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どうも、
管理者のNDです。
3月11日は、
東日本大震災(2011)から早8年です。
地震自体の正式名称は、東北地方太平洋沖地震と気象庁が正式に命名した地震です。
この地震は国内の有史に残る記録も含めて、M9.0という想定をはるかに超えた
国内で唯一観測された"超巨大地震"です。
地震の揺れ自体は比較的弱かった明治三陸地震よりも規模が強く、
この地震では皆さんの記憶にも新しいように、北海道~中部地方という広範囲で
震度5弱以上の地震が襲い、宮城県栗原市では震度7を速報段階で正式に観測した初めての地震です。
この地震で有感を観測しなかった都道府県は、宮崎県と沖縄県のみで地震動の範囲も全国的でした。
貞観地震以来ともいわれる1000年に一度クラスの地震は、地震当時、私も被災して
非現実的な社会となり、大混乱に陥った首都圏と、その後の深刻な原発事故から
我々全日本人に限らず、世界各国にまで衝撃を与えたまさに大震災の名に相応しい、
間違いなく一生のうちで最大と言える地震になりました。
いうまでもありませんが、太平洋側一帯は津波が襲来し、東北太平洋側の沿岸は空港も農地も、
家屋も家畜も人も流され、希望を失い、夜には引火して気仙沼市が火の海に包まれる
映像も記憶に新しい人がいると思います。
岩手県大船渡市では最大遡上高が40.1mというとんでもない大津波となりました。
東北に被害はとどまらず、関東や北海道も津波の被害を受けましたが、
範囲は国外のハワイやアメリカ西海岸にまで及び、死者も出るという事態になりました。
チリ地震の時で日本が経験した遠地津波が、向こう側で発生したのです。
M9.0という規模の地震はもはや世界規模で危険なエネルギーなのです。
どこぞのネット記事にも中々書いていないことを、折角なので書くと
震災直後、テレビでは東北の一つの村が「壊滅的」というワードが用いられていました。
実際に壊滅的だったのは本当の意味で、当日中ではまだ数十人死亡という文字が、
翌日には「新たに数百人の遺体」というワードも飛び交い、もはや打つ手も希望もないような
被害報告が淡々とされていた臨時報道が永遠とされていたのを記憶しています。
また、先日の副振動の記事にも書きましたがこの地震で富士五湖周辺でも副振動が生じ、
津波と似たような現象が起きたとされています。また、この大地震で実は地球の自転にも
ごくごく僅かですが年間1.8マイクロ秒短くなるという影響を受けました。
500年強でうるう秒が一つ消滅する――と言われてもパッとはしないでしょうが、
それだけ地震エネルギー自体が地球に変動も与えたということになります。
そして、報道の面では原発の事故があらわになってきたのは、11日中では全くなされず
12~13日になってからようやく報道され始めました。
津波注意報の範囲もその日より12日の方が日本海側も含む日本全土という異例の地図、
どんな災害でもこのようなものは目にしたことがありません。
しかし、私は11日の大地震中に親に電話を掛けた時、あの時はまだ留守電で繋がっていました。
無論20分もすれば大混線となり、50回かけても繋がらない状態でしたが、携帯の機種や場所に
よっては比較的繋がりやすい状態にもあったのか、一部の人には即繋がることもありました。
また、当時主流のeメールは自動受信が止まっていて「新着問い合わせ」の項目を初めて使う
ことにもなりました。そして自分の携帯にも届いたチェーンメールには、
千葉の石油コンビナート火災で汚染された雨が降るという内容が関東中に飛び交いました。
もちろんデマでしたが、当時の自分もこのチェーンメールを受けて知人に拡散してしまっています。
全てが未経験というこの事態は、本当に気が動転するものだということを現代の文化の
恐ろしさと共に実感しました。もちろん11日の夜は全く寝れなかったです。
親は会社の片付けに追われて、その日は深夜すぎに帰ってきましたが
コンビニにカップラーメンがなくなっているばかりか、
24時間営業のコンビニも数日店休になるなどという恐ろしい事態になりました。
尚、自分もこの日は電車が全て運休したため、青梅街道を歩きましたが
ここまで人がいるのかと目を疑う程、駅から離れた場所も人だかりで溢れていました。
その途中でも地震で電線が揺れていたり、商店からちらっと見えるテレビからは、
津波の映像と共に、ひっきりなしに震度5以上の地震情報が上に流れ続けてもはや
どの地震のことを言っているのか分からない状態、テレビでは夜中から誤報の緊急地震速報が
流れ出すようになり、その中の一つに栄村大震災が混ざっていて
最初は地震速報さえも誤報と疑うほど、何でもありの状態でした。
そして関東の人なら経験したでしょうが、12日の朝になって耳にしたのは深刻な電力不足。
このせいでスーパーなどあらゆる場所で真っ暗で外からじゃ開店中かわからないような状態に
なっており、電車は間引き運転で再開しても速度が遅かったり通常の○○%程度の運転――
といったことが一週間程度にわたっておきました。それから東電管内は未だ原子力発電を失い、
火力に頼る日々が続いています。3.11がなければ今も安全神話が語り継がれる中で、
原子力発電は続けられていたのかもしれません。
その年も自粛ムードは非常に強く、自分の要とも言える夏のイベントさえも
大きく縮小され、あの時は大きく意気消沈しました。
もうあんなことが一生のうちに起きないことをただひたすらに祈るばかりです。
今回は、
「希望を受け取るという考え方」をテーマにお伝えします。
8年経った今でも人に植え付けた地震と津波は、決して衰えることのないインパクトとトラウマを
与えられています。しかし、それを決して恐怖や自然への怒りや怨念などとマイナスに捉えず、
あの大震災を今は生き延びることができたこと、そして亡くなった人達を決して無駄にしない為に
あなた自身が前を向いて生き続けてください。あなたは強くなっていくのです。
人の死は決して無駄な終わり方はしません。大衆からみようが個人で見ようがどんな些細なことも
この世界を動かしています。特に自然災害では多くの方が亡くなります。
その一人一人の亡くなり方にはどれも意味があります。反面教師で切り捨てる言い方も悪く言えば
そうなのかもしれませんが、どうすればその人が生存できたのか、そして自分が同じ立場なら
どうしていたか、亡くなった人の代わりになって考えることで、次に同じ局面が仮に来ても
今度は生き延びられる算段が生まれるのです。いつまでもくよくよせず、残された我々が
進んでいくことで、自分自身も街も復興が進んでいきます。
希望を持ち続けて、これからも生きていってください。
もうすぐ常磐線も来年には再開通します。崩れ去りそうだった町に希望の兆しがあります。
地方を今一度また、栄させるためにも、現地民のモチベーションは絶対条件です。
論理的思考で避難が一番と考えるよりも、その場に残り復興を目指してやり直す方が
ただ新たな生活を営もうとするよりも、人生は楽しく輝きます。理由としては、
目標がしっかりと明確になるからです。そして目標を共有することだってできます。
地方にはそういうメリットがあります。厳しい立場に置かれてはいますが人々の
モチベーションこそが、その地域を発展させることも衰退させることもできるのではないかと
自分は考えています。後世にもその地に住められるよう、まずはあなたから努めていってください。
今日の記事は以上です。
皆さんの防災意識に少しでもプラスすることができたら嬉しいです。
明日もどうぞお楽しみください。
尚、感想はブロマガコメント欄でも放送内のコメントでもお気軽にどうぞ。
管理者のNDです。
3月11日は、
東日本大震災(2011)から早8年です。
地震自体の正式名称は、東北地方太平洋沖地震と気象庁が正式に命名した地震です。
この地震は国内の有史に残る記録も含めて、M9.0という想定をはるかに超えた
国内で唯一観測された"超巨大地震"です。
地震の揺れ自体は比較的弱かった明治三陸地震よりも規模が強く、
この地震では皆さんの記憶にも新しいように、北海道~中部地方という広範囲で
震度5弱以上の地震が襲い、宮城県栗原市では震度7を速報段階で正式に観測した初めての地震です。
この地震で有感を観測しなかった都道府県は、宮崎県と沖縄県のみで地震動の範囲も全国的でした。
貞観地震以来ともいわれる1000年に一度クラスの地震は、地震当時、私も被災して
非現実的な社会となり、大混乱に陥った首都圏と、その後の深刻な原発事故から
我々全日本人に限らず、世界各国にまで衝撃を与えたまさに大震災の名に相応しい、
間違いなく一生のうちで最大と言える地震になりました。
いうまでもありませんが、太平洋側一帯は津波が襲来し、東北太平洋側の沿岸は空港も農地も、
家屋も家畜も人も流され、希望を失い、夜には引火して気仙沼市が火の海に包まれる
映像も記憶に新しい人がいると思います。
岩手県大船渡市では最大遡上高が40.1mというとんでもない大津波となりました。
東北に被害はとどまらず、関東や北海道も津波の被害を受けましたが、
範囲は国外のハワイやアメリカ西海岸にまで及び、死者も出るという事態になりました。
チリ地震の時で日本が経験した遠地津波が、向こう側で発生したのです。
M9.0という規模の地震はもはや世界規模で危険なエネルギーなのです。
どこぞのネット記事にも中々書いていないことを、折角なので書くと
震災直後、テレビでは東北の一つの村が「壊滅的」というワードが用いられていました。
実際に壊滅的だったのは本当の意味で、当日中ではまだ数十人死亡という文字が、
翌日には「新たに数百人の遺体」というワードも飛び交い、もはや打つ手も希望もないような
被害報告が淡々とされていた臨時報道が永遠とされていたのを記憶しています。
また、先日の副振動の記事にも書きましたがこの地震で富士五湖周辺でも副振動が生じ、
津波と似たような現象が起きたとされています。また、この大地震で実は地球の自転にも
ごくごく僅かですが年間1.8マイクロ秒短くなるという影響を受けました。
500年強でうるう秒が一つ消滅する――と言われてもパッとはしないでしょうが、
それだけ地震エネルギー自体が地球に変動も与えたということになります。
そして、報道の面では原発の事故があらわになってきたのは、11日中では全くなされず
12~13日になってからようやく報道され始めました。
津波注意報の範囲もその日より12日の方が日本海側も含む日本全土という異例の地図、
どんな災害でもこのようなものは目にしたことがありません。
しかし、私は11日の大地震中に親に電話を掛けた時、あの時はまだ留守電で繋がっていました。
無論20分もすれば大混線となり、50回かけても繋がらない状態でしたが、携帯の機種や場所に
よっては比較的繋がりやすい状態にもあったのか、一部の人には即繋がることもありました。
また、当時主流のeメールは自動受信が止まっていて「新着問い合わせ」の項目を初めて使う
ことにもなりました。そして自分の携帯にも届いたチェーンメールには、
千葉の石油コンビナート火災で汚染された雨が降るという内容が関東中に飛び交いました。
もちろんデマでしたが、当時の自分もこのチェーンメールを受けて知人に拡散してしまっています。
全てが未経験というこの事態は、本当に気が動転するものだということを現代の文化の
恐ろしさと共に実感しました。もちろん11日の夜は全く寝れなかったです。
親は会社の片付けに追われて、その日は深夜すぎに帰ってきましたが
コンビニにカップラーメンがなくなっているばかりか、
24時間営業のコンビニも数日店休になるなどという恐ろしい事態になりました。
尚、自分もこの日は電車が全て運休したため、青梅街道を歩きましたが
ここまで人がいるのかと目を疑う程、駅から離れた場所も人だかりで溢れていました。
その途中でも地震で電線が揺れていたり、商店からちらっと見えるテレビからは、
津波の映像と共に、ひっきりなしに震度5以上の地震情報が上に流れ続けてもはや
どの地震のことを言っているのか分からない状態、テレビでは夜中から誤報の緊急地震速報が
流れ出すようになり、その中の一つに栄村大震災が混ざっていて
最初は地震速報さえも誤報と疑うほど、何でもありの状態でした。
そして関東の人なら経験したでしょうが、12日の朝になって耳にしたのは深刻な電力不足。
このせいでスーパーなどあらゆる場所で真っ暗で外からじゃ開店中かわからないような状態に
なっており、電車は間引き運転で再開しても速度が遅かったり通常の○○%程度の運転――
といったことが一週間程度にわたっておきました。それから東電管内は未だ原子力発電を失い、
火力に頼る日々が続いています。3.11がなければ今も安全神話が語り継がれる中で、
原子力発電は続けられていたのかもしれません。
その年も自粛ムードは非常に強く、自分の要とも言える夏のイベントさえも
大きく縮小され、あの時は大きく意気消沈しました。
もうあんなことが一生のうちに起きないことをただひたすらに祈るばかりです。
今回は、
「希望を受け取るという考え方」をテーマにお伝えします。
8年経った今でも人に植え付けた地震と津波は、決して衰えることのないインパクトとトラウマを
与えられています。しかし、それを決して恐怖や自然への怒りや怨念などとマイナスに捉えず、
あの大震災を今は生き延びることができたこと、そして亡くなった人達を決して無駄にしない為に
あなた自身が前を向いて生き続けてください。あなたは強くなっていくのです。
人の死は決して無駄な終わり方はしません。大衆からみようが個人で見ようがどんな些細なことも
この世界を動かしています。特に自然災害では多くの方が亡くなります。
その一人一人の亡くなり方にはどれも意味があります。反面教師で切り捨てる言い方も悪く言えば
そうなのかもしれませんが、どうすればその人が生存できたのか、そして自分が同じ立場なら
どうしていたか、亡くなった人の代わりになって考えることで、次に同じ局面が仮に来ても
今度は生き延びられる算段が生まれるのです。いつまでもくよくよせず、残された我々が
進んでいくことで、自分自身も街も復興が進んでいきます。
希望を持ち続けて、これからも生きていってください。
もうすぐ常磐線も来年には再開通します。崩れ去りそうだった町に希望の兆しがあります。
地方を今一度また、栄させるためにも、現地民のモチベーションは絶対条件です。
論理的思考で避難が一番と考えるよりも、その場に残り復興を目指してやり直す方が
ただ新たな生活を営もうとするよりも、人生は楽しく輝きます。理由としては、
目標がしっかりと明確になるからです。そして目標を共有することだってできます。
地方にはそういうメリットがあります。厳しい立場に置かれてはいますが人々の
モチベーションこそが、その地域を発展させることも衰退させることもできるのではないかと
自分は考えています。後世にもその地に住められるよう、まずはあなたから努めていってください。
今日の記事は以上です。
皆さんの防災意識に少しでもプラスすることができたら嬉しいです。
明日もどうぞお楽しみください。
尚、感想はブロマガコメント欄でも放送内のコメントでもお気軽にどうぞ。
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読了報告がてら、私からも一筆啓上させて頂きます。
死者を悼み、3.11に発生した地震の記憶を呼び覚まし、それを後世に伝えていく。
それは当然大切な事です。今後も風化させず、後世まで伝えていく必要はあるでしょう。
ただ、忘れてはならないのは、誕生日や記念日が3.11に重なってしまう人は、今後一生重なり続けてしまうわけで。
一生祝えない記念日を抱えるのは辛いですし、そういう人が居ることに心を痛めている人も居ます。
被災地のことは気にせず、とまでは言いませんが、そこは切り分けて祝うのも心の復興の第一歩。
確かに、震災当初こそ大規模な式典、国家ぐるみの慶事などは避けるべきで、それこそ自粛が必要だったことでしょう。
でも一生や一年に一度、そういった大事な人生の節目まで奪われ続けてなければならない理由は無いはずです。
被災者を想うこと、それが祝うことの自粛とイコールでは無いはずで、両立させることは絶対に出来る。
そこをはき違えないで欲しいですし、そういったことを言ってくれる人が多くなってきた事自体、心の復興が少しずつでも進んできたかな、と個人的には思います。
今日という日に記念日を迎えられた皆様、おめでとうございます。