菊地成孔さん のコメント
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雨である。雨であるだけで素晴らしいのに、雪と混じりつつある。こういうのを淡雪という。重ねて、素晴らしい。淡雪を見ながら日記を書く。明治時代の文豪にでもなった気分である。
大体、10時から11時の間に起床。という、微妙な昼型が定着しつつある。これだと3時に眠くなるので、「真夜中」という時間も楽しめる。先日、 DOMMUNE に長時間出て、終わり、一人で外に出た。
僕は渋谷という街が元々苦手だった。やっとここに来て、「少し苦手ではなくなるかな」と思ったのは、テレビなどで盛んに見る、「渋谷の再開発」の様が、とても気に入ったからである。宮下パークには行ってみたい。寿司仲間の間で噂の寿司屋が出ているという情報も入手した。僕は何十年かぶりで、渋谷にワクワクした。それは恋に似ている。恋に似てる何か。
しかし、 DOMMUNE があるパルコ周辺は、その区域の(今の所)外である。だが僕は、外に出た瞬間、踊り出したくなる程舞い上がった。
誰もいなかったからである。
それは映画のセットのようだった。端的に懐かしい。これは、昭和の渋谷だ。60年代、映画の大手 5 社には全て「日活銀座」「東宝銀座」「大映銀座」といった、屋外型セットがあった、チネチッタにあったヴェネト通りを、フェリーニは「実際のヴェネト通りよりも、私にはセットの方がリアリティがある」と言った。
コンビニがなく、公衆電話がたくさんあり、歩きタバコが吸い放題で、終電を過ぎると、ほとんど誰もいなくなり、やっている店は大通りにはない。そんな光景が、コロナによっていきなり現出した。
それまで7時間以上パルコに閉じこもっていたので、エレヴェーターのドアが開いた時には、声に出して「うわああああああああ」と漏れてしまった。
30分ほどタバコを吸いながら歩き回り(一人も行きあたらなかった)、色々なことを思い出した。僕が通った音楽学校は池尻大橋にあった。僕が教鞭を執っていた音楽学校は渋谷にあった。様々な人と、渋谷を歩いた。常に居心地の悪さを感じながら、胸がときめいていた。
コロナが僕に与えたものは、概ね全て楽しいものだった。しかし、もし、真綿で首を締められるような、誰にでも共感してもらえるであろう閉塞感が、ネガティヴなものとして僕の中に堆積しているとしたら、コロナはこの一瞬を持って、それを全て精算したと言えるだろう。僕には、空気が綺麗に見えた。
まあ、アレは酔った上での放談ですから笑、ユジャワン氏に欲情する方もいっぱいいると思います。エロティシズムに一般性は固有性に満ちており、アレはあくまで僕個人の受け取り方で、中華人民共和国における扇情性と大韓民国におけるそれと、日本におけるそれには微細な違いがあること、器楽演奏者の身体とスポーツ競技者のそれとは明らかな差異があること。を前提にした1個人の意見ですので、参考になれば幸いです笑。
ヨガはかなりドラッギーで、オウム真理教はそれを悪用したと僕は考えますが、いかなるドラッグもユーザー次第ということで、鶴太郎氏並みの身体を獲得せんことをお祈り申し上げます。
町山さんへのアクションは、僕なりに最善を尽くしたつもりです。極端にいうと、現段階で目的のほとんどは終わっているのですが、まだ僕は、トランプを「支持」する、その支持の意味すら完全には話していません(あるいは、エッセイに書いた通りだ。もうそれだけだ。ともいえますが)。ただ、ご指摘の通り、相互的な読解力(僕が町山さんに対して行なった「想像」も、一つの読解です)が不全を起こすかどうか、つまりこれはコミュニュケーション論ですが、これまたご指摘の通り、僕は昔気質で適切かつ紳士的に行ったという自負がありますけれども、そもそも対話が成立するかどうかの保証もありません。あらゆる読解が一斉に行われるだろうな。と思うばかりです。
悪い人かどうかでいえば、僕は自分のタチの悪さを自認しています笑。ただ、スポーツでさえ、自分に有利にことを運ぶことは鉄則であって、問題はそれを紳士的かつ和平的に行えるかどうかで、現在というのは、あらゆる人々にその能力が問われていると思っています。
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