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田畑 佑樹さん のコメント

 ルアンさんの新譜リリースを直前に控えたタイミングで(加えて、日記の内容とほぼ関係がない内容なので)これを書くのは恐縮ですが、『ポカポン』のサウンドトラックを繰り返し聴かせていただいております。とくに『柔らかいかもしれない、尖った気持ち』の(『尖った金属』のほうも凄いのですが、それよりもむしろ)、ビットクラッシュされたように聴こえる金属音(打ち込み音源のハイハット?)の左右パン連打による、聴き心地のストレスは皆無に等しいにも拘らず伝わってくる明らかな暴力性のようなものに驚かされ続けています。
『ポカポン』サウンドトラックのミキシング作業は、工房のトラックメイカーさんがミックスしたのをそのまま使ったのでしょうか、それとも mimi-tab 等のエンジニアさんにパラで渡してミックス依頼したものでしょうか? 『岸辺露伴』の製品版ブックレットにマスタリングエンジニアのクレジットが無かったあたりからバックグラウンド工程について知りたく思っていたのですが、開示できる範囲でご教示いただけましたら幸いです。

 ところで、『マイケル』を飛ばして今日『シラート』を観てきたのですが、公式がネタバレ厳禁を呼びかけているので勿論そのような要素は書かないとして、劇中の世界観がどうにも戸塚ヨットスクールみたいで、ちょっとどうしたものかと思ってしまいました(笑) 監督来日時の質疑応答もすべて見たのですが、彼が10年前のチャゼルのようなパンチドランク稼業のプッシャーだとはとても思えないために、余計な心配とはいえソワソワします。私が『柔らかいかもしれない、尖った気持ち』に聴いたような暴力性とはまったく別の「暴力性」がありました。
 先ほどDommuneでの『シラート』特番トークが終わりまして、相変わらず素晴らしく鍛え上げられた宇川さんの性善説バイブスに対する敬意を新たにしましたが、この映画はどうも、レイヴカルチャーラヴァー外部者からの適切な批評が必要な映画だという気がしています(笑) 少なくとも、監督が『シラート』に込めたイスラーム的モチーフがどこまで有効で/どこからがマズいかの分別がつくようになるには数十年規模の時間が必要だと思われ(そのためにはエンドロールの「使用楽曲リスト」に直接言及する必要があるのですが、それさえネタバレになりかねないので)、私からすると『シラート』にイスラミックな要素を読み取ってなんとか20世紀的批評を成り立たせようと思っているらしい人々の姿は、80年代マイルスの作品名から南アフリカへの政治的連帯をシリアスに読み取りたがっていた人々と同じくらいの「ご苦労さん」加減を感じます。正直に書くと、歴史的・地理的にイスラームの影響が大きいスペインのローカリティから女性の政治的連帯やゲイ・レズビアニズムを当たり前に汲み上げ続けていたアルモドバルのほうが、政治的にも美学的にも見事な手つきだったと思います。それ以外にも『シラート』の監督はあらゆる意味でアルモドバルの真逆みたいな作風で、色々な意味でよくこれプロデュースしたなと思いましたが、これについても書くとネタバレになるので止します(笑)

 その前日に『マイケル』まできているので、70-80年代ソウル→ポップスとレイヴの両方でこれだけ興味深いタマを輸入している日本は、実に恵まれていると思います。『マイケル』は『ボヘミアン・ラプソディ』の制作陣がついているらしいですが、中学生以来のクイーンファンである私が観ても『ボヘミアン〜』は「クイーンの音楽は素晴らしい。そしてその素晴らしさは、この映画の出来とは何も関係がない」と思わざるを得なかったので、今更あれと同じ経験をMJでしたいと思うファンがいるのだろうか? という点にまず興味があります(私よりハードコアなクイーンのファンですら、あの映画以来むしろクイーンについて積極的に語らなくなったのですが、いま私程度のMJファンでも「MJの楽曲はいつでも聴いてるけど、いま劇映画やってるなら、しばらくはMJについて何も言わないようにしようかな…」と思わされる何かがあります)。
 ちなみに『ボヘミアン・ラプソディ』の監督(途中降板)であるブライアン・シンガーは、男性への性加害裁判の途中で被害者側の立証が微妙になり、それで決着がついたのかつかなかったのか、最終的にブライアン・シンガーはイスラエルに拠点を移したようです。性犯罪者に一番優しい国(「ジューイッシュ」限定ですが)だからなのかな、と言い捨てるのは簡単ですが、クイーンの伝記映画関連で同性への加害事件が発火して、その延長線上に『マイケル』がある件は、あれほど『ボヘミアン〜』に熱中していた観客のうち何割がノれる話なのかと思わされます。
 間違いなく平均的な善人以上であるブライアン・メイですら、かつてブライアン・シンガーのインスタグラム投稿に「いいね」を押したことがある「かど」を「告発」され、後に謝り直していましたが、『マイケル』公開から数年規模でどの程度の「論戦」や「告発」が持ち上がるのかについても、自分には未知数に思われます。菊地さんがXにお書きになっていたとおり、その時こそ「声を上げる」人々の力量が問われると思いますが(笑)
No.1
19時間前
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 菅原洋一が亡くなって、そりゃあ故人がシャンソン出身の歌謡歌手として(亡くなるまで現役で、シャンソニエとしてジャンルミュージックに殉じた、生涯バイウエイの歌手だったことは言うまでもないけれども)テレビに毎日のように出演していた頃、それはテレビジョンの黄金期で、僕も毎日のように見狂っていたのでよく覚えているし、紐づけられた記憶がどさーっと山のように引きづり出されるような所はあるのだが、僕は90過ぎた人間というのは、ほとんどが半分は死んでいると思っていて、良くもまあ「人生100年時代」という、楊貴妃不老不死のプロレタリア版みたいな事をメディアは言うよなあと思った。    前にもちょっと書いたが、日本人の平均寿命は、医学の発展&公衆衛生の向上とガッツリ関わっている。戦後の高度成長期に、日本人の平均寿命は50代から80代へと一気にハイジャンプした。少しずつ少しずつと伸びていったのではない。これには「乳幼児の死亡率」という、これぞまさに数のカラクリ、というポイントを抜けば(各自検索)、結核に対する治療法の確立(抗生剤という概念の結実と使用開始)、公害の減衰と一般的な公衆衛生の激的向上(オリンピックに向けて)、更には問答無用の死病とされていたガン治療の発達、等々によって、大ジャンプを果たし、21世紀に入って、全く同じ構造で、60が80へ、そして80が100へ。という形で伸びているのだが、これはつまり、社会風俗、政治経済の預かり知らないところで(国民皆保険の制度化は大きいだろうが、医療法などは後付けであって、何せともかく薬品開発をはじめとした医療テクノロジーの向上が押し上げているのである。    何が言いたいのかというと、我々は環境とテクノロジーによってどんどん長生きさせられているわけで、これは、人間側の要請というか、人間が「誰だって1ヶ月だって長生きしたい」という前提に立たないと実行できない。この件は例の「誰だって反戦であって、好戦者はいない」が前提になるかどうかの話と同一線上にある。社会風俗、政治経済以前に、人間側の多様性と個人の尊厳が失われている。    僕は、もし人間の平均寿命が100になったら、90超えの人々には尊厳死の権利を国が与えるべきだと思う。ゴダールが示したことはこれだ。  
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