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  • 「創作子どもポルノ」と子どもの人権

    2019-02-15 21:02
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     本書のことはみなさん、ご存知でしょうか。
     何でも盗作騒動を起こしたとかで、一時期ネットで騒がれておりました。
     とはいっても、何しろこのタイトルですから、ぼくはそれ以前から注目し、読み始めてはおりました。ただ、内容は基本的に法律論で、難解な単語と言い回しの繰り返し。図書館で借りて一度返して再び借り……といった感じで半年ほどをかけてようやく読了。
     そんなわけで、正直どう扱ったものか迷っているのですが、ともあれぼくなりの着眼点を提示したいと思います。

     まずこのタイトル。著者はいわゆるエロ漫画、エロゲーなどを「創作子どもポルノ」と表現しています。いや、実在の子供を被写体にしたポルノだって「創作」は「創作」だと思うのですが、こうネーミングされている以上、本書においてはそういう意味なのだと、まずは受け容れる以外に道はありません
     ただ、それでは既に広まっている「児童ポルノ」という言葉を使わず、「子どもポルノ」という言葉を使っているのは何故でしょうか。はしがきによれば、「児童」という言葉は「未成熟な、親(ないし法律)に管理されるべき存在」との家父長主義的(パターナリスティック)な価値観が込められ、「子ども」には「本人の責任主体を認める」という価値観が込められているからだとのことです。
     しかし本書は当然、子供の性は大人(ないし法律)が守れというスタンスをとっているのだから、おかしな話です。むしろそうしたスタンスと親和性があるのは「児童」の単語の方でしょう。
     もちろん、「子供の主体性を尊重せよ」という主張自体は正論だが、「そのセックスについての判断能力までも認めよ」というのはおかしい、そこまでの尊重は過度である、という考え方は成立するし、現行の法律の理念も一般的な人々も、そのような考えを持っているはずです。ただ、やたらと言葉尻にこだわっておいてこうなのだから、ちょっと読んでいて妙な気分にさせられました。
     さて、そんなわけであくまでも本書のテーマは「創作子どもポルノ」、つまりエロ漫画などについて。それらに対する著者のスタンスはどのようなものなのでしょうか。いや、「でしょうか」も何も、言うまでもなく、全否定なんですが。はしがきには以下のような記述もありました。

     幼い身体に無理やり性行為をされれば、実在する子どもは計り知れない辛さや痛みを感じるが、架空の子どもは快感に打ち震える。「子どもに性行為をしても構わない」とのメッセージが、合法的な手段を通して簡単に広まっていく。

    創作子どもポルノに見られるような、子どもへの性的虐待を娯楽として描き、子どもの性の尊厳を踏みにじる内容は、表現の自由で本当に押し切れるのだろうか。

    創作子どもポルノの存在を肯定することは、子どもの人権を侵害することにつながるのではないか、というのが本書の問題意識である。

     ぼくの読書メモには、上の引用と共に、「まあ、これ以上の論点は出てこないでしょうな。」との感想が書かれていたのですが、その通りでした
     渡辺師匠は

     創作子どもポルノは果たして、誰かの人権を侵害しているのだろうか。この問題について日本では、「創作子どもポルノが人権侵害を引き起こすという科学的データを示せ」との声が大きい。ここでは、科学的データの実態を紹介する前に、まず「現実」を見てみよう。
    (3p)

     などとモノスゴいことを言い出し、「性犯罪者がエロ漫画を読んでいたと供述した」事例を延々上げていきます。しかし監禁王子の件(被害者は未成年だったかもしれませんが、幼い少女ではなかったはずです)や成人女性が狙われた件までが挙げられていますし、そもそもいかなる漫画を読んでいたかはあまり説明がなく、恐らく熟女モノの三流劇画でも「創作子どもポルノ」扱いじゃないかなあ、という気がヒシヒシとします(お断りしておきます。「三流劇画」というのは萌え以前に描かれていたエロ漫画の一ジャンルです。そういう名で呼ばれていた、萌えとは全く異なる文脈の一群があったわけで、詳しくは画像検索をしてみてください。)。
     もっとも、その後には一応、「性メディアが性行動に影響を与える」とされた研究が列挙されています。

    「ポルノコミックを読むと、刺激されて性的なことをしがちである(15)」
    「アダルトゲームをプレイすると、痴漢や覗き、強姦への罪悪感が低下する(16)」
    「ポルノコミックやアダルトゲームに接する頻度が多いほど、『罰せられなければ、相手の同意がなくてもセックスをする』という性暴力行動への是認度は高い(17)」
    「ネット上の露骨な性表現への接触が多い者ほど、その内容が『現実社会における性行為を反映している』と考え、『性交の情報源として役立ち、現実の性行為に適用可能である』と認識する(18)」
    (6p)

     ちなみに、上のナンバーは脚注です。参照すればソースとなった研究が挙げられています。が、挙げっぱなしで、これ以上の詳しい説明やデータの引用も考察も、特にナシ。何か、引用すべきを間違っちゃってるという感じを拭えません。
     というわけで正直、上のデータが妥当なのかどうか判断のつけようがありません。そりゃ、ぼくだってカネもらって原稿を書いていれば、いちいち元を辿りもするでしょうが。
    (これについては少しだけリサーチしてみました。それについては後述します)
     ただ、上の直後、

     もっとも、こうしたメディアの影響研究が示すのは、因果関係ではなく相関関係である。
    (6p)

     としているのはなかなか冷静でいいと思いました。
     逆に言えば、因果関係の立証など困難に決まっているのだから、表現の自由クラスタがもっぱら「影響ないぞ」と繰り返しているのは、それはそれでどうにも信頼しにくいわけです。
     さて、師匠は上のように書いたその上で、

     本書は、創作物による人権侵害の可能性を検討するにあたり、科学的根拠への拘泥にとどまるのではなく、もう一歩踏み込んだ議論を試みたい。創作子どもポルノ問題の本質とは何であろう。子どもを性の対象として描く表現そのものが、子どもの性的搾取であり、子どもの人権侵害に該当する、という点こそが本質ではないか。
    (7p)

     と言い出します。
     そら来た、です。
     科学的根拠というものを蔑ろにしているのも非道いですが、上に「議論を試みたい」と言っている割に以降、この主張は「大前提」であるかのように扱われ、後はもっぱら「いかにして創作子どもポルノを規制するか」に師匠の関心は向かっている(規制ありきで話が進む)のです。
     しかしここで驚いているようでは素人で、これはまずフェミニズムの第一義ということは、最近も指摘しましたね。そう、『実践するフェミニズム』においても、「セクハラなどの行為ではなく、その行為に前提された(人の内面にある)女性差別をこそ法で裁け」との主張がなされていました*1
     性的な表現の中に包含されている思想(というか、女性に対する欲望)をこそ裁け、というのがフェミニズム。即ち、フェミニズムの世界観では、元よりポルノなどこの世に存在してはならないもの。その意味で、当然渡辺師匠も児童ポルノだけを撲滅したいと考えているわけではないでしょう。
     以降はもっぱらその師匠の中の「大前提」を根拠に、政治家が児童の人権より表現の自由ばかりを重んじる、家父長制だと嘆き続けるだけ。この「大前提」を共有できる人以外は完全に置いてけぼりな書になってしまっています(逆に、本書を読む限りは政治家がポルノ擁護側に立っているように思われ、いかに表現の自由クラスタが盛んにロビイングとかをしているかが見て取れます)。

    *1 ちなみにこの書は表現の自由を守るためなら生命を懸けると絶叫を続けている青眼鏡師匠が大絶賛していました

     ただ、皆さんご承知の通り、ならば「表現の自由クラスタ」が正しいのかとなると、そうとも言いにくい。もうちょっと、内容を子細に見ていきましょう。
     師匠の主張は言うまでもなく、「ポルノの影響があるぞ論」ですが、しかし、まず、人間は創作物に影響を受けるものです。だから、それ自体は正しいというしかない。
     かといって、「だから禁止」と言い出したら社会が立ち行かない。
     それは丁度、ナイフで人を殺した人間が出たからといって、ナイフの販売を禁止するわけにはいかないのと同様です。
     ひるがえって「表現の自由クラスタ」は「創作物による影響は絶対にないのだ」というロジックを大前提に全てを組み立てているので、世間の理解を得ることは恐らく渡辺師匠と同じくらいに、ない。ぼくとしては、「影響もあるけどガス抜きの効果の方が遥かに強いぞ」とでも主張した方がいいと思うのですが、彼らはそうした落としどころを決して認めようとしません。
     想像ですが、内部の統一を図るために「極端な言い切り」をしなければならない(逆に言えばそうした頑なな思い込みを共有することでしか、内部を統制できない)状況に、彼らは既に陥っているのかもしれません。

     もう一つ、「表現の自由クラスタ」が絶対に言わない不都合な事実があります。ペドファイルは「子供とセックスしてもいいのだ、子供だって恋愛、セックスを主体的に理解し、受け容れ、実行するだけの能力を持っているのだ」と主張する傾向がある、ということです。エロ漫画がそうした歪んだ認知を強化するツールになることは大いにあり得ます。
    「あらゆるフィクションは人間に影響を与えるが、だからといって節度を持たずに悪いことまでしてしまうのはバカのやることだ」というのがまず、一般論としては言える。しかしペドファイルという一種の病気を抱えた人たちに対しては、それが通用しない、ということなのです。
     さらに言えば、本書ではエロ漫画が、ペドファイルに子供を性行為に誘うツールとして使われる危険性についての指摘がなされています(191p)。これは恐らく、かなり広範囲に行われていることなのではないかと思います。海外ではペドファイルが実写の児童ポルノをそうした目的で利用すると聞きますし、ましてや日本のエロ漫画となるとさらに使い勝手がいいでしょう。そうしたものでは子供も観ているアニメのヒロインたちがまだ小中学生なのにそういうことをしており、また男児もそういう対象になっているのですから、子供を誘うツールとしてこれ以な上のものはありません。ここは本来なら、ぼくたちも押さえておくべきことです。ナイフで人が殺されたからといってナイフ屋を廃業に追い込むのは横暴ですが、一方でナイフで人を刺したら死ぬという知識がないナイフ屋がいてもらうのも、困る。表現の自由クラスタはそんな迂闊なナイフ屋になってはいないでしょうか。
     ぼくとしてはこうした悪影響もあることを認め、その上でそれでもやはり「だからといって禁止と言い出したらきりがない」と主張するべきだろうと考えますが、彼らは決してそうはしません。むろん、自軍に都合の悪い事実を開示することがためらわれるのはまあ、よくわかるのですが。

     もう一つ、本書の指摘で重要な点となると、イギリスで「疑似写真」までが児童ポルノとして規制対象になったといった話題でしょうか(146p)。
    「疑似写真」って何だ? という感じですが、どうもCGで作られた「創作子どもポルノ」を指す言葉のようです。このCGによる「創作子どもポルノ」については繰り返し記述がなされていますし(例えば182p)、ペドファイルがそのようなものを作っているのはぼくも時々、見聞します。
     もちろん、このCGに実在のモデルがいるとするならば、その人物に対する肖像権とか名誉棄損といった切り口で問題になることは想像し得ます(漫画含め、渡辺師匠は「創作であろうとモデルがいたらどうする」といった主張をしており、それ自体は賛成できます)。しかしそれは当然、「モデルさえいなければいい」ことにもつながるわけで、全体を否定する論拠にはなり得ません。
     そう考えると、「CGだってあくまで絵なんだからいいじゃん」というのが普通の感覚でしょうが、ただ、さらに言えば民意を考える上で「ホンモノみたい」であればあるほど嫌悪感を催させるのもまた当たり前ではあります。
     その意味で、渡辺師匠が言うように「海外では創作子どもポルノに厳しいぞ」というのは恐らく、事実かと思います。そしてそれは「何か、キリスト教だから」というのも原因の一つではありましょうが、もう一つの原因として恐らくはこの「CGポルノ」の問題が横たわっているのでは……とぼくは想像します。つまり、上に書いたように、海外で「創作子どもポルノ」といった時、それは「CG」がイメージされている可能性が高いのでは……というのがぼくの想像なのです。
     そして、恐らく技術が進化していけば行くほど、CGとリアルの判別もまた、難しくはなるのでしょう。現状では渡辺師匠の主張が民意を得ることは難しいでしょうが、CGの技術の進歩が閾値を超えた時、説得力が生じる可能性があります。
     となると、「CGもフィクションだ」という正論とはまた別に、ぼくたちがぼくたちの表現を世間に認めてもらう上で、「日本発の創作子どもポルノ」とそうした「CG」との違いを強調することが重要なのではないか、と思います。
     ちょっとやってみましょう。

    ・「子供」といっても、例えば中学生設定でもバストが大きいなど、肉体描写からしてリアルとは異なること。
    ・仮に、プロポーションなどは年相応だとしても、そもそも萌え絵というものは、描画法によるがリアルとあまりにも乖離が大きく、画の抽象度が上がれば上がるほど、ユーザーたちもペドファイルとは離れて行くであろうこと*2
    ・上の要素に加え、登場する「キャラ」がキャラクター性(人格的なもの)を獲得している場合(これはコンテンツが何かのアニメなどのパロディである「二次創作」である場合、なおのこと顕著になるが)、その「キャラ」はリアルな「子供」からは限りなく離れていくこと*3
    ・上に加え、この種のコンテンツは「世界観」による部分が大きく、その世界観そのものが現実と大きく遊離していることもまた、上の要因を増幅させること。

     まあ、思いつくままに挙げるとこんな感じでしょうか。
     しかし表現の自由クラスタがそうした言わば「オタクとペドファイルの差違」について語るところを、ぼくはほとんど見たことがありません。子供へのレイプを是とするペドファイルを必死で擁護するところは見たことがありますが
     仮にですが、世間の「創作子どもポルノ」への風当たりが強くなった時、果たして表現の自由クラスタは上に挙げたような主張をして、ぼくたちを守ってくれるのでしょうか……?

    *2 あまりこなれた表現ではありませんが、例えば「萌え」の中でも当然、ペド的傾向の強い作家とそうでない作家がいます。また、前者の中でも例えばですがほしのふうたの画となると抽象度が強く、町田ひらくは写実度が強い。前者の方が当然、ペドファイル以外のファンを獲得しやすいわけです。
    *3 アニメを観る時、ぼくたちはフィクショナルなキャラクターに感情移入し、「二次創作」を読む時もそれを継続しています。『プリキュア』という作品世界で充分にキャラクター描写のある少女に欲情することと、現実の中学生(ないしそれに類するCG)に欲情することが全く違うのは、説明不要でしょう。

     さて、本書が表現の自由クラスタに比べて正しいと思えるところはもう一つあります。
     ちょっと長い引用になりますが、ガマンして読んでください。

    児童ポルノ禁止法の第二次改正案における創作物をめぐる議論を概観した結果、以下の分析が可能と考えられる。まず起草者は、二〇一三年の自公維案の付則にあった「政府は児童ポルノに類する創作物と児童の権利侵害の関連性について調査研究を推進する」旨の規定を削除したことについて、「創作者の萎縮を招くおそれがある」といった関係団体からの懸念を踏まえたことを明らかにした。同規定は、創作物による子どもの人権侵害を防ぐ端緒となり得るものである。それにもかかわらず創作関係団体への配慮を優先させた姿勢は、児童ポルノに類する創作物の表現の自由を守るために子どもの人権をないがしろにするものと言わざるを得ず、国家の都合に子どもを従わせる「家父長的国家主義的子ども観」が垣間見える。
    (50p)

     この二章で書かれた文章とほぼ丸々同じ文章が終章の185pでも繰り返されています(本書は同じ主旨が何度も何度も何度も何度も、のび太のママのお説教のように、年寄りの回顧録みたいに繰り返されるので、読んでいて頭がおかしくなりそうになります)。
     師匠は「政府は児童ポルノに類する創作物と児童の権利侵害の関連性について調査研究を推進する」旨の規定を削除したことが、「あれだけエロ漫画に影響力があるというのであれば科学的データを示せ、示せと繰り返している表現の自由クラスタの立場と裏腹ではないか(大意)」と主張しており、それはその通りだと思います。
     もちろん、表現の自由クラスタにも「既にデータはあるのだから、これ以上の調査研究はムダだ」といった言い分があるのかもしれませんが、「ツッコミ所」を与えたことはまずいと思います。
     ただ、この引用の最後が、ぼくには気になりました。
     またしても「家父長的」との言葉です。
     単に商業活動を優先させたことのどこが「家父長的」なのかさっぱりわかりませんが、近年の表現の自由クラスタが「ツイフェミ」とやらに「家父長的」との「攻撃呪文」を投げつける傾向があるのはご存知でしょう。しかし見てみると、フェミニストも表現の自由クラスタももっぱら左派の同士討ちの中、「家父長的」を「ネトウヨ」と同じく何ら意味のない単なる罵倒語として使っている様が、ここからは見て取れます。
     また、同主旨は終章の最後の方、213pでも繰り返されているのですが、それが「「科学的データ」から「人権」へ」というものすごいタイトルの節の中でのことだというのも、極めて示唆的です。カナダの例を引き、科学的データは必要ないとぶち上げ、本書は終わります。
     以前も使ったことがある喩えかどうか忘れちゃいましたが、結局彼ら彼女ら両者とも、自分こそが親だと自称して子供の手を左右から、子供の痛みなど省みずに引っ張っている人たちであるように、ぼくには見えます。

     ――最後にちょっと、本書に対する表現の自由クラスタのリアクションについて書いておきましょう。
     本書について表現の自由クラスタが最重要視すべきは、まず一点目として「創作子どもポルノ、即ちモデルのいない二次元の表現でも子供への搾取なのだ」というロジックにどこまでの妥当性があるか、二点目として挙げられている「ポルノ悪影響論」を肯定する論文にどこまでの妥当性があるかということの二つでしょう。
     先に書いたように、まず二点目について、ぼくはその任にあらずと放り出してしまいました。ここで彼らがそれを代行してくれていれば、ぼくの彼らに対する評価も上がるのですが……。
     見れば、「表現規制反対運動では古参になります。」と自称する高村武義師匠が、以下のまとめを作っていました。もっとも高村師匠はまとめただけで、これらは全て「オレオレオレだよオレ(アレ) 」という御仁のつぶやきのみで占められているのですが。

    渡辺真由子が漫画やアニメ規制のために出したトンデモ本を検証してみた(1)
    渡辺真由子が漫画やアニメ規制のために出したトンデモ本を検証してみた(2)

     え~と、まず上に書いた一点目については、(1)で「そんなことを言ったら殺人事件のあるドラマもダメじゃん」と言っている程度(むろん、論旨としては賛成できます。しかしフェミニズムの根っこを絶対に否定できない表現の自由クラスタがこの問題にどう切り込むか興味を持って眺めていたので、いささか肩透かしという感です)。
     後は、誤字がどうのこうの(何をどう間違えているのか、何度読んでもわからない……)とか、

    渡辺真由子に博士号を売った新保史生先生って、右翼ないし極右系のところでもご講演をなさっておいでなんですね(^_^)

     といった誹謗中傷がやたら目につきます。
     さて、では二点目についてはどうでしょうか。
     そちらは(2)で詳述されているのですが、上に挙げた

    「ポルノコミックやアダルトゲームに接する頻度が多いほど、『罰せられなければ、相手の同意がなくてもセックスをする』という性暴力行動への是認度は高い(17)」

     という主張の根拠となる論文についてオレオレオオレ師匠は

    そして、そんな文献にも、やはり渡辺による引用っぽい何かと同じ表現が見つからない。

    「ポルノコミックやアダルトゲームに接する頻度が多いほど、『罰せられなければ、相手の同意がなくてもセックスをする』という性暴力行動への是認度は高い」という注17の引用風の文を、ぜひ原典から探してほしい。ないけどw

     と断言しています。
     わかりにくい文章ですが、まず、渡辺師匠の文章の脚注にある「注17」を見てみると、この主張のソースとなる文献が示されています。
     ところがその文献を確認してみても、渡辺師匠の文章と一致する箇所がない、とオレオレオレ師匠は言っているのです。
     これはネットで読めるというので(ちゃんとURLも記されているので)確認してみました。
     が、見てみるとちゃんとありましたw
     文献で報告されている研究では、「性的メディア」に接触している人々とそれらに全く接しない人々とを比較対照しています。で、この「性的メディア」にはグラビア雑誌やらツーショットダイヤルやらが含まれているのですが、この中に「ポルノコミック」も「裸やセックス描写のあるゲーム」も含まれているのです。そしてそれらに接触した人間は上のような傾向があった、というのです。
     渡辺師匠の「作文」はやや恣意的である、といった言い方はできるかもしれません。また、そもそもこの研究も「性的メディアを見ない人は見る人より性的にお堅いです」以上の意味を酌み取るのは困難な、ぶっちゃけ無意味なものだと思います(当然、性的なメディアが人の性意識に影響を与えたと解釈することも可能ですが、最初からそうした性意識を持っている人間が性メディアに積極的に接していると考えることも、可能でしょうから)。
     しかしここでオレオレオレ師匠のしている指摘は、渡辺師匠のしている「引用っぽい何か」が「引用っぽい」にもかかわらず、引用ではなく「主旨の要約」であったらけしからぬ、と言うものです(ご当人は「捏造」と断言していますが……)。
     そんなことどうでもいい上に、渡辺師匠が引用だと断言しているわけですらありません。単に、彼がそう思ったのに違った、ということに過ぎません。
     渡辺師匠が捏造をしているに違いない、いや、していなければならないのだ、との願望が先行してしまい。普通にツッコミを入れれば済む局面で、自分の方が不誠実な曲解をしてしまっているのです。
     果たして、渡辺師匠とオレオレオレ師匠、信頼するに足るのはどちらでしょうか。
     この御仁、

    「アダルトゲームをプレイすると、痴漢や覗き、強姦への罪悪感が低下する(16)」

     との主張の元になった論文にも「アダルトゲーム」という表記がなかっただのといった文句のつけ方をしていますが、こうなるとそれらもただのインネンではないかと思えてきます。あくまで想像ですが、先の論文同様、「アダルトゲーム」を「裸やセックス描写のあるゲーム」などと称しているとか、そんなオチではないでしょうか。
     繰り返しますが、先の研究、無意味なものだとは思います。しかし、であればそこを普通に批判すればいいだけであって、こんな姑息なことをしては、敵に塩を送るだけでしょう。

     え~と、すみません。
     もうちょっと盗作問題とかいろいろ細かく突っ込んでいこうと思っていたのですが、このオレオレオレ師匠のやっていることを見て、やる気がどっとなくなりました。これについてはまとめのコメントにも上に書いた旨を書き込んだのですが、早速師匠からの罵倒が返ってきました。もちろん、自分の何を批判されているかは何一つ理解できないまま、「兵頭が引用ではないものを引用だと言っている」とこちらの発言を捻じ曲げ、難詰してくるのみ。当初はご自分で「引用かと思ったら主旨だったから許せぬ」と明言していたのが、どうもご当人の中で事実関係のすり替えが起こって、自分が何を言っていたかもわからなくなっているご様子でした。
     盗作問題の検証サイトなども眺めてみたのですが、どうも上のオレオレオレ師匠の書いたものと思しく(署名がないので今一わからないのですが……)、読む気がどっと減退。
     嫌な言い方ですが、論敵のチョンボを見つけたのだからテンション上がってもいいはずだと我ながら感じるのですが、どういうわけか本当、がっくりとテンションが落ちてしまいました。
     というのも(敢えてリクツをつけるなら)ここまでデタラメをやりながら、彼らは支持を落とすでもなく、これからも暴れ回り続けるであろうことが想像できるからです。
     本稿の画像に使おうと、本書の画像を調べていて気づいたのですが、Amazonでは既に、本書の取り扱いがなくなっています。言うまでもなく回収は出版社側の判断ですが、これは果たして、落としどころとして望ましいものだったのでしょうか。
     去年もテラケイ、青メガネ両師匠の惨状をさんざん指摘しました(上の「*1」を参照)。しかし、当たり前ですが、表現の自由クラスタは別段彼らに疑問を持つでもなく、今も嘘で塗り固めた運動を続けています。恐らく数は少なくとも、これからも彼らの運動はそうした一定の狂信的な支持者によって維持され続けていくのでしょう。
     高村師匠も、(どうも彼はプロのライターのようですから)、この御仁の言は信用ならないと認識を改めるべきだと思うのですが、まあ、何も考えずにこれからもつるみ続けるんでしょうね。
     つーわけで、何かもうどうでもよくなりました。
     そんじゃ~。
  • 2018年アンチフェミ三銃士

    2019-01-18 23:474

     みなさま、早いもので2019年も半月を過ぎ、残すところ後十一ヶ月と少し(以下略)。
     というわけで年末企画です。

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     ――終わってしまいました。
     もう少し続けましょう。

     2018年男性問題十番勝負

     ――というわけでここからが本番です。
     何でも2018年の漢字が「災」だそうで、それにふさわしく、女災ここに極まれりな一年ではありました。本来であればそれに乗っかってこんな時こそ「女災ニュース」と題した記事にすべきですが、まあその、思いついちゃったので、今回はこういう趣向です。
     もっとも、年末年始企画は毎回「ニュース」と称しつつ、実際にはその年のまとめ的なことを書いていただけであり、今回も主旨としては変わりません。
     まずは簡単な表を作ってみましたので、ご覧ください。


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     キーパーソンを「反フェミ/親フェミ」、「反オタク/親オタク」で分類しました。
     この「オタク」というのは、(ぼくのいつものクセのようなものなのですが)いくつかの複合的な意味が含まれています。純粋に、オタク文化を嗜好する人物を指している場合もあれば、「弱者男性」「内向的な男性」の言い換えのような意味あいで使っている場面もあります。
     その辺はおいおい説明していくとして、まずは「反オタク/親フェミ」を見てみましょう。

     一番勝負・後藤和智
     二番勝負・昼間たかし
     三番勝負・藤田直哉

     ほい、のっけから三人いっぺんにやってしまいます。一番「反オタク/親フェミ」の要素の高いのがこの三人*1。もっとも、この三人はみな、オタクであったりオタク業界に近い場にいる人たち。普通に考えれば奇妙なハナシですが、常々言っているように、「オタクはちょっと前まで、オタクを狂ったように憎悪していた」のです。このお三方はある意味、その一昔前の「オタク観」から抜け出していない人たちであると言えます。彼らの心の声をここで代弁するならば、「オタクを殺せば、ママも許してくれる!」。男というのはその全てが、女性を脅かす絶対悪であり、殲滅すべき存在である。でも、自分だけは助かりたい、そのためには男を殺し、その首をフェミニスト様に捧げるしかない。それが彼らの考えです。オタクとは「萌え」に代表されるように弱い女性、可愛い女性、要は従来の女性ジェンダーに即した女性を好む存在。そんな連中は絶対に許してはならない。フェミニスト様に捧げるのに最適なのが、男性の中でも立場的に弱い、オタクの首なのです。
     即ち、ぼくがいつも言うように彼らは「フェミニズムを正しいと仮定するならば、正しい」わけであり、この位置にいる人たちはポルノ、エロも否定していることが多い。この三人の各々がどうかは存じ上げませんが、例えば一昨年しつこく採り挙げた稲田豊史、宇野常寛*2とかもこの位置にいる人物であると考えていいでしょう。
     また、『男性問題から見る現代日本社会』*3の著者たちもまた当然、この位置にマッピングされます。女性を慮り、男性を軽んずることがぼくたちの抱えた「ジェンダー規範」であり、社会のコンセンサスである以上、ある意味では「人類の大多数」がこの位置に来るといっても過言ではないわけですね。
     考えようによってはブレのない、矛盾のない、一貫性のある人たちと言えます。

    *1 後藤和智については「間違いだらけの論客選び」、及び「コミケの中心でオタク憎悪を叫んだ馬鹿者――『間違いだらけの論客選び』余話+『30年目の「10万人の宮崎勤」』」の前半を参照。
     ちなみに後藤は2018年の冬コミでも上の本の続編みたいのを出して、拙著を「セクハラ告発をバッシングした」などと罵っておりました。本当に、卑劣ですね。
     藤田直哉師匠については「自分をオタクだと思い込んでいる一般リベは嫌オタク流の夢を見るか」、昼間たかし師匠については「左翼の異常な粘着 または私は如何にしてオルグするのを止めてオタクを憎むようになったか」を参照。
    *2「ドラがたり」、及びそれに続く四つの記事で述べました。
    *3(https://ch.nicovideo.jp/hyodoshinji/blomaga/ar1578936

     四番勝負・八田真行

     さて、同じ「反オタク/親フェミ」にマッピングされながら、多少毛色が異なるのが八田師匠です。彼の心の声は、「ママに言われて、オタクを屠殺しに来たが…彼らも人間だったのか?」。彼についてはインセル、ミグタウについての二つの記事を、二度に渡って採り挙げました*4。その記事を乱暴にまとめるならば、「インセル」という殺していい悪者を大はしゃぎで殺していくうち、「ミグタウ」という存在に出くわした。その「ミグタウ」が「インセル」とさほど違わない存在であり、しかし殺す口実のない者たちであると知り、自分がやってきたことについて戸惑っている……まあ、実際にそこまで良心的な内省をしているかは心許ないものの、件の記事の流れはどうしてもそのように読めてしまう。彼は、自分が忠誠を誓っていたデストロンが悪の組織だと知り、愕然としているライダーマンのような存在*5に、どうしても見えてしまう。それがやや「親オタク」に寄っている理由です。

    *4「八田真行「凶悪犯罪続発!アメリカを蝕む「非モテの過激化」という大問題」を読む
    八田真行「女性を避け、社会とも断絶、米国の非モテが起こす「サイレントテロ」」を読む
    *5 リベラルの中の「ちょっとだけ揺らいでいる」人たちを、ぼくはずっとライダーマンに準えてきました。詳しくは「『仮面ジェンダーV3』第44話「ツイフェミ対弱者男性」」を参照。

     五番勝負・御田寺圭
     六番勝負・青識亜論
     七番勝負・借金玉

     これがさらに「親オタク」に寄ると、「アンチフェミ三銃士」であらせられるお三方となります。彼らが「フェミニストの使徒」であることは年末に語り尽くしました*6。とはいえ、(まあ、心の中まではわからないとはいえ)テラケイ師匠など、「オタク」「弱者男性」へ心情的に寄り添っていることに嘘はないとは思います。八田師匠よりはちょっとだけ、「親オタク」寄りなわけですね。とはいえ、彼らを「親/反オタク」のボーダーに置いている理由は、師匠の著作のレビュー*7で述べたように、実のところ自分自身の内面を全く省みていないから。
     彼らの心の声を代弁するならば、「ママはきっとわかってくれる!」というものでしょう。つまり彼らは「フェミニズムは正しい」というドグマを骨の髄、深層意識の髄にまで深く深く内面化して、疑うことなど夢にも思わない。また一方、「内省」という作業を怠っているがため、オタクがママのお言いつけに背いている存在であると、いまだお気づきでない(それとも、何とかママのご機嫌を取るための詭弁を捻っているかのどちらかです)。彼らの使う詭弁は、例えば「BLは、男の娘は、ジェンダーフリーな表現だ」といったもの。もちろん、BLとは腐女子が女性ジェンダーを十全に楽しむための表現であり、男の娘もまた女性ジェンダーを持った少年だからこそヘテロセクシュアルの男性に好まれるのであり、ホモの好むいわゆる田亀源五郎氏的なキャラとは丸きり違う。「萌え」そのものは(BL含め)むしろジェンダーを温存する表現以外の何物でもなく、そこを何とか詭弁を弄して逃げ延びようとしているのが、この位置にいる人たちです。
     テラケイ師匠の著作が実のところ自分の「オタク性」「KKO性」に全く向きあっていないのもそれで、この人たちは要するに「自分が見えていない」。以前、「望遠鏡的博愛主義」という言葉を採り挙げたことがあります。「テレビに映る弱者には涙しつつ、自分の身近にいる弱者など歯牙にもかけない」といった心理状態ですね。師匠の著作は論調としてはそれを批判していながら、実のところ「その心理そのもの」に陥っている奇書といえました。
     後藤和智たちは自分が見えているからこそ「俺だけはオタクじゃない、俺だけはオタクじゃないんだ」と泣き叫んでいるのであり、このお三方はそれとは対照的ともいえるものの、根っこの部分は何ら変わりない人たちなのです。

    *6「実践するフェミニズム――【悲報】テラケイがラディカルフェミニストとお友だちだった件」及びそれに続く二つの記事をご覧ください。
    *7「矛盾社会序説――表現の自由クラスタの、矛盾だらけの著作がネットを縛る

     八番勝負・久米泰介

    「反オタク」で、やや「反フェミ」に寄っている久米泰介師匠もここで語っておきましょう。もちろんこの人はオタクではないのでしょうが、ともあれオタク文化に深い深い憎悪を抱いていらっしゃる方であることは、周知の通りです。しかしここではそればかりではなく、比喩的な意味でのオタク、「内向的な男性」「草食系男子」とでもいったニュアンスで、この言葉を捉えてください。
     言うまでもなく、師匠は「BLを殲滅するために、男性向けポルノをも否定する」という「身体中の全ての骨を断たせて薄皮一枚を斬る」戦略の提唱者であらせられます*8。ここには一つ、明らかに自分の足下の見えていない「三人称」的な感覚の主の過ちが見られる。師匠の訳書の二冊目が『広がるミサンドリー』*9であったことを考えると、何というか、お前こそミサンドリストやんけと言わずにはおれません。もっとも、以上は「師匠の言を理論的に演繹していくとこうなる」というだけのことで、実際には師匠は、「何も考えていない」「考えることに慣れていないため、ふと湧いた着想を検討することもなく振り回しているだけ」というのが実情である気もします(もっとも、さらにいうと、これらは突き詰めていけば結局は同じことです)。しかしだからこそ、師匠はフェミズムに情緒的に反発しながら、彼女らの「ジェンダーフリー」という(どう考えても非現実的な)方策に一切、疑問を覚えていない。師匠を「親/反フェミ」のボーダーにマッピングしているのは、師匠が一面ではフェミニストにすぎないから、です。師匠は「ママなんか嫌いだ! ごはんまだ?」とちゃぶ台に引っついている子供、なのです。
     以上、「親フェミ」派の諸氏についてざっと見てみました。
     お気づきのことでしょうが、彼らはみな「フェミニズムは正しい」という刷り込みを強固になされている存在です。恐らくフェミに異を唱えると「暗黒結社」に脳にセットされた装置が爆発するのだと思います。

    *8「久米泰介「男性に対する性の商品化の学問上の批判」を読む
    *9「秋だ一番! 男性学祭り!!(最終回.『広がるミサンドリー』)」、「広がるミサンドリー(その2)」、「広がるミサンドリー(その3)

     九番勝負・ドクター差別

     さて、困りました。一応「反フェミ/反オタク」としてはいるものの、この人については語ることがありません*10。この人は一応「反フェミ」かもしれませんが、別にフェミニズムについて何ら知識はない。フェミニズムを十全に理解し、その上で詐欺行為を行っている青識、テラケイ両師匠とは対照的です。
     また、「反オタク」というのもどうかと思われる方がいるかもしれません。彼はもちろん、いわゆるオタクではないでしょうが、ことさらアンチオタクでも、ないことでしょう。さらに考えるなら、「女性専用車両ムカつく」という情念からことを起こしているという点では、ある種の「一人称性」の主です。
     ということは、もう少し右寄りにマッピングしてやってもいいのでは……という気も、しなくはありません。
     しかし同時に、ドクさべのドクさべたる所以は、「考えのなさ」「自分の見えてなさ」、そして実力行使に出る「DQNぽさ」。となると久米師匠に冠した「明らかに自分の足下の見えていない「三人称」的な感覚の主の過ち」、「何も考えていない」、「考えることに慣れていないため、ふと湧いた着想を検討することもなく振り回しているだけ」といったフレーズを、彼にも冠したい衝動に駆られる。
     彼の心の声は、迷った挙句「俺のカメラ写り、どうかな…?」としました。恐らくですが、彼の頭の中にはユーチューバーとして快哉を浴びる自分について以外は、何も入っていない。自己とは、他者との違和の集積です。シンジ君もアムロも他人とうまくやっていけないが故に、自意識に目覚めた存在でした。そこへ持ってきてドクさべにそうしたナイーブさは恐らく、ない。彼の口から出てくる「男性差別」はそうした葛藤の中から出てきたものでは恐らく、ないでしょう。その意味で彼は純粋な利己主義者、他者という存在のない者、逆に、だからこそ普通に他者とうまくやっていける者として、オタクとは違うだろうと判断しました。逆に言えば「親/反オタク」でも「親/反フェミ」ですらもない、ゼロ地点にマッピングするべき人なのかもしれませんが……。

    *10 ドクさべについては随分語っているのですが、2018年度のものとしては、「ドクター差別と選ばれし者が(晒し者として)選ばれた件

     番外勝負・インセル/ミグタウ

     さて、ここでちょっと番外編です。
     とはいえ、インセルとミグタウについては、先にも挙げた八田師匠の記事に書いた通りです。
    「インセル」は「女にモテない」という現状に対して、脊髄反射的な攻撃性を発露する人たち(いや、それが本当なのかは大いに疑問ですが、ひとまず、八田師匠の指摘が正しいものとしましょう)。だから彼らは内省がない。フェミをこそ批判すべきだと判断する知性、戦略性もない。ドクさべとほぼ同じ、「反フェミ/反オタク」です。だから彼らの心の声は「女死ね!「フェミ」? 何それ美味しいの」なのです。
     ひるがえって「ミグタウ」は脊髄反射的なテロに意味がないと悟り、拳を振り下ろした人たち。だから彼らは「……………。」と沈黙してしまっている。攻撃性を発露する前にいったん考えてみて、それは意味がないと悟った内省的な人たちと言えましょう。
    「女にモテない」ことそのものが不幸の根源というよりは、それを原因として、極めて不幸な状況へと叩き落とされたのが彼らです。その意味では彼らが「弱者男性」である、というより、彼らはそもそも「男性の置かれた立場は弱いもの」という現実に気づいてしまった人々でである、と言い換えた方が、話がわかりやすいように思います。
     だから彼らは「反フェミ/親オタク」。兵頭新児に極めて近しい人たちです。
     しかし見てみると、両者の位置は割に離れている。
     まあ、別段深く考えたわけではなく「俺が正義だ」という大前提をスタート地点にしてマッピングしたらこうなっただけなのですが……ですが、敢えて言うならば、彼らは上野千鶴子師匠に「マスターベーションしながら死んでいけ」と言われ「はい」と頷いた人たちです。
     そこだけすくい上げれば、実はテラケイ師匠と変わらないとも言える。彼らがぼくとテラケイ師匠のちょうど中間地点に位置しているのは、それが理由です。
     ぼくは前回、かなり唐突に
    ぼくが「牛丼福祉論」と並列させて論じてきた「本田透の兵器利用」者たちは案の定、ミグタウの称揚を始めています

     などと書きました。いつもお読みいただいている方以外には不親切な文章になってしまいましたが、これにもう少しだけ補足しますと、

    ・上野千鶴子師匠の子分、古市憲寿師匠が「牛丼屋が安いのは日本型福祉の形」みたいなことを言っていた。まさに弱者を殺すリベラルの面目躍如だ。
    ・しかし、オタクの中のリベラルの中には近しいことを言う者がいる。「オタクの性は二次元で完結しており、女性様に加害しないのでエラい。まさに上野様の『マスターベーションだけして死んでいけ』との命を従順に守る者であり、オタクこそフェミ様の奴隷になるのにふさわしい存在だ」というのが、そのふざけた主張だ。
    ・これは、ある意味で本田透『電波男』を著しく非道い形で曲解したものであると言える。

     とまー、そんな感じです*11
     ミグタウは、(八田師匠の言を信じるなら)単にあきらめて撤退しているだけで、そこにポジティブな意味は見出せない。いえ、本当に本田透の全盛期であれば、オタク文化、萌えもまた全盛期であり、ある種のハンストの意味あいもなくはなかったけれども、そうした時代が過ぎ去ったことも、既に語りました*12
     となると、ぼくたちは「インセル」にも「ミグタウ」にも価値を見出すことはできない。

    *11 詳しくは「敵の死体を兵器利用するなんて、ゾンビマスターみたいで格好いいね!」を参照。
    *12「3D彼女 リアルガール  ――オタクが終わった後、そこには「自分をオタクだと思い込んでいる一般リベ」のオタクdisり記事とヤンキー少女漫画のメイド喫茶回だけが残った(長い)
    3D彼女 リアルガール ――オタクが終わった後、そこには「自分をオタクだと思い込んでいる一般リベ」のオタクdisり記事とヤンキー少女漫画のメイド喫茶回だけが残った(長い)(その2)

     十番勝負・兵頭新児

     ――というわけで、まとめです。
     ぼくとミグタウの差違は、どこにあるか。
     外から観察した時、或いはあまり違いは見えないかも知れない。恐らくぼくもミグタウも「何もせず、ぼーっとしてる人」ということになるはずですから。
     しかし一方、ならばぼくとインセルの差違は、どこにあるのか。
     主張を観察した時、或いはあまり違いは見えないかも知れない。恐らくぼくもインセルも「昔に戻せと言ってる人」ということになるはずですから。
     そう、そういうことなわけです。
     一応の答えとして、「主張はインセル、行動はミグタウ」というのがまあ、今のところ最も望ましいスタンスではないかと、ぼくは考えます。
     男性問題(及び目下の地球のあらゆる問題)の処方箋について、ぼくはいつも「一昔前のジェンダー観に従った生き方をする」ことを提唱しているかと思います。
     これに対してジェンダーフリー的なスタンスの人たちから、「男性ジェンダーのネガティビティを温存する気か」との文句をねじ込まれることがありますが、「そんなこと知るかボケ」以外に回答は、ない。
     そもそも「一昔前のジェンダー観」以外のジェンダー観がこの世に現出したことは、今まで一度もないのですから、それ以外に選択肢がないのはもう、自明です。女性たちがある日突然目覚め、みな主夫を養ってくれる世界が訪れるとお思いになるのであれば、死ぬまでそれをお待ちいただければいいハナシですが、そんな与太につきあう気は、ぼくにはない。
     少なくとも「一昔前のジェンダー観」の世界は今よりも遙かにマシでしょうし、そしてその上で、「しかしそれでもまだなお、男性は夥しいネガティビティを背負っている」ことに自覚的であればいい。
    (もう一つ、前回のコメントにも書きましたが、高度経済成長期の男性たちの生命は極めて蔑ろにされていたはずですが、最早人権観が更新されており、ここで男女のジェンダー観が一気に戻っても、そこまでのブラックな状態には戻らないのではないかというのが、ぼくの予想です)
     つまり、「有言不実行」というスタンスを、即ち「自分自身の内面には十全に自覚的になり、それを外に向けて発信すると同時に、急進的な振る舞いは控えるべきだ、というスタンスをひとまずは取っておくのが一番利口なのではないか、というのが「親オタク/反フェミ」であるぼくの意見であるわけです。

     というわけで、まあ、普段はあんまり語る機会のない「男性解放」のためのスタンスについて、ちょっと語ってみました。
    「フェミニズム」とは男性にとって「他所の価値観に自らを預けることで正義になれる魔法」です。オタク文化とは、その辺の普通の男の子たちが、自分の内面を紙に描き出した、史上初の表現。やや乱暴ですが、ぼくはいつもそう表現してきました。両者はどう考えても真逆で、重ねあわせることは絶対にできないものです。ぼくたちはそこからしか、まずは「自分がここにいる」という立ち位置からしか、発言するべきではないのです。
     というわけで、まあ、今年もよろしくお願いします。
  • 矛盾社会序説――表現の自由クラスタの、矛盾だらけの著作がネットを縛る

    2018-12-28 23:2010
    3c9d7de79365f0b75dacaa9d6f24bb932f5c4081

     どうも、普段はエロゲにモザイクをかける仕事を営んでおります、兵頭新児です。
     いや、しかし近年のモザイクって非道いですな、何が描かれているのやら、さっぱりわかりません。
     そんな「表現の自由」への弾圧に対し、憤懣やるかたない昨今ですが、今回ご紹介する本書、これもまた「モザイクで何が何やらわからない」作の一つと言えましょう。何せ書き手はあの例の、表現の自由の否定者*0。そりゃまあ、モザイクもかかりますわなあ。
     とまあ、思わせぶりな書き出しをしたところで、本筋に入りましょう。
     ちなみにnoteにも同じ記事をうpしております。もし当記事がお気に召しましたら、そちらの方にも「スキ」だけでもつけていただけると幸いです。

    *0 これまでの師匠についての記事をご一読いただければ、師匠が表現規制派であり、フェミニズム(という邪悪極まりないカルト)の忠実な信徒であるとおわかりいただけるかと思います。

     先の『実践するフェミニズム』レビュー(*0のリンク先参照)にも書いたように、ぼくは本来、白饅頭ことテラケイこと御田寺圭師匠にそれなりの信頼を置いておりました。本書もAmazonで予約しておりましたし。予約したその直後、師匠が『実践する――』を称揚しだした時は本当に肝をつぶしました。で、届いた本書を複雑な気分で眺めるハメになってしまったわけです。
     さて、とはいえ、読み始めた当初の本書に対するぼくの印象は、それでも決して悪いものではありませんでした。
     いえ、むしろまえがきを数ページ読んだだけで、心を掴まれた、というのが本当のところです。
     そこに書かれているのは、師匠が学生時代に出会ったホームレスのおじさんについて。このおじさんは自分の今の境遇を自分の責としてただ受け止め、師匠が生活保護など行政に支援してもらう手があることなどを進言しても、それを断固として受け容れようとしなかったといいます。このおじさんは、自分を「いるだけでも迷惑な存在」と自己規定し、行政などに頼っては「今度こそ世間様に顔向けができなくなる」と語っていたといいます。
     確か、この話題についてはツイッター上でもつぶやいていたことがあったはず。或いはそれが、ぼくの師匠への好感情につながっていたのかもしれません。
     師匠はこのおじさんを「透明化された存在」と称し、この言葉を本書のキーワードのように繰り返します。
     第一章のタイトルは「「かわいそうランキング」が世界を支配する」。ここでは「大きな黒い犬」という言葉がキーワードとして語られます。保健所においても大きな(つまり成犬である)黒い犬は引き取り手が少ない。誰しもが白くて小さな、つまりは「可愛い」犬が欲しいのです。
     そう、「透明化された存在」、「かわいそうランキング」、「大きな黒い犬」といった巧みなキーワードで、師匠は読者の心を鷲掴みにします(一方、確か本書には採り挙げられなかったと記憶しますが、「キモくてカネのないオッサン」とのワードもまた、これらに並ぶものであることは説明するまでもないでしょう)。
     ともあれ、この時点で(師匠への悪感情にもかかわらず)本書の印象は決して悪いものではありませんでした。ただ、同時にぼくは一つの「予感」を持っていました。

     この(22pまで読んだ)時点で、ぼくは彼が「ではどうするのか」との回答を出しえていないことを断言する。

     上は、読書中に書いたメモをそのまま起こしたものです。第一章の途中まで読んだ辺りで、ぼくはそのように「予言」しました。
     そしてその「予感」は第二章「男たちを死に向かわせるもの」を読んだ辺りから、早くも「確信」に変わってしまったのでした。
     この章、ぼくはこれをnoteで読んでおり、評価していたはずなのですが、再読して首を傾げてしまったんですね。
     師匠は男がいかに死のリスクを背負っているかを述べます。
     男性の自殺率の高さなどは、近年指摘されることが多いのですが、他にも男性は女性に比べ、医者にかかる率が低い点についても指摘があり、ここはなかなか秀逸と思いました。というのも、ここには「男がいかに自らの身体を粗雑に扱っているか」がよく現れているからです(もっとも本書では「病気になり経済的な損失を被ると、社会的価値が失われるから」といった分析に留まっています)。
     以上はそれなりに重要なポイントの指摘になっており、『ぼくたちの女災社会』の抄訳といった趣きがないでもありません。「かわいそうランキング」に相当する造語、ぼくだって(『女災』には書いていませんが、師匠よりも先に)「愛され格差」というのを提唱していましたしね。
     そう、『女災社会』は上の男性の医者にかかる率が低いことなどに加え、さらに様々なデータを提示した本でした。その本の著者が左派やフェミニストからデマを流され、罵詈雑言をぶつけられ、恫喝されるといった総攻撃を受け、著作は絶版に追い込まれたのに対し、本書は版を重ねているようです。
     果たして、では、『女災』と本書の違いはどこにあったのでしょうか?
     読み進めると師匠はこんなことを言い出すのです。

    したがって「大黒柱的な役割」の要求値を男女それぞれに均すことが、男性の自殺者数の逓減に寄与する可能性は高いだろう。より簡潔にいえば「女性が自分と同等以上の男性をめることをやめれば(それと同時に男性側も女性より優位でなければならないという考えを捨てれば)、男性は余計に死なずに済む」という考えを受容し、広めることが男性を死の呪縛から解き放つ第一歩となるだろう。
    (43p)

     あ~あ、と思いました。
     これ、普通に考えれば「女性の社会進出のススメ」ですよね。
     それはもう何十年も実験し、それが男性の救済に何ら寄与しないことがもう、明らかになっています。
     そこを認めず、ただ「フェミニスト様に従え、フェミニスト様に従え」と絶叫を続けているのが今の左派(それは久米泰介師匠も含め)です。
     いえ、ここで終えてはフェアではありません。師匠はぼくと同じ疑念を、ちゃんと言葉にしているのですから。

     しなしながら、こうした解決法にはひとつ大きな問題がある。「大黒柱の役割(=稼得能力への期待・就業能力への期待)が死のリスクを高める」という前提があることには変わりない。この事実を知りながら、はたして女性側はこれを均すことに合意するだろうか。自分たちの自死のリスクを高めてまで、男性にのしかかる重荷を、自分たちの背中に分けて移すことに賛成してくれるだろうか?
    (44p)

     そう、そんなことをするはずがないのです。
     だから、女性の社会進出を推し進めれば推し進めるほど、社会は破壊されてきたのです。
     実はnoteにおいては、本章は以下の言葉で締められていました。

     男は女に比べてとくべつ強いわけではない。「強くあれ」と求められているからこそ、そうしているにすぎないのだ。そして、誰にも気づかれないところで、ひとり自死を選んでいるのである。
    (44p)

     そして付記として、皆口裕子のサンプルボイスが書き起こされていたのです(https://www.aoni.co.jp/search/minaguchi-yuko.htmlの「ナレーション7」。聞いてみてください)。気の利いた締めだと思います。
     ところが書籍版においては代わりに一節が加筆され、そこでエマ・ワトソンのスピーチが「公で男のネガティビティが述べられた初のもの(大意)」などと絶賛されていたのです。
     そんなバカな!
     ぼくの著作は置くとしても、小浜逸郎氏や渡辺恒夫氏など、重要な指摘をした人物はいくらもいます。いえ、単にご存じないのでしょうが、それにしてもこれは、渡辺氏の主張をパクッた伊藤公雄師匠を男性学の提唱者だとしている千田有紀師匠*1を思わせます。
     正直、この(エマ・ワトソンなどという成功者の上からのキレイゴトを言っているだけで、「よきフェミニストなり」と「表現の自由クラスタ」に絶賛されている人物を持ち出す)加筆によって、本章のよさが大きく損なわれているように感じられました。

    *1 夏休み千田有紀祭り(第四幕:ダメおやじの人生相談)の■付記1■など

     第三章、「「男性”避”婚化社会」の衝撃」もそうで、ここではいかに結婚で男に負担がのしかかるかが描写されています。これまた非常に頷ける主張が続くのですが、「離婚後に単独親権性が取られていることも、男性の結婚へのモチベーションを下げている」との指摘がなされるに至って、首を傾げざるを得なくなります。
     理屈としては正しいのですが、果たして結婚するときに離婚後のことまで視野に入れる人間がどれほどいるか疑問です。むしろそうした離婚というものが一般化したこと自体が、人を結婚から遠ざけていると考えるべきで、何だかピントがずれているとの感を拭えません。
     いえ、それは些末なことで、重要なのは師匠がこのトピックを持ち出しておきながら、フェミが男をDV冤罪で陥れることを妻に吹き込み、男女を離婚させていることに、ついぞ言及しないことです。これは例えるならTOKIO結成秘話のドキュメンタリーで、山口君がいないことになっているようなものです(何かそういう番組、やってたんだってさ)。
     第五章は「「非モテの叛乱」の時代?」。
     ここではインセルが俎上に昇りますが、師匠は

     彼らの主張は単に「モテないのがムカつく」というもので結論づけるべきものではないだろう。
    (中略)
     問題は性的魅力によって得られる報酬が社会的証人や個人の幸福に分かちがたく紐づいていることだ。
    (中略)
     先天的要因によって、その後の社会的な承認や幸福に傾斜があることは、「差別」と呼ばれる問題ではないだろうか。
    (84p)

     と、あくまでインセル、非モテに共感的です。モテが現代において非常に重要なファクターであるなど、言われてみれば当たり前すぎるほどに当たり前なことを、フェミニズムやリベラルが蔑ろにしてきただけなのですが(ぼくが「牛丼福祉論」と並列させて論じてきた「本田透の兵器利用」者たち*2は案の定、ミグタウの称揚を始めています)。
     夏頃に採り挙げたよう*3に、インセルに対しては八田師匠による苛烈極まるバッシングがなされています。「モテたいと思うなどとは許せぬ」と。それに比べてテラケイ師匠の非モテへの視線は大変に、優しい。それはホームレスに注ぐ視線の優しさと変わるところはありません。ここは一応、評価しないわけにはいきません。
     しかし、ここにもフェミニストに対する言及はありません。普段は積極的にフェミニストに対して言及し、アンチフェミを自称している師匠が非モテ問題を語っているのにフェミはスルー。何だかTOKIO結成秘話のドキュメンタリーで、山口君がいないことになっているようなものではないでしょうか。
     それを言えばインセルは語っても、非モテ論壇、本田透について語られていないのも、片手落ちと言えば片手落ち。まあ、非モテ論壇についてはぼくも知識がなく、あんまりエラそうなことは言えないのですが。
     そして、この章の次に控えている「ガチ恋おじさん――愛の偏在の証人」を読むと、違和感はさらに大きなものになるのです。
     この第六章、要するにアイドルの追っかけを長年やっているオッサンの話を聞いたという、ただそれだけのもの。実はツイッター上で本章がやたら採り挙げられ、多くの人々の心を動かした旨を述べています。しかし、ぼくは本章を読んで、驚くほど何も感じるものがなかった。
     何故か。
     いろいろ理由は考えられますが、結局、「オタクの方が辛くね?」という疑念が拭えないからでしょう。アイドルオタと二次オタ、どちらが辛いか比べなどやっても仕方のないことかも知れませんが、しかしそれでも一応は現実に存在しているアイドルに比べ、非実在な少女に萌えているオタクの方がある種の屈折、こじらせをかかえた存在ではないでしょうか。にもかかわらず、自称萌えオタであったはずのテラケイ師匠が「ガチ恋おじさん」とやらにインタビューし、「ふんふん、それで」と大仰にリアクションをしている様がぼくにはどうも、空々しく感じられました。これでは山口君がいないことになっているTOKIO結成秘話のドキュメンタリーを、山口君自身が作っているようなものです。
     何故こうなったのか。あくまで想像ですが、師匠は自分の中にある感情を自分で認識する能力をお持ちではないから、なのではないでしょうか(この辺りは『女災』で「三人称性」と表現しましたね)。
     冒頭のホームレスのおじさんの自己評価の低さは痛ましい。しかしそれを言うならオタクもまた、と言わずには、ぼくはおれない。しかし恐らく師匠はそんなことを夢にも思わない。何となれば、「三人称性」の持ち主だから。だから師匠はひたすら「わかりやすい他者」の下へ行っては専らうんうんと頷いているのです。

    *2 敵の死体を兵器利用するなんて、ゾンビマスターみたいで格好いいね!
    *3 八田真行「凶悪犯罪続発!アメリカを蝕む「非モテの過激化」という大問題」を読む

     ――ここまでお読みいただいて、どうお感じになったでしょう。
     隔靴掻痒というか、ぼくの筆致はどっちつかずなものになっているかと思います。高く評価できる主張もしているのに、読み進めても読み進めても、本書には違和感がずっとつきまとうと。
    「無縁社会」について書かれた第七章では、表題として「無縁社会」が挙げられながら「チョイ悪オヤジ」がフェミ的な女性によって炎上したトピックスが挙げられます。何か、オッサンに向けて「若い女性を口説いて美術館に誘え」みたいなことを吹き込んだ雑誌編集者だかがいたという話題です。師匠はこの原因を男たちのディスコミュニケーションに求め、「チョイ悪オヤジ」的な人物を「人権感覚のアップデートが追いつかない者=家父長制的」と評し、そうした言わば「情弱(情報弱者)」を差別するなとの論調を展開します。何かヘンです。師匠の中では「過去の価値観」が間違っていることが前提視され、言わば先の「チョイ悪オヤジ」は「フェミニズム教育を受けてなくて可哀想な存在」として描かれているのです。
     そもそもそれと無縁社会ってどう考えてもつながらないのですが、ともあれここでは、無縁社会というならばまず第一の問題であろう貧富の差についてがあまりにも軽く流されており、何が何だかわかりません。
     第十章は「「公正な世界」の光と影」と題され、何と氷河期世代の低所得者への「努力が足りない」といった心ない認識を「世界公平信念」で説明しています!!
     え~とですね、「世界公平信念」というのは「努力は報われる」とか「悪いヤツには天罰が下る」とか「ずっとついてなかったんだから、そろそろツキが回ってくる」といったぼくたちが抱きがちな、しかし冷静に考えれば何ら整合性のない世界観のことです。
     そんなバカな!!
     いえ、「そうした側面もあるよ」くらいのことはいえましょうが、何よりも問題は景気のよかった世代とそうでない世代のジェネレーションギャップにこそあるはず。そうした現実を師匠はすっぱりと斬り捨てて、ことをその前提になる普遍的な(別に社会学などおベンキョしなくとも頭のいい人間ならば直感的に知っているような)人間のサガに還元します。
     何しろ生保問題も在特会もみなこのロジックで説明しようとする雑さで、「何か、大学の一般教養で得た豆知識を振り回して全てを説明しようとしている人」にも見えますが、やはりこれはそうではなく、「普遍的人間心理」にものごとを還元することで、原因の追及を断念しているというのが本当のところでしょう。何か、レイプ事件が起こったことに憤って「人間にジェンダーがあるのが悪い」とか言い出す人みたいです。

     この辺りで師匠の弱点が見えてきたのではないでしょうか。
     そう、師匠は犯人を探さない。原因を追及しない。
     オタクでありながらオタクについて語らない。「男性論」を語っているように見えて、実はその内面については驚くほど語っていない。
     ぼくの視線からは、師匠は「山のてっぺんから見える、中腹で登るのを止めた人」のように見えています。
     仮に師匠が『実践する――』を盲讃(この言葉はぼくが今、作りました)していなければ、「あぁ、頑張ったけど体力不足であそこまでにしか到達し得なかったんだな」と「騙されて」いたことでしょうが、しかし今となっては、「彼は敢えてそこに留まっていた」ということがよくわかります。それはつまり、「この山はここが頂点で、上には何もないのだ」との大本営発表のために。
     比喩を変えましょう。ぼくがマクラで何と申し上げたか、ご記憶でしょうか。
     そう、ぼくは本書を「モザイクだらけで何が何だかわからないエロ動画」であると表現しました。
     つまり、本書は『ぼくたちの女災社会』に「ママに怒られないよう」モザイクをかけたものだったのです
     テラケイ師匠は、フェミニズムを批判しません。重要な指摘をいくつもして、ならば必然的にフェミニズムに原因を求める方向へと話が進みそうなところを、軒並み華麗にスルーしている。まさに地雷原を、一つも踏まずに突破しているようなもので、全ての地雷を踏みぬいたぼくの著作とは好対照です。

     ――待て兵頭。いや、しかし今まで語られてこなかったことを指摘しただけでも大したものではないのか。

     残念ながら、違います。
     ネット上ではいくらでも語られていることに、師匠はモザイクをかけたモザイク職人にすぎないのですから。
     これはツイッター上で指摘していた方がいるのですが、どうも師匠は一時期、テポドン東京さんと絡んでいたようなのです。しかし、そうなると上の記述がいよいよ奇妙なモノにはならないでしょうか。
     テポ東氏は「女性が男性を養おうとしないことははっきりしている、ならば男性が働き女性が家を守るという性役割分業を採用する以外に道はないではないか」とはっきり言っている。しかしテラケイ師匠はその論点に「到達」しないために、山の中腹で必死にビバーグを続ける。既に「くぱぁ」している現実に、顔を真っ赤にしてモザイクをかけ続ける。
     今年の前半に採り挙げた、『男性問題から見る現代日本社会』をご記憶でしょうか*4。これは「男の方が損だ」といった言わば「ネット世論」へのアンサーであるかのように帯やまえがきなどに謳われ、しかし一読してみるとそれらを一切踏まえることのない旧態依然としたフェミニズムを諳んじているだけの、トホホな本でした。
     そしてその直後に採り挙げた八田真行師匠のインセル、ミグタウについての記事をご記憶でしょうか*5。インセルについての記事は(女という恵まれた存在に対するルサンチマンから)女性へと復讐しようとする弱者男性を採り挙げ、処刑するという弱き者への憎悪が光った名記事だったのですが、ミグタウを採り挙げるに至り、師匠は「処刑」の口実が見つからず絶句してしまう、という醜態を演じてしまいました。
     これらは、いずれも非常によく似ていると言えないでしょうか。つまり両者とも、フェミニズムというカルトに帰依してきた男性たちの、アテが外れての狼狽ぶりであり、必死の言い訳ぶりの記録として読めるのです(もちろん八田師匠が「インセルはトランプ支持者だ、そうじゃなきゃ嫌だ!!」と泣き叫んでいるように、これはトランプ現象への戸惑いでもあります)。
     テラケイ師匠はそこから一歩だけ先へ進み、インセル(そしてキモくてカネのないおっさん)を肯定した。これそのものは大きな前進かもしれないが、テポ東氏やぼくからは「何か、後からやってきて俺たちの買ってきたおやつの好きなところだけ食い散らかして行ったヤツがいる」ということになってしまうのです*6
     そしてですが、これはまた「男性差別クラスタ」の多くとも「完全に一致」している。テラケイ師匠が提示した問題を解決するに、性役割分業を採用してはならぬというのであれば、「ジェンダーフリーの強硬」という方策を選ぶ以外、恐らく手段がない。本書ではそこまで言っていないので(noteで言ってたらゴメン)、これは想像ですが、『実践する――』を称揚している以上、師匠のスタンスはそうだと考える他はない。しかしこれは端なくも師匠が「男性差別クラスタ」未満の段階に踏み留まっていることを、表しているのです。
    「男性差別クラスタ」のジェンダーフリーへの帰依ぶり、その愚かしさについてはここで詳しく繰り返す余裕がありませんが、一つには彼らがひたすら上に向かって口を開け、「まんじゅうをよこせ」と言っている存在である点です。
     テラケイ師匠を赤木智弘氏と並べて批判する向きもありますが、ぼくが赤木氏を(全面肯定ではなくとも)評価するのは、彼のスタンスが「中間層を救うしかなくね?」、つまり「自助しかない」との視点を持っているからです。
     しかしここまで騒がれた本書が、そこまで到達しえず、実のところネット世論の本当に初歩の初歩をホンの触りだけ採り挙げたものにすぎないことは、もはや明らかでしょう。それはまるで、上の『男性問題から見る現代日本社会』や『男子問題の時代?』*7などという幼稚な書が兵頭新児の著書を名前だけあげつらい、(全く中身に踏み込めないままに)否定しているのと、全く同様に。
     いえ、『矛盾社会』はそれらに比べれば、まだマシです。それらに比べ、遙かに問題の本質に踏み込んだ、評価すべき点の多い書です。師匠も或いは単なる天然の、男性に対する悪意などない人物なのかも知れません。
     その意味で師匠は「ギリモザ」職人だったかも知れませんが、しかしそれでも「もう、わかっていることに、モザイクをかけた人」であることに変わりはありません。
     師匠がメディア側に採り挙げられた意味はもう、自明です。師匠が「ネット論壇の旗手」になることで延命される人たちは誰でしょうか?
     つまり、そういうことだったのです。

    *4 男性問題から見る現代日本社会
    *5 八田真行「凶悪犯罪続発!アメリカを蝕む「非モテの過激化」という大問題」を読む
    八田真行「女性を避け、社会とも断絶、米国の非モテが起こす「サイレントテロ」」を読む
    *6 ラトビア謙三という方が、以下のようなツイートをしていました。
    白饅頭ことテラケイって要はただのお調子者で、その場その場で人気のあるアカウントに取り入って、ヨイショしては言ってる事をパクって、さも自分が昔から考えてましたみたいな顔をずっとしてきたんだよな。批判されても、フェミみたいな弱そうな相手には強く出るが、そうでないなら無責任に逃げ回る(https://twitter.com/c_s8f/status/984986645723103232)

    そりゃそうでしょ。テポ東や、エタ風さんのネタ元がウェルベックで、テラケイは、その二人からパクってるだけなんだから、元を辿ればウェルベックに似るだろうね。
    (https://twitter.com/c_s8f/status/1063781654253060099)

     他にも「テラケイはテポ東氏やエタ風氏の金魚のフン」といった声もあり、それならば当初の師匠をぼくが評価していたのも、当たり前の話。ウェルベックと言われても知りませんが、どうも自由原理主義に批判的な作家らしく、これまた師匠の主張と一致します。
     しかし同時に謙三氏は以下のようにも言っています。

    真面目に批判するなら、テラケイの本は、人々が自由を追い求めすぎた結果、拡張したエゴが世界を縛り始めたという内容らしくて、それ自体は、パクリとはいえ問題提起としてわかるところはある。 しかし、普段は表現の自由戦士として活動していて、そこは本の主張と矛盾してるんだよな

    なぜこんな事が起きるかというと、本の主張は、テポ東やエタ風さんからからパクっていて、後半の表現の自由戦士的スタンスは青メガネ氏その他からパクってるからなんだよ。 色んな人の主張をパクってるから、一貫して見れば、彼自身のスタンスは整合していない。
    (https://twitter.com/c_s8f/status/1066331461966385152)
     つまり、師匠は一定の理念を持った人物ではなく、その場その場で借り物の思想を振り回しているだけだ、というのです。確かにそのようにでも考えねば、師匠が『実践する――』を盲賛している説明がつきません。
    *7 秋だ一番! 男性学祭り!!(その2.『男子問題の時代?』)