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呉四さん のコメント

 Twitterを日常的に使う20代前半の男性です。数年前に菊地さんのことを知り、音楽や文章、映像コンテンツを楽しみ、勉強をさせていただいています。今回の騒動に関して、傍観者として追いかけていたのですが、3回目のツイートは傍観者へ向けてということでしたので、一つの返信になればと思い、初めてコメントさせていただきます。

 SNSでは、特にTwitterでは、当事者の声が圧倒的に力を持っていると、また、非当事者が発言をする際には、例えば専門家の意見を聞いたというエクスキューズをつけてというように、繊細さが要求される時代であると感じています。

 菊地さんは町山さんへの一連のツイートの中で、町山さんのアイデンティティ、そして病気について、非当事者として発言をなさっていると思います。

 前者に関しては発言の前置きとして、大久保に住んでいたことや、大韓民国の移民の友人がいらっしゃること、映画や音楽を紹介し続けてきたことなどをあげられていました。まさに『欧米休憩タイム』と『韓流最高会議』は私にとって隣国に関心を持つきっかけとなりました。数年前から活動を追いかけている新参者ですが、Twitterの方々が言うように菊地さんがレイシストというのはさすがにありえないだろうと思います。

 とはいえ、Twitterは、たった一つのツイートで、あるいは一つの単語で一つの属性で判断が下され、経歴や意図を無視した非難やレッテル貼りが蔓延る場所であり、2回目のツイートまでの炎上も、いつものことだなと思ってスマホを眺めていました。

 けれども、3回目のツイートは繊細さを欠いたものであると思います。ADHDという単語に、属性に、まるでTwitter使用者のように(実際期間限定の使用者ではいらっしゃいますが) 、引っ張られすぎているように思います。 まだ可能性の段階で、相手の持ち出していない属性をわざわざ突くのはいささかナンセンスではないでしょうか。

 私のかつて交際していた人はADHDの診断書を持っており、私の家族にもADHDの疑いがあり精神科で診断を待っている者がいます。私は彼女たちと話していて、「対話的なヒエラルヒーをつける能力に著しく欠ける」と感じたことはありません。コメント欄を読む限り、そういう方もいらっしゃるようですが、グラデーションなのではないでしょうか。まるでADHDを持つ方が全てそうであるというように私は読みました。町山さんがADHDという属性を持つから、コミュニケーションを一旦は諦めることにしたというようにも。無論、町山さんははじめからコミュニケーションを放棄していますが。

 なぜ菊地さんは町山さんがADHDであると知り呆然とされたのでしょうか。なぜわざわざ町山さんがADHDであるかもしれないことをツイートする必要があったのでしょうか。ADHDに対して何か強いこだわりのようなものを感じました。菊地さんがADHDを持つ方とこれまでどのような関わりがあったのか、どのようにしてADHDに関する理解を、知識を得てこられたのか、もし可能であればお聞きしたいです。

 当事者でない者が、当事者とどう接すればいいのかは難しくまだ私にもわかりません。ただ、当事者と関わりがあるということは自分を正当化する理由にはならないはずです。ADHDに限らず、非当事者にできることは、長い時間をかけて真摯に向き合うことであり、おそらくそこには非言語的なコミュニケーションも必要であると、今のところ私はそう思っています。そしてそれはTwitterでは不可能でしょう。あえて菊地さんがTwitterで町山さんに話を、町山さんの話をしているのはなぜでしょうか。

長文失礼いたしました。DC/PRGのライブ音源、そしてペペトルメントアスカラールのコンサートを楽しみにしております。
No.42
46ヶ月前
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 節分が正しくはいつだか忘れてしまったが、セブンで豆を買い、一人で「鬼はー外!福はー内!」と学童のように叫んでいるところを想像したら、思わず笑ってしまった。野暮はししゃんせ侍ならば、誰が鬼だか福の神。ベランダで恵方巻きの代わりにタバコを咥える。見下ろす街は静かで、穏やかである。    明後日、生検の結果が出るが、吉と出ようが凶と出ようが報告することにする。ただ、自分が平気でも、知る方がデリケートだった場合、知らせない方が良いこともある。 Twitter がみるみるファシズムの傾向を露わにし(僕が露わにさせているという側面もある)、僕自身は呆れて笑っているのだが、デリケートなファンは苦しむだろうと思うと、我が不徳の至りに胸が痛む。    正義感と潔癖性が、暴力衝動と繋がっているのはいうまでも無い、民が正義を遂行しているという自意識で殺意に陶酔しているなどということは日常茶飯事である。幼児虐待の親のほぼほぼ100%が「躾のつもりだった」と言う。問題は集団性と、「手を汚さない事」への無意識的罪悪感だろう。「蜘蛛巣城」の山田五十鈴である。ファシズム化と、「毎日何度も掌をアルコール消毒」という義務は、とんでもない偶然によって結びつき、きちんとバランスしていると思うと、ちょっと笑う。    ここもスクショされているという現象は、端的にパパラッツィの子孫で、「時事ネタ嫌い」に<一般(者)報道>として書いた記憶がある。暇に任せて「時事ネタ嫌い」を読んだが、呆気にとられた、あの回のこの部分が、といった話ではなく、単純にもう、歴史はたった10年単位でリピートされているとしか思えない。一冊ほぼほぼ全てが今の話である。  
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