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  • 「許せない」がやめられない坂爪真吾(その2)

    2020-08-07 19:37

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    ※この記事は、およそ11分で読めます※


     さて、続きです。
     もし前回記事、動画をご覧になっていない方がいたら、そちらの方をご覧いただくことを強く推奨します。



     さて、今回採り挙げるのは第二章と第四章。前回、これらの章タイトルが、

    第二章 男が許せない
    第四章 性表現(規制)が許せない
     とされているが、実際には
    第二章 ツイフェミが許せない
    第四章 エロ規制が許せない
     とすべき、と指摘したように、実質的にこれらは両方とも「ツイフェミ叩き」章だからです。
     というわけで、少々長くなりましたが、道のりはまだ長い。
     ガンバって書いたので、ガンバって読んでいただけると幸いです。

    ・第二章 ツイフェミが許せない

     ――さて、第一章ではさんざん「ミソジニスト」(とやらいう、この世に存在しているかも疑わしい存在)への罵倒が並べられた本書ですが、第二章においては「ツイフェミ」(とやらいう、この世に存在しているかも疑わしい存在)への怒りが綴られます。
     これを聞いて、「お? 期待できるか?」と思った方も結構いるのではないでしょうか。
     しかし、対象はあくまで「ツイフェミ」であり、「フェミ」ではない。
     近年、ぼくが「ツイフェミ」に同情的な物言いをするのを聞いた方もいらっしゃるかと思います。「ツイフェミ」と「フェミニスト」の差異などこの世には存在せず、「ツイフェミ」という言葉そのものが、ただフェミニスト様が恋しくて恋しくてならぬ者によって、「真のフェミ」を免責するスケープゴートをでっち上げるために作られた言葉だからだ――ぼくがこの言葉が作られた時からずっと言ってきたことを、本章は実証するものとなっているのです。
     呆れたことに本章では、東京医大の不正入試の件に「ツイフェミ」が怒ったことでさえ、「怒りの全体化」だと否定されます。上野千鶴子師匠だって怒りを表明していたわけで、そうなると上野師匠もツイフェミなのか、と思ったのですが、どうもそれは違うようです。
     フェミニズムのキャッチフレーズに「個人的なことは政治的なこと」というのがあります。坂爪師匠もこれを引用し、しかしこれは一歩間違えると「私怨」を「社会的」に燃え立たせる口実になるぞ、と腐します。
     正論だと思いますが、そうなると「ツイフェミ」が悪いのではなく、そもそもの「フェミニズム」が最初っから間違っていたとするのが、正しいのではないでしょうか。
     また、何をもって私怨を社会化しているとすべきか、その判断基準は極めて曖昧です。上の件についても「上野師匠の文句はこれこれの意味で正当である、しかしツイフェミはこれこれの理由で不当だ」と一言あってしかるべきでしょう。しかしこの問題について、坂爪師匠はそもそも上野師匠の名前を挙げることすらないままに、話題を次へと移していきます(坂爪師匠は上野師匠に薫陶を受けており、彼女に逆らえるはずもないのです)。
     もっとも、これには補足が必要でしょう。本章で採り挙げられるのは岡村の炎上の件など、イデオロギーを置いても(フェミニズムが100%正しいと仮定しても)行きすぎだと言わざるを得ないケースが多い。坂爪師匠の主張はそうした過剰な個人攻撃への批判という、そこだけすくい取れば、納得せざるを得ないものです。
     しかし、だからこそこの二章は本書の思想的ダメさを大いに示しているといえます。
     上野師匠こそ暴言女王といってもいいような人物。いえ、フェミというのは(ツイフェミのみならず)基本、相手を口汚く罵るものです。そもそもフェミそのものが「差別されてきた者の逆襲」という「復讐史観」から成り立っており、それをよいこととして認める傾向にあるのです。
     ツイフェミとフェミニストに一切の差はないと、ぼくが常日頃から言っているのはそのためです。
     それでも敢えて「ツイフェミ」の問題点を挙げるとするならば、やはり「一人に対して大挙すること」でしょう。しかしこれとて個人個人がやっていること。主観では、「群れなし襲っている」感覚は(ネットではなおさらのこと)希薄であり、デモをやって喜ぶ「オフフェミ」よりマシだといえなくもない。
     これを否定するとなると、ネットという誰もが情報の発信者になることのできるシステムの全否定ともいえ、また突き詰めると「大衆はモノを言うな」といった主張にもなりかねない。
    「みんなでマナーを守ろう」くらいしか、言えることはないのです。

     何しろ、坂爪師匠は北原みのり師匠をもツイフェミ扱いします(そう明言する箇所はありませんが、流れからは同一視しているとしか、考えようがありません)。
     北原師匠は矯風会をリスペクトしており、矯風会は「かつてから存在していたツイフェミ的なるもの」なのだそうです。坂爪師匠はホワイトハンズというセックスワーカー問題に取り組むNGOの代表を務めており、矯風会がお嫌いなのでしょうが、こうなるとツイフェミの定義すらもメチャクチャです。
     北原師匠、言うまでもなく(学術的な地位はないものの)いくつも著作があり、本書の記述にもあるように、『日本のフェミニズム』という、フェミ的にかなり重要な書を編んでもいるんですけどね。それに上野師匠とも交友関係があるし、上野師匠だって売春はなくすべきと言っているんですが……。
     石川優実師匠もツイフェミです(これ自体は四章で言及されることですが)。
     確かに石川師匠はネットで大いに暴れている方ですが、まずあの人の著作や主張は、編集者など、ブレーンとなる人物、つまり出版社側の意向が強いと想像でき、また「クソリプ」を捏造するなど、その論調はある意味、ネットを悪だとする坂爪師匠と近しいもの(師匠自身もここを認識し、ツイッターで言い訳めいたことを言っていました)。
     結局、「自分にとって都合の悪いフェミ」を、切り捨てようとしているだけなのです。

     さらに驚くべきことには、坂爪師匠は「ツイフェミの最大の憎悪の対象はフェミニズムそのものだ」と主張するのですから。著名なフェミニストの記事などがよくツイフェミによって炎上するのだそうです(ぼくにはあんまりそういう印象がないんですが)。
     まあ、フェミなんて内輪もめばっかりやってる連中なんだから、そうかもなあとしか思えませんが、さらにさらに呆れたことに師匠はツイフェミは「主流派になれなかった中高年のフェミニスト」が多いと言います。成功できなかった者の怨念がツイフェミを動かしているのだそうです。

     ツイフェミ化した中高年女性のアカウントの中には、フェミニズムや社会運動の世界で主流派になれなかった人が少なくない。修士課程や博士課程で中退・挫折した人、アカデミックポストを得られなかった人、社会活動や労働組合、当事者団体への運営に失敗したと公言している人が散見される。
    (111p)

     いっそさわやかなまでの、弱者への憎悪が光ります。
     以前も松山せいじ師匠の言葉として、近しい説を紹介しました(その時は「行き遅れ」といった側面が強調されていましたが)。そしておそらくこれらは、正しい。しかしだからこそそれを嘲笑うかのような坂爪師匠の筆致には、背筋が凍るのを感じずにはおれません。
     さらに呆れ果てたことに、師匠は「ヒステリックなわめき」でしかなかった女の声を言語化したのが上野師匠を始めとしたフェミニストだったのだとまで主張します。
     左派とは、「大衆を憎む選民主義者」であり、左派がフェミニストに思慕を募らせるのはフェミニストを「エリート女性」だと勘違いしているからなのですが、そこをここまであどけなく吐露した文章を、ぼくは初めて読みました。 
     本書を読んでもミソジニストの定義は書かれていませんが、一つだけはっきりしていることがあります。
     ミソジニストとは、坂爪師匠(に代表される、左派)のことです
     本章の批判対象が、もし「フェミニズム」そのものであったなら、ぼくは師匠を大いに褒めたでしょう。
     しかし師匠は「ツイフェミ」と「フェミニスト」を「分断」しながら、しかしその両者のどこが根本的に違うのかを語らない(ないし、語ろうとして失敗している)。
     北原師匠や石川師匠までが「ツイフェミ」なら、もう誰が「真のフェミ」なのかわからない。
     これはぼくたちが、「表現の自由クラスタ」の言動として、非常に見慣れたものではないでしょうか。

    ・第四章 エロ規制が許せない

     ツイフェミ叩き、第二回戦です。
     本章では『宇崎ちゃん』問題や、それ以前の萌え絵を中心とした炎上事件が総花的に語られます(オタクとは関係のない会田誠の絵画展が「全ての発端」として仰々しく挙げられているのは、何か笑っちゃいますが)。
     ここでは「表現の自由クラスタ」のことを「ツイッターバーサーカー」と称し、「ツイッターアマゾネスvsツイッターバーサーカー」といった節タイトルがあったり(前者はツイフェミのことですね)、またフェミニスト側の「女性差別」という言い分と表現の自由クラスタの「表現の自由」という言い分が噛みあってないと指摘するなど、一見中立っぽく見えるのですが、やはり基本は「表現の自由クラスタ」に親和的。
     その意味で、他の章に比べて比較的、頷ける主張もなされます。
    「規制派」がクレームによってポスターを撤去させるなどの「成功体験」から図に乗ったのだなど、「社会運動」の負の側面が指摘されている部分もなかなかいいのですが、しかしNGOの代表がそれを言うのはどうなんだとの疑問が、またしても頭をもたげます。
     また、「オタクの立場が弱いので叩きやすいのだ」といった指摘もあり、山口貴士、ろくでなし子、柴田英里各師匠といった「お察し」な面々の名を(この人の文章は全編に渡って本人のスタンスが曖昧模糊としていて理解しづらいのですが、恐らく)肯定的に採り挙げたりもしています。

     ただ、肝心の「萌えキャラ、ないしエロは女性差別だ」とのフェミニズムの第一義に対する坂爪師匠のスタンスは、明示されません。
     ツイフェミや表現の自由クラスタの言い分を延々と並べ、その陰に隠れて折に触れて「ツイフェミ」を攻撃しつつ、問題の根本についてはついぞ立場を明確にしない……というのが本章における坂爪師匠のスタイルです。
     フェミニズムを正しいとするならば、当然、「ツイフェミ」の「萌えキャラバッシング」を支持しなければならない。その矛盾から身をかわし、第三者面をし続ける。
     もちろん言うまでもなく、ここは青識亜論を代表とする表現の自由クラスタにも共通した点で、ぼくが彼ら彼女らを信頼できないとする、一番大きな理由でもあります。

     ――しかし、ともあれ、坂爪師匠はオタクの味方とは言えるんじゃないか。

     う~ん、そこがどうも微妙なんですね。
     何しろここでは、「オタクは右派と親和性がある」とのお約束の物言いがなされています(203p)。その理由として出されるのが、「オタクはロボットアニメなどバトル物が好きだから」という、もう、数十年ぶりに聞いたような、バッカみたいなもの。
     いえ、それだけではなく、フィクションを楽しむ、言わば全てを「ネタ」とする相対主義は、「教条的な」リベラルと親和性が低く、また「歴史修正主義」である右派との親和性が高いとの、トンデモない主張もなされます(204p~)。
     スゴすぎます。
     まあ、「右派は歴史修正主義者である」というのは、この人にとっては絶対に動かせない「真理」なのでしょうから、そこは置きましょう。しかし普通に考えて、「価値相対主義」は本来、リベラルの武器だったはずだし、仮に右派が歴史を修正したとしても、修正後の歴史は絶対視されるというのが坂爪師匠の言い分のはず。全くリクツにあっていないのです。
     また、ここで師匠は国家そのものが幻想である以上、歴史もまたある種のフィクションであるとし、以下のように言います。

     こうした保守派のスタンスに対して、「実証性が欠如している」「歴史修正主義だ」という批判をしたところで、あまり意味はない。左派の得意技であるファクトチェックに基づく批判が効かないのだ。
    (203p)

     さすがにここにはひっくり返りました。
     頭に一本も毛が残ってないヤツが「俺はハゲじゃない」と言い張ってるようなものです。一体全体、何を食べて育てばここまでも輝かしい自己イメージを保ち続けることができるのか。
     また、オタクはオカマとも親和性があるとも書かれます。その理由は……はい、ご想像通り、女装コスプレや男の娘ですw
     リアルな女装者が「男の娘」を自称するのをオタクが苦々しく思っているなど、常識なのですが、表のメディアには決して伝わりません。それは、言うまでもなく表のメディアでは「オカマ絶対正義論」が揺らがぬ真理と捉えられており、オタクも世間のコンセンサスに沿った言説を吐かざるを得ないからです。
     この二点(「オタク右派論」、「オタクはオカマが好き論」)は挿話的に語られるのみで、正直、全体的に解釈に苦しむ部分の多い本書の中でも特に意味不明なのですが(そしてまた、普通に考えればこの二つの主張にはあまり親和性がないのですが)、前者は本音をポロリと漏らしたもの、後者は取り敢えずPCに則った発言をしてみたものと想像できます。
     つまり、「オタク右派(というか、ノンポリ)」は、坂爪師匠の中の位置づけとしては、「ツイフェミ」と同じであるように思われるのです。
     師匠は実のところ女性やフェミニストの中でも地位の低い者たちを深く憎悪軽蔑しつつ、政治的理由からフェミを持ち上げている。それと同様、大衆としてのオタクは深く憎悪軽蔑しつつ、業界に近いオタク、つまり「表現の自由クラスタ」のことは政治的な理由から擁護している。
     それが、この文章から仄見えているのではないでしょうか。

  • 【反フェミはこれ一本でおk!】風流間唯人の女災対策的読書・第11回『「許せない」がやめられない』(その2)【ゆっくり解説】

    2020-07-31 19:45
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    https://youtu.be/mNmH5w2w8IA

     前回動画の続きです。
     前回は「ミソジニスト」とやらにブーメランを放ち続ける坂爪師匠の奇行についてご報告しましたが、今回は二章以降、「ツイフェミ」とやらにブーメランを放ち続ける坂爪師匠の奇行についてのご報告です。

     正直、youtuberとして収入を得る、などは夢のまた夢の状況ですが、YOUTUBEの方は登録していただく、高評価ボタンを押していただく、コメントをつけていただくことで再生数が上がるようです。
     どうぞよろしくお願いいたします。

  • 「許せない」がやめられない坂爪真吾

    2020-07-24 19:242
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    【お詫びと訂正のお知らせ】

    弊社刊の坂爪真吾著『「許せない」がやめられない SNSで蔓延する「#怒りの快楽」依存症』の目次において大幅な誤りがございましたので、訂正させていただくとともに深くお詫び申し上げます。

    誤)
    第一章 女が許せない
    第二章 男が許せない
    第三章 LGBTが許せない
    第四章 性表現(規制)が許せない
    第五章 「ジェンダー依存」がやめられない

    正)
    第一章 ミソジニストが許せない
    第二章 ツイフェミが許せない
    第三章 ツイクィアが許せない
    第四章 エロ規制が許せない
    第五章 「弱者憎悪」がやめられない

    今後このような誤りを冒さないよう、またこのような著作を刊行しないよう、真摯に取り組んでまいります。

    徳間書房


     ――と、あからさまななりすましからスタートしました本稿。
     本書については既に動画の方で第一章の解説をしていますが、ブログ記事としても多少、細かく突っ込んでいきたいと思います。
     本書はせっかく描いた自分たちの世界観が間違っていたことが露わになり、自分たちが作った利権を得るルートが断たれてしまうことに怯えた左派が、自分たちを脅かす弱者を何とか抹殺せんと腐心する、仲間たちへの作戦指令書、という意味あいを持っていました。
     というわけで、上の「真のタイトル」毎に、本書のレビューをしていきましょう。
     ただ、その前に、もし動画の方を未視聴の方がいらっしゃいましたら、まずはそちらの方からご覧になっていただきたいのですが……。




    ・第一章 ミソジニストが許せない

    「ミソジニー」が何の中身もない空疎な罵倒句に過ぎないのに加え、坂爪師匠はその「ミソジニスト」とやらの主張に一切反論すること敵わず(というか、賢くも反論が不可能であると理解して)、ただレッテルを貼って切り捨てるのみ……という本章のありさまは、既に動画でも述べました。
     師匠は「ミソジニストたちはただ、ヒステリックに女性を罵っているだけだ」ということにしたいようなのですが、そのような「アンチフェミ」というのはあまり思い至れず、フェミ側の口汚さと比肩するべくもない。
    「ミソジニスト」の論調は「女には穴があり、自分の身体を資産に食っていけて得だ、ずるい」という論調が多いというのが坂爪師匠の言い分だけれども(21p・大意)、ぼく自身はそうした声はあまり多いとも思えない。
     これは師匠に限らず、ミソジニスト批判の定番の物言いであり、「敵はこんなことを言っているぞ」と主張する場面でばかり見る論調であること、「女を宛がえ論」と同じではないかという気がします*1
     また、既に動画で述べたことですが、坂爪師匠は「ミソジニスト」の主張をそれなりに的確にまとめています。そしてそこだけを見ると「ミソジニスト」の言い分が正しいように思えるにもかかわらず、

     彼らの主張を、統計的・学問的な事実を提示して否定することは、きわめて容易である。
    (19p)

     こうしたミソジニストたちによる主張を、統計的・学問的事実を基に論破することはきわめて容易である。
    (26p)


     と豪語している、そして豪語しているにもかかわらず、そうした「統計的・学問的事実」を一切、提示することがないという、全くもって理解に苦しむデタラメぶりです*2。この点についてはさすがに呆れ、ツイでリプを送って指摘したのですが、言うまでもなく無視されました。
     他に、論拠らしきものを示した箇所はもう一つあるのですが、これがまた、極めて奇怪なもの。師匠は(ミソジニストたちはフェミのダブルスタンダードを批判するが、ダブルスタンダード批判などに意味はない、と一蹴した次の行で、自分の書いていたことなどすっかり忘れて)、「彼らの一番のダブルスタンダードは、自分の母親を批判しないことだ(55p・大意)」などと泣きわめくのです。
     意味わかります?
    「そんなに女が嫌いならお前のかーちゃんの悪口も言え」と幼稚園児のようなことを言ってガッツポーズを取っているわけなのですが、世代的に古い、子供まで育てている、つまりはそこまで女性ジェンダーに対しての屈折があるとも思えない女性が、批判の対象にならないのは当たり前なのではないでしょうか。
     本当に「ミソジニスト」とやらが母親を批判することが少ないのかどうか、判断しかねますが(いや、確かにそうした場面はあまり見ませんが)、もう一つ理由として考えられるのは、男性は基本、私ごとを饒舌に語る傾向にないという点でしょう(これと同主旨のことをぼくが著作で述べていることは、本書でも紹介されているのですが)。
     実はふたばちゃんねるだかどこだかのこの種のスレ(アンチフェミスレか、女流漫画家批判スレか……)において、女性と思しき人物が近しいことを言っていて首を捻ったことがあります。「女に文句言うわりに、おまいら、カーチャンが大好きだよな」と。
     いわゆるネットキャラとしての「カーチャンJ( 'ー`)し」に人気が集まっていることを、例外のないネット男性の総意だと考えているのか、それとも、或いは今回の坂爪師匠の言とあわせて考えるに、フェミニスト界隈にだけ、何かの加減で、こうした「ミソジニスト」像ができ上っているのか……。

    *1 この問題については以下の冒頭にまとめられています。
    男性問題から見る現代日本社会
    *2 厳密には第一章の一番最初のページに以下のようにあります。

    男女間の収入格差、家庭内における女性の家事・育児負担率の高さ、管理職・国会議員の女性比率の低さなどを見ても、現代の日本社会が男性優位社会であることは、火を見るより明らかだ。
    (18p)

     しかし師匠は「ミソジニスト」が、女性は社会に出ること、主婦に収まることの二種の選択が用意され、またそもそも男性は社会で働くことが期待されると同時に、その生命や健康が著しく軽んじられていることを指摘している点にも、言及しています。
     つまり、師匠は自分のロジックを論破する主張を紹介しつつ、自分自身でそれに気づけにいるのです。

     もう一つ、驚き呆れたのは、共同親権推進派にも同じく「ミソジニスト」のレッテルを貼り、切り捨てていることです(45p~)。
     妻が子供を連れてフェミニストの息のかかったシェルターへと逃げ、そのままDV冤罪を着せられ全てを失った父親というのは決して少なくなく、実のところ「女災」の中でも一番にラディカルなものといっていい。これはぼくが著作で「予言」した「幼児虐待冤罪」に近く、師匠自身もぼくの本の紹介という形で言及しているのですが、しかし、これに文句を言うのは許されざるミソジニストの振る舞いである、というのが師匠のお考えであるらしい。

     推進派にも反対派にも、意見の異なる相手に対する人格攻撃や誹謗中傷を繰り返している悪質なアカウントが散見されるが、なかでも「離婚ビジネスを営む悪徳弁護士と裁判所が子ども拉致」などといった極端な主張を掲げる推進派の意見には、これまで分析してきたミソジニストの主張と重なるものが非常に多い。
    (47p)


     極端な主張も何も、単なる事実だと思いますが。師匠が「これまで分析してきた」ミソジニストとやらの意見がどう見ても理があり、師匠がそれに何ら反論できていないように。
     しかし、配偶者に裏切られ、最愛の子供をも失った父親すらもここまで平然と罵倒できるメンタリティは一体、どうなっているのでしょう。
     それに、このページのちょっと前では「ミソジニストどもは女とつきあったことがないヤツがほとんどだ(33p・大意)」と嬉し気に絶叫していたのですが、まあ、本書の矛盾をいちいち採り挙げていたら、この地球が太陽に飲み込まれてしまいます

     本書にはいろいろな専門用語が多々登場し、それらに対しての説明は一切ない(恣意的に貼られるレッテルとしてのみ機能している)のですが、これはレッテルのみならず、好意的に扱われる概念にも当てはまります。
    「マスキュリスト」、「メンズリブ」、「男性学」。
     これらワードは本書では好意的に捉えられているようなのですが、まともな定義がなく、「何とはなしに」使われ続けます(いえ、ご当人は明確に使い分けている様子なのに、その説明がないので、読んでいて混乱します)。
     が、敢えて分類するならば「メンズリブ」は90年代初期に興った、伊藤公雄師匠の流れ。「皆さん、フェミニズムに平身低頭し、男に生まれた罪を一生かかって懺悔し続けましょう」というのがその教義です。「男性学」はそれらを根拠づける理念、ガクモンとしてのそれという感じでしょうか(日本で「男性学」を興したのは渡辺恒夫ですが、後から出てきた伊藤師匠が乗っ取り、自分が一番乗りであるかのように振る舞っていることは、繰り返し述べていますね*3)
    「マスキュリズム」は近年に興った、日本では久米泰介師匠がリーダーシップを執る、フェミニズムに敵対的ではあるがジェンダーフリーには親和的な一派、という感じでしょうか。
    (久米師匠が共同親権推進派であることを考えると、ミソジニストではないとするのはこれまた奇妙なのですが、本書の矛盾をいちいち気にしていたら、この宇宙の歴史が終わってしまいます
     坂爪師匠は「男性内部での差異を無視した上で、「立場は違っても男はみんな生きづらいのだ」という側面を誇張してアンチフェミニズムへと走る(56p)」者がミソジニストやインセルだという奇怪な定義をしており、これを信ずるなら、マスキュリズムは「男性内部の差異」を無視しない者たち、要するに「強者男性」を「ラスボス」にする思想、ということになりそうです。
     赤木智弘師匠など、近年の「フェミ回帰組」に見られがちな、「でも一番の悪者、ラスボスは男なんだ、ママごめんなさい」理論です。
     となると(実態がどうかは置くとしても坂爪師匠の中では)結局、マスキュリズムもまた「フェミニズムに平身低頭する思想」でしかないのでしょう。

    *3 例えば、以下を参照。
    夏休み男性学祭り(その1:『男性学入門』)


     本書ではぼくの著作も、それなりに的確なまとめがなされています。
     もちろん、だからといって肯定的に扱われているわけではなく、ここでも「批判」はせずただ「否定」するという手法が使われています。動画にもあるように坂爪師匠はぼくの著作を(何ら根拠なく)「ミソジニストのバイブル」としているのですが、こうレッテル貼りした時点で、師匠的には自分の大勝利なのでしょう。
     ただ、ちょっと奇妙なのは、ぼくの「メンズリブ批判」を拾っていること。
     これはメンズリブが「男が主体として、一人称で語る運動たり得なかった」というもので、師匠はこの部分を肯定も否定もしていないものの、(この人の文章は曖昧模糊としていて、本人の意図を読み取ることが極めて困難です)メンズリブ自体が「外れ」だったとは感じているようで、そこに共感を示したのかもしれません。
     もっとも、目下のツイッターにおけるアンチフェミの言動はそうした「男性が一人称性を取り戻したことそのもの」であり、師匠はそれを全否定しているのですから、内容までも正確に理解したというよりは、「自分でもよくわからぬままに何とはなしに採り挙げてみた」といった辺りが、実情である気がしますが……。

     ――さて、というわけで今回はここまで。
     次回また続きについて述べますので、どうぞご覧ください。
     先にも書いたように、本書はこれからフェミ側の「アリバイ」として機能する本のはずですから……。


    【お詫びと訂正のお知らせ】

    当ブログのタイトル誤りがございましたので、訂正させていただくとともに深くお詫び申し上げます。

    誤)
    『許せないがやめられない坂爪真吾』

    正)
    坂爪真吾『許せないがやめられない』

    の過ちでした。著者名を入れる順序やカッコの位置が間違っていたがため、「本当に許せないがやめられずにいるのは坂爪を初めとする左派だ」との、本書への的確な批評を含んだタイトルのように見えてしまったことについて、深くお詫び申し上げます。