萩野谷さん のコメント
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節分が正しくはいつだか忘れてしまったが、セブンで豆を買い、一人で「鬼はー外!福はー内!」と学童のように叫んでいるところを想像したら、思わず笑ってしまった。野暮はししゃんせ侍ならば、誰が鬼だか福の神。ベランダで恵方巻きの代わりにタバコを咥える。見下ろす街は静かで、穏やかである。
明後日、生検の結果が出るが、吉と出ようが凶と出ようが報告することにする。ただ、自分が平気でも、知る方がデリケートだった場合、知らせない方が良いこともある。 Twitter がみるみるファシズムの傾向を露わにし(僕が露わにさせているという側面もある)、僕自身は呆れて笑っているのだが、デリケートなファンは苦しむだろうと思うと、我が不徳の至りに胸が痛む。
正義感と潔癖性が、暴力衝動と繋がっているのはいうまでも無い、民が正義を遂行しているという自意識で殺意に陶酔しているなどということは日常茶飯事である。幼児虐待の親のほぼほぼ100%が「躾のつもりだった」と言う。問題は集団性と、「手を汚さない事」への無意識的罪悪感だろう。「蜘蛛巣城」の山田五十鈴である。ファシズム化と、「毎日何度も掌をアルコール消毒」という義務は、とんでもない偶然によって結びつき、きちんとバランスしていると思うと、ちょっと笑う。
ここもスクショされているという現象は、端的にパパラッツィの子孫で、「時事ネタ嫌い」に<一般(者)報道>として書いた記憶がある。暇に任せて「時事ネタ嫌い」を読んだが、呆気にとられた、あの回のこの部分が、といった話ではなく、単純にもう、歴史はたった10年単位でリピートされているとしか思えない。一冊ほぼほぼ全てが今の話である。
菊地さんが、町山さんのジャンキー化を憂い、ケア的な意味も含めて対談を申し込まれたという経緯に、菊地さんならではのヒューマニティを感じておりました。それなのにTwitterでの菊地評と言ったら…まさにジャンキーの世界でした。
私は菊地さんの諸活動を2020年の初夏に知り、アーカイブされた夜電波や御著作によって癒され、生きてきた者です。私のように菊地さんの諸活動によって救われる人がひとりでも増えてほしい、と願うのですが、Twitterが布マスクばりに全家庭に行き渡った現代ではそんなことは無理かもしれません。
しかし、知人には、今回の一連のツイートによって、菊地さんのテキストをもっと読みたい!という人もちらほらいます。
今回の一件で菊地さんが自己「検閲」する可能性はゼロだと推察します笑 そのうえで、私は菊地さんを応援させていただきます。どうか、ご自愛ください。
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