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小野ほりでい
『オモコロ』や『トゥギャッチ』などのサイトでイラスト入りのコラムを連載中。特に『トゥギャッチ』の連載に登場するエリコちゃんとミカ先輩はネットの人気者。
私もまた、この「個性的でなければならない」という強迫観念を引きずったまま大人になったたちだ。この文章を読んでいる一部のあなたもそうだろう。この考えがいかに私を、私たちをまっとうに幸せな人生を歩むことから遠ざけたか、その罪を数えだしたらきりがない。
例えば、だ。幸せになるということは、就職して、結婚して、子供を育てて、年に二回海外旅行に行くことだろう。また、そのために取るに足らない平凡な努力をこなすことだろう。だが、「個性」という呪いは、そういった平凡な救いを許してくれない。だって、個性的だということは特別だということで、努力をするということは自分が特別ではないと認めるのに他ならないからだ。だから私たちは平凡な努力をする人たちを軽蔑する。あるいは、平凡な生活を守るためのなりわいの、平凡なストレスを和らげるために、年に二回の旅行に行って、その程度のことで救われているさまを軽蔑する。
だが、どうだろう? 私たちの精神の器はいずれ平凡な肉体で、恐らく「個性的」な私たちだって、年に二回の旅行で救われるだろう。
素敵な恋人がいたら救われるだろうし、結婚したら救われるだろうし、子供がいたら救われるだろう。おいしいものを食べて救われるし、友達とふざけて救われるし、面白い映画を観ても救われるだろう。もし私たちがありきたりな全てに救いを求めたら、私たちは幸せになれるはずだろう。
しかし、私たちはそうしない。だって、今さらそんな平凡なものに救われたら、それこそ自分が特別でなかったと認めるしかなくなるからだ。今まで意固地になって、そんなもので「特別な」自分を救えはしないと目を背けてきた平凡なものたちが、もし自分をかんぺきに救えるとしたら、それはとても残酷なことだ。
だが、ありていに言って私たちは平凡だった。平凡だから、平凡なものに救われてしまう。もし幸せになりたければ、今すぐ平凡なすべてに救いを求めればいい。だが、自分は特別な人間だから、平凡なものには救われないはずだというその幻想を守るためだけに、そうしないでいるのだ。私たちが「個性」というもののために払う代償は、それだけ大きい。
※本記事は週刊アスキー4/14号(3月31日発売)の記事を転載したものです。
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