田畑 佑樹さん のコメント
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「軽い肺炎」を庇ったままゲンロンに出たら、結果として熱が40度まで上がって咳と痰が3倍付けになってしまった笑。前回、「仕事がオーヴァーフローして倒れてしまった」と書いたその口で、ゲンロン1発で再び(もっと酷く笑)倒れてしまったという形。あまりに咳と痰がひどいので、またコロナかなと思い、あらゆる感染症のチェックをしたが、すべてネガティヴだったので、まあまあ良かったとはいえ、今、ロキソニンで解熱こそしているが、昨夜39~40度台を往復したので、目と指先しか動かせない状態で書いている。特に「 Hair Cut 100 」のチケットを入手していた方々には大変申し訳ありません。何もかもあずまんが悪い、というか僕が悪い、というかそもそも松尾くんが全部悪い笑。もう本当に政治ブーム終わってほしいよ麻辣湯ブームぐらいのもんなんだから。
というか、シンプルな話で、歴史の反復性(帝政や王政の復古や日本の右傾化)といった、巨視的な話、というか、<ネタ>はともかく「誰も彼も=素人もバカも、戦争について真剣に語る」「事が」「ブーム」なんて、こないだのゲンロンに沿っていえば、サイレント転向して左翼リベラル化した新人類バブル世代と、上の世代への嫉妬から自分の世代に呪いのようにしがみつく就職氷河期世代、団塊ジュニア世代という、本来、結束する根拠がなかった3世代の人々が、歴史の反復という大事実と、「 X のお友達」トランプの出現によって一丸となっただけで生じたモンで、火鍋とラーメンとブッフェが健康志向と刺激という火力でマッシュアップしてでき上がった麻辣湯ブームと大差ないでしょ。
麻辣湯のたとえ、あまりにハマっていて噴き出してしまいました(笑) たしかに、「Xのお友達」トランプの出現によって一丸となった世代は、エモさだけでパンドイッチにさせられた震災・シンゴジラ・新海誠と同じくらいに、本来束ねられる根拠もないのに同種に扱われていると思います。
そして「束主義」というのは「ファシズム」の直訳ですね(笑) 私は外山恒一による「ファシズム」再評価を好意的に受け止めたクチですが、「ファシズム」を邪悪な敵として扱う人々も、せめて身近な場所で束にされている一本一本の内容を把握してくれたらいいのにと思います。そこでは本来ならコンプレックス=複合体であるはずのものが、実はらしくもない一面性にいつのまにか妥協・野合しているという事態までもが考えられ、それは紛れもなくファシズムやナショナリズムの悪しき側面でしょう。
シラスで有料配信中の動画を昨晩観たのですが、その中で特に面白くも不発に終わってしまった瞬間は、蓮實さんという父王の影をチラつかされて興奮してきている東さんが「そもそも映画評論の問題って…」と迂回しながら攻撃しているとき、いきなり菊地さんが「あの頃の映画評論家は、古典的なゲイが多かったですよね」と言い、それを「古典的な芸」と聞き間違えたのであろう東さんが不意を突かれたようになり、体勢を整え直しつつも「うん、あの、僕はそういう方向の話はできないけれど」とそれ以上の言及を控えた、あの流れでした。
大学院を出て思想をやりながら本を書き続けている人の抱えるエディプス複合というのは、淀川長治さんが実践していたような強すぎる「父権」への反抗、というか端的な憎悪と破壊行為(父は母をとてもひどい目に遭わせたので、自分が子供を作らないことで淀川の血を絶やす)と比べると少年漫画の青春譚のようなもので、淀川さんと同じように高卒で父親のことはよく知らなくて母親に愛されすぎたゲイである自分にはとても実感として理解できないものだったのですが、あのとき蓮實さんという父王の影のまわりを迂回している東さんに対し、菊地さんが「ゲイの映画評論家」という仄めかしによって淀川さんを召喚しようとしたのは、(結果的に東さんはそれを歓迎しなかったとはいえ)見事な流れだったと思います。そもそも、父王=蓮實でさえも恐れていたのが淀川さんだったので(笑) もちろん淀川・蓮實のあいだにエディプス複合は無かったと思いますが(先述の「子を持たない」決心によって、原理的に成立不可能)、あのとき菊地さんは蓮實重彦という氷塊に淀川長治という熱湯を流し込むことで、東さんが置かれているエディプス複合を相対化する意図があったのかもと愚考します。
話が飛ぶわけではないのですが、平井堅の『いてもたっても』という、松尾潔さんが関わっていない曲のビデオ(曲とビデオのリリースが2019年で、公式チャンネルにフルの動画が上がったのが去年末?)がケネス・アンガーとクラウス・ノミみたいだという評判(ビデオの監督は女性)をきいて観てみたのですが、「たしかに映像はアンガーで衣装がノミかもしれない、ああわかるよこういう急な変身って20世紀のゲイ感ある、でも曲はそんな変転する展開じゃないからあまり食い合わせが…でもアンガーの映画で使われてたポップスも構成は平坦だったからいいのかな…ところで平井堅っていまこんなオートチューンかましてるんだ、普通に唄ってあれだけ巧いのに、なんかBron-Kみたいに聴こえる…」と、ゲイ軸から評価するとあまり座りがよいものではなく、これが松尾潔=本格派風なシス男性のプロデュースを受けたあとの余波だったとしたら、文字通り「ボーイズクラブ」的な生きづらさを及ぼしてしまったと言えるかもしれません(笑)
「日本の映画批評家って、ある時期までは古典的なゲイ男性が多かったじゃないですか。淀川さんですらテレビ仕事ではそんな出してなかったけど、荻昌弘さんくらいになると、無難なノンケ感みたいなのが定着してね。もう蓮實さんなんてご結婚なさってお子さんもいらして、息子さんは大変惜しくも亡くなられましたけどね、しかし直接的な教え子の数だって相当なものでしょう。蓮實さんというのはもう知的な父性権威、ニーチェやフロイトが言うところの "父祖が石板に刻んだ掟" そのものみたいな人だったと思うんですけど、ここにゲイ性を導入するだけでいろんなことが融解すると思うんですよね。実はオイディプスにすらならなくていい可能性というか、ニーチェのゲイ性とか、フロイトが娘のレズビアン性を見抜いてあげられなかった盲点、みたいなね…どうですか東さん」
「80-90年代にすごいヒットを飛ばしたプロデューサーでありコンポーザーでデズモンド・チャイルドっていたでしょ。あの人キッスとかボン・ジョヴィとかいかにもノンケっぽいバンドと仕事したけど、ゲイでね、いつカムアウトしたかは知らないけど。しかも彼、母方が亡命キューバ人の血筋でね、もちろんキューバイコールゲイ差別なんて単純化しちゃいけないですけど、80年代アメリカのハードロックな、ボーイズクラブ的な構造というのかな、そこで自分のゲイ性を抑圧したまま生きるってのは同じくらい苦しかったと思うんですよね。そこでリッキー・マーティンという、彼自身も実はゲイであるシンガーと組んで90年代末にものすごいヒットを飛ばすっていうのは、救いみたいなものだったのかなあ。メヌードっていうね、悪質な性加害についてのドキュメンタリーまで作られてるグループの元メンバーだった人ですけど…いずれにせよメジャー音楽業界におけるボーイズクラブ的な構造というのは、直接にものを言えなくしてしまうことがありますよね。松尾さんもプロデューサーとしてどうですか、デズモンド・チャイルドみたいに自分で弾き語りはされないけど、同じくらいヒットが多いじゃないですか」
↑とか、なんで誰も言わないんだろう? と、菊地さんがマイルス生誕100年に寄せて書いておられた "彼がギリでクイア・カルチャーに片足突っ込んでいたなんて、言ったら怒られるか? でも誰に? 根拠は?" の件と全く同じようなことを思います。2020年代においても、人間は束縛状態から一本紐を解いてラクになるとか、逆に単体だと細くて頼りないものを束ねて丈夫にする技法とかを遠ざけているんだな、などの知見が一挙に伝わってくる、とても良い5時間放送でした。
私は今まで東浩紀に対して敬称をつけることなど思いもしなかったのですが(笑)、あの放送で東さんが過去のエレクトーン稽古を回顧しつつ「その経験は自分の中にもう無い」みたいなことを漏らし、最終的には「音楽を失った人々すべてに音楽を取り戻したい」と菊地さんが言うまでの流れは、本当に美しく、自己束縛的なボーイズクラブ的構造(笑)とはまったく別の、柔和な解放をめざした知と技のありかただったと思います。
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