしまったのだ、と言えましょう。しかし、不思議なことですが純丘師匠に比べて、ぼくは山本師匠を憎む気にあまりなれません。それは一つには純丘師匠が何とかオタクのネガティビティを表現しようとして、宇野辺りのロジックを援用しているのに対し、山本師匠はあまりに感情的で非論理的、その分、師匠の中のオタクへの憎悪がストレートに表現されており、それがある種、懐かしさ、言い換えれば親しみのようなものを感じさせるからです。
純丘師匠が上からオタク資産を剥奪(それは『エヴァ』の時のサブカルのように)しようとしているのに対し、山本師匠はオタクと同じ位置に立ち、自分だけは何とか上に這い上がろうとして藻掻いている気の毒な人として、ぼくの目には映るからです。
師匠が、例えばですが「俺、オタクアニメとかキョーミねーし。ジブリくらいのクオリティなら評価するけどね」とでも言っていれば、ぼくは素直に師匠を憎めたでしょう。「関係ないおっさんがエラそうにくちばしを突っ込んでくるな」と言っていれば済む話です。しかし、彼はアニメの中でもオタク的感性に特化した京アニの出身です。『らき☆すた』の監督です。これはオタク少女がオタクライフを満喫する日常を描くことをテーマとする作品。ぼくは未見なので、山本師匠がどんなふうにかかわったのかを存じ上げませんが、それこそEDでキャラクターたちが特撮ソングやアニメソングを歌う趣向それ自体が、或いは師匠によるものだったのかもしれません。
もう一つ、(知識が偏っていて恐縮ですが)師匠はアマチュア時代、戦隊パロディ作品『怨念戦隊ルサンチマン』という作品を作っておりました。いや、これも未見なんですが、今で言えばリア充なり陽キャなりを仮想敵にした作品。
つまり、師匠はオタクとして、明らかにぼくたちと極めて近しいところにいた人物なのです。
そう、彼もまたオタクであり非リアであり陰キャだからこそ、近親憎悪でオタクを憎んだ。痛ましいけれども、ぼくたちも師匠もそこまで追い詰められた者同士です。
クラスのガキ大将にいじめられる、スクールカーストの最下位から二番目だからこそ、師匠は最下位であるぼくたちを泣きながら猫パンチで殴っているのです。
それは、実のところ青葉の振る舞いと非常に似ています(違いは、一応青葉がその攻撃衝動を自分よりも持てる者へと向けたということだけでしょう)。
今回、アニメ評論家である氷川竜介氏がツイッターで積極的に発言していたのですが、そんな中に、「この件でいろいろ取材を受けたが、取材する側にも京アニのファンがいたりして、心強く思うと共に、随分と時代が変わったとの感慨も受けた」といった主旨のものがありました。
しかしその氷川氏も京アニファンの取材者も山本師匠も、いえ、青葉でさえも、「京アニ」によってつながった、言ってみれば「友だち」でした。例えばですが、十年ほど前のネットの匿名掲示板で、ぼくたちもひょっとすると、好きなアニメの話題で彼ら彼女らと語りあったことが、或いは、あったかもしれないのです。
しかし、いつからか青葉と山本師匠は道をたがえてしまった。
「オタク」という言葉に、自分の中にもあるネガティビティを封じ込め、他者へと擦りつけるという性犯罪冤罪にも似た卑劣な振る舞いは、既に破綻しています。山本師匠はそのやり方がまだ「アリ」だと思い込んでいる、時代に取り残された哀れな人間なのです。
それと全く逆方向に位置にするのが、取材者がファンと知り、力づけられたという氷川氏のエピソードです。ぼくにはこのエピソードが、まさに「初めてボーナスをもらったと喜んでいた、本件で殺されたスタッフ」に重なって見えます。
本来は、そうした格差はあれど、ぼくたちは友だちであった。
しかし、自分たちの利益のためにそれを分断した者がいる。
青葉は、山本師匠は分断された、見捨てられた側であった。
ぼくが前回、純丘師匠や宇野をこの事件の「真の黒幕」と形容したのは、彼らが分断した側、見捨てた側であったからです。
そうした黒幕たちの振る舞いについて、ぼくたちは敏感であらねばならないのです。 -
誰が京アニ放火に笑ったか(再)
ここしばらく、オタク関連の記事の再録を続けています。
本稿はもう六年前、京アニ放火事件直後の2019年8月9日に書かれたもの。
犯人の青葉について、やったことは許されぬこととは言え、弱者男性として、またオタクとして幸福になれなかった者として、ぼくはいささか同情的です。そして、まさに彼を犯行に追い込んだ要因の一端である愚劣なオタク叩きがその当時にもなされていた……といった辺りが、本稿のテーマとなります。
黎明期から現在に至るまで、「何がオタクを脅かしてきたか」の一端がが本稿をお読みになることでおわかりいただけようかと思います。
では、そういうことで……。* * *
さて、というわけで京都アニメーション放火事件です。
旬の話題には、動物の腐乱死体を見つけた時のハイエナのように飛びつくのが正しい態度なのでしょうが、ヒマが取れなかったことに加え、事件の背景がわからないままにエラそうなことを書くのもためらわれ、またどのような切り口で語るべきかという戸惑いもあったわけです。そんなこんなで、なかなか採り挙げることのしにくかった話題なのですが、ちょっと、面白い切り口を見つけました。
大阪芸術大学の純丘曜彰教授による、「終わりなき日常の終わり:京アニ放火事件の土壌」という記事*1です。ここで純丘師匠は京アニを「麻薬の売人以下」などと、舌鋒極めて罵っておりました(突っ込みたい方もいらっしゃいましょうが、後に述べます)。
師匠は今回の事件を痛ましいことではあったが、予兆はあったとして、16年に起きたアイドルのストーカー事件を例に挙げます。また、『ミザリー』などに言及、いわゆるスターストーカーについてのウンチクも語られるのですが、言うまでもなく、そんなのは昭和の時代からあった普遍的なこと。どちらかといえば、師匠の舌鋒は「今日日的、オタクコンテンツ」に向いているように思われます。アニメには、砂絵からストップモーションまで、いろいろな手法があり、(中略)『ベルサイユのばら』『セーラームーン』のような少女マンガ系、『風の谷のナウシカ』や『AKIRA』のようなディストピアSF、さらにはもっとタイトな大人向けのものもある。
にもかかわらず、京アニは、一貫して主力作品は学園物なのだ。それも、『ビューティフル・ドリーマー』の終わりなき日常というモティーフは、さまざまな作品に反復して登場する。
アニメといった時、ぼくたちはセルアニメを想起するけれども、それは表現手法としてのアニメのワンオブゼムだぞ。また近年のアニメは学園ものばかりだが、SFなど多様なテーマがあるぞ。
何というか、「ああ、そうですか」という感想しか浮かんできませんね。
こういうの、特撮や漫画に置き換えてもよくあるパターンですよね。ぼくたちは「主人公がヒーローに変身して、怪獣をやっつける作品」をして「特撮」と定義しているけれども、表現手法としての特撮はもっと幅広いものであり、云々。そりゃお堅い文芸作品で、テーマを表現するために特撮を使った優れた作品もあろうし、それを否定する気もないけれども、ぼくたちが『仮面ライダー』を観ている時にそれを持ち出されたって、そんなツッコミは余計なお世話としか。
師匠はいわゆるオタクコンテンツが「学園もの」ばかりであることを嘆きますが、そうした作品よりもなろう的な転生物が流行している現状を考えると、この指摘自体がもはや周回遅れなものでしょう。
ただ、ここで重要なのは師匠が「終わりなき日常というモティーフ(に対するdisり)」に拘泥している点。上にある『ビューティフル・ドリーマー』(以降『BD』)が、ここでは極めて重要なキーワードとなっています。これは『うる星やつら』の劇場作品で、押井守監督の作家性が極めて強く出た作。原作者があまり好んでない作としても、知られます。内容はラムの「いつまでもこの日常が続いて欲しい」という願いが現実化して、キャラクター一同が永遠の「文化祭前夜」の時間の中に取り込まれるというお話。80年代当時のモラトリアムな雰囲気を表していたとも言えますし、評論などでは「オタクの在り方への風刺だ」といった語られ方をすることが多い作品です。
その代表は宇野常寛で、本作を(に限らず『うる星』やKEY作品を、大幅に事実を捻じ曲げて)持ち出し、オタクへ酸鼻を極める罵倒を繰り返しておりました*2。しかし遡って言えば、この論調は一種の「サブカルしぐさ」、即ち『エヴァ』の頃にオタクからコンテンツを剥奪せんと目論むサブカル君たちが、オタクを貶めるために持ち出したのが元祖であったように思います。
そう、元はサブカル君が言い出したことを宇野がパクり、さらに純丘師匠がそれをパクった。師匠の物言いに、オリジナルの部分はまるでないのです。
……あ、いや、それは師匠に失礼かもしれません。師匠はアニメ版『らき☆すた』の最終回がやはり「文化祭前日」であり、EDが『BD』のテーマを下手に歌ったものであると指摘、つまり、この作品では、この回に限らず、終わりなき日常に浸り続けるオタクのファンをあえて挑発するようなトゲがあちこちに隠されていた。
と主張していました。これは師匠独自の指摘かもしれません。
もっとも、かつてのアニメ(や特撮)のテーマをキャラクターたちが「下手に歌」うのは本作の毎回の趣向であり、そこに「トゲ」があるものかについては、疑問としか言いようがないのですが……(あ、すんません、ここまで言ってる割にぼく、『BD』も『らき☆すた』も未見なのですが)。
……しかし、アニメを観ての「オタどもは気づいてないだろうが、これはおまいらをバカにしているのだ! 選ばれし者である俺だけはそれに気づいたのだ!!」という格好の悪いイキり、上に書いた「サブカルしぐさ」と「完全に一致」していますよね。「おまいらオタには『エヴァ』の高尚さはわかるまいが、俺たちはわかっているぞ!!」というわけです。
しかしこういう自意識過剰な妄想、ヤバいヤツが「AKBの○○ちゃんがテレビ画面から俺にだけ『結婚しよう』と電波を送ってきたぞ!」と言っているのとも「完全に一致」しています。何だか心配なので、彼らが「京アニが俺のネタをパクった」とか言い出したりしないか、国民は監視の手を緩めてはなりません。
普通に考えれば、(『らき☆すた』はともかく)『BD』は『うる星』そのものの持つ、「終わらない文化祭」ノリを自己批評して見せた作品といっていいはず。それは例えば、『ウルトラセブン』の正義に対して、「ノンマルトの使者」という作品でアンチテーゼを投げかけているのと同じ。そこをドヤ顔で持ち出す振る舞いは、「相手にもらった武器で相手を撲殺している」というゲスなものでしかありません。*1 既に削除されてしまっているのですが、魚拓は今も見ることができます。
1ページ目
2ページ目
3ページ目
4ページ目
改稿後
*2「ゼロ年代の妄想力」など。一読いただければ、宇野の妄言に事実の反映が極めて少ないことがおわかりいただけようかと思います。――さて、しかし、ここで言っておかねばならないのは、「オタク文化は終わらない文化祭である」という指摘は、それ自体は別に間違ってはいないということです。
それは『うる星』に始まり、『ときメモ』的なギャルゲーを経て、学園ラノベ全盛になったオタクコンテンツの経緯を見ても、自明でしょう(だから、転生物全盛の今は、むしろ「オタクコンテンツ衰退期」でありましょう)。
そしてこの指摘については、「間違ってもいないけど、しょーがねーじゃん」と言い返す他ないと、ぼくは考えます。
大塚英志氏が80年代、「現代社会はイニシエーション(大人になるための儀式)が失われた」と盛んに指摘していました。時々言及するように、80年代というのは、ぼくたちが「卒業」することを止めた時代です。アニメでも「遠い星から来たヒーローや少年の友だちが、故郷の星に帰るかと見せかけ、また舞い戻ってくる」といった「外し」オチが増えたのがこの頃です(そう考えると、純丘師匠の手つきは『ドラえもん』をデマによって貶めた稲田豊史師匠のそれと全く同じであることがわかりますね*3)。
大塚氏はイニシエーションのない現代に危機感を持つと同時に、なくなってしまったこと自体が問題なのだから、大人になれない者をただバッシングするのは間違っている、との論調を展開していました。宮崎事件の時、マスコミが盛んに「(宮崎は、そしてオタクは)現実と虚構の区別がつかない」と書き立てましたが、大塚氏はそれに対して「ならばその現実とやらを屏風から出せ」と反論したのです。これを上のフレーズにこと寄せて表現するならば、「お前らが卒業後のルートつぶしたからしょうがなく文化祭やってんじゃん」とでもいったことになりましょうか。
ましてや、今となってはぼくたちは正社員になることも結婚することも、極めて難しい状況。そんな状況下で学園ラブコメを楽しむオタクに毒を吐くヒマがあるなら、世の中の景気を少しでもよくすること(イニシエーションを邪魔するフェミニズムを打ち倒すこと)を考えるべきでしょう。
もちろん大塚氏の発言は80年代のもの。宇野よりも、純丘師匠よりも、遙かに前。師匠らは周回を二兆周くらいは遅れたうわごとをドヤ顔で垂れ流すことで、いまだ小銭を稼ぎ続けているのです。
そして、宇野をまるでオタク評論家ででもあるかのように受け容れている連中もまた、彼らの後をドタドタ走っているに過ぎません。*3「ドラがたり」において、(ウソにまみれた)『ドラえもん』のヘイトスピーチを繰り返した稲田豊史師匠、わかりやすすぎることに宇野常寛の子分です。
さて、上に「後に述べます」と書きましたが、その話題についても拾っておきましょう。
実のところ炎上後、純丘師匠は慌てて改稿、そして削除と対応を二転三転させ、最終的にはネット記事の取材に応じて上の「麻薬の売人以下」とは、京アニのことを指した言葉ではない、と抗弁しました*4。
しかし、それを素直に読む限り、師匠の本意は「アニメ界全体」が「麻薬の売人以下」である、というものになってしまように、ぼくには思われる。
即ち、(この辺、師匠も混乱して自分でもよくわからなくなっちゃってるんだという気がするのですが)こうなるといよいよ、師匠の物言いは『エヴァ』の時の「サブカルしぐさ」へと近づいていくのです。つまり、それは「俺くらいになると真に価値あるコンテンツを評価できるが、オタクどもは低劣な作品を観て喜んでいる云々」というものですね。
先にも書いたようにオタクコンテンツは近年、大きな評価を得ました。今までオタクを見下していた連中がオタク利権目がけて、動物の腐乱死体を見つけた時のハイエナのように飛びついてくるのも、よく見る光景となりました。
しかし、ホンの少し前までは、「唾棄すべき怪しげで未成熟なガラクタ」に過ぎなかったのです。
そう、今回の純丘師匠のいささかみっともない立ち回りは、そんな「オタク史」のリプレイに他なりませんでした。*4「「麻薬の売人以下」は「京アニのことではない」 純丘曜彰・大阪芸大教授、炎上コラムの真意語る」
本件――というのは純丘師匠の記事ではなく「京アニ放火事件」ですが――の犯人とされる青葉容疑者、当初はオタクではないのではないか、小説をパクったというのもいわゆる統合失調症の症状なのではないかと噂されていましたが、どうも彼自身が京アニに小説を応募していたらしいことが明らかになりつつあります。
だからと言って「パクられた」というのは妄想である可能性が大だし、仮に万一、「パクられた」事実があったところで大量殺人が正当化されるはずもありません。ただここで、青葉容疑者は純丘師匠や宇野たちに比べれば、それなりに理性的な判断をしていた人物であることが明らかになったわけです。
本件は「オタクの中の持たざる者と持てる者とのバトル」であると表現し得るでしょう。青葉容疑者、自業自得とはいえ、底辺の、未来に希望の持てない立場にいたことは明らかです。一方、殺されたアニメーターの中には大変に若く、「(この冬に?)初めてボーナスをもらって喜んでいた」方もいたと聞きます。大変痛ましいけれども、しかしそうした才能を持ち、前途の拓けていた存在に、弱い立場の者が嫉妬心を持つなというのは難しい話です。
彼ら彼女らの「サブカルしぐさ」は、オタク界の下っ端の切り捨てであり、そうである以上、「オタクの中の持たざる者と持てる者と格差の拡大」を目的とする側面を、どうしても持ちます。言わばこれは「優れたコンテンツを生み出し、カネを生む者、自分たちの政治の道具になる者は認めてやる」とのオタク界内部の「ノアの箱舟」計画だったのです。
そう、今回の事件が、そうした人々に「お前、無能だから要らないしw」と見捨てられた者の犯罪であると考えた時、まさにこの事件の「真の黒幕」は純丘的な人物たちだったというしかなくなるのです。
ぼくが「オタク界のトップ」、「自分をオタクだと思い込んでいる一般リベ」と称するような人たちは、「サブカルしぐさ」の愛好者でありながら、「勝ち組オタク」に取り入(り、「負け組オタク」を切り捨て)ることで、利を得ている者たちです。モテ/持てる者だけを自分たち主催のぱーちーに招待したくて招待したくて仕方のなかった彼ら彼女らにしてみれば、この両者の溝が深まれば深まるほど都合がよい。
彼ら彼女らにしてみれば、「成果物」を後からやってきてぶん獲ることだけが目的で、創作者も消費者も同じオタク仲間であること、それらコンテンツはオタク的なるものとして、みんなで一丸となって作り上げてきたものであることなど、一切わからないのです。そうした人たちが創作者と消費者をボーダーレス化しようとする岡田斗司夫氏や大塚英志氏を嫌ってきたということも、何度か指摘してきた通りです。
そんな人たちにとって、今回の事件は「干天の慈雨」のはず。
自分たちの切り捨てたくて仕方のない側の人間が問答無用の悪として、自分たちの取り入りたくて仕方のない(否、既に取り入った)側の人間が、絶対不可侵の被害者として立ち現れたのが、本件だったのですから。
今後、彼ら彼女らはこれを利用し、モテ/持たざるオタクを斬り捨てるための知恵を総動員するはずです。
それに対し、ぼくたちは敏感でなければなりません。――さて、実は少ない時間を工面してえっちらおっちらキーを打っているところに、今度は山本寛師匠のブログの炎上という報が舞い込んできました。見る限り、言ってることは純丘師匠と変わりはしないのですが、しかしふたりは置かれた立場が違いすぎる。これについては次回、採り挙げます。そこでは彼らは何故、こうした醜悪極まりない「サブカルしぐさ」を振るうのかについての分析が行われることになりましょう。
気になる方は一週間後にまた、お会いすることにしましょう。 -
風流間唯人の女災対策的読書・第66回 恵まれない女性たちに愛のAEDを
1 / 164
次へ>